更新履歴 '99

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1999.12.27  モスクワ音楽センター日本支部 のHPへリンク。
1999.12.26  今月のトピックス 10月分「ラハティ交響楽団 シベリウス交響曲全曲演奏会」第4夜 を掲載。今月のトピックス 1999年の総括 を掲載。
1999.12.25  隠れ名曲教えます ショスタコーヴィチ 劇音楽「リア王」より道化の歌 記事の修正(関連HP情報を追加)。
1999.12.24  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.12月 (「ミケランジェロ組曲」本編)を掲載。
1999.12.23  クラシック音楽「曲解」シリーズ第3.5回 ショスタコーヴィチの5番に関する「談笑」的断章 <3>交響曲第5番「忠臣蔵」 を掲載。
             隠れ名曲教えます ショスタコーヴィチ 劇音楽「リア王」より道化の歌 を掲載。
1999.12.18  今月のトピックス 12月分「矢野暢 元京大教授逝去」を掲載。
1999.12.17  今月のトピックス 12月分「鉄工場クリスマスコンサート(仮称)」本編を掲載。
1999.12.13  今月のトピックス 12月分「岐阜県交響楽団」を掲載。
1999.12.11  ボロディンのための部屋 のHPへリンク。ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.12月 (「ミケランジェロ組曲」導入部分)を掲載。
1999.12. 7  今月のトピックス 12月分「蒲郡フィルハーモニー管弦楽団」を掲載。
1999.12. 6  モーツァルトのピアノ音楽 のHPへリンク。今月のトピックス 12月分「鉄工場クリスマスコンサート(仮称)」前書きの続きの続きを掲載。
1999.12. 1  クラシック音楽「曲解」シリーズ第3.5回 ショスタコーヴィチの5番に関する「談笑」的断章 <2>ティンパニと大太鼓の微妙な関係 を掲載。
1999.11.28  今月のトピックス 12月分予告「鉄工場クリスマスコンサート(仮称)」前書きの続きを掲載。
1999.11.23  今月のトピックス 11月分「大分トリニータ J1昇格ならず」を掲載。
1999.11.21  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.11月 (「森の歌」概説)を掲載。
1999.11.20  今月のトピックス 12月分予告「鉄工場クリスマスコンサート(仮称)」前書きを掲載。
1999.11.19  クラシック音楽「曲解」シリーズ第3.5回 ショスタコーヴィチの5番に関する「談笑」的断章 <1>隠れ名盤教えます を掲載。
             「曲解」履歴 第11回定演 に Msの感想など一言 を掲載。
1999.11.16  刈谷市民管弦楽団第11回定演終了に伴う、掲載事項の修正。
1999.11. 9  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.11月 (「森の歌」導入部分)を掲載。
1999.11. 6  今月のトピックス 東欧音楽紀行 チェコ編 後編 を掲載。
1999.11. 4  Net Escape Nabigator のHPへリンク。
1999.11. 3  今月のトピックス 10月分「電子楽器テルミン」記事の修正(関連HP情報を追加)。
             ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.10月 (交響曲第14番〜ショスタコーヴィチのモットー、「怒りの日」そしてラフマニノフ)を掲載。
1999.11. 2  休日祝祭大劇場 のHPへリンク。ショスタコBeachへようこそ!イベントステージのページ更新。

1999.10.31  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.10月 (交響曲第14番〜ブリテンとの交友)を掲載。曲解履歴 第11回定演タイトル掲載。
1999.10.30  今月のトピックス 10月分「電子楽器テルミン」を掲載。
1999.10.25  今月のトピックス 10月分「ミルト・ジャクソン 逝去」を掲載。
1999.10.17  今月のトピックス 10月分「ラハティ交響楽団 シベリウス交響曲全曲演奏会」第3夜 を掲載。
1999.10.11  今月のトピックス 東欧音楽紀行 チェコ編 前編 を掲載。
1999.10.10  今月のトピックス 10月分「猪俣猛VS和泉正憲 打楽器アンサンブルコンサート」を掲載。
1999.10. 6  隠れ名曲教えます シベリウス 「春の歌」及び「抒情的アンダンテ」を掲載。
1999.10. 4  隠れ名曲教えます アイブズ 「アメリカ変奏曲〜国歌のアレンジ、かくあるべし〜」 掲載。
1999.10. 3  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.10月 (交響曲第14番概説)を掲載。
1999.10. 2  今月のトピックス 9月分「ドラゴンズ優勝」を掲載。

1999. 9.26  今月のトピックス 東欧音楽紀行 ハンガリー編 を掲載。
1999. 9.25  今月のトピックス 9月分「自然の猛威 豊橋・豊川を襲撃した竜巻」を掲載。東欧音楽紀行 序編 を掲載。
1999. 9.23  ショスタコBeachへようこそ!タコ釣り漁船の港 新設。
1999. 9.18  ショスタコBeachへようこそ!イベントステージのページ更新。今月のトピックス 10月分予告(デンマーク音楽祭、及び電子楽器テルミン)を掲載。
1999. 9.17  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.9月 (交響曲第9番)を掲載。
1999. 9.15  今月のトピックス 8月分「オーケストラ1905」 を完成。ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.9月 (交響曲第3番)を掲載。
1999. 9.14  ショスタコBeachへようこそ!フリーマーケット’99.9月 (導入部分)を掲載。
1999. 9.13  今月のトピックス 8月分「オーケストラ1905」続編 を掲載。
1999. 9. 6  音のならずや のHPへリンク。

1999. 9. 5  今月のトピックス 8月分「オーケストラ1905」前編 を掲載。
1999. 9. 4  隠れ名曲教えます バルトーク 「ハンガリーの風景」 掲載。

1999. 8. 8  今月のトピックス 7月分「新交響楽団第166回演奏会」、トリニタ・演奏会評のページとリンク。
             ショスタコBeachへようこそ! フリーマーケットのページを改訂。8月分補筆。 イベントステージのページ新設。

1999. 8. 6  ショスタコBeachへようこそ! フリーマーケット’99.8月 を掲載。
1999. 8. 1  ショスタコBeachへようこそ! 及び ベイウォッチ のページ新設。
1999. 7.31  今月のトピックス 7月分「名古屋シンフォニア管弦楽団第35回定期演奏会」を掲載。
1999. 7.24  今月のトピックス 7月分「国歌制定」を掲載。
1999. 7.20  ユビュ王の食卓のHPへリンク。クラシック音楽「曲解」シリーズ第3回補論 を掲載。
1999. 7.17  今月のトピックス 7月分「エルムの鐘交響楽団第8回演奏会」を掲載。

1999. 7. 9  クラシック音楽「曲解」シリーズ第3回続編 を掲載
1999. 7. 7  クラシック音楽「曲解」シリーズ第3回 家庭人ショスタコーヴィチの選択〜交響曲第5番に聴く「愛の旋律」〜
 を掲載
1999. 7. 4  倉庫番の「偏屈クラシック」、オーケストラ・ダスビダーニャのHPへリンク。
1999. 7. 3  ひげっちのホームページへリンク。
1999. 6.20  隠れ名曲教えます ニールセン 序曲「ヘリオス」 掲載。
1999. 6.19  今月のトピックス 6月分「刈谷市民管弦楽団第11回定演、客演指揮者決定」を掲載。
1999. 6.12  清流の私的オモチャ箱のHPへリンク。今月のトピックス 6月分でも紹介。
             隠れ名曲教えます ショスタコーヴィチ 映画音楽「五日五夜」よりドレスデン解放 掲載。
1999. 6. 8  ワインと音楽の部屋のHPへリンク。
1999. 6. 5  パヴァンのHPへリンク。予習を兼ねた曲目解説 正式発足。
1999. 6. 2  今月のトピックス 5月分「ゲヴァントハウス管弦楽団」後編を掲載。
1999. 5.28  ル スコアール管弦楽団さん、愛知学院大学管弦楽団さんのHPへリンク。
1999. 5.26  今月のトピックス 5月分「ゲヴァントハウス管弦楽団」前編を掲載。
1999. 5.15  隠れ名曲教えます アイブズ 交響曲第2番 を掲載。

1999. 5.14  タイボルトのお部屋、オーケストラ1905のHPへリンク。
1999. 5. 8  White’s Home Page、デンパークのHPへリンク。
1999. 5. 7  ヴァイオリン力学のHPへリンク。
1999. 5. 5  今月のトピックス 5月分「デンパーク」掲載。「トリニタ」のページ新設(「トリニタ」内の更新は今後、「トリニタ更新履歴」に掲載)。インデックスページ改訂。
1999. 5. 4  kanegon home pageのHPへリンク。クラシック音楽の部屋のHPへリンク。
1999. 5. 3  石田工房のHPへリンク。三河の手筒花火のHPへリンク。
1999. 5. 2  今月のトピックス 4月分掲載。
1999. 4.30  隠れ名曲教えます ハチャトリヤン 交響曲第3番(オルガン付き?) を掲載。
1999. 4.29  クラシックアンケート、Carl Nielsen’s Home Page、打ち処 叩き屋 のHPへリンク。
             クラシック井戸端会議へのリンクをクラシック招き猫へのリンクに変更。
1999. 4.10  「曲解」履歴 第10回記念定演 ヨハン=シュトラウスU世 喜歌劇「こうもり」序曲 及びアンコールについてetc を掲載。
             今月のトピックス 3月分を掲載。
1999. 3.30  予習を兼ねた曲目解説 刈オケ第11回定演の選曲速報を掲載。
1999. 3.28  「曲解」履歴 第10回記念定演 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 を掲載。
             隠れ名曲教えます グラズノフ 交響曲第7番「田園」を掲載。
1999. 3.22  隠れ名曲教えます アルヴェーン「スウェーデン狂詩曲第3番」を掲載。
             NORDIC FOREST 北欧のクラシック音楽のHP、クラシックCDコレクションのHPへリンク。
1999. 3.13  クラシック音楽「曲解」シリーズ第2回 早過ぎた野蛮主義者、ラフマニノフ (前編)を掲載。
1999. 3.12  「曲解」履歴 第10回記念定演 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」を掲載。
1999. 3. 3  品川区民管弦楽団さんのHP、クラシック井戸端会議のHPへリンク。
1999. 3. 2  今月のトピックス 2月分掲載。
1999. 2.23  隠れ名曲教えます シベリウス「カッサツィオーネ」を掲載。
1999. 2.20  隠れ名曲教えます クラミ「海の情景」を掲載。
1999. 2.18  隠れ名曲教えます グロフェ「ミシシッピー組曲」を掲載。
1999. 2.17  隠れ名曲教えます ホルスト「日本組曲」を掲載。
1999. 2.13  アマ・オケ交響曲レパートリー編成一覧表のページを追加。
1999. 2.12  「曲解」履歴 第9回定演 「努力の人」の二つの第1交響曲に寄せて を掲載。
1999. 2.11  隠れ名曲教えます シベリウス「孤独なシュプール」を掲載。
1999. 2. 9  今月のトピックス 1月分掲載。 刈谷市民管弦楽団HPへリンク。
1999. 2. 8  更新履歴作成。 クラシック音楽「曲解」シリーズに、「野鳥との交流〜シベリウスの交響曲第1番〜」を掲載。

1999. 2. 1  ホームページ運用開始。


’99 倉庫

ショスタコーヴィチの5番に関する「談笑」的断章

<1> 隠れ名盤教えます

 これまた、突発的にひらめいただけの企画です。
 ショスタコーヴィチの5番と言えば、名盤数知れず。初演者ムラヴィンスキーの研ぎ澄まされた演奏。思いきった解釈で作曲者本人をも驚愕させたバーンスタインの演奏。終楽章の冷静過ぎるほどのテンポ設定に舌を巻く、初の交響曲全集を完成させたコンドラシンの演奏。豪放磊落だが、今は無きソビエト文化省オケなのが涙を誘うロジェストベンスキーの演奏・・・・などなど代表的なものを挙げても、それぞれが全く違う方向性を持つ。5番の名盤探しは、ショスタコーヴィチ・ファンでなくても十分に楽しめる営みだ。もう、次々と違う解釈に出会えるのが楽しい。演奏によって、こんなにいろいろ印象が変わるとは、ホントに驚きだ。こんなに多様な演奏を聴かせてくれる曲が他にあるだろうか?

