たぶん、だぶん(多分、駄文)

記事の更新は不定期となるでしょう。たぶん。

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 ふざけるな。タウンミーティング、やらせ。世論誘導。そして、あいかわらず、コスト感覚のなさ。財政破綻国家が何してる。
 それにしても、K劇場は、振り込めサギに似てる。いや、票の振り込め詐欺そのもの。政治家・官僚どもが役割決めて、台本作って、演じて、影で馬鹿な庶民とあざけり笑う。そして、前の政府の者どもには責任を取らせられない仕組みに驚いた。やり逃げ。そして現職大臣が、責任を痛感しないままに金で解決したような素振り。痛くもかゆくもないだろう、それくらいの額では。まあ、台本が最も必要だったのが、Noの法相だったのには納得し苦笑した。それにしても、随分と金のかかった舞台作品だったわけだ。大道具や衣装が豪華でもないくせ、裏方に金ばら撒いて、観客は楽しくない。最悪の舞台じゃないか。ロングランだったが再演はご免。ブーイングを排除する劇場だなんて、政治の世界は何と甘やかされたことか。N響の方がよっぽど、激しく厳しい観衆に囲まれているよ。・・・9月のマーラーの9番。プロなら生の批判の声にさらされよ。それを封じるのは、反民主的行為。独裁国家か。国民的人気K劇場も、半島北部指導層と思考回路が同類項じゃ、まさにマーラーの6番になっちまう。
 一方、被告Hリエモンは、官僚のさばる日本を共産主義国家と非難。今頃言いなさんな。私はもうK内閣時代から言ってる。特権的支配層は磐石で、民主主義はお題目に過ぎないのだ。税調のおエラい教授先生も、豪華マンションで桃色吐息、特権もらった誤用学者は御用とできるか。
 官僚・政治家の支配を突き崩せぬ状況にさぞH氏も悔やんでいるか?ショスタコーヴィチの人生を知っていれば、もう少し違う人生だったか。迎合しつつ秘めた闘志を燃やす生き方に、今後の日本での処世は見えてくるか?2006年、ショスタコ記念年にふさわしい、日本の師走のヒトコマ。

(2006.12.18 Ms) 

  訃報です。2006.11.29、実相寺昭雄氏死去。69歳。冥福を祈ります。
 ウルトラセブンの監督を務められたのが私にとっては最も近しい接点です(メトロン星人とのちゃぶ台のシーンを思い出します・・・平成の、ウルトラマンティガなどは、意識して彼の監督作を見たりもしました)。また、ショスタコーヴィチの音楽にも昔より造詣深く、私もかねてより(ショスタコーヴィチが全く話題とならなかった学生時代より)、彼の存在は頼もしいものでした。N響アワーでショスタコーヴィチについて語っていたのもつい1年前だったのですが(昨年12/25)、懐かしい思い出です。
 また、ウルトラセブンと言えば、最終回で、正体が明らかになる場面での、シューマンのピアノ協奏曲冒頭の活用などが有名です。小学校時代に、再放送で(本放送が見れた年代ではありません・・・)見た時には全く意識されなかったのですが、成長して後、それに気がつき、あの使用法にはグッと感動させるものがあります。
 さらに、何とも因縁めいた話となりますが、この12月2日、N響定期でまさにそのシューマンのピアノ協奏曲は演奏され、その場に居あわせた者として感慨深いものを感じました。私にとって彼への追悼の音楽と感じられました。
 2006年の最後に、まさにシューマン没後150年、そしてショスタコーヴィチ生誕100年の年に、ショスタコーヴィチと同じ年齢で逝ったというのがあまりに伝説的な受け止めかたをしてしまいます・・・そしてこの記事を書くためにネット検索などする中で、ショスタコーヴィチの運命の年(交響曲第5番完成・初演)となった1937年の生まれだったのですね・・・これもまた驚きの事実となりました。安らかにお眠りください・・・。

 続いて、ウルトラマン、ウルトラQの音楽を担当された、宮内国郎氏も、11/27に74歳で逝去。冥福をお祈りします。
 ウルトラマンのテーマソングは、しっかり自分の中に染み付いた音楽です。ワクワクさせながらテレビに噛り付いていた時代ですし。
 また、小学校の頃の鼓笛隊で練習したこともありました。その時の驚きは新鮮なもので今なお覚えています。前奏から歌を導くベースラインが、ハ長調なのにシの音にフラットがついている!!!音楽の教科書にはない使い方だ!!!いわゆるジャズのブルーノートであり、ロックで頻出するパターンではあるのですが、小学生の私にはそんな音楽の楽譜を見たことはないわけで、楽譜を通じて、音楽の教科書や、ピアノのおけいこの古典的な楽譜から、現代の音楽への最初の橋渡しをしてくれた楽譜でした。
 ただし、練習の過程で「ウルトラマン」は取り下げられ、「鉄腕アトム」に差し換えられました・・・その楽譜はいたって驚きの無い、古典的な教科書的な範疇の楽譜でした・・・子供心に断然「ウルトラマンの方がカッコイイ音楽」という印象を持ちました(私にとっては、テレビ番組自体、アトムの方がより古色蒼然という感覚であったということもありましょう)。
 さらに大学時代は、深夜のウルトラQの再放送が大変印象的でした。あのテーマ音楽のスリリングさは絶品です。さらに、本放送では存在しなかった、多分最初の再放送時に付加されたという最終話におけるテーマ音楽だけが、微妙にアレンジがアドリブ的な遊びが含まれたもので、その細かい変容ぶりにおおいに感動を覚えたのは私だけでしょうか。
 ああ、語れば語り尽くせぬほどに、私を虜にした、Q・マン・セブンの三部作・・・これらの立役者があいついで亡くなったのは私にとって淋しい限りです。宇宙や怪獣たちと歩んだ我が少年時代も遠くなりにけり、ということですか。お二人に改めて感謝の念を捧げつつ、ご冥福をお祈りします。

(2006.12.5 Ms)

