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スカーレット・ウィザード番外編

【The Ghost】


VII.《嵐》−3

 軽い足音が並んで階段を降りていくのを耳にして、ヨシュアはため息をついた。横になっているジ
ェーンを見下ろす。
「......具合はどうだ?」
 鎮痛剤が効いて痛みが収まってきたのか、ジェーンは楽そうに息を吐いた。
「だいぶ楽になってきた......。まったくこんなのは初めてだわねえ。お産の苦労なんてこれに比べ
りゃ天国みたいだよ」
 返事を期待したかのようにジェーンは夫の顔を見上げたが、ヨシュアは黙っていた。
「ヨシュア?」
「ん? ああ......」
 立ち上がると、鎮痛剤をベッドサイドテーブルに置き、ゆっくりとした動作でまたベッドの脇の椅
子に腰掛けると、ジェーンの顔を覗き込んだ。
「なあ、ジェーン......」
「......なに?」
「おまえ、あの熱帯ジャングルにいた頃は、こんなのはなかったんだな?」
 ジェーンはまじまじと夫の顔を見つめたが、それはあくまでも無表情に近いものだった。
「ないわねえ。借金の苦労で胃痛は起こしても、こんなんじゃなかったし」
 ヨシュアは身を屈め、両肘をベッドについて両手を組み、親指で顎を支えた。
「......さっきな、おまえから採血したろう? あれで《引き網》の医療脳に分析をさせてる。こん
な村の薮医者よりはよっぽど物知りだからな」
「そうねえ」
 ジェーンは苦笑した。「まぁドクターも悪い人じゃないけど、もともと獣医だしねえ」
「......あんまり考えたくないんだがな......」
 ヨシュアは一瞬くちごもったが、あきらめたように言った。
「おれが気にしてるのは、キシエクの風土病だ。あそこはよその星どころでなく人間の肌に合わない
場所だったし、今年の天候が気に入らん」
 ジェーンはぎょっとした顔になった。「......ヨシュア」
「こんな辺境じゃ、薬を取り寄せるのにも時間がかかるからな」
「ねえ、あの子は大丈夫だろうね?」
 太い腕をジェーンは掴んだ。「あの子までこんな痛い思いをさせたくないよ、あたしは」
「たぶん......大丈夫だと思うぞ」
 いささか心許ない口調だった。
「予防接種は降りるたんびにさせたし、宙港の船やホテルから殆ど出さなかったじゃないか。出るの
はおまえが非番の時に迎えに行くくらいだったし」
「検査は? しておいてやってよ」
「......ああ、そうだな」
 腕をほどくと、ジェーンの腕を掴んでベッドにいれてやる。
「まぁともかく、まずはおまえの具合が第一だ。首都の病院に行ったほうがいいだろうし、場合によ
っては星系外に出たほうが早いかもな」
「......せっかく、農場もなんとかなってきたところなのに。情けないったら......」
 ジェーンは唇を噛み締めた。「......ごめんよ、ヨシュア。あたしはやっぱり疫病神かも......」
「なぁに馬鹿なこと言ってやがる」
 陽気な声を出してみせた。「おまえはおれの自慢の、美人で気立てのいい働き者の女房で、デイジ
ーの大事な母さんだぞ?」
 立ち上がりながら顔を覗き込んだ。
「ちゃんと寝てろよ? とにかくおれがなんとかしてやるからな」
 そのまま軽くキスをしてやると寝室を出て階段を降りる。
 食卓ではケリーとデイジーがひそひそと話をしていたが、ヨシュアの足音で話を止めて振り向いた。
「父さん! ......母さん、大丈夫?」
 心配のあまり引きつった声でデイジーが訊いた。食卓の上には使った皿と一緒に、黄ばんだ家庭用
の医学書が広げてある。
「ああ、今のところは痛み止めが効いてるからな」
 どっかりと椅子に座ると、空の大皿を見る。
「腹ぺこの父さんにもなんか食わせてくれよ、お花ちゃん」
「あっ、うん!」
 台所に向かったデイジーの背中を見送ると、ちらりとケリーを見た。
「なに話してた」
「腹痛であんなに痛がる筈もないからなんだろうってさ」
「ふん。もしかすると《引き網》を引っ張りあげる必要があるかもしれん。そんときは手伝え」
 ケリーは目を丸くしたが、口を開く前にデイジーが皿にサンドウィッチを作ってきた。