 さて、今回は、実はこの(99年)11月1日に発売された、限定版エロクァンス・シリーズという企画物の中の1枚。
 グラモフォン・レーベルからの復刻版で、ロヴィツキ指揮、ワルシャワ・フィルの1958年の演奏
 これが、とてもインパクトのある演奏だったので紹介したい。そんなに名演だったって?いいえ、これぞ、迷演、といったキワモノである。

 冒頭など、なかなかにゴツイ雰囲気で期待充分なのだが、楽章を追うごとに、あれぇっ、の連続。あんまり詳しく書くのも、初めて聞くときの印象を左右してしまうのでいけないのかな、と思いつつ・・・やはり書いてしまえ。
 まず、第2楽章のテンポ感。結構速いです。しかし、トリオのバイオリン・ソロの旋律部分は妙にゆっくり。そのテンポ感の差が断層的に感じられるところ多々あり、なんだか滑稽な、愉快な感じ。また、元気なホルンのパートソロも威張り散らさずに、消極的で肩身が狭くて変。まぁ、確かに古い演奏で、録音技術の悪さもあるだろう。しかし、全般的に金管、打楽器が弱いのが特徴的。欲求不満がたまる人も多くいるだろう。
 うってかわって、第3楽章が巨匠的名演!すごく遅い。スケルツォの滑稽さを堪能した後に、この引きづるような演奏が待ち受ける。そして、内声の細かいニュアンスも歌に満ち、また、ダイナミクスの変化も絶妙、と感じた。しかし、楽章最大のクライマックス、木琴も加わる悲痛な叫びの部分・・・、なぜ、なぜ、そんなに急ぐんだ・・・・もっと切々と訴えてくれ、と思う間もなくその部分は過ぎてゆく。攻撃的ですらあり、まるで鬱積した怒りが爆発したかのような印象を受ける。この辺りで、この演奏、あえて常識的な行き方を拒否したコンセプトがあるのでは、と勘ぐってしまう。さて、気になるフィナーレは?
 なかなか遅目で、ノントロッポ(急ぎすぎず)なのがいいなぁ、と思った瞬間、まるで威圧感の無い金管群の登場。最初のA−D−E−Fからして音に芯無く、ぶつぎれで弱々しい。かっこわるー。続く弦のフレーズもいまいちガツガツしない。こんなに白けた演奏珍しいな、もう聴くのやめようか。しかし、最後にまたまたやってくれました。ハープのソロが終わって、冒頭主題の回帰、ティンパニ、小太鼓の葬送的行進が始まると思いきや、なぜ、なぜ、そんなに急ぐんだ。木管の8分音符の対旋律も、せわしく、せせら笑うようなスケルツォに変身。操り人形的な印象を醸し出すそのテンポ感はひたすら持続され、通常の演奏に見られる耐えに耐えて勝利のコーダへと感情を高ぶらせるという仕掛けが全面的に放棄されているのだ。そして、コーダがまた愕然。テンポはやや速め。主役の金管はそれ相応に頑張っている。のだが、妙にがんばっちゃったのがピッコロ初めとする木管群。ひたすらAの音だけが演奏される部分、ララララララララララと容赦無く聞こえてくる。確かに楽譜は、金管を消す音量ということだったはず。しかし、ホントにやってくれるとこれまたスケルツォじゃないか。ハハハハハハハハハハという笑いの連続に聞こえてくる。そして、最後の大太鼓の駄目押しもそんなに遅くならず、なんとなくあっけなく終わって、?だけが残る。

 しかし、「わざとらしい感動」を完全に拒絶したこの演奏、なかなかに感銘深いものがある。これが作曲者の本心に近い演奏なのでは、とも思い始めてしまう私である。滑稽さを全面に押し出している点もそうだが、権力の横暴を思わせる暴力的な部分を敢えてクローズアップさせない曲の作り方。ちょっと考えてしまうな。
 ポーランドの演奏か。確かに歴史的にロシアに蹂躙されつづけたポーランド。ソビエト国内で被った作曲家の受難を本当の意味で理解し、ソビエト国外で被害を被りつづけるポーランドの人々が、この音楽に本心を託した・・・・・それもソビエト公認の社会主義リアリズムの名曲を使って、制限主権論を盾に衛星国支配を強めるソビエトへの抵抗を演奏で表現する・・・・・そんな構図を思い浮かべてしまう。この演奏の延長にこそ、10年前の東欧革命の先駆であるポーランドの連帯、ワレサ議長の息の長い反ソビエトの運動が生まれていったのだろうか・・・・・。ポーランド人の心意気をこの演奏に聞くのは、「曲解」なんだろうか?

 純粋音楽的には失敗した演奏ということになるのかもしれない。しかし、演奏を成功させるべき常套手段を意識的に放棄した演奏、が何か積極的な意味合いを持つように私は思うのだが、果たしてどうだろう。一聴の価値あり、と私は思う。1300円だし、品切れ前にどうぞ。いい酒のネタになると思うよ。

(1999.11.19 Ms)

 

<3> 交響曲第5番「忠臣蔵」
      〜浅野内匠頭、大石内蔵助、そしてショスタコーヴィチ〜

 今年99年は、忠臣蔵にはまった。そう、大河ドラマ「元禄繚乱」である。最初から見ていたわけではない。5月頃だったか、松の廊下の回に、この場面と、討ち入りくらいはせっかくだから見ておこう、と思ってみたところ、なかなか面白く、次々とその先が気になって12月まで一気に見ることとなった。配役がなかなかはまっていたと思う。内匠頭、内蔵助は当然のこと、将軍綱吉、側用人柳沢、あまり今まで気にした事のなかった上杉家の人々、さらには今までの完全悪役から脱却したキャラクター付けがなされた吉良など、本当にこんな風貌で、こんなことを考え、実行したのでは?と思わせるものがあった。討ち入りへ向けての準備、その過程もリアルな感じがした。

 さて、私が思うに、このドラマを貫くテーマとして「忍耐」が存在しているのではないか?
 事の発端からして、内匠頭の忍耐がもたなかった、ということではないのか?松の廊下の事件当日に、不当にも切腹となった点に同情の余地はあるのだが、現代社会に生きる私達の観点からものを言っても、組織においては忍耐が肝心であり、暴力的手段によって私憤を晴らすのであれば、やはりそれ相応のリスクは払わねばなるまい。数百人の家来、数千人の領民を率いる身としては、短絡的につっ走ってしまったように思える。皆さんも、職場であれ、学校であれ、複数の人間のつながりからなる組織の一員である以上、忍耐の日々を送っているわけです。いかに不当な弾圧を受けようと、生きるため、自分の将来のため、もしくは自分を大切に思う人のためにも忍耐こそ肝要なのである

 などと書き進むうちに、交響曲第5番を書いたショスタコーヴィチの「忍耐」が思い起こされる。
 最近NHK−TVで、スターリンとエイゼンシュテイン(ご存知の通り「戦艦ポチョムキン」で有名なソ連の映画監督)との対決をテーマとした番組の再放送をしていたが、これまた内匠頭的な悲劇である。スターリンから与えられたテーマに反発し、我をはって映画を撮りつづけ、改作、上演禁止の憂き目にあい失意のまま突然死する彼もまた、プライドの高さ故か「忍耐」がもたなかったように見えてくる。あと5年生き長らえばスターリンも死に、活路が開けたかもしれないのに。
 そんな彼と対照的だったのが、ショスタコだ。映画と音楽では、その表現するものがどう受け取られるかに相当な違いがあり、抽象的にごまかせる音楽の方が、よりスターリンの批判をかわしやすいということはあろうが、結果としてショスタコはうまくやった。彼は、あからさまな形で、忍耐切れになってスターリンへの反抗を露わにすることは、スターリンの生前はなかった。松の廊下でスターリンに出会っても切りつけることはなかったのだ。ただ、通りすぎた後に、舌をだしたり、アッカンベエはしたのだろうけど。交響曲第5番、第7番に隠された思い、もそうだし、8番のエンディング、9番の軽さ等等。しかし、第4番の復活は無く、それに代わる悲劇的フィナーレを書くことは我慢しつづけたわけだ。

 忠臣蔵のもう一つの忍耐は、内蔵助に関わるものである。赤穂藩お家断絶となり、はやる家来達を抑えながら、主君の敵、吉良をいかにして討つか、相手にさとられないよう、味方も騙しつつ、本心をずっとひた隠しにしつづけた・・・・これこそ「忍耐」強さの勝利と言えるだろう。

 そして、この内蔵助こそ、ショスタコーヴィチの分身とも言える(歴史の順番から言えば逆か。ショスタコこそ内蔵助の分身。)ように思える。
 内蔵助にとっては、忠義そして、幕府への反抗、こそ目的であり、それを果たすために「忍耐」の日々を送る。
 ショスタコにとっては、芸術家の良心そして、独裁体制への反抗、こそ目的であり、それを果たすために「忍耐」の日々を送る。
 彼らの残した業績は、「忍耐」切れにならずその目的のための周到な準備故に達成されることにもなり、また、後世の人々にも語り継がれ、感動を与え続けることとなったのだ。
 人間社会から切り離せない「忍耐」、しかし、その「忍耐」あってこそ、自己実現という結果はもたらされる。耐え続けるばかりで死んだんじゃァ救われないが、その耐えたことに対して、それを超え得る充実した結果が出ると信じられるからこそ、私達は耐えているのだ。そう言えば、「おしん」なんてのもあったねぇ。意外と、ショスタコの忍耐も、日本人好みなのかもしれない。私自身も、ショスタコから「忍耐」の重要さを学び、今回の大河ドラマでそれを再確認したのだった。

 ショスタコの5番、日本初演50年、そして、「森の歌」完成、世界初演50年という記念すべき今年、1999年、「忍耐」の大事さを認識するに相応しい年であったと言える。そんな今年を総括する12月を迎え、そこで、またくだらない想像が私の中を駆け巡る。
 ショスタコの5番に「忠臣蔵」の標題をつけて解釈しようという斬新な試みである。

 第1楽章。赤穂に飛脚が到着。内匠頭切腹、お家断絶の書状。それを読む内蔵助に走るその衝撃が、冒頭の弦の劇的な部分。そして、彼は冷静に判断、自分が何を成すべきか、そのために何が必要かを熟考する。それが提示部。家来達にその顛末をどう説明し、どのようにまとめるか。彼は家来を集め評議を始める。いきり立つ家来達、城を枕に討ち死に、吉良を殺せ、そんな評議の様子は、ピアノの伴奏が始まる展開部。評議は混沌とし、混乱の度合いを高める。しかし、その混乱を収束させる内蔵助の演説、私に身を預け神文血判を出してくれ、主君の敵を討つために!その力強い訴えは、再現部冒頭、弦、木管、ホルンのオクターブ・ユニゾンによる線の太い第1主題再現。その訴えのもとに家来は心を一つにし(銅鑼の一発)、赤穂城は無血開城、混乱無く収束。ほっと一息つく内蔵助。しかし、また提示部の雰囲気は再現、今後果たして、どう目的を達成するのか、再考。コーダの深遠な表現がそれ。

 第2楽章。敵と味方、それぞれを騙しつつ遊びほうける彼。京都で芸者遊び。スケルツォは、ひょうきんな彼の一面を覗かせる。トリオのお茶目なバイオリンソロは、お軽?ちょっと違うか?