 今年もそろそろ終わり、を意識させる季節となってきた。記念年としては、何と言ってもショスタコーヴィチ関連のコンサート、シンポジウム、と充実の年であり、今後もますますこの傾向続いてほしいもの。ただ、我がHPのショスタコーヴィチ大連載が今年中の完結を迎えるかはおおいに怪しい。
 そして、個人的には、シューマンも充実していた。初夏の頃には、東京芸大のシューマン・プロジェクトに通って様々な切り口の講演が聞けたのは私にとっての大きな収穫であった。その果実をこのHPに全く記載していないのは私の怠慢にすぎない。また、そのプロジェクトの中でも、オペラ「ゲノフェ―ファ」の公演、そして、晩年の管弦楽付き合唱曲の公演が聴きに行けなかったのは残念・・・。
 その無念を晴らしたわけでもないが、11/25には、東邦音大の公開講座、「没後150周年 シューマン・森の情景」を聴講してきた。小品集でありながら、各曲の主題連関の緻密さを解きあかす興味深いものであった。個人的には、上記のショスタコーヴィチの連載の中で「森の情景」を取りあげる予定なため、その材料が何か見つかるか、との思いで門を叩いたのだが、直接そこに結びつくものはなかったものの、単純にシューマンへの興味の深化が自分に得るところ大であった。私がショスタコーヴィチで格闘しているのと似たような視座で、シューマンとシューベルトの関連性を動機の類似を通して見極めようとする講師の方の姿勢には共感したもの。
 講師は、ピアニストの國谷尊之氏。後でネット検索すると、ご自身のHPもあるようで、トーク・コンサートも積極的に行っているようだ。今後も着目してゆきたい。最後の、「森の情景」全曲の演奏も素晴らしかった。作品そのものへの興味は今まで、ショスタコーヴィチとの関連ゆえであったが、作品そのものに対する親しみもおおいに湧いてきた。ありがたいことです。

(2006.11.27 Ms)

 のだめカンタービレ、月9にTVドラマとして登場。クラシックの敷居の高さそうな雰囲気を感じさせないコミカルな作りで素直に楽しめる。その一方で、プロからの助力もあってか、かなり本物を見聞かせてくれるのが嬉しい。まず、テーマ・エンディングの音楽が、ちゃんとクラシックで(ベートーヴェンの7番、そして、ラプソディ・イン・ブルー)、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の「モンタギュー家とキャピレット家」やら、R.シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」等々、近代モノまでしっかり聞こえて、これまたそドラマ本編もクラシックだらけ。それも、れがコミカルな演出の一部にもなっている・・・楽しいです。音楽の力をよく踏まえての作りには納得。
 笑いの中にも、第1話には、モーツァルトの2台ピアノのソナタ、第2話には、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」、とキーになる音楽が中心に据えられ、その音楽のちょっとした薀蓄話まで披瀝されて、クラシック入門としてもよく出来ている。今後も1級品の娯楽作品として期待してゆこう。

 さて、音大が舞台のドラマに呼応するわけでもないが、この10月21日(土)は、東京芸大の、ショスタコーヴィチ・シンポジウムに出掛けてきた。詳細はまたご報告したいが、我がHPでも取りあげてきた、ショスタコーヴィチの交響曲第5番と、ビゼーのカルメンとの関係(「曲解」シリーズ第3回)が大きくクローズ・アップされていて、一柳富美子氏による興味深い話もおおいに場を盛りあげた。まさか、半ば冗談で書き連ねた、ハバネラ引用説が学会での議論の対象になろうとは・・・時代の流れというものは恐ろしくもあり、面白いものだ。
 ただし、この作品が作者の女性への思いを伝える作品との解釈に引きづられ過ぎの感はあり、もう少し従来の「体制側の批判に対する回答」とか「仮面をかぶっての体制批判」といった側面も軽んずることのない論理構成が必要ではないかという素直な感想も持った・・・端的には、この作品の最後に出てくるの音の連続、これは、作者の元恋人の愛称「リャーリャ」への叫びだという。その「リャーリャ」は、ソ連から亡命、スペインでカルメン姓の男性と結婚したと言う・・・。出来過ぎだなあ。
 このシンポジウムの詳細は是非とも紹介したい。そして、一柳氏の紹介した説への懐疑から、第5番に関する連載を再開させたい、と考えている。

(2006.10.26 Ms)

 ショスタコーヴィチ100才の誕生日近辺、ちまたでもショスタコーヴィチの音楽が流れ、マスコミを含めて盛りあがりを感じられたのが嬉しい。
 まずは、9/24(日)NHK総合、朝7時のニュース。何げに寝ぼけ眼に飛びこんできたのが、交響曲第10番。N響がアシュケナージの指揮で定期で取りあげるタイミングで、ニュースの特集として取りあげていた。アシュケナージのインタビューも交え、DSCH、つまり、ミトリ・ショスタコーヴィチのイニシャルがテーマとして組み込まれている説明がなされていた。一般のニュースで、レミドシなる暗号音型を聞く時代ともなったか、と感無量。
 そうこうするうち、9/26(火)の夜11時台の、NHK-BS、「今日の世界」にて、こちらも偶然TVをつけたら、亀山郁夫氏が出ていて、こちらも交響曲第10番のレクチャーだ。第2楽章がスターリンを象徴し、その後、例のDSCHが登場し、第4楽章においてスターリン主題を放逐するかのような形でDSCHが大々的に主張され、最後は高らかに作曲家自身のテーマが鳴り響く・・・と事細かな説明でおおいに嬉しい。今年5月にもこの「だぶん」ページの下の方にて、「今日の世界」でのショスタコーヴィチ・ニュース報道に触れたところ。キャスターの長崎氏の造詣の深さゆえ、ロシア・ネタも多く興味深く見させていただいている。今回もロシアでのショスタコーヴィチ・イヤーの様子を交えてのニュースではあったが、残念ながらまだまだロシアにとってはソ連の生々しい記憶と密接に結びついたショスタコーヴィチの音楽の再評価はさほど進んでいない、と。逆に国外(日本含め)での再評価が急速に進んでいる、と。ロシアでの再評価が進んでこそ、ショスタコーヴィチ評価も本当のものになろう、という感じで結ばれた。