「父さん、それで母さんをどこのお医者に連れていくの?」
 娘の顔を見もせず、ヨシュアは皿からひと切れ取り上げた。
「......まだ決まってない。デイジー、当分な、母さんには栄養があって胃が受け付けやすいスープ
とかおかゆとかを作ってあげないとな。おまえ、作れるかな?」
「う、うん」
 あやふやな表情でデイジーは頷いた。「たぶん......大丈夫」
「じゃあ、作っておいてくれ。父さんはまたちょっと出てくるからな。ケリー、おまえもついて来い」
「えっ、そんなぁ」
 心細い声をデイジーがあげた。「あたしがご飯作ってる間、ケリーに母さんのそばにいてもらって
ちゃ駄目?」
 ヨシュアはケリーに視線を投げたが、それに対してケリーも不機嫌な顔で頷いた。
「しょうがねえな。じゃあ、出来るだけ早くケリーは用事をすまさせるからな」
 残っているサンドウィッチを手早く腹に収めると、ヨシュアはケリーを急き立てて家を出た。村に
向かう道を歩き出したが、すぐに横道に逸れた。
「どこ行くんだ?」
「《引き網》んところだ」
 ケリーが立ち止まるのを気配で察して、ヨシュアは振りかえった。
「なにしてる」
「《引き網》って......宇宙船引っ張りあげてどうするんだよ?!」
「まだ引っ張りあげるとは決まっちゃいねえ」
 ヨシュアは再びさっさと歩き出した。
「さっき、検査をセットしてきたからな。ぼちぼち結果が出るだろう」
「検査?」
「あんな薮医者なんぞよりは、《引き網》の医療脳のほうがよっぽどまともだ」
 その後にケリーはぴたりと着く。
「じゃあ、なんでおばさんを運ばないんだよ?」
「村の連中の目がある。一応な、あれがあるなんてのは村の連中は忘れてるはずだが、寝た子を起こ
すとか、薮から蛇をつつき出すような真似はしたくない。ここの連中は、自分たちのご先祖様が何で
この星に来たのか忘れてるくらいに浮世離れしてやがるんだ」
「......ふうん」
 崖を降りる時にヨシュアは用心深く周りを見まわし、素早くケリーともども船に入りこんだ。
「お帰り・なさい、マスター」
 ドアが閉まると同時に《ファラウェイ》が声をかけてきた。
「検査の具合はどうだ、《ファラウェイ》」
「あと5分で・完了です」
 医療脳のある医療室のドアがスライドする。ケリーにとっても義眼を入れた場所でもあるから知ら
ない部屋でもない。      キティ 「さてと。子猫ちゃん、どんな具合だ?」
「タダイマ、サイシュウ・チェックチュウ・デス。......ケンサケッカ、デマシタ」
「おうよ」
「ケンタイカラ、こるでぃせしす・きしえきのうすノ・ハンノウガ・ミラレマス。ゲンザイ・れべる
4・デス」
「......なんだって? もう少しやさしく説明しろ」
「トウチュウカソウノ、ジンタイ・キセイたいぷ・デス。ケンエキこーどデ・Aらんくニ・シテイサ
レテ・イマス」
 ヨシュアは返事をしなかった。
 ケリーは振り向いたが、見上げた顔は引きつっていた。
「ヨシュア?」
「......なんだと......?」
「クリカエシマス。ケンエキこーどデ・Aらんくニ・シテイサレテ・イマス。サッキュウナ・タイシ
ョガ・ヒツヨウデス。ゲンザイ・れべる4デス。カコノデータ・デハ、ハツガ・ダンカイハ・れべる
6デス。サッキュウニ、カクリ・オヨビ・シンチョウナ・ケイカカンサツガ、ヒツヨウデス」
 ヨシュアの顔色は真っ青だった。
「......レベル4だと? 薬は?!」
 掴みかからんばかりの勢いに、医療脳は機械特有の生真面目さで対応する。
「ゲンザイ、コノダンカイデノ・チリョウヤクハ、ソンザイ・シマセン。ゲンザイ、ニュウシュ・カ
ノウナ・チリョウヤクハ、タイ・れべる2マデ・デス」
「ヨシュア!」
 医療脳のとんでもない台詞にケリーはパニックに陥りそうだった。
「なんだよ、その、コルディなんとかってのは! と、『とうちゅうかそう』ってなんだよ! それ
じゃあ、おばさんの薬は......」
 ヨシュアの、視線だけでもこちらを殺せそうな目つきに言葉が途切れる。
「......レベル6で子嚢を開くのか?」
「いえす。シボウハ・れべる5デス」
「......時間的にはどうだ?」
「きしえくデノでーたデハ、1シュウカンデ・れべる5ニタッシ、3ニチデ・レベル6ニイコウシマ