 第3楽章。亡き内匠頭への追想。大河ドラマでも、回想シーンだけでほとんど1回費やされた時があったな。二人の最後の別れの場、ロケ中、なかなか晴れず、本来は峠から赤穂の町を見ながら別れるという想定が変更になり、内蔵助が「また来年、見るまでお預けになります」などとアドリブで言い加えたシーンが思い出される。そんなエピソードも回想しつつ、追悼、祈り、そして、怒り。
 また、第2主題のフルート・デュオあたりに、内匠頭の妻のささやかな彼への思慕の念など重ねてみたり。

 第4楽章。いざ出陣。討ち入り。冒頭のティンパニが浪士達の力強い足取り。提示部は吉良邸での乱闘。そして敵を発見、一刀のもとに首を刎ねる。血しぶきが飛ぶ。銅鑼の一発。安堵の表情で泉岳寺へ。そして、亡き主君の前で報告。浪士達のすすり泣き。中間部の内省的な雰囲気がそれ。事を成し遂げた彼らを待っていたものは、武士としての体面を保ったまま死ぬこと、切腹。その切腹の場へ向かう内蔵助のすがすがしさが、ハープのソロ、そして次々死にゆく浪士達。弱奏ティンパニの葬送のリズムにのせて厳粛な死の儀式が続く。そして、その死の儀式が終わったところで庶民の喝采、さらには死後の栄光、賞賛、未来へと語り継がれる英雄伝説。言わずもがな、コーダの金管群の勝利の凱歌。めでたしめでたし。

 注)本項において、ショスタコーヴィチが、日本の「忠臣蔵」に感動し、その物語に自分の境遇を重ね合わせ、交響曲第5番を書き上げた、などという主張をしているわけではありませんので、誤解の無いようお願いします。ただ、今世紀初頭、日露戦争の講和に尽力したアメリカの大統領が、礼を述べた日本の外務大臣に対し、英訳の「忠臣蔵」を手渡したエピソードからして、ショスタコが全く「忠臣蔵」を知らなかった、と断言は出来ないのかもしれない、と思ったりもするが、今回の話とつなげるつもりは毛頭有りません。念のため。

12/14に間に合わなくて残念(1999.12.23 Ms)


今月のトピックス

12/11(土) 鉄工場クリスマスコンサート(仮称)

 <0>私的前書き

 本日11月20日(土)の朝日新聞朝刊1面をご覧下さい。
 
「鉄くずが楽器に変身」稲沢の工場、来月職人さんたちが演奏会なる記事が写真入で紹介されています(朝日新聞東京本社による取材である)。
 何を隠そう(そんな大袈裟なものでもないが)、私の次なる大舞台がこれなのである。
 
 私の高校時代の吹奏楽部の後輩の会社で、鉄の廃材を使った楽器作りを暇を見つけてやっており、それをまとめて使ってクリスマスコンサートを、その鉄工場の中で行うこととなった。しかし、その職人さんたちは、全員楽器も触ったこと無い、楽譜も読めない。ということで、私がお手伝いして、コンサートのための曲作り、及び演奏指導、演奏協力を依頼されたと言うわけだ。(新聞の写真見ると、いかにも職人さんたちが演奏できそうに写ってるなァ。しかし、現実は・・・・。ただ、中には目覚めちゃった職人さんもいて、私の後輩の指示なしで音叉片手に一人で鉄琴の鍵盤を作ってしまったとか。埋もれていた天性の音感が呼び起こされたという訳か。案外そんな人はいるものでは。オケに聴きに来ないような人も、一度何か機会が有れば目覚めることもあるのでは・・・・とふと思う。)
 さて、使用楽器は、鉄廃材による
鉄琴2台(余韻の全く無い代物。カンカンいうだけだが)、ガスボンベの頭によるチャイム(幻想交響曲で使えるかもよ)、はりせん君(長い鉄板2枚によるむち)、マンモス君(写真を見ればわかるが、長い曲がった鉄パイプが何本も、象の牙のように突き出ているベース担当楽器。圧縮空気を瞬間的にパイプに注入することで音が出る)、巨大だがとても気持ちよい音の出るベル・ツリー、その他、音が出るものなら何でも使ってしまえ、というわけだ。
 これらの楽器のために、曲をアレンジするというのも骨が折れる作業だ。ルロイ・アンダーソンから数曲、そしてクリスマスソングをネタに30分のステージ構成をしなければいけない。2/3ほどは楽譜完成。これからは、練習練習。
 社員の身内、取引先の方ご招待で、バーベキューしながらの気楽なコンサートということで、今回は一般の方はちょっと聞けないのですが、またその報告はさせていただきましょう。

(1999.11.20 Ms)

 このところ、高速道路使って約2時間、稲沢市まで休みのたびに出かけ、上記の通り、通称「アイアン・バンド」の練習、指導に明け暮れている。曲も全て完成した。12/11の本番に向けての全体練習は今日とりあえず目処をつけ、あとは各奏者のさらなる個人練習に期待をつなぎ、本番の日を待つのみとなった。
 朝日新聞の取材もあり、また、廃物利用の環境に優しい音楽会ということで、名古屋テレビ「コケコッコ―」、日本テレビ「ズームイン朝」、NHKニュースなどの取材申し込みにとどまらず、韓国のメディアまでも、その鉄工場へ問い合わせ殺到とのこと(関東、東北、北海道では11/20の夕刊に紹介されたとのことである。)。市役所を通じての、一般からの問い合わせもバンバンかかって、会社の電話がパンク状態だったとも。
 ただ、社長さんの取り計らいもあり、演奏会当日の生中継だけは断っているとのこと。純粋な演奏会という形が保てなくなるようにはしたくないとのありがたい配慮である。ただ、今後練習風景ということでの取材は工場に来るかもしれないらしい。私は遠くで見守るしかないのだが、職人さんたちには是非とも頑張ってもらいいものだ。
 社長さんには、私のこと、
「三河の坂本龍一」(ちょっと田舎じみたネーミングだなぁ)なるニックネームなどいただき、調子に乗って私のピアノ・ソロなども演奏会で披露することと相成った。曲はもちろん「戦場のメリークリスマス」!あぁ安直な。
 しかし、感無量な感動さえ覚えるなァ。この話を持ってきた高校時代の後輩とは、高校時代から吹奏楽部の有志を集めて、有り合わせなアンサンブルなど楽しんでいたのだ。みょうちくりんな私の編曲ぐせのルーツである。そして、社会人になって偶然、ある音楽団体のエキストラでその後輩と再会を果たし、その時のトラ仲間と、その時演奏したサン・サーンスの「バッカナール」にちなんで
「バッカナールズ」なるバンドを結成。名古屋市内の公園でのゲリラ・ライブなどしたものだ。通りゆく人々に1番受けたのが、リコーダー合奏による「サザエさん組曲」、これは是非とも皆さんにも演奏していただきたい一品。興味ある方、連絡下さい。楽譜も郵送しますよ。
 そしてまた、今回、突拍子も無い企画を持ってきて、おおいに張り切っている私である。伝統にがんじがらめで、頭でっかちになりやすい交響曲メインのオーケストラ活動ばかりでは、打楽器奏者としてのアイデンティティーが揺らぐような気がし始めてきた。私の今所属する団体にあっては特に感じる。演奏する喜び、その喜びをお客さんと分かち合う喜び・・・・・なぜ私が音楽を続けるのか?その問に答える何かがこの企画に内在しているような気がしてならない。全身でこの企画に体当たりしている自分にふと気付く時、普段のオケ活動ではこんな自分を感じたことが無い、のである。自分がとても生き生きしているようにも思う。なぜだろう。
 いや、逆に、オケでもこれだけの盛り上がりを自分の中に感じていた時もあったのではないか?確かにあった。私の音楽に対する情熱は変わってないようにも思うのだが・・・・
(アンサンブル・コンサートとか駅コンとかで盛り上がって夢語り合った時期もあったね。今じゃ、めんどくさい、馬鹿らしい、そんな余裕無い、の言葉で一蹴)。そんな晴れ渡らぬ心の中、そのままに、今日の夕方は、暗雲垂れ込め小雨降りしきる帰路であった。とにかく、一度でも多く、いろいろな人と、いろいろな形で音楽を通じての交流がしてみたい。私に限られた時間は多くないはずなのだ。焦りも正直ある。だから往復4時間の音楽活動に私は今すがっている、ということなのか?

(1999.11.28 Ms)

 今日、午後6時半のNHKのローカル・ニュースで、とうとう「アイアン・バンド」がお披露目と相成った。新聞のテレビ欄にもしっかりと、「中継・鉄くずが織り成すハーモニー」と書かれているじゃないの。
 あぁ、職人さん、緊張してるなァ。ベース担当マンモス君を操る職人さん、表情も動きもちょっと固かった。オマケに楽譜見失ったちゃッた。がんばれぇ。あと1週間ないぞぉ。しかし、今夜あたりから急速に冷え込みそうだ。本番当日、寒さとの戦い。「三河の坂本龍一」、ピシッと決まるかどうか?

(1999.12.6 Ms)

 <1>さて気になる本番は?

 相変わらず、毎度毎度前置きばかりが長くてスミマセン。

 当日は、午後5時からの本番。工場内のスペースを確保すべく、午前中は皆さん仕事を精力的にこなし、全て出荷し終えて、午後からセッティング。私は午後2時会場入り。まずは、職人さん達との合わせ、練習の成果はかなり見られ、みなさんよくがんばった、という感じ。ただ、社長さんだけが、入りそこねを乱発し、爆笑の連続、すかさずTVカメラも、そんな和気あいあいさを狙っていた。冒頭1曲目のみが、職人さん主体の演奏であり、ここぞとばかりカメラは精力的に多方向からせまりくる。私は、場合によったら、冒頭でパイプオルガンの音色で荘厳な開始をするように提案していたが、みなさんに聞いてもらい、その大袈裟な(続く鉄楽器のアンサンブルとの対比が面白おかしい)開始が了承された。その経緯もカメラは追っており、「じゃぁ、オルガンいれてやってみぃ」てなことになると取材陣がわっと私に押し寄せ、私の拙い指さばきなど写しており、妙にはりきってしまった次第だ。
 とりあえず、メイン曲が終わり、私と後輩、さらにその友人と、楽譜が読める3人のアンサンブルに、職人さんの賛助が入る曲など数曲こなし、時間はどんどん無くなり、3人だけの曲は一通り通したくらいでリハは終了。さて日も傾き、本番を迎えるのみ。私も、
つなぎの青い作業服に着替え、個人史上初のコスチューム・プレイ(念のため、プレイは「演奏」という意味です)に胸ときめかせた(?)。妙にエキサイトし始め、いっちょやったるわい、という、使命感なのか、いたずら心なのか、なんだかよくわからないものの、テンションが未だかつてなく高まる。

 本番開始。狭いスペースながら70人ほどのお客さんが集まる。後ろの立ち見の人は結構つらそうだった。キャパからすれば、120%の入り具合といったところ。近所の子供達が前列を占め(社長さんの3人の子供の集客力か?)、車で遠くから見えた方もいると聞く。はるばるなんと刈谷から、アマチュアカメラマンと名乗るお爺さんも来て、なんでも事前のTVを見て、おっかけになったらしく、練習風景も撮らせてくれと、足しげく何度も通っていたらしい。キャパ120%の感動が、さらに私のテンションを高める。立ち見が出る演奏会なんてそうそう経験できないって!

 社長さんの挨拶、メンバー紹介と続いて、オープニングは「鈴の音とともにサンタクロースがやって来る」なんじゃそりゃ。そんなクリスマス・ソングあったっけ。実は、「ジングルベル」の冒頭、ソミレドソ、と「サンタクロースがやって来る」の冒頭、ソミレドソミレドをひっかけた、その2曲が渾然一体となったメドレー的なアレンジで攻めてみた。その主役になるのが、低音、パイプオルガンをイメージした、マンモス君なる楽器。そしてそれを操るのが、社内で最も若く(10代)、最も内気でおとなしい職人さんだ。今回の練習で、他の職人さん達との交流も増え、テレビの中継にも慣れ、社内でも人気急上昇となった彼、やや無表情ではあったが、けっこうややこらしい旋律をちゃんと暗譜しており、素晴らしかったです。つかみはOKであった。と思う。
 さて、続いて、主となる3人の旋律楽器によるアンサンブルに職人さんの、鈴とか、鉄製打楽器の助けを得て、ルロイ・アンダーソン特集。正直、アレンジもやたら難しかったが、演奏もなかなか困難であった。曲は
「そりすべり」「シンコペーテッド・クロック」「プリンク・プランク・プランク」ほとんど、鍵盤打楽器で旋律を受け持ったのが私である。ここ最近で、最も困難な楽譜、を私は演奏したのだ。しかし、目立ったミスもなく、速弾きも無難にこなせ安心安心。チューブラーベル的な楽器の速弾きは、前回の練習で、もろワンフレーズはずしたこともあり、気にはなっていたが本番はきまって良かった良かった。

 ここで私は休憩。社長さんの子供達による演奏。「ぶんぶんぶん」(懐かしいな)やら「あわてんぼうのサンタクロース」をやっていた。なかなかうまいものだ。小学校のころの学芸会みたいなノリだな。でも、私の速弾きなんかより、ずっと心に響くものがある。子供は特だ!なんて言っちゃァいけないが、それにしたって、子供が一生懸命、拙いながらも練習の成果を披露するという姿は、微笑ましいと同時に安心できる。
 そして、続いて、ミニチュアのハンドベル・コーナーなどがあり、お客さん(子供たち)の飛び入りも交えて、
「きらきら星」「もろびとこぞりて」を。上手くいかないのが面白い。でも、こういう経験の積み重ねの中から、音楽好きな人が育ってくるのだろうな。生活の中から、将来にまで尾を引くような音楽体験を何でもいいから得て、音楽にもっともっと様々な人が親しんでもらえたら、この世の中も、ちょっとは暮らしやすくなるのではなかろうか?素朴に、音楽をかしこまらずに楽しむ人々の笑顔を垣間見つつ、考えさせるものはありましたねえ。