 さて、一転、国内ニュース的には、やはりショスタコーヴィチ一色には当然ならないわけで、初の戦後生まれ総理大臣誕生に湧いた9月末。
 それにしても、閣僚人事構想を別荘(本人名義ではない)で練った・・・というニュースに、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」第2楽章が流れてしょうがない。新生ソ連の政権構想をひっそりと練るレーニンの姿とかぶってしまう。音楽的には、思索にふけるレーニンが、やはり思想家、政治家ではなく、結局、革命家、運動家であって軍艦「アウローラ」の砲撃のプランに思いを馳せるあたり、違和感を覚えるところだ。新生ソ連が何をするか、という中身ではなく、外見・パフォーマンスを気にしていたに過ぎないのか?という音楽の描かれかたなのか?・・・まさしく、A倍氏も、政権が何をすべきか、よりも、論功行賞、そしてホワイトハウスの模倣という外見が先行した様子。まさに、ショスタコーヴィチの12番第2楽章の世界を思うのだ。ついでに、A倍氏にとっての「アウローラ」が何なのか?今後日本は注目しなければならん。ならず者国家のミサイル基地への攻撃体制・砲撃の構想、だったとするなら、ショスタコーヴィチのなんと預言的なことよ・・・。軍事的パフォーマンスが政治思想を超越するかの如きソ連型統治は日本にも根付きますか。
 さらに、この9月、私は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の第1楽章について、ヒトラーの侵略ではなく、スターリン独裁を含めたソ連の歩みを楽譜から読み取る一文を書いたところ(こちら)だが、その背景として、J民党が雪崩をうってA倍支持に集結してゆく様があった。勝ち馬に乗るべく、自らの主義主張も封印して、一人の権力者に擦り寄る・・・「レニングラード」交響曲第1楽章の行進にはそんな怖さが重なる。
 もっと言えば、異論を認めず、一つのカラーでまとめあげた内閣は同志の集団にほかならず、お互いに名前に「同志」をつけて呼びあうような偏狭さが想起されうるか。例えば、同志スターリンよ、同志ジダーノフよ・・・というやりとりは、ショスタコーヴィチ始めソ連作曲家を苦しめたジダーノフ批判の模様を揶揄したショスタコーヴィチの秘曲「ラヨーク」をも思わせる。内閣のテーマ音楽としてオススメしたい。
 
 そう言えば、A倍氏自身のテーマ音楽としては、黛敏郎氏の「憲法改正カンタータ」を推奨したところであったが、最近、K明党配慮のため封印したようなので、新たなテーマ音楽を考えたところ、ありました、ありました。マーラーの交響曲第7番第3楽章。なぜって?最初から聞こえてきますよ、お名前が。A-BA‐Bラの音と、シ・フラットの音の繰り返し。ドイツ音名でさあ、みなさんご一緒に歌いましょう。アーベ。アーベ・・・。
 見事なほど、A倍氏への応援歌として相応しい。えっ、マーラーはタイトルも付けてますって? あ、そうでしたか? 
 交響曲全体としては、「夜の歌」。さらに第3楽章は、K泉改革の「影のように」。

(2006.10.10 Ms)

 紀子様ご出産。慶祝。一方、男子誕生で皇室典範改正はお蔵入りか。愛子天皇へのシンパシーが高まったつい先日の世論はウソだったのか?およそ四半世紀後、結婚してどこぞの民間人になってしまうことにみんな納得されているのか?日本人の思考回路、なんだかおかしくないか?思考停止の国民の前ならば、ファシスト党の躍進のお膳立ては整備されるだろうことは歴史の定め。全体主義国家を礼賛するショスタコーヴィチの音楽を聞いて「美しい国」を思う昨今の私である。
 「我が祖国に太陽は輝く」なんて曲あたりが相当、似つかわしい最近の風潮。「美しい国」のモデルは、ショスタコーヴィチの社会主義リアリズム代表作のなかにしっかり描かれているよねえ。冒頭の美しさは涙もの・・・その美感が最後にどう変質するかがこの作品のミソではある。A倍氏の訴える「美」も現実問題どうメタモルフォーゼしてゆくか、しっかり見定めないと・・・ショスタコーヴィチの描いた世界の二の舞は御免である。
 さらに、我がHPとしては、日本の右傾化を、黛敏郎氏復権の一点を持ってのみ支持したい。今、黛氏が生きておられればなんと感激したか。幻の、日本国憲法改正カンタータが今こそ聞きたいし、A倍氏のテーマ曲としてこんなマッチしたものはあるまい。岩城氏没後、黛復権は永遠にかなわぬ夢にもなりそうだが、日本音楽界に、A倍氏の走狗はいないかしら。黛の逆襲をこそ、A倍ジャパン治下で願う。

 さて、そんな話よりも、十数年前の「紀子様のマタニティ・モーツァルト」企画こそ、今回、しっかりレコード業界に復権している。モーツァルト記念年との見事なマッチング。アイネ・クライネ第2楽章や、ハ長調のピアノ協奏曲第2楽章など、納得の選曲が並ぶわけ。やはり、胎教には、シューマンや、ましてショスタコーヴィチはお呼びでない???

 でも、「母子のためのクラシック」となれば、シューマンも、「子供の情景」「ユーゲント・アルバム」など良質な作品がある。その延長で、今こそ、「母子のためのショスタコーヴィチ」企画を立ちあげたいものだ。
 「人形の舞曲」「子供の音楽帳」といった、まさに自分の子供のための作品、さらには、それらを管弦楽編曲した「バレエ組曲」のなかの数曲などは、安心して母子共に鑑賞していただこう。
 さらに、ピアノ協奏曲第2番も、同様に我が子のための作品、子供にとっても健全な作品としてオススメ(充分ヒネクレているかな)。第2楽章だけならば、胎教にも良いかも。
 ただ、交響曲、弦楽四重奏曲からのエントリーは厳しいなあ・・・。夜中のおもちゃ屋たる交響曲第15番第1楽章も捨て難いが、聞かされる子供の将来がどうなるかは確証もてず。
 この際、13才での作品番号1番「管弦楽のためのスケルツォ」くらいが毒も無く安全かしら。無邪気で夢見心地な少年の感性、子供たちにも共感持って受け入れられないか。
 おっと忘れちゃいけない、アニメーション映画から、「おろかな子ネズミ」、これでどうだろう。これぞ、ショスタコーヴィチ・チルドレン・セレクトのベスト、として最重要だろう。「ピーターと狼」に並んでもおかしくない、ソヴィエトが生んだ子供に対する音楽貢献の双璧だろう。もちろん、動物たちの鳴き声も模写した声楽入りでの演奏(管弦楽編曲より随分楽しい)で。私も数年前にアニメとしても映画で見たけれど秀逸。日本の子供たちにも是非楽しんでもらいたいな。

