第3.5回
ショスタコーヴィチの5番に関する「談笑」的断章
この回は第3回の単なるオマケです。大した事を書くつもりはありません。単なる「談笑」のつもりで気楽に眺めてください。
<2> ティンパニと大太鼓の微妙な関係
〜交響曲エンディング小論〜
ショスタコーヴィチの交響曲の終わり方についてちょっとばかし、注目してみよう。
私の思い出として、この5番のカッコイイ終結にしびれて、彼の交響曲をいろいろ探し始めたのが高校の頃。しかし、なかなか5番に匹敵するだけのエンディングが見つからなかったことを記憶している。
エンディングが軽率な諸作品にまず遭遇した。スケルツォ的(ギャロップ風)フィナーレ6、9、10番。
前半期待を持たせながらも、弱奏終止で予想外な展開なものも多かった(高校時代の感覚では「がっかりした」諸作品)。4、8、13、15番。
とりあえず強奏だが、特に最後が印象的でもなかったもの。1、2、3、11番。
意味不明、グループ分けから外れてしまう14番。
そして、かろうじて5番に近い7、12番。
その最後の3作品が本稿の主役。比較的遅く(5番は一概に言えないが)、堂々たる終止を持つ。そして、その雰囲気を作る重要な役割をティンパニが担っている。そして、そのティンパニのソリスティックな派手なパッセ―ジにかぶる大太鼓、この図式も3作品共通だ。しかし、よぉくスコアを見てみよう。
まず、5番。コーダにおいてはffでティンパニはD−Aの繰り返しのソロが続く。しかし、最後の3小節で一転、fffで大太鼓が乱入、ティンパニの音程感を掻き消す乱打で曲が終わる。西村朗氏はかつて「レコ芸」だったかで、「純粋音楽的には、最後の大太鼓は不必要なもの。しかし、あえて重ねたところに作曲者の意図が隠されていないか」、と述べており大学生の私はえらく感銘を受けた覚えがある。そもそも、ショスタコの裏読み癖は、この指摘に始まったと言ってよい。
私の想像。最後のコーダは、独裁者(ティンパニ)、その部下(金管)と、強制労働に苦しみ自由を奪われた市民(弦、木管)。(今月のトピックス’99.7月分「名古屋シンフォニア 第35回定演」を参照のこと。)しかし、その図式を、交響曲の中では、ショスタコーヴィチ(大太鼓)が打ち破る。ティンパニを否定し、掻き消す大太鼓の登場とともに、市民パートはラの音の強制労働から解放されるのだ。独裁者への憎しみこそが、この大太鼓の意味するところなのだ。と感じている。
続いて、7番。戦争の勝利を思い描く感動的なコーダは、実はフラット音に満ち、限りなくハ短調の響きに近づいている。主要主題、G−As−G−B−G−Es が繰り返されるが、その旋律線はハ長調ではなく、ハ短調。それもご丁寧に全てのフラット音を含んでいる。最後の高音木管のトリルですら、Asになっている。この部分、ミのナチュラル(E)を演奏しない奏者は、実はハ短調の音楽を個人的には演奏していることとなる。聞き手にはハ長調が聞こえるが、演奏者のかなりな部分はハ短調の自覚が生ずるスコアである。
戦争の勝利への賛歌は、ソビエトの外(聴衆)からは健全なる精神を思わせるが、ソビエト内部(演奏者)からは、必ずしも全ての人間が楽天的に思えない、というギャップを孕んだものなのだ。
そして、その主要主題を最後にティンパニが叩く。fffである。そこに重なる大太鼓は・・・・ff。5番と立場が逆転している。ここで、大太鼓は、ティンパニの悲劇的なるパッセ―ジを消し去ることが出来ない、という訳だ。
戦争の勝利は必ずしも明るい未来を約束するものでもない。確かに、ヒトラーを殲滅した後にはまた、スターリンのさらなる独裁が待っているのだ。
最後に、12番。結論を言ってしまおう。5番と同様だと誰しも認識できるティンパニのソロ、fff。それに重なる大太鼓もfff。ここに至って、ショスタコーヴィチ(大太鼓)も共産党(ティンパニ)に同化、溶け込んでしまったわけか。共産党員ショスタコーヴィチの誕生と、この部分がオーバーラップされるのは私だけか?
これら、ティンパニと大太鼓の微妙な音量設定の差が、その作品の本質と密接な比例関係にあるのでは?という、とある打楽器奏者の発見である。一度でよいから、全てを叩き分けて、皆様に聴いていただきたいなァ。と思いつつ、今だ、5番の大太鼓しか経験できてないなァ。一体いつになったら・・・
某K市民オケがその機会を永遠に私に与えないであろうことを予感しつつ(1999.12.1 Ms)
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<1> 隠れ名盤教えます