 第1部終了、社長さんは太っ腹なところみせて、お客さん相手にくじ引き、プレゼント・コーナーとなる。その間にひたすら暖をとる私。なぜって。

 第2部、私のピアノ・ソロ「戦場のメリークリスマス」で、しっとり、うっとりと開始(ウソつけ!)。十八番中の十八番。まさかこんな大勢の見知らぬ人々の前で演奏しようとは。・・・・はるか昔、高校の音楽室でとにかくピアノを弾きまくってた時代があったな。夏休み、課題授業みたいなので出校しながらも、興がのっちゃって、LPをかけながらサントラの曲ほとんどをピアノで演奏してたら授業が終わってた、なんてこともあったなぁ。思い出深い「戦メリ」・・・そういや大島渚監督も久々に映画撮ったみたいだなァ・・・・ピアノを弾く私は確実に15年若返っていた。内心だけは。
 続いて、高校時代の後輩のフルートとの合わせで、当日急遽選曲した
「ウィンター・ワンダーランド」そしてグノーの「アベマリア」、これまた15年若返ってしまうな。でも、ルバートのふてぶてしさはやはり30代かな。高校時代は、もう少し品の良い解釈をしていたことだろう。

 第2部後半、再びアイアン・バンドだ。「クリスマス・メドレー」、随分前に木管5重奏用に書いたアレンジを再構成したもの。「もろびとこぞりて」「サンタが街にやって来る」「荒野のはてに」「鼻のトナカイ」と、交響曲の4部構成に倣った心憎いアレンジ自画自賛、しかしながら、諸人こぞりて街にやって来て、私は荒れ果てた末に赤くなる、この並びが妙にショスタコーヴィチ的だ、と今、感じた。ショスタコーヴィチの5番の各楽章に、この4つのサブタイトルを付けて見ても面白いかも・・・・意味不明だ!)。最後にマンモス君を使って、トナカイを演奏させる間、私が後打ちのポーズを客席に向かってちょっと大袈裟にやったら、みんなノリがいいねぇ。あっという間に会場が一つにまとまる。これですよ。この感覚を、もっといろいろな人々に味わってもらいたいな。
 続いて今度は賛美歌、落ち着いて
「あぁ、ベツレヘムよ」。鉄でできたパンパイプが主役、鉄の鐘と、私のチェンパロの音色で格調高く。
 そして、私のパイプオルガンの伴奏にのせて、社長さんの鉄琴ソロによる
「清しこの夜」。取引先の親父さん達の叫び声。「いよっ、社長!」果たしてその出来は、社長さん、2番の途中でど忘れ?綱渡りだったなあ。3度下でハーモニー支える職人さんが持ちこたえてなんとかセーフ。
 さて、最後は、改めて
「ジングルベル」同じパターンを繰り返しつつ、編成を巨大化させる「ボレロ」風なアレンジ。終わり近く3番から、へ長調をハ長調に転調するという手も使い、数少ないツールを使いつつ、単調にならないように、いろいろ苦労したつもり。最後は鐘がひたすら鳴り続けて幕。最後を締めるに相応しい大団円となりましたかどうか。すかさず「アンコール」コール・・・・。新曲はとても用意する余裕なく、メドレーから「赤鼻のトナカイ」、お客さんの飛び入りも歓迎、とまでは良かったが、実際、飛び入られて、デカイ鉄缶の類を無秩序に叩かれちゃぁ、ちょっとまずいねぇ。最低限のルールを守ってやらなきゃ、人様に聞かせる音楽にはなり得ないよ。しかし、そこか゜、素人考えの限界か。おまけに、私の後輩が、一人リピート忘れて滅茶苦茶になってしまい、聞くもおぞましい、音による暴力のようなアンコールとなったのが口惜しいいい。

 演奏会が終わっても、子供たちや、子供連れは帰らず、鉄楽器を自分達で叩いて楽しんでいた。そして、ピアノを弾かせて欲しい、という小学生低学年くらいの少女が母親とともに私のところにやってきて、「ジングルベル」のジャズバージョンをすらすらと。まずおどろいたのが、紺色のマニキュアを全ての爪にしていたこと。1曲さも得意げに弾き終えると、次々と鉄楽器をいじり始めた。ちょっと、小憎らしくも思えたので、少女の弾いたジャズバージョンを、私は即席で真似して(当然、全て覚えられないから)適当にアレンジしながら弾いてみた。少女は、ちょっと不思議そうな顔をしたが、また、すぐ鉄楽器に向かっていた。マンモス君で「ラピュタ」を演奏し始めたので、ピアノでハーモニーをとっさにつけたらこれまた、ちょっと振りかえり、また続けていた。そこまできて私はふと思った。これって、音楽によるストーカーだよな。でも、周りの人は、私が、少女の演奏に即興で伴奏しているのに気付き、4半世紀の年齢差を越えた、つかの間のアンサンブルに聞き入って感心していたようだ。楽譜のないところから、もう2度と同じ形では繰り返されない音楽が生まれる(ジャズとかはまさしくそうだ)。そんなひょっとして貴重な音楽の誕生という場を、いろいろな人に提供できたとするなら、私の音楽に関する技術はささやかながらも、有効に作用したと言えないだろうか?そして私は考えた。 

 音楽という衣をまとった時に限り、コスプレもストーカーも、健全なものに思えてきたのである(!?)。

 <2>さて気になる後日談?

 当日入っていたTVカメラは、まず中京テレビ。翌日12/13の「ズームイン朝」での生中継で、職人さんのみの演奏が全国ネットされる。その紹介の合間に、おとといの演奏会の模様ということで、映像が流れるという。てなわけで、ビデオまわして出勤、帰宅後見てみたら・・・・・・・・・、やはり、職人さん達が主役、しかし一瞬、おぉぉぉっ。約1秒、青いつなぎを着た私が、「赤鼻のトナカイ」の冒頭ソラソミの4音叩く雄姿が遠景で・・・・・。こんなことでうれしがる私は、相当ミーハーであることをさらけ出してしまったようだ。
 さらに、もう1社。インターナショナル映画。世界110ヶ国に向けて、日本の話題を5分づつくらい配信するのだとか。そのカメラマンに聞くと、以前は、この手の変わった演奏会を撮ったところ、アラブの石油王だとか、チベットの山奥の王様だとかが、それを見て招聘させた、とかで、社長さんも次の社員旅行は、楽器持ってネパールだ!と叫ぶ。その時は私も?????

(1999.12.17 Ms)

 

12/5(日) 蒲郡フィルハーモニー管弦楽団 第17回定期演奏会(ファミリー・コンサート)

個人史的演奏会鑑賞記

 感慨深いです。私にとっての蒲郡(がまごおり)。かつて、私の中で、蒲郡は音楽の都であった。今もなお、蒲郡での演奏には身が引き締まる思いです。

 中学から吹奏楽で打楽器をやっていたのだが、2年の時、初めてコンクールに出た。その会場が蒲郡。吹奏楽のレベルも高く、指導者にもめぐまれ、既に当時、中学にオケも存在していた蒲郡。私の田舎から車で約1時間。畏敬すべき音楽の都なのである。その蒲郡の市民会館、中ホールでリハーサルし、大ホールで本番を迎えた。ロビーからは海が見える。山育ちの私のとって、ロビーの大きなガラス越しに見える海が、まるで異国の如き雰囲気をも感じさせた。
 リハーサルの前後、他の中学の演奏を聴くことができた。地元の中学の演奏、今なお忘れがたい。
アルフレッド・リードの第1組曲。中世をも思わせる荘厳かつ整然とした「行進曲」。みるみるうちにその音世界に引き込まれた。井の中の蛙が大海を知った衝撃!自分がいかに狭い世界にいたのかをはっきり思い知らされた。と、演奏時間を充分残しながらも、やや唐突に「行進曲」はその歩みを止めた。すると第3曲に当たる「ラグ・タイム」へとひとっ飛び。古き良きジャズの洒落た感覚が、緊張感に満ちた私に朗らかな微笑みを与える。やられた!それにしたって上手い。
 私の聴く限り、全ての団体で、技術、センス、ともに最高だった。しかし、結果は、県大会出場はおろか、金賞も得ず。銀。なぜだ?
 その時の私はふと思う。
これが、コンクールなのだ。ある規格に収まったものに対して優劣をつけるだけのつまらない思考。そのK中学の(きっと先生の判断だろうけど)、反骨心を邪推した。なんてカッコイイ態度であったことか(権威に対する反抗、ベートーヴェンしかり、ショスタコーヴィチなどまさにこれだ。)。この感動が、私の演奏履歴のなかには脈々と流れてはいないか!蒲郡が私に、大海を教えてくれた。そして、また、私は、ロビーから、その時に見たのと同じ海を見ながら、今また、蒲郡のサウンドを聴いているのだ・・・・。

 さて、長い前置きは、いつものことです。早速本文へ。
 何度もお世話になっている蒲フィルさん。いつも、大曲とか、ポピュラー名曲とか、自分の所属しているオケでは実現不可能な企画が目白押しで、いつも楽しませて頂いています。拙い私の演奏ですが、みなさんと一緒に演奏するのが、いつも楽しみなんですよ。さてさて、今回は・・・。

 なんと、オーストリア政府観光局の後援までもらっての、第2部「ヨハン・シュトラウス2世没後100年に寄せて」で小太鼓を主に、ご一緒させていただいた。
 コンサートの全体像としては、演奏会前のロビー・コンサートが20分ほど。今回の指揮者、音楽顧問で蒲郡出身の東京学芸大助教授の山本訓久先生の司会で、ウィーンに因んだ曲の数々を。
 まず、木管五重奏で
「ウィーンの森の物語」。会場前から大勢の観客が行列しており、その人の波は途切れることも無い。そのごった返す中で、思い出残る大きなガラスを前に外光をいっぱい浴びて、遠くに海を眺めつつ、曲が始まる。ファミリーコンサートだけあって、子供達もはしゃぎ回る。しかし、演奏者と同じ高さで、ソファーに腰掛け、あるいは、階段に座り、あるいはふと足を止め、さまざまな人達が気楽に音楽を楽しんでいる。この光景を見るにつけ、音楽を通じての交流の暖かさを感じた。
 続いて、トロンボーン四重奏による、シューベルトの
「野ばら」「菩提樹」。教会の楽器さながらに、ロビーの2階から、天上の音楽の如く、やわらかな調べが我々に降り注ぐ。今回、「運命」とシュトラウス、というプログラミング、トロンボーン4人を擁するオケにしては、ちょっと淋しいプログラム故のことか、この意外な編成は。しかし、洒落た企画だと思った。
 視線がみんな上に行っている間に、ロビーの方は弦楽合奏が陣取り、最後に
「春の声」が演奏された。なかなかに響きも良く、聴きごたえも充分、指揮者なしで、結構テンポの揺れも無難にこなし、アンサンブル能力の確かさもあっての好演。期待充分もって、演奏会のプログラムへ。

 最初に、ベートーヴェンの交響曲第5番。これまた、ウィーンの生んだ文句無しの名曲。ただ、私舞台裏に引っ込んでましたので、不用意な感想はちょっと控えさせてもらいましょう。私も自分のオケで今後、練習を開始するとあってリハーサルもしっかり聴かせていただいたのだが、やはりアンサンブルの難しさはただものではない。ちょっとのミスがすごく気になる。ティンパニは、本気で恐い。認識も新たに、自分によくよく言い聞かせた次第。

 第2部。いきなり「常動曲」。テレビ「オーケストラがやって来た」懐かしいなァ。ホントにワクワクしながら、今日はどんな音楽が聴けるんだろう?と待ち望んでいた小学生の頃の私が頭をよぎる。鉄琴のソロも、遠くのコントラバスとのアンサンブルを気にしつつ、なんとか無難に。銅鑼のソロも目立ちすぎず、まずまずのスタート。それにしたって楽しい曲だ。ソロの受け渡しもおもしろい。お客さんもリラックスできたんでは?
 今回は、当団の管楽器トレーナーでもある、愛知教育大学助教授の新山王先生のお話、進行。おだやかな口調な優しい雰囲気が漂う。ちょっと緊張気味、不慣れかなということも感じたが、それがまた味だったりする。
 続いて
ワルツ「親しき仲」。喜歌劇「こうもり」の中の旋律をつなげたワルツ。そう言えば、今年のシュトラウス・イヤー、刈谷(3月)でも「こうもり」、名古屋シンフォニア(7月)でも「こうもり」、人並み以上にシュトラウスづいていた私にふと気付く。