(2006.9.12 Ms)

  7月に一つ資格試験を受験し、おかげと突破。合格率3割の難関(?)である。危険物の乙4種。ガソリンなどの油をとりあつかう資格である。どうも私のキャラじゃないけど仕事で必要だから仕方ない。工業系高校生たちに交じっての受験はなんともタイムスリップしたような感慨。これでガソリンスタンドで務めることもできる・・・のだが、こういう勉強すると、余計にセルフスタンドの危険性の方ばかりが気になるタチなので困ってしまう。ガソリン高騰中の世の中、危険物の勉強なしにああゆう危険物質を素人があつかっていて、最近の事後規制の小さな政府的発想では、そのうちセルフスタンドでの大規模災害や人身事故が起こり得る、と予言しておこう。そうそう気楽にあつかえませんて。
 さて、その試験の後は、夏休みの宿題というわけでもないが、一つ曲を仕上げる。8月末までかかって作曲コンクール用の作品を。そんなこんなでHPはまったく手付かず。9月から再開を、と思っているところ。

 最近の、総裁選のニュースなど見ていると、結論の決まった出来レースで権力者が事実上形式的に決まるのなら(T垣氏への名義貸しなんてのは全くナンセンス・意味不明。推薦人不足で不出馬、こそ今のJ党の姿だろうに、一応異論の存在も認めた「形」だけが作られる)、共産党国家の権力委譲みたいで、ショスタコ・ファンとしては、彼の追体験ができてしまうこの日本という国が、ソ連の歪みを身を持って示すようで興味深く見守るところ。ここ数年、ますますショスタコが心に体に響いて来るんだ。
 そんな中、「音楽現代」7月号特集・生誕100周年記念 ショスタコーヴィチの人と芸術
 彼への讃美を綴る寄稿のなかに、若い指揮者、K聖響氏のエッセイ「想像しても到底近づけない「血」と「文化の違い」」において、彼の置かれた生活環境が理解できない・・・という素直な告白が目を引いた。私は21世紀の日本において、ショスタコの苦悩を自分にひきつけて感じてしまう、が、K氏は同じ21世紀の日本にいてそれは理解できないという。幸せな方だと思う。でも、政治への眼差しがもう少し広く・深くあれば、権力者と民衆の対峙という現象は、どんな時代、どんな体制であれ見て取れるはずだ。K氏が権力者と一体となっているのなら見えないかもしれないが。
 それを言うなら逆に私には、ベートーヴェンの置かれた状況のほうが想像できないのだ・・・ハプスブルグ王朝、それもナポレオン後の復古主義の言論弾圧の時代、もう日本なら時代劇の世界。民主主義自体を否定した国、時代こそ想像できないのだが。でも、そこに生まれたベートーヴェンの音楽まで理解できない、とは思えない。
 まあ、ただ、国民の大多数が日本をソ連と同格に思うようになった時は、国の破滅だろうねえ。2006年がその入口であった、と後世語られないことを願おう。K代議士自宅焼き討ち、戦前の日本を想像させる恐さがある。

(2006.9.2 Ms)

 この6月から、当HPのメンテになかなか関われず、欲求不満の毎日。仕事上、とある資格を取らざるを得ず、平日夜は図書館通い、休日もひたすら勉強。とりあえず、試験も終わって開放されてやれやれ。図書館では、高校生の受験勉強に交じって、久々に「まる暗記」やら、高校時代に習ったであろう(しかし全く自分の身になってない)事項など、頭に詰めこんだ。たまには、頭も活性化して良いことか。
 さて、そんな毎日の中、普段寄ったことのない、合併によって消滅した旧隣町の旧図書館、現・生涯学習センター、にも、たまにお世話になるも、人影もまばら、勉強には常にうってつけだった。蔵書も・・・貧弱・・・きっとこの建物が建ったであろう時代の児童書など随分ならんでいて、逆に自分にとっては懐かしき雰囲気。ただ、児童書以外は、役所で作った「××町史」とかがやたら多くて、役所の倉庫も兼ねているみたいだ。
 さて、音楽部門はどんな蔵書が・・・昭和の色あせた本のなかにひときわ目を引いたのは、カッパノベルズから出た、岩城宏之氏の著作。裏表紙には、黛敏郎氏の写真そして推薦の文章・・・なんとも心が動かされる。岩城氏の死後、数日後の話であった。
 カッパノベルズというのも随分くだけた感じの本だ。結構、少年時代に目にすることが多かったように記憶する。紙質の劣化と、古さを感じる外観。ああ、昭和は遠くなりにけり。

 今、自分の育った町に仕事場を移し、自分の青春を見つめ直し(?)、また、崩壊してゆく「地方」・・・まさに「日本」そのものであるのだが・・・、を目にしつつ、自分の人生が新たな円環に入ったかの必然をも感じる。またここから新たな飛翔、できたら良いのだが。忘れかけていた自分(の一部分)を今一度呼び起こそう。その大きな流れの一環にこのHPも位置付けたいものだが・・・さて。

 この季節を大事に過ごしたい、としみじみ思う初夏。この季節、そういう感慨なのも10代の頃を想起させるもの。(2006.7.10 Ms)

 ショスタコーヴィチ没後100年。いろいろなところに、彼が現われ面白いな。

朝日新聞、「あいち歌壇」 5/30。

BGMにショスタコーヴィチの重過ぎて

しばしば本を閉じねばならぬ

<選後評>よくわかる心理。本を読みながらきくには重過ぎる音楽がある。

 東浦町 大槻睦子氏。選者 岡井隆氏。・・・いきなり、歌壇コーナーの冒頭がこれだ。時代を投影しているなあ・・・。選後評も、もっともらしく書いてあるが、ショスタコーヴィチを聞いておられての評なんですよねえ。「よくわかる心理」だなんて、よくわかっていらっしゃる。

 そうかと思えば、NHK−BS1の夜10時過ぎの「今日の世界」という番組、かなり好きでよく見ている。週に一度くらいは、ロシアの特集が組まれたりする。そもそも、アメリカ偏重の報道から一線を画し、旧東側とか、アフリカ、アジアなど、世界の話題をまんべんなく見せてくれる。
 そんな番組だからこそ、ニュースにもショスタコーヴィチは登場。まさに、没後100年に湧くロシアからのレポート。ショスタコーヴィチの書いた音楽による演劇の上演・・・一瞬、「女ひとり」の一部が聞こえてきたようだ。また、初演以来70数年ぶりにバレエ「黄金時代」の上演。まさに、サッカーのバレエ化・・・ワールドカップとの相乗効果で大ヒット間違いなし、とのコメントには笑った。
 親しみやすいショスタコーヴィチという観点では、「レニングラード交響曲」第1楽章の戦争の主題をピアノで弾きながら、指1本で子供でも弾ける親しみやすいメロディ、などと紹介されたりして、随分ソフトなイメージだなあ、戦争の主題だなんてコメントは一切なく、音楽そのものだけに焦点をあてて。こういう取りあげられ方をするようになったのも、だんだん身近になってきた証拠か。常に、社会主義やら、政治とばかり関連つけて語るばかりじゃ世界的広がりもなかろう。
 さらに、メイン・キャスターを務める長崎氏も、「卑近な例ですが・・・」と注釈しつつ、「私が始めてラジオのリクエスト番組でリクエストし、自分の名前が電波に乗って紹介されたのが、レニングラード交響曲のリクエストをした中学生の時」、とカミング・アウトしたのには驚きとともに、大喝采。高らかに第1楽章冒頭がニュース番組の背後に鳴り響き、少年時代の思い出を語る彼の姿に強く惹かれたなあ。確実に、ショスタコーヴィチは、我々の中に根付いているのだ、と確信。
 これらの盛りあがりとは逆に、アマオケにしろプロオケにしろ、演奏に携わる人々の方が、その動きから取り残されている、とすら感じている2006年。でも、まだまだ、思わぬ場所での、ショスタコーヴィチ・ネタは続きそうだ。ありがたいことで。

(2006.5.30 Ms)

 「暮らしの中のクラシック」

 私の中で常に気にしていることなのだが、ふと街角で、また、ふとTVから、とクラシック音楽が流れると、瞬時の曲名あてに興じてしまう。意外なシチュエーションで、意外な選曲だったりするのが楽しく、結構この「だぶん」でも取りあげたりもしている。そこで、試行的に、ちょっとした連載などしてみようと思った。

 それというのは、TV朝日系、深夜番組の雄「タモリ倶楽部」におけるクラシック使用、についてである。実は、学生時代から深夜番組は好きな方で、「タモリ倶楽部」の脱力感、かなり好きである。名物コーナー「空耳アワー」も楽しい。
 この番組、ダジャレめいた発想でBGMがかかるので要注意である。わずか1,2秒だけ、という場合も多々あるが、番組のその瞬時の内容と関係すると思われる音楽が様々に流れるなか、クラシックも皆無では無い。意外に多種にわたって選曲されているので、一度、定点観測してみよう、と軽く思っただけである。東海地区において視聴しているので他地区と放映日がずれているかもしれないが、とりあえず列挙してみると・・・

 4/15 「月刊現代農業と土に生きる」。月刊誌「現代農業」をネタに農作業のいろいろを体験。
 タイトル・バックは壮大に、イッポリトフ・イワーノフの「コーカサスの風景」から「酋長の行列」。・・・「農家」と「コーカサス」のシャレか。
 鍬の使い方の実践の場面。まさしく「実践」のテロップとともに、バッハ「G線上のアリア」。ほぼFisの音のロングトーンだけしか流れてない。

 4/22 「クローズアップ現代・病」。当番組のカメラマンの職業病に迫る。
 肩のレントゲン写真のBGMは、バッハ「トッカータとフーガ」。ほぼ最初の、チャリラー、だけ。
 ヘルニアが話題になると、オルフ「カルミナ・ブラーナ」から「ブランチフロールとヘレナ」。この「ヘレナ」という歌詞の部分が流れる。

 てな按配。今後も続けてみようか・・・ああくだらない。けど面白い。こういうのを考える仕事、私はあこがれる・・・。

(2006.4.24 Ms)

 なにげないテレビ・ネタ、3題。
 @NHKも、音楽番組についていろいろ試行錯誤しているのだろうか。N響定期だけ流してればいい、という訳でもないうようで、在京の他のオケも4月から取りあげつつあるようだ。また、「シブヤらいぶ館」という番組がBSで始まり、週に一度は、歌のない演奏会というコンセプトで、公開録画の番組として始まった。その第1回はギター・デュオ。村治佳織さんをメインに、ポップス・ジャズ界で活躍の渡辺香津美氏をゲストに招き、セッション。渡辺氏は、坂本龍一つながりで、私も中学生の頃からお馴染みのプレイヤー。今回の番組、曲は馴染みの無いものばかりだったが意外にポップスのノリの曲は楽しめた。・・・個人的には、ギター・デュオと言えば、
ショスタコーヴィチの映画音楽「馬あぶ」のナンバー、一度聞いてみたいもの。アトブミャンのオケ編曲ではない。映画用のスコアは、ギター・デュオあり、その他にもオルガン・ソロありと様々な音楽が用意されている(ソ連時代に出た全集版スコアを参照)。このショスタコーヴィチの原曲、聞いてみたいものだ。せっかく、ギター2本あるなら、今後は是非とも「馬あぶ」よろしく。

 ABSフジにて、1960年代の日フィルの演奏会の映像などよく流している。先週見たのが、渡辺暁雄氏の特集。彼の指揮する映像のあいまに、彼を紹介する映像なども差し挟まれ、一瞬、オ、と思ったのが、彼とテレビ側の人間が打ちあわせをしたのが、「鳩山御殿」・・・?
 ちょうど、民主党の代表選挙前、鳩山幹事長が、鳩山御殿での党の花見会を設定、というニュースがあり、随分タイムリーなものだった。
 実は、渡辺氏の奥様が、政治家、鳩山一郎氏の娘、ということで、とうの鳩山御殿に、渡辺氏は当時住んでいた、ということらしい。意外な、政界とのつながり、雑学として一つ押さえておこう。