 そして、また記憶をたどり始めるのだ。その昔、私が吹奏楽コンクールのため蒲郡に来るより数年前、シュトラウスが好きだった頃があったな。小学6年の頃か。ワルツやポルカを真似て作曲したものだ。当時最も気に入ったのが、弟ヨーゼフのワルツ「天体の音楽」。望遠鏡買ってもらったのと関係があるかどうか知らないが、その「天体の音楽」に真似て、曲を書きました、といった手紙をテープとともに音楽の先生にプレゼントしたっけなぁ。随分色あせた思い出。閑話休題。

 テンポの変化についていくのが大変だ。ワルツは。先生も容赦無く、妥協無く、自由な演奏スタイルの再現を試みる。ただ、バイオリンの後ろのあたり、つまり私のすぐ前あたりまで、なかなかその思いが浸透してない面も多々あったものの、善戦はしてました。
 
「アンネンポルカ」。テーマのバイオリンのグリッサンド風な歌い方が、女性の甘える仕草を想像もさせるが、新山王先生の解説では、キリスト教の聖人アンを称える曲とかで・・・ふーんそんなものかいなぁ、とも思いつつ、これまたテンポの変化を堪能させていただいた。
 
ポルカ「町と田舎」。ゆったりとした「ポルカ・マズルカ」。小太鼓が叩きづめで(弱奏がほとんどだが、突然3拍にアクセントがあったりして)楽しい。途中、リムショットがあるのも驚き(枠打ちのこと)。木こりが木を切る音にも感じられる。最初、意味を取り違えて、鼓面の端を叩いていた。まるでバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」の第2楽章だ、と思っていたのだが。ちょっとイメージが相違してました。また、気になる曲名のいわれはよくわからないか゛、トリオでチロルのヨーデルをクラリネットが奏でるのが田舎の象徴というわけか。無関係ながらも、なんだか、中学2年の私のエピソードも思い出す。
 田舎から出てきた私と、「蒲郡」というとの出会い。その出会いの瞬間と同じく私は、15年以上たった今、同じ地でまさしく小太鼓を叩いている。緊張してカチコチになってた当時とは違い、余裕で、音楽を楽しみながら、他の奏者の動向も、指揮者も、お客さんの反応も感じながら、好きだったシュトラウスを演奏している。ホント、感慨深いのだ。
 さて、次が今回の大ヒット、
ポルカ「ハンガリー万歳!」。速いポルカで、いわゆるジプシー風な派手さを持つ佳曲だ。こんな曲と出会えたのは幸せだった。この夏のハンガリーの旅行も思い出したりして。生き生きとした民族舞踊。憂さを忘れさせる興奮がある。新山王先生の曲紹介で、しきりに、ウィーンフィルの伝統に基づく演奏スタイルの再現を聞き逃し無く」というリフレインが、団員の苦笑を誘う。よっぽど凄いことか、と客を思わせ、実は、そのココロは、最後の小節の後で、団員みんなが、「ヘイ」といって立ちあがるだけのこと。これが、また楽しかったね。私も「我が意を得たり」と、バチを高らかに振り上げて、威勢良く立ちあがったつもり。こういうノリ大好きです。あと、コーダで、ハンガリーの愛国歌「ラコッツィー行進曲」が倍速で引用されているのには、新山王先生に言われるまで気がつかなかった。てっきり、伊福部昭の怪獣映画音楽の「自衛隊マーチ」の元ネタかと思ったいたぐらいだ。しかし、さすが、民主主義者ヨハン2世だ。そして、ヨハン1世の「ラデツキ―行進曲」こそ、ハンガリーの独立運動の鎮圧者を称える曲なのだ。こんなところで父子の相克を垣間見るとは。みなさん、「ハンガリー万歳!」オススメします。また、途中、古賀メロディーみたいな短調の旋律が泣かせます。日本人の心に響くものあり、と感じました。と同時に、もとろん当時のハンガリー人の熱狂ぶりも想像してしまう。
 最後に、定番
「ドナウ」。第1ワルツ冒頭の小太鼓の合いの手。コンマスに助けられました。すごくわかりやすい体の動きで、合わせやすかったです。気持ち良い演奏ができた、と個人的には思います。お客さんも気持ち良く鑑賞できたことでしょう・・・。
 あと、そう言えば、今回の見所として、名古屋シンフォニアの 
I 嬢が何年ぶりかでシンバル担当したと言う点か。不慣れながら頑張ってました。合わせるべき、団員の大太鼓の方が、ちょっとミス多かったような・・・・。ま、それは置いといて。
 アンコール。これまた定番
「狩りのポルカ」。ただ、東京ディズニーランドまで行って買ってきたというオモチャのライフル、打楽器パートでは演奏せず、急遽他のパートの団員が歩き回りながらやることとなったはいいが、どこで撃つかがわからず、ところかまわず打つは、舞台に出てきて不発、また舞台裏に戻ったりと、滅茶苦茶で、喜劇をみているようだった。指揮者の苦笑い、に私は同情するが、前の方で聞いていたおばァちゃんが、えらく喜んで拍手してたのが印象的。ま、ウィーンでもやってるようなニューイヤーコンサート的なギャグとして笑えば済まさせる程度のことか。演奏中、マジで大笑いしてしまった私。こんな経験もそうそう無いだろうな。
 そしておおトリは、
「ラデツキ―行進曲」。ドラムソロまでやらせて頂いて、恐縮です。しかし、私の打楽器の道程の出発点こそ、小太鼓、行進曲。やっば、好きなんですよ。体に染み込んでいるのだろうか。行進曲は楽しい。始めて合奏に加われた時の喜び、大切にしています。そして、今、拙い歌心に乗せて、行進曲の小太鼓を演奏するとき、あぁ自分は変わっていないなあ、自分は自分なのだなぁ、と強烈に感じることができるのです。
 私に、さまざまな喜びを与えてくれた「蒲郡」、そして、クラシック音楽の駆け出しの頃の自分の姿、連続してゆく自分史のなかでこれからも、おりを見て思い出したい、そして胸にしまっておきたい、そんな気持ちになりました。

 感慨深いのです。私にとっての蒲郡(がまごおり)。かつて、私の中で、蒲郡は音楽の都であった。今もなお、蒲郡での演奏には身が引き締まる思いです。「いいじゃん、がまごおり。」
(注、東海地区の人にはお馴染みのこのフレーズ。蒲郡競艇のテレビCM。飯島直子が言ってたなあ。ローカルCMなのに大したものだと思ったもの)

千年代最後の我が記念日に思ふ(1999.12.7 Ms)

 November ’99

11/21(日) 大分トリニータ J1昇格ならず

 実は、今年J2に注目していたのだ。お目当ては、好調だった「大分トリニータ」
 なぜって?サッカー・ファンでもないのに。大分とはまったく無関係なのに。でも、分かる人には分かるでしょう。今年は記念年である。「トリニータ」の。
 我がHP内に独立したページとして存在するのは
「トリニタ」。言うまでも無く、芥川也寸志の「トリニタ・シンフォニカ」応援ページである。
 今年は、
芥川没後10年、さらに「トリニタ」初演50年。まさに「トリニタ」復活の年として、後世まで語り継がれるべき、その記念年に、我が刈谷市民オケが「トリニタ」を演奏し、さらに、「トリニタ」と同じ命名の由来を持つ、J2「大分トリニータ」が念願のJ1昇格を果たす・・・・・・はずであったのだ。
 しかし、しかし・・・・・・
 最後の土壇場で、その夢は覆された。惜しい。残念。「FC東京」に、やられてしまった。「トリニータ」には再起を強く願いたい。
頑張れ「トリニータ」!!

 でも私は思う。これもまた宿命だったのか、と。
 今年、1999年は「トリニータ」の年、以上に「FC」の年として記憶されるのか?
 そう、
「FC」とは、 Frederic Chopin (1810〜1849)のイニシャルじゃないの。今年は、「トリニタ」初演50年以上に、ショパン没後150年だったという事実があまりにも象徴されている。
 こんなことなら、我がオケのプログラムも「トリニタ」じゃなく、グラズノフの「
ショピアーナ(ショパンのピアノ曲のバレエ用オケ版)」にしときゃよかった!とも思いつつ、次回、「ショピアーナ」で、「FC」J1昇格記念プログラムなんていかがかな?(我がオケでは異端視のグラズノフ愛好家の戯言か?あぁ悲し。)

(1999.11.23 Ms)

 October ’99

10/23(土) 電子楽器テルミンとその仲間たち −ポルタメントな人々−

 <0>私的前書き

 我が家から、車で5分とかからずに行ける隣町が、小坂井町である。豊橋市近郊のとても小さな町である。
 その昔、徳川家康の祖父、松平清康が現小坂井町の伊奈城での祝宴にて献上された葵を見て、家紋を「葵の御紋」と決めたとかで、水戸黄門でも有名な「控えおろう、この紋所が目に入らぬか・・・」の発祥の地でもある、由緒正しい歴史を持つ町でもある。

 さて、その小坂井町の文化会館が、「フロイデン・ホール」である。バブル期に日本中に建てられた「箱モノ=ホール」は、その大半が閑古鳥の鳴く淋しい廃墟と化そうとしている。しかし、そんな中、草の根の住民自治により、充実した自主企画を誇り、県内でも有名なこのホールの、目玉の一つと思われるのが、この「テルミン」のコンサートである。
 テルミンとは、今世紀初頭ロシアで発明された、史上初の電子楽器である。しかし、その姿形は、四角の箱に2本のアンテナが立っているだけという風変わりなもの。奏者は、その2本のアンテナの間を流れる電流を、手で遮りながら音程を変え、旋律を奏でるのだという。
 そんな、テルミンを自在に操る、日本でも珍しい奏者が、小坂井町の出身なのだそうだ。全国で演奏活動を展開しておみえのようだが、地元でも毎年、コンサートを開いているようである。今回、のこぎり奏者たちの協力も得て、ポルタメントをテーマに企画されているようだ。そして、今回、私も、始めてこの楽器を聴く予定にしている。

 余談だが、我らがショスタコーヴィチも、このテルミンを使用した曲を使っている。シャイー指揮のコンセルトヘボウの「The Film Album」で、映画音楽「女ひとり」の中の「嵐」で使用されており、その音色を確かめることができる。

 テルミンについては、フロイデンホールのHPの、演奏者紹介のコーナーで、写真と共に詳しい説明が掲載されています。
 お近くの方、興味を持たれた方、是非、足を運んでみてはいかがでしょう。

(1999.9.18 Ms)

 <1> テルミン体験記

 とても楽しいコンサートであった。
 実は、最近、HPの更新も滞り気味ではあるが、それも、職場の同じ係の人の父親がくも膜下出血で倒れ、その人の重要な仕事を私が急遽完成させることとなり、また、その父親の葬式のお手伝いもあったりで、10月後半はバタバタの毎日が続いたのだ。そんな中、一服の清涼剤的な、ほっと一息つけるような、ほのぼのしたコンサートが私のすさみがちな心を癒してくれた、というわけだ。

 テルミンが主役の今回のコンサート、基本的にピアノ伴奏による演奏がメインであったが、のこぎり奏者2名を迎えての、音色の聞き比べも興味深く、また、のこぎり協会発起人のゴンチチのチチ松村のギターの友情出演、なぜか豊橋駅でストリートパフォーマンスをしているギターデュオ「優雅」という人達も出てきて、かなり賑やかなイベントと相成った。
 また、500人くらいの小ホールなのだが、満席、チケット完売とかで、それもまた凄いことだ。今回主役のテルミン奏者竹内さんも、最初のトークで、
「今日は、この地域の人達にとって、こんなコンサートに来るような日ではないのに、よっぽど、変わった人達、いや、変わったものの見たがりなんですねぇ」
と言っていたが、実は当日は、日本シリーズの初日であった。
 さらに、テルミンが目当てか、それともチチが目当てか知らないが、東は東京、西は神戸からも観客が駆けつけており、なかなか私の当初の予想を裏切る盛況ぶりだった。

 さて、注目のテルミンだが、上に立つアンテナと右手の距離で、音程が決まり、横に突き出たアンテナと左手の距離で、音量が決まる、というその単純な2つの操作のみで演奏をする。やはり、異様な演奏スタイルだ。空中を手が舞うだけで、オンドマルトノともよく似た音色が醸し出される。しかし、電子音とは言え、シンセと全く違うほどに、柔らかな温かみのある音だ。音程の多少の不確かさ、そして、音量の微調整によるフレーズ感、歌心、そして、音程を決定する右手の位置を細かく動かすことによるビブラート的効果、が機械的でない人間的な音を可能にしている。
 特に、高音域に至っては、さながらソプラノ歌手の母音唱(ボカリーズ)と聞き違えるほどの雰囲気すらあった。うーん、こんなにすごい楽器とは思わなかった。それ以上に、奏者の腕の確かさ、ということか。
 なお、曲の開始は常に、伴奏の人が、テルミンの開始音を軽く鳴らし、奏者が、その開始音の位置を確認し、その位置に手を固定し出番を待つ。そんな状況もあってか、とても、姿勢の良いスタイルにも好感を持つ。