 B東海地区の民放で、最近話題の格差社会のルポ。かたや、ヒルズ族、そしてミリオネ―ゼ・・・年収1000万の女性社長たち。かたや、フリーター。そんな企画の最後に、堂々と鳴り響く音楽に耳を疑う。ニールセンだ。劇音楽「アラディン」・・・一攫千金というテーマに妙にマッチングした音楽だ。「オリエンタル・フェスティバル・マーチ」。豪勢な行進曲が、なんとなく「格差社会」を妙に言い得ているような気がした。
 続くコメンテーターのセリフ。「負けても、次、勝ちあがれる仕組みは必要。トーナメントじゃなくて、リーグ戦ですよ。」
 ・・・・この「リーグ戦」
「ニールセン」に聞こえてしまう私・・・・。この出来過ぎた音楽の選曲、もしや、「タモリ倶楽部」を研究しているんじゃないかとも疑う。

 (2006.4.10 Ms)

 トリノ五輪、荒川選手の金メダル以来、俄然、注目度が高まった「トゥーランドット」。ちょうど、かの、「イナバウアー」を披露する瞬間が、あの有名なメロディの箇所ということもあり、その後も何度も耳に入ってくる。「誰も寝てはならぬ」、一躍、誰もが知る有名曲となった感がある。
 そんな曲名だからというわけでもないが、今思えば、あのフィギュアの競技は深夜から朝がたまで全部見ても良かったくらいの面白さがあった。ライバルたちの成績を見ながら、駆け引きして、冷静な判断を計算できた荒川選手には脱帽。
 また、最近、そのオリンピックのフィギュアの再放送なども偶然見たが、メダルをかけた最上位の闘い以外のランクの選手たちの演目も興味深いものあり。直近の選手権で金を取った、アメリカのマイズナーでしたか、オリンピックでも同じ選曲だったのを、今頃、確認したのだが、
ラフマニノフの「交響的舞曲」第1曲はなかなかに見ごたえ、聞きごたえあり良かった。中間部の切々たる表情は、音楽・演技ともに心に迫る。ただ、下の欄でも触れた井上選手のペア、ショスタコーヴィチの5番以上に音楽が切り刻まれた状態だったのはちょっとやり過ぎじゃないか、とも思ったけれど・・・。

(2006.4.6 Ms)

 「レコード芸術」誌、2006年2月号での、我がHPからの「引用」、大変驚きでした。まさか、私の「曲解」がオーソライズされた専門誌に紹介されるとは、私自身思いもよらぬことでした。
 これを機会に、私も自分の書いた数年前のショスタコーヴィチ関連の記事を読みなおすこととにもなったのですが、まだまだ「曲解」のネタは私の中に眠っており、実のところ、うずくものがあります。正直、昔は、「証言」と1,2冊の文献、そして楽譜、CD、これだけで様々な憶測を自分なりに楽しんでいましたが、2000年を越える頃から、数々の新たな文献の登場があり、結局それらを読みこなす時間もないまま、「それらを読み込まなきゃ、これからは何も言えんわなあ」、という諦観めいたものが先立ち、以前の「曲解」の勢いがそがれてしまったのは確かです。でも、それをこなしてから、なんて言ってると自分の人生も終わってしまうよなあ、という気も持ち続けていたところへ、この「レコ芸」でした。

 最近の自分の趣味は、バッハの発見、そしてロマン派を中心とした室内楽への傾倒、といったところで、ピアノを習っていた頃のシューマンの「子供のためのアルバム」に対する郷愁から、自分にとっては自然な成り行きだと思いながらも、実はショスタコーヴィチ理解のためにも彼が血肉としたであろう古典の数々を知った上でのショスタコーヴィチ論こそ私の今後のライフワークとしたいもの、という思いが強まってもいます。バッハ以降の音楽をもっともっと知ることで、ショスタコーヴィチをもっと知ることができるのではないか・・・改めて「曲解」を高らかに掲げたい・・・。

 没後150年のシューマン記念年、そして生誕100年のショスタコーヴィチ記念年。どちらとも、生誕250年のモーツァルトには全く太刀打ちできない今年、我がHPもちょっと意地になって2つのSを「曲解」してみますか?
 
ショスタコーヴィチの交響曲第5番には、シューマンの「森の情景」というピアノ作品のなかの「呪われた場所」なる小品が刻まれている、なんてのはいかがだろう。ビゼーの「カルメン」の引用以上に信憑性に欠ける指摘なのだけれど、今、手元にシューマンの関連のデータがないのでおって入手してから、書き進みたい。なかなか腰を落ち付けて書くだけの時間も足りず、小出しに少しづつやってみようか、と思います。

ちなみに「レコ芸」引用箇所は、交響曲第5番におけるカルメン引用の部分と、最後の大太鼓の意味するところ、でした。(2006.2.21 Ms)

 当面、上記の予告の通り、少しづつ、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の引用に関する「曲解」を今の自分に出来る範囲で書き続けていこうと思う。まとまった時間もなかなかないので、細切れで書き進み、ある程度書き進んだ段階で推敲なりして、ショスタコーヴィチ専用のページに移行させようかと思う。(2006.3.4 Ms)

 トリノ五輪、日本勢の不振が続いている。長野の時は、国をあげての選手強化もあったようだが、その後どうもあまり熱心にやってこなかったとの報道も目に付く。ろくに練習もできないまま、スケートの練習をローラースケートでやってた、なんて話も。かなり選手をとりまく環境も良くないようだ。アマチュア・スポーツも、企業のリストラやら、国の無策やら、効率優先の時代の中で、試合に臨む前から苦戦を強いられているもか。長野での活躍選手が随分、中核を成しているのも、その後の選手層に厚みがない証左ということか。また、確か、長野五輪で活躍した選手がJ民党議員にいなかったか?もっと存在感をもっていろいろ主張してもらっていいのでは?このあり様でも国のサポート体制確立に活躍もさせてもらえず・・・というなら、なおのこと淋しいことで。儲からなきゃ、会社も社会も無視を決め込み、スポーツも芸術も自己責任、というのがK泉改革の姿なら、ホント淋しい。

 そんな中、アメリカのフィギュア・スケート・ペアで出場の井上怜奈選手の、ここに至る軌跡には心を打たれた。父の死、さらに本人の病気(ガン)、それらを乗り越えてのアメリカ代表の座。惜しくも決勝はミスでメダルは逃したが、感動的な演技であった。曲は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番と「馬あぶ」からのロマンス。音楽自体は切り刻まれて、ほとんど原形をとどめないほどに(1,2小節単位でカットされたり)。ただ中間部に折り込まれた「ロマンス」には涙した。TVでの解説も、彼女の苦労の人生を紹介しつつ、その音楽の美しさと、演技の美しさとのコラボレーション、・・・ショスタコーヴィチ没後100年の今年を彩る一大感動体験となった。今後のご活躍も祈念したい。
 偶然、朝のニュースで「馬あぶ」が、ちらりと聞こえたので、「これは」と思い、競技全体の録画番組で確かめたところの感動体験。感謝。また、カナダのペアの、
ラベルの「左手のためのピアノ協奏曲」もかなりいい雰囲気だったので紹介しておこう。また、音楽ネタ的には、ロシアのぺアが登場し、アナウンスで「曲はロメオとジュリエットです」なんて言うので、チャイコフスキーか、はたまたプロコフィエフか、などと構えていたら、どうも知らない開始だ・・・聴き進めば、やや古めな映画の「ロメオとジュリエット」だったりして、ロシアも昔のロシアならず、普通のヨーロッパになってもう久しいなあ、などと感じ入る。

 何気ない暮らしの中のクラシック音楽。フィギュアはやはり結構楽しめるもの。

 最後に、最近話題のポストK泉、新聞でも「素顔」の紹介など盛んに特集が組まれていたりするが、F田氏がクラシック音楽好き、というのは初耳。それもお好みは、なんと
ベルリオーズにバルトーク・・・(出典はY売新聞でした)・・・なかなかに通だなあ。K泉氏のオペラ好きより、かなり本格的だ。もしも、F田総理なんてことになって、演奏会に登場、なんてなった時に、ベルリオーズの「レクイエム」とか、バルトークの「弦チェレ」とか、一般の報道系ニュースで流れたりするんだろうか・・・そういう場面は是非期待したい。・・・ただ、何げに挙げた曲2曲、いずれも打楽器の濃い作品ばかりだな・・・。

(2006.2.17 Ms)

 我が日常の暮らしにも、スターリンの影・・・。最近、M党議員が暴力沙汰、とのニュースあり。我が生活範囲にての事件。昨年末のお話。それ自体許されるはずもないが、1月に示談が成立、被害届も取り下げられていたのだ。が、一転、蒸し返して書類送検。もう、地元の関係者の間では、失策続きの政権が、世論の攻撃をかわすべく圧力を・・・などと背筋の寒くなるお話でもちきり。確かに、タイミングが良過ぎる・・・この不可思議をA警には、経緯含めて説明して頂かなくては。自発的意思?本当に?何か聞こえませんでした?
 いつの時代も権力者は、持てる力を駆使して、自己保身化に懸命・・・なりふり構わない姿は、結局スターリンと同じに見えないか。
ショスタコーヴィチの交響曲第10番の第2楽章が連日鳴り響く・・・。一方、そんな陰部を隠すべく、権力者とその取り巻きは、明るい未来は約束された、と我が国をユートピアと持ちあげ、ショスタコーヴィチの「森の歌」・・・しまった、具体名が出てしまったぞ・・・を歌ってる。なんとまあ、ショスタコーヴィチの音楽が高らかに鳴り響く我が日本よ。ショスタコーヴィチ音楽の普遍性、今や20世紀のソビエトと並びK泉Japanが証明しているのか。交響曲第13番の第4楽章が聞こえるような2006月2月。まさに今、近所の子供の「福は内」の掛け声、彼らにこの不安を感じさせたくない・・・と祈らずにはいられない。

(2006.2.3 Ms)

 年始のテレビ・ネタが続くが、音楽番組ならずとも、クラシックに関する放送を見る機会多く、気になる点もあったので書いておこう。
 「報道ステーション」にて、大晦日の、岩城宏之指揮によるベートーヴェン交響曲連続演奏会の舞台裏。N響メンバー等による特別編成によるオケの演奏。10時間の演奏。演奏者も凄いが、指揮者も、医者付きで体力と精神力の限界への挑戦だ。所詮、パフォーマンス・・・演奏の質はさてどうだか・・・といった気が個人的に当初はしていたが、全くそんなことはない。真剣勝負、という気迫は伝わる。生で聴くのは観客も大変だろうが、せめてどんな演奏が繰り広げられたのか、こういう演奏会こそ、今の多チャンネル時代、取りあげる局があっても良かろう。
 続いて、オーボエの宮本文昭氏。どこかのチャンネルで、彼のファンである女生徒とのオーボエ共演。偶然見かけただけで詳細は不明だが、近々活動停止と聞こえたが・・・さて。午後7時頃のバラエティ番組で彼を見かけたので、彼もコンサートのみならず、メディア露出もがんばっているなと思いながらも今後の身の振り方が気になる。
 さて、これは再放送ながら、NHK教育の福祉の番組で、舘野泉氏をゲストに、吉松隆の作品や、スクリャービンの小品(作品9−2のノクターン、素敵です)を弾きつつ、トークを交えて。右手の自由を失って、友人たちも、「可哀想に・・・」という表情をしつつ、「そうだ、ラベルの左手の協奏曲やりなよ」と慰めるように言う。これが耐えられなかった、と。親切で言ってくれているのはわかるが、全然慰めにもならない・・・そんな曲は百も承知だ・・・福祉の番組らしい、障害者と健常者の意識の断絶を浮き彫りにするお話に興味深く耳を傾ける。意義深い番組だった。
 また、「クローズアップ現代」では、生誕250年のモーツァルトを取りあげ、クラシック・ブームにも触れる。N響メンバーによる、「アイネ・クライネ」「クラリネット五重奏曲」なども生演奏。