 演奏曲は、クラシックもの、ポップスものなどごちゃ混ぜ、である。ピアノとテルミンのためのオリジナル曲も数曲用意されていたが、それは現代風な、訳わからないものでなく、古典的な親しみやすいものであった。ただ、やはり、知っている曲でないと厳しい、という面もある。音程がイマイチ聞き取りにくい点もあり、知っている曲なら、聞き手の頭の中で、その音程を追って行けるが、知らない曲では、音程が追えず、ただの調子ッパズレな旋律に聞こえることも無いわけではなかった。ただ、ピアノ伴奏との関係で、あぁこう来るかな、と想像することはできるのだが。
 一番面白かったのは、プログラム最後に演奏された
「恋のバカンス」
 ピアノとギターの伴奏で、テルミンとのこぎり(ミュージカル・ソウ)が、デュエットをする。音色がほとんど同じでハモリ具合が妙に心地よい。まして、女性の高音域の声とも音色が似ており、ザ・ピーナッツを彷彿とさせるムードに満ちたものとなった。当の二人も、自分がどちらのパート演奏しているか分からなくなる、とも言っていた。
 余談だが、最後の曲ということで、会場も手拍子で応援したが、観客の多数を占める近所のおばさんの方々にとっては、裏拍の手拍子があれくらいの速さだと困難を極め、諦めて表で入れる者、全く滅茶苦茶に叩くもの、混乱しまくっていたのも笑えた。私は一層うるさく、堂々と裏拍の手拍子をやってやった。

<2> オマケに一言

 今回のコンサートで楽しかった理由の一つが、のこぎり奏者の崎田さん。のこぎり協会関西支部長でもある彼のトークは、下手な漫才より格段に愉快なもの。詳細は書かない。文字で書いても、その面白さを伝える自信が無い。
 あと、第2部の冒頭に出現した、猫のぬいぐるみ。その黒猫が、つたなくテルミンを演奏する!!
 実は、リモコン操作で、猫にテルミンを演奏させるという余興である。そんな楽しい仕掛けもあり、心和むひとときであった。
 
 ちなみに、その猫型ロボット?(ドラえもん、じゃあないよ)の正式名は、「猫型テルミンコントローラー”タンゴ”」!これまた安直なネーミング!!
 詳細については、Mandarin Electron のHPもご覧下さい。
 
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/mandarin/

 さて、来年より、テルミン協会も発足するとのこと、さらなる飛躍を期待したい。
 皆さんも一度、テルミン体験したらどうでしょうか。演奏も面白そうだし。

 なお、今回競演していた「のこぎり」も実は、この豊川周辺でも愛好家がいるようだ。「のこぎりを楽しむ会」のページも紹介しましょう。
 アコースティック・デュオ「優雅」のページもここで発見しました。
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~vrooom/masayou.htm

(1999.10.30 Ms)
関連HP情報を追加(1999.11.3 Ms)

 September ’99

9/30(木) 中日ドラゴンズ、11年ぶりリーグ優勝。旋風き起こる。

 前回の9/24の竜巻の記事に続き、今回は、ドラゴンズ優勝について語ろう。今思えば、竜巻もその前兆ということであったのか?
 しかし、前回の優勝は、昭和63年。昭和天皇の病気のためビールかけが自粛だったのは覚えている。今思えば、本ページでも特集されている
芥川也寸志さんはその時、病床にあり、最後の遺作「いのち」の作曲に命を燃やしていたのだ・・・・。もうそれから11年ということか。そう思うと感慨深いなぁ。

 実は、本日(10/2)、最寄りのデパートへ買い物に出かけ、優勝セールの恩恵をあずかってきたところ。実は、私、特にドラゴンズ・ファンというわけもないのだが(現在応援するチームは無い。ただアンチ巨人的感情はある。)、セールに行って思ったことなのだが・・・・。

 ドラゴンズの応援歌と言えば「燃えよ!ドラゴンズ」だろうが、セールにおいては、どこに行ってもその応援歌が流れていた。意識して歌ったことも聞いたこともなかったのだが、意識して何度も繰り返し聞いている(聞かされる)うち、なかなかの名曲であることに気付いた。

 短調でありながらも、調子の良さ、感情移入のしやすさにより、力のみなぎるような感覚が心地よいこの応援歌、形式面から見ると非常に興味深い構造をしている。手元に楽譜があるわけではないが、仮に4/4拍子、イ短調、12小節でワン・コーラス、として一応見てゆこう。

 この旋律の特徴は、上昇音型を作る、基本的に2小節ごとに小節頭に出る2つの音の存在であろう。歌詞で言うなら、「1番・・2番・・」と選手名を連呼する、その「何番」と次々続く部分である。そして、その跳躍に続くのがだいたい順次進行で、その2つの要素の繰り返しの中で曲は進む。そして、その2小節ごとの跳躍は1箇所を除いて全てが上昇しており、それらを例示すれば、1回目E−A(4度)、2回目が1音低いところからD−F(3度)、3回目がさらに低くA−E(5度)、そして4回目で1回目と同じE−Aという動きに回帰する。つまり、この2小節ごとの主要動機たる上昇する音型が、1回目から3回目までが次々と低い位置からの開始となるが、3回目で最低の位置(低いA音)からこれまでにない跳躍幅である5度で上昇、一気に低迷する音の動きを高音域へ押し戻し、最初の位置に戻るのだ。その辺りで、歌う際の高揚感が煽られよう。
 ここで私が想起するのが、
ブラームスの交響曲第4番第4楽章パッサカリアの主題。1音づつ上昇し、その頂点から1オクターブ下降、しかし、ねばって最後は最初の位置に戻るのだ。低く下がって行きながらも何とか元に戻る、という音の動きが、「ドラゴンズ」の前半8小節からもうかがい知れる。まるで、回を追うごと、点差が開き負けている状態を、3回目の上昇でなんとか、同点に追いつき、4回目の上昇からさらに逆転をうかがう・・・・まるで、今年逆転ゲームの多かったドラゴンズの戦いぶりを象徴するかのような、旋律造形、そして構成を持っているのだ。
 4回目の上昇音型に続く順次進行が、今までにないHの音まで上り詰め、そして最高音、高いCまで上り詰めて
「いいぞ、がんばれ」となるわけだ。この部分、カタルシスを得られる興奮の場面である。9小節目以降のサビへの導き方が最高によい。

 さて、ここで、さらに、形式についても触れておこう。4小節単位でみれば、この曲は、A−A’−Bという特殊な3部形式的な形だ。最初8小節は、2小節ごとに同じような音型を繰り返すが、9小節目で今までにない高音域からの下降という動機が出現し、新たなる局面を切り開く。しかし、この3部形式は、「起承転結」の構造を内包しているのだ。最初のA−A’が、「起」「承」であることは説明を待たないが、続くの部分で一気に「転結」に至っている。即ち、9小節目で新たな動機を出現させ、今までの2小節ごとの反復を破壊する一方、10小節目は2小節目とほとんど同じ旋律とし、また、最後の2小節サイクルの頭の部分が、やはり上昇する音型となっている。つまり、Bの部分で、新素材の活用という「転」的要素と、A部分からの素材の転用による「結」的要素が一気に現れ、無駄の無い、潔い終結を導くのだ。おまけに、11小節目の頭である、最後の跳躍部分、「燃えよドラゴンズ」の「も」「え」の間は、E−Cというこれまでにない6度の跳躍であり、もう勝ったも同然という誇らしさが高らかに歌い込める、という訳だ。

 自然な人間の感情の動きと、その背後に潜む綿密な計算された動機の展開、その上に魅力ある旋律の流れを可能にした、この応援歌。ブラームスが40分かけて交響曲でなし得た境地を、たかが12小節で可能にした、といって過言ではなかろう(というのはオーバー過ぎるぞ。)。
 それにしても、この曲の持つ、調子の良さ、高揚感の背後には、動機の反復、そしてその反復のたびに変化する音程関係、さらには手際良い構成感、という素晴らしい作曲上のテクニックが隠されているのだ。おそるべし「ドラゴンズ」。

 今日のこの発見、私は感動した。私は愛知に生まれ、誇りに思う。しかし、このネタで「トピックス」書けるとは、おそるべし「Ms」。ホントに音楽しか頭に無いバカに見えますよね・・。

次々と新ネタが頭をよぎり、予定された記事がなかなか書けないと思いつつ(1999.10.2 Ms) 

9/24(金) 自然の猛威、豊橋・豊川を襲撃した竜巻

 正直、恐かった。この世のものとは思われなかった。
 全国区のニュースでも取り上げられた、日本では想像もつかなかった、竜巻の襲撃のことである。

 実は、我が職場は、ニュースでも大々的に報じられた豊橋市の中部中学(竜巻の直撃を受け、校舎の窓ガラスの約8割が割れ、200人以上のケガ人を出した)から500mほどしかは離れておらず、その竜巻が、建物のすぐ隣を突進して行ったため、壮絶なる光景を目の当たりにしたのだ。
 当日は、伊勢湾台風の襲撃(1959.9.26)の絡みで、全館正午に黙祷をする話もあり、総務担当である私の当日の最初の仕事は、その打ち合わせであった。台風18号も接近しつつあり、この時期、こういった災害は多いものだなァ、と漠然と思いつつ、その後通常業務に戻った。
 そして、雨風ともに一時的に強くなったりすることもあったが、台風の進路も東海地区からは離れているため、それほどの緊張感はなかった。築4年目の建物(5階建て)ではあったが、最近、雨漏りの箇所が増え、その対応にも煩わしさを感じてはいたのだが、当日は、雨漏りの症状が無く、ほっとしていたということもある。
 午前11時頃、豊橋駅前の出張所から電話があり、入居している「豊橋西武」が全館停電だとの報告が入る。確かに、風の強さは感じていたのだが、そんなまさか停電になるとは・・・と半信半疑であった。そうこうするうち、職場も11時18分、一時的に瞬時停電、端末機が全て一時ダウン、どうなったんだ、とざわつき始める。瞬時に電気は復旧しており、問題無しと判明した途端、再び停電、今度は完全に電気の送電がストップ、自家発電装置による運転へと切り替わったと知り、この職場での総務2年目の私としては、完全なる未体験ゾーンに突入、不安とまた、興奮の入り混じった状態となる。
 常駐のビル管理の技師や、警備員との連携を取りつつ、状況の把握に奔走し始めたその時、突然、風力が強まったのを確認。建物の南側に3階建ての小学校があるのだが、その小学校の上部の空が、異様に黒ずんだ色をしており不気味さを感じた途端、校舎の向こう側の運動場の上部に様々な何かの物体が左右上下に、それも急速に浮遊、いや飛び交っているのを発見。「竜巻だァ」との叫び声、フロア内の人々は、窓の外を見るため殺到するが、窓ガラスがガタガタと急速に振動しており、野次馬の人々も、さすがに危険と察知、窓からは距離を取らざるを得なかった。時間にして、1,2分だったとは思うが、壮絶な轟音と、まるで映画か、アメリカのニュース画像かのような、無秩序な、人為の及ばない、混乱した光景が窓ガラス一杯に展開していた。何がどうなったんだか全く理解できなかった。このまま、この建物は耐えられるのか、ガラスが吹き飛んだら、それこそ一大事、吹き飛ばないまでも何かがガラスにぶつかったらどうなる・・・・それこそ、不安と恐怖のまま、アワアワとたじろぎつつその光景を見つめていただけであった。
 とりあえず、竜巻が通りすぎ、その後の事態収集を開始したが、駐車場には、板やら、ガラス破片やら、折れた木々の枝やら、家屋の一部と思われるものやら、無残に散乱。屋上に、店の看板が飛んできていたという情報も。窓ガラスの破損、という内線電話が入り、駆けつけたところ、窓の周辺に細かなガラスが砂のように散乱していた。しかし、窓に破損の形跡無く、すぐにそれがどういう状態かは理解できなかった。ただ、窓を動かしてみると確かにジャリジャリと音がする。ガラスとガラスの間のわずかな隙間から、次々とガラス破片のそれも細かな物が、窓がガタガタ振動している最中に入り込んで来たらしい。また、屋外の横断幕は無残に切り刻まれ、竜巻の直撃を受けたと思われる道路を隔てた隣の家々は、屋根瓦が部分的に無くなり、ガレージがひしゃげて平行四辺形になっていたり、ガラスが割れていたりと、被害は見るからに甚大なものであった。