 余談ながら、本日、1/17は、現代日本を象徴する1日であったか。
 ライブドア、証券取引法違反の疑いで強制捜査。ホリエモン転落、なのか?フジTVは、ここぞとばかり、他局に比較し、随分ホリエモン批判の論調高々と。また、読売新聞1面は、ホリエモンとオジャマモンの顔写真が並んで掲載。金まみれ、汚れた日本の顔ふたつ、とでも言わんばかり。そのヒューザーの小嶋社長、国会での発言拒否連発。
 ・・・それにしても、日本の安全神話はどこへ。
 欠陥マンションが殺人装置。かと思えば、幼女殺人の宮崎被告の死刑判決。17年の年月、あの時の衝撃、いまや日常茶飯事な子供受難・・・さらに、阪神大震災から11年。
 やりきれない。ただでさえ、地震大国という不安のなか、不安、不信を増長させて行く日本。責任の所在、誰にある?こんな話題の中、K首相が牛肉を食い、チルドレンたちと高笑い・・・オジャマモンが頼りにしたA倍氏をかばいながら、J民党と関係も深かったホリエモンもオジャマモンも今や切って捨てて、あいかわらずのハシャギブリが、我々へのグロウにしか見えぬわ。

 まさに昨日夜の強制捜査の最中、私はそんなことも知らぬまま、中学時代はじめてオケのスコアを購入した音楽店の閉店セールで、楽譜あさり(これも地方都市の不況のあおりかなあ)。3000円のシューマン、ピアノ全集のうちの1冊を500円でゲットして喜び勇んで家路。この些細な喜び、なんとホリエモンと隔絶した世界の話だろう。自分の小市民ぶりに情けなくなりつつも、この喜びを知る私がいとおしいよ。

(2006.1.17 Ms)

 年末年始、BSも含めて、クラシック音楽番組も多彩であった。家を不在にした日もあったので、留守録しながらも、全てを見ることもかなわず。

 最も感銘を受けたのは、BS日テレの、読響の第九。スクロヴァチェフスキ指揮。こんなワクワクさせる第九もなかった・・・詳細はまたおって。この番組が年をまたいで放映されたので、毎年比較的見る機会の多かった、テレビ東京系の「東急ジルベスターコンサート」は今回見ず。これまたコバケンの第九でカウント・ダウンとのことだったが、・・・聴いてないのに比較は出来ないが、スクロヴァの第九に何ら不満はなし。
 その他、BSフジのマイスキーのチェロ・リサイタルなども興味深く見る。ドビュッシーのチェロ・ソナタなど。チョンミュンフンのピアノ。
 毎年正月の早朝放映される、大阪制作のクラシック特別番組、昨年は、クレーメルで、バッハのブランデンブルクに、シュニトケの合奏協奏曲という正月の早朝とは思えぬほどのラインナップ。今年はその反動だろうか、「マーラーからマツケンサンバ」!!!大阪フィルをフューチャーして、前半は「マツケンサンバ」の宮川彬良氏のポップスコンサート。後半は、大植英次氏でマーラーの3番。マーラーを待ちかねた末、冒頭ホルンの雄叫びを聴いたと思えば、いきなりインタビュー、そして第1楽章再現部から・・・そして、第5、第6楽章。どうも物足りないなあ・・・マーラー聞いた気にならない。限られた時間とは言え・・・。演奏自体も、やや精彩に欠けるような・・・金管がどうも不安定か。
 また、1/3の午後9時から教育テレビでは、ストラビンスキーの「兵士の物語」。さすが公共放送!こういう心意気で番組制作も番組編成もよろしく。N響メンバーと指揮は準・メルクル。舞踊を交えての幻想的映像。内容自体は昨年秋ころにBSで全編放映され私は確認済みであったが、あえて地上波でその時間に!!!ここに特筆しておこう。

 さて、そのNHK。年末の紅白歌合戦。毎年見ているわけでもないが、ところどころは目に入ってくる。今年は「みのもんた」の司会が話題だったようだが、曲間の間とか、曲の余韻とか、おかまいなしの進行が、歌謡番組とは言え閉口させるなあ。国民的音楽番組、がこのありさまか。また、これは「みの」氏の責任ではないが、北島三郎氏の登場シーンは許されざる雰囲気だった。その前の歌手がバラード系の歌でフェイドアウトするなかで、いかにもという仰々しい演歌ブラスサウンドがかぶさるのだから、中島美嘉ファンは激怒したのではないか・・・。
 曲後の余韻も楽しめない、デリカシーの無さ。(勢いのあるエンディングならともかく)あと1秒でも待てなかったのか。あの感覚はポップスだろうとクラシックだろうと許せない。「音楽」を楽しむ、という原点なしに「音楽番組」作って欲しくない。音楽への愛を感じさせない「紅白」に未来は果たして・・・。

(2006.1.5 Ms)


 新年を迎えて。
 昨年は親の死という現実に向き合い、考えさせられることも多かった。今、思い返しても自分の人生における一転機であったと思う。自分の誕生から自分史を考えていたのが、今や、自分の死から遡及的に自分史を考えるわけだ。新聞でも、「40歳を過ぎたら遺書」などという見出しを見て、何の違和感も感じない。遺族に対し、しっかり準備した上で去ることこそ生きる者の責務ではないか。遺族としての壮絶なる実感だ。
 と書きつつ、死を恐れ、また、死をあこがれ・・・などという感覚は皆無である。死を身近に思っていることでこそ、いかなる生を生きるかを改めて考えている。昨年中、続いた、自分の親の世代にあたる身近な死はもちろん、本田美奈子.さんの死もまた、私にはおおいに意識せざるを得ない出来事であった。
 また、個人的な感覚として、音楽的には、死を思うことはマーラーの音楽に対する親近性を増しつつも、逆に鑑賞を遠ざけさせている。死に対する思いをそんなにも仰々しくさらけ出すことへの疑義はある。死に際に関するリアルな感覚がないからこその愛好であったかと自らの青年時代を振り返りもする。
 親の晩年の辛い生き様を見た視点からは、脳の劣化、言語の喪失、・・・シューマンの、特に後期の作品に関心を持ち始めている。ただ、シューマンの作品(後期に限らず)を聴き始めたことは、ニールセンの作風の一源流を思わせる発見もあったりと楽しい冒険、探検でもある。どこかで、その点、まとめ得る時が来るといいのだが・・・。子供の頃ピアノのレッスンでお馴染みだったピアノ小品から始まるシューマンとの絆は揺るぎ無いものであったことを再確認しつつ、自らフロンティアを開拓しようと思っている2006年初頭である。まさしく、シューマン没後150年。

我がHPもささやかなる「私事」始め、である。雑事に埋もれつつも、今年こそは、もう少しマメに更新したいもの。(2006.1.4 Ms)


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