 さて、竜巻の後片付け以外に、停電の応急処置にもてんてこまいであった。非常用発電による場合、電灯もつく場所、つかない場所があり、コンセントも同様であった。総務担当のテレビがつかないため、使用可のコンセントから延長コードで伸ばしてテレビにつなぐことともなった。公衆電話のテレホンカードが使えない、という問い合わせ。トイレの水が流れない。全く電気の使用できない(電灯も点灯せず)売店も、食堂もパニック。ある社員は、溶け出したアイスクリームを大量購入、商品がダメになるのももったいないと、いろんな人に「今のうちに食べて」、と配り歩いてもいた。私もいただいたが、一息ついたときには完全にドロドロの液体状態であり、一気に飲み干した。食堂は、昼過ぎに撤収。売店も撤収しようと思いきや、シャッターが降りないため、閉店するわけにいかない。どうしよう、との話も耳に入るが、電気の復旧を待ってもらうしかない。他の社員の献身的な自発的な働きにも助けられ、駐車場の整理、そして自動ドア、エレベーター、公衆電話などへの張り紙も早期に対応ができた。

 しかし、クーラーが完全に停止状態なのは地獄であった。風雨もまだ断続的に強まるため、窓を開け放つことも出来ない。そして、上へ下への奔走。シャツもズボンも汗でビタビタ(そんな状態での液体アイスクリームは、決してまずくはなかった)。電力会社には電話も通じず、復旧のメドは立たない。焦りが生じる。自家発電用の重油の残量は?1時間約100リットルの使用だとの報告。そして残りは1000リットルを切っている。今夜は当然、残務処理及び、災害対策のため一晩宿直が予想される。とりあえず、タンク一杯に重油を補給する必要がある。直ちに、年間契約をしている最寄りのガソリンスタンドに電話(電話が生きていたのは不幸中の幸い)。しかし、スタンドに重油は無い。本社のタンクローリーを手配しなければならないという。道路の状態はまだ混乱の最中。信号は無点灯。トラックの横転、電信柱の倒壊。時間はかかるだろうとの返答。また、これは建物設計上の問題なのだが、発電機が地下二階にあり、給油口も建物内部、地下駐車場にある。果たしてタンクがそこまで進入できるか。場合によっては、ドラム缶に入れ替えて搬入、注入の可能性もある。その確認をスタンド・マネージャーに依頼。実際に現場に来ていただき、地下の天井が予想外に低いことに驚きつつも、最小のタンクローリーでなら進入可能と判明、そのローリー車の手配を至急指示してもらった。
 午後5時までに、と念を押したが、4時に到着。実は、電気も3時には復旧。事無きを得た。

 まだ非常事態用の仕事はある。災害状況の情報収集、名古屋の本社への報告である。
 私は、とりあえず建物内の措置で動き回っていたが、同時進行で上司が情報収集に当たり、東三河地区の南部地域の状況を逐次把握に努めていた。私も、その補助で、電話、ファックスによる情報の整理を行う。その過程で、豊川市もまた別の竜巻が発生しており、それも我が家の近くをかすって通り抜けた事を知り唖然とする。ただ、自宅へは電話も通じ、問題無しと知り安心をした。午後5時を過ぎ、4時現在の状況の把握を取りまとめ、当番制で回る宿直の班員への引継ぎを行うが、今回の豊橋市内の竜巻が予想以上の被害であることを考え、所長が、総務担当者も1名残る方がよいということとなる。最初は職場から近い、市内在住の上司が、と言ったが、それを部下として「はい、そうですか。お願いします。」という訳にもいかず、私が残留ということと決まった。
 まず、冷やしうどんの出前を頼んで、今夜の体制について話し合おうとしていた矢先、名古屋から電話。豊橋市内の被害の詳細を送れ、と。市役所の災対本部とのやりとりで資料を作成。ファックスで送信。その後、逐次情報を仕入れるべく、その本部に詰めることが出来ないか、と。そこで、私が本部に出向き、消防隊員たちが大勢ごったがえし、市域の地図や、書類の山に埋もれつつ、ひっきりなしにかかる電話応対に追われる、あわただしさの中に飛び入り、本社の指示に従い必要情報を逐次名古屋へ報告。深夜、情報の更新が明朝まで行われないことを確認し自宅に帰る事が許された。

 本日は、その竜巻の翌日、台風一過の素晴らしい青空である。まず昨日の状況を上司に報告。今日は上司が詰めることとなる。ただ、いつどういう状態になるかはわからないので、私は自宅待機である。近くの学校で、運動会でもあるのだろう。カバレフスキーの「ギャロップ」や、ロッシーニの「ウィリアム・テル」などが聞こえてくる。昨日とは、うってかわって幸せな光景である。

 とにかく、自然の前に、人間の存在の小ささを思い知った。この竜巻のあった時間、その場所で直接その竜巻に巻き込まれたのなら、人間などひとたまりもなく吹き飛ばされ、命など簡単に失われよう。人間は、この竜巻を予知することも出来ず、方向を変えることも、消滅させることもできない。突然発生した竜巻から、逃げることもできなかった。人間の作り上げた文明社会は、あっと言う間に破壊され、混乱へと陥る。もろいものだ。ちいさな存在だ。もっと、自然に対して謙虚になる必要はあろう。人間が、自然を支配、改造、などと、のたまおうものなら、たちまち、シッペ返しをくらうにきまっている。
 実は、本日である9/25のショスタコーヴィチの誕生日に向け、ムードを盛り上げるべく今週後半は彼の作品を夜聴こうと思い立ち(今週前半はシベリウスであった。命日が9/20だったので)、早速9/23、なぜか「森の歌」を聴いたところであった。自然改造計画をたたえる音楽。しかし、今、膨大な農地開発による矛盾はカスピ海周辺でも深刻化していると聞く。自然に対する畏怖の念、忘れるべからず(シベリウスの、特に後期の作品群の立脚点はそこにあるのではなかろうか?ともふと思う)。今回の竜巻の教訓は奥深いものがあった。それにしても、昨日は疲れた・・・・・・・・。

ショスタコーヴィチの誕生日を記念する記事として・・・というのはウソですが(1999.9.25 Ms)

 June ’99

6/某日  某K管弦楽団第11回定演、客演指揮者「長田雅人氏」に決定!!

 「今月のトピックス 2月分」において、「オーケストラ・ダスビダーニャ」第6回定演の紹介をしておりますが、まず、そこからの抜粋。

 長田先生のこと

 東海地区の大学オケ出身の私にとって、常任指揮者の長田先生は必ずしも遠い存在ではありません。かれこれ10年ほど前、愛知教育大学のオケでタコ5を振っていたのが先生でした。初めて、バーンスタインの解釈によるフィナーレを生で聴きました。このインパクトは一生忘れられないものです。さらに、愛知学院大学のオケでお世話になった人たちも私のオケに大勢いるようです。是非、いつか東海地区でも、ダスビの経験をもとにタコ旋風を巻き起こしていただけたらなァと考えている次第です。

 この記事を書いてから、わずか4ヶ月、まさかまさか、長田先生がホントに刈谷に来てくださるとは、感激、感謝、生きてて良かった!!
残念ながら、我がオケのプログラムに得意の「ショスタコ」は含まれていませんが、
ショスタコの影響を感じさせる芥川也寸志の「トリニタ・シンフォニカ」はおおいに期待しているところです。ショスタコは、また後日、振ってくださる時があるのなら、是非是非お願いしたいものです。俄然、楽しくなってきたなぁ。

 なお、今回の指揮者決定に至る経緯ですが、長田先生の名前が上がってはいたものの、当初連絡先が把握できず、諦めていたところ、「オーケストラ・ダスビダーニャ」のインスペクターの方、さらには、団長の方のご配慮があって、メール上のやりとりで、先生の承諾も得た上で(素性もわからない私のところへ)連絡先を教えていただくことが出来ました。
 「ダスビダーニャ」の方々の協力なしに今回の定演の成立はあり得ませんでした。この場を借りて、深く深く御礼申し上げます。

(1999.6.19 Ms)

6/10(木)  「清流の私的オモチャ箱」ホームページ開設

 いよいよ、我が盟友「清流」氏のホームページが開設されましたので、ここに紹介します。

 私の大学時代の打楽器の後輩であり、ここ10年ほど、名古屋近辺のオケやら、ギタマンやらのステージで暴れまくってきた盟友であります(ホントに関係者の方々にはご迷惑をおかけしました)。そんな彼も、とうとう最近、本拠となるオーケストラを見出したようです。岐阜なので、なかなか今後演奏を共にすることは少なくなりそうですが(と言いつつ、実は7月にまたまた、もしくは、まだまだ、共演予定だったりして)、ますますの飛躍を期待しているところです。

 さて、拙著「世紀末音楽れぽおと」の共著者でもある彼とは、大学時代より、特にショスタコ始めロシア音楽、シベリウス、ニールセン始め北欧音楽について、夜通し語り合ったものです。また、東海地区ではまだまだ演奏頻度の少ないショスタコの生演奏を求め、上京したことも何度あったことか。
 読売日響、ロジェベンの11番。ソビエト文化省、ロジェベンの10番(オケ名はソビエト崩壊直後で変更されていた。その後このオケの消息は不明。しかし、壮絶な名演だった)。ゲルギエフの8番。そして、ダスビダーニャの13番。などなど。

 そんな、彼との交流から、本は生まれ、また、私のこのHPに見られるような、クラシック音楽に対する少々変わった観点は醸成されていったと言えよう。
 お互いのページが、お互いを補完し合う、そんなページ同士になっていくことでしょう。なにはともあれ、一度ごらんあれ。

(1999.6.12 Ms)

 April ’99

4/24(土)  大野神社祭礼

 10数年ぶりに、私の故郷のお祭りを見に行きました。愛知県東部の山間部、鳳来町の大野という集落(人口1000人ぐらいか)のお祭りです。
 
東大寺の大仏建立の立役者、行基僧正が開山し、また、徳川家康の出生を祈願したといわれる「鳳来寺山」のふもとに位置する、秋葉街道の宿場町として栄えた大野は、律令時代、服部郷と呼ばれ、養蚕がさかんで遠く、伊勢神宮へ糸、布を定期的に献上していたという大変由緒ある土地柄です。
 大野神社の祭礼は毎年4月、2日間にわたり執り行われます。集落の南側に位置する神社と、北側にある天神山(菅原神社)との間を、昼間、山車(我々は屋台と呼んでいる)2台が往復します。夜は、
三河地方特有の手筒花火による奉納、そして打ち上げ花火で大いに盛り上がります。

 土曜日はあいにくの雨、日曜日には仕事の都合で帰らなくてはならず、屋台を見ることはできませんでした。その屋台には、巴連という若衆が乗り込んで、笛や太鼓のお囃子を演奏しながら、小学生たちが綱を引っ張って町を練り進む、という訳ですが、久しぶりに聞いてみたかったそのお囃子、ミソミレ/ミソミレ/ミソラソラ/シーラー・・・という単純なもので、恥ずかしながら私が高校時代、テクノポップに凝っていた頃、その素材も使いながらエスニックなテクノを試作したという思い出のメロディーなのです。マーラー、ニールセンにおける軍楽隊伊福部昭におけるアイヌの音楽と同様な、私にとっての音楽の原風景といってよいでしょう。

 夕方には晴れ上がり、花火は遅れながらも無事行われました。私の結婚の奉納手筒花火も派手に火焔が吹き上がり、一安心。私も田舎に留まっていれば、巴連の一員として、手筒を抱いて火花の雨を浴びていたはずです。よいよい、よぉいやさぁのさーー!!という威勢の良い掛け声とともに火花散らす手筒を見ながら、日本古来からの民衆文化のたくましさを再認識しつつ、いつのまにやら伊福部昭の「交響譚詩」の第1譚詩が心の中を流れていました。同時に連続して打ち上がる打ち上げ花火の音もなぜかしら、交響譚詩冒頭のティンパニの和音打撃をイメージさせ(私には演奏経験があるので余計身近に感じられたのでしょうか)、妙な高揚感を味わった次第です。
 日本っていいよなぁ。

 オーケストラに携わる一日本人として、日本を感じることの出来る音楽ももっと大事にしなければ、紹介していかなければ、とつくづく感じながら、翌日大野を後にしました。

(1999.5.2 Ms)

 March ’99

3/20(土)  N響アワー「本気でスケルツォ」

 今月は残念ながら演奏会に足を運ぶことが出来ませんでしたので、音楽番組の感想でお茶を濁しますが、ご了承下さい。

 さて、交響曲の進化を語る上で見逃せない一つの視点として、ペートーヴェンによる「メヌエットの廃止、スケルツォの確立」があるのは当然のことであり、その進化を彼の交響曲を追いながら確認する作業はなかなか面白い趣向でした。交響曲におけるスケルツォ第1号である、第2番、そして第3番。二つ並べると、第2番が理念の確立をしながらもまだ音楽としての魅力の乏しさを再認識させる一方、第3番「英雄」の凄さが際立っていたように感じます。スピード感、そしてホルン・トリオといった新機軸ももちろんですが、舞踊性という枠をとっぱらって、何か楽天的な人間性を謳歌しているかのような推進力、熱狂性を獲得したこのスケルツォは、ベートーヴェンの交響曲の本質そのものの表現といえるでしょう。
 そして
第9番。巨大性、複雑さ(管弦楽法、形式とも)も目立ちますが、自虐性そして嬉遊性(特にトリオ)が新たに加わり、より人間味を帯びてきたようです。これら、ベートーヴェンのスケルツォによって、スケルツォの可能性は全て開拓され、後続の作曲家たちはその可能性の延長で創作するか、祖先帰りをして舞踊性に立ち戻るか、また、スケルツォという手段を無視するか、いずれかの道を選択しなければならなくなったのです。

 番組では続いて、ブルックナーの第9番、マーラーの第1番を実際に聴き、スケルツォの変容を確認していましたが、ちょっとがっかりでした。ベートーヴェン後のスケルツォを語るにはあまりに一面的過ぎる選曲ではなかったでょうか?ベートーヴェンに比べ速度を落とした「鈍重なブルックナー」が、ベートーヴェン後の重要なスケルツォ作家であったという説明は解せん!
 重厚なスケルツォも確かに、舞踊性を捨てたからこそ可能になった人間性の表現ではあるが、すでにベートーヴェンが第5番で提示した方法に過ぎず、ブルックナー独自のスケルツォとは言い難いように感じます。また、マーラーもあえて1番というのも、物足りない、もっと他の曲があるではないか、と思ってしまいました。

 まぁ、ようは、ベートーヴェン以後の最重要なスケルツォ作家はショスタコーヴィチなのに!という思いが高まるだけだったという訳です。
 時間制限があるからしょうがないとは言え、全国の方々に以下の作品を聞いていただきたかったのです。
スケルツォがフィナーレにまで出世したタコの第6番、あるいは、肯定的な人間性の表現から一転して、強暴な非人間的な独裁者の肖像としてのタコの第10番、これらこそがベートーヴェン後のスケルツォ最重要作だと私は信じています。

 さて、私なりのベートーヴェン後の選曲としては、例えば前述の3通りの道を紹介すれば、延長上なら、ブルックナー、マーラーでも結構だが、舞踊性ならドヴォルザークのスラブ舞曲的スケルツォ、チャイコの第5番のワルツ。無視した例としてブラームスの第4番以外のもの。そして最後に究極の進化の例としてタコを挙げておきたいと思います。
 また、他にも、スケルツォが重要な位置を占めるものとして、チャイコの第6番、マーラーの第5番などが欠かせないと思われます。

 たかが、スケルツォ(冗談)のくせに、ここまで本気に熱狂した私は一体なんなんだろう?
 スケルツォにウェイトを置いたベートーヴェンやショスタコーヴィチと同様な精神性が私にも存在する、ということなのだろうか?

(1999.4.10 Ms)


某K市民管弦楽団第11回定演

Msの感想など一言

 自分の所属団体の演奏の感想というのも、なかなか客観的に鑑賞できないこともあり、難しいものである。しかし、今回、団員となって初めて、メインプロが降り番ということもあり、ブラームスの1番に関しては、ある程度、聴衆として鑑賞した感想が書けそうなので少しばかり書いてみよう。

 この作品で、私の最も好きな場面、かつ、重大な局面こそ、第4楽章の序奏の後半部、アルペンホルンのテーマの出現の場面である。第1楽章そして、第4楽章序奏の悲劇性をティンパニが否定した後、明るく朗らかな光景が広がる・・・・・あの感動的場面・・・・・それが、素晴らしくうまく決まった!!!
 先行するティンパニのトレモロも、最初の一打が強烈にズドンとはまり(隣の客が、決して寝ていたわけではないが、その瞬間、体が全身ビクリと大きく動いたのも納得!)、客の耳を充分ステージに集中させて準備万端、しびれるような朗々としたホルンソロ(細身な奏者だけに私も心の中で応援することしきり)、そして、それを受ける清々しいフルートソロ・・・・ここで一気に視界が360度以上開ける。決して、この部分、迫力ある、オーケストレーションの厚い部分では全然ないが、広々とした、スケールの大きさを感じさせる。暗く救われない音楽が一転して、幸福絶頂に至るこの劇的な転換がとにかく素晴らしかった。アルペンホルンというイメージが強いせいか、山の絶頂、頂点に立って遥か彼方まで見渡すかのような優越感。奏者も当然、その優越感に浸っての演奏だろう。聞き手の私まで、絶頂感、優越感があふれ出る。あぁ、生きてて良かった、という感じを音楽にすると、こんな風なんだなァ、としみじみ思った次第。
 また、このホルンとフルートのいわゆる
「愛の挨拶」(ブラームスとクララ・シューマンの実らぬ恋愛劇!の心理的代償措置だ・・・・長田先生も演奏会当日の最後の練習で、アンコールのエルガーの「愛の挨拶」をやりつつ、そんなマザコン恋愛の説明をしていたなァ)が、ばっちりきまったからこそ、アンコールのエルガーの「愛の挨拶」が違和感無く導入できたという側面も見逃せないだろう。

 トータルな感想としては、奏者みんな伸び伸びと自由にやっていたなぁ、という点か。とかくブラームスというと、渋い、堅苦しい、重苦しい、真面目過ぎというイメージが付きまとうが、そんな面持ちは、おかげとあまり感じられなかった。その辺りは、私もある程度想像はしていたのだ。パンフレットの表紙に、お馴染みの髭モジャな中年ブラームスと、かわいい雰囲気を残した20歳頃のブラームスの肖像を2つ使ってみた。ようは、ブラームスの1番、妙に分別がましい説教のような、中年の音楽の如く演奏を目指すのが主流ななか、あえて、作曲開始がうら若き20代前半、という点に聴衆も気づいてほしかったのだ。そして、演奏も、それを思わせる、がむしゃらで、がんばってます、と言い訳しているような血気盛んなものであったのだ。案外、この作品の若さ、というのはもっと意識しても良いのでは、と思っている。微笑ましかったなァ。
 さて、そんな伸び伸び感を盛んに演出していたのが、木管群であったように思う。特に、先ほどのフルート、オーボエ、そして極めつけがクラ。さしずめ、今回のブラームスは、それら木管三本のための、
トリプル・コンチェルトですらあったのかもしれない。
 ただ、そこで難しいのだな、と感じたのが、クラのバランス。
 オケに何故、サックスが定着しなかったか、という理由に、最新の近代楽器故に、音を出す効率が良く、古くからある(特にダブルリード)楽器とバランス取るのが困難だった。というような話がある。それを思い出す。クラもオケの木管では歴史的に最新鋭の楽器で、ようは鳴りが良いわけだ。聴きなれた演奏とかなり違った印象を与えるのに、このクラのバランスが与えた影響は大であった。特に私が狂喜したのが、第4楽章展開部の最後のクライマックスで、ホルンとの威圧的なオクターブで、クラがホルンを掻き消す勢いで鳴り響いたこと。もう、これは私としては触れざるを得ないネタである。何となく、通常の演奏との違和感を思ってはいたのだが、そこへ来てはっきりと理解した。高音のクラの音色、
Esクラ的音色が常にオケの中で目立つ・・・・・なんとショスタコーヴィチのオーケストレーションではないか・・・・・まさか、ブラームスの中にショスタコーヴィチを感じさせてくれるとは・・・・・。ショスタコのサイトを運営する私としては、是非とも取り上げておかざるを得ない発見だった。あえて交響曲にスケルツォを置かなかったブラームスに、あえてスケルツァンドな風味を加味させるとは・・・心憎い演出だ。ショスタコーヴィチのエキスパート、長田先生ゆえの選択(それを許可すると言う意味で)でもあったのか?
 
 さて、そんなクラでありながら、肝心の芥川のクラはショスタコーヴィチ的ではなかったのが惜しい。さらに、特に弦楽器の重厚なブラームスと比べて、若き芥川の勉強不足なオーケストレーションをまざまざと見せつける、
妙に正直な演奏だったと思う。そんな、スコアの欠点をフォローするという観点がいまいち不足していたとはいえ、刈谷の聴衆にとっては、そんなことは枝葉末節なのだろう。聴衆のアンケートによれば、「初めて聴いたがとてもいい曲だ」という意見が結構あったのは嬉しい。知られていない作品だけに、聴衆が演奏の欠点をフォローしてくれる、という側面はあったのだろう。ブラームスではそうはいかないねぇ。平成大不況の真っ只中のカンフル剤としての当曲の役割を認識してくれた感想などもあって、充分健闘したと言えるのではないか?
 ただ、賛否両論の、ティンパニを食ってしまった大太鼓も口惜しいし、速度が本来の速さまでもっていけなかった、というオケの力量不足も悲しかったが、ま、それを否定した、また非難した聴衆の意見も聞かれないのであれば、まぁ許される程度の範囲だったということか。良しとしておこう。

 しかし、エルガーはどうだろう。指揮者の意図は、最初の来団の時の、アラルガンドは最後のトリオで1回だけ、そして全体として速度はかなり速く・・・・という斬新な、颯爽たる物ではなかったか。それが、奏者達には浸透せず、練習のたびに、聞きなれた自分達の速度、感覚で演奏を固め、結局、指揮者が自分の解釈を諦めざるを得なかった、と私は聞いている。
 我がオケは、独裁を許さぬ民主的運営を標榜する。
(実際、個人プレーな人々は、放逐されるか、もしくはケンカ別れして行った。)弱肉強食的な競争社会、または、プラトン流哲人政治を否定する社会主義的平等、公平の概念を私は想起する。とするなら、このエルガーの演奏は、まさしく理想的な社会主義(あえて言おう。ソ連、中国のプロレタリアート独裁などとは違う、純粋理念としての社会主義である)的な発想に基づき、指揮者<資本家>の独創(あえて「独走」ではない)を許さず、無言のままに、大多数の奏者<労働者>の総意を守り通したという快挙だったのか?いわゆる大衆民主主義の勝利なのか?

 などと空想するうちに、社会主義的管弦楽団などという発想が私を襲う。オケとは、こんなスローガンがお似合いな団体ではないか。

みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために。

 やはり、オケは自由主義ではなく、社会主義なのか?

 なんだか、まったくとりとめのない文章になってきたな。全然まとまってないや。
 ただ、言えるのは、実は私は、こんな社会主義的なオーケストラの理念を実践せんがために、是非とも
「ショスタコーヴィチ」を我がオケも取り上げたらどうだろうか?と考えているようだ。もう、今回の演奏会で、その下地は、無意識の内に、みなさんに浸透しているのでは・・・・?ホントかいな。ますますまとまってないな。

 最後に、冷静な聴衆から伝え聞いた感想として、奏者が他人の音を聞いていない。合奏練習不足。一人よがりが多すぎる。というものもあった。私も含めて充分心したい点だ。
 私自身、妙に内向きな、固めに入った演奏より、外向きな、「びっくり箱」のような演奏の方が、アマチュアらしさかなぁとも思い、楽しく聞けるのだが、世の中の趨勢は決してそうでもなく、
秩序、まとまり、こそをオケという団体にはシビアに求めるもの。その点についての配慮をもう少し意識したところに、さらに説得力ある演奏があるような気がする。曲がブラームスだっただけに、そういった期待に対しては、私達の演奏は、聴衆のとある層(シビアな聞き手)を裏切ってしまったと言えるのかもしれない。その辺り、オケのカラーだ、と言ってしまうのも手だが、その意識も曲に応じて臨機応変に使い分けをしなければならない、とも言えないか?曲によって、「びっくり箱」も許される範囲はいろいろ違ってこよう。

 何にしても、今回の演奏を次の演奏にうまく生かしていかねばなるまい。団員の皆さん、お疲れ様でした。が、一度冷静に自分達の演奏に耳を傾け、お互いに意見をぶつけあうのも大事なことですよね。
 最後に、それにしても観客動員300人台なのは、淋しかったねえ。ただ、愛知県の年間の交通事故死亡者とほぼ同じ数と見れば、結構多いとも言える?

(1999.11.19 Ms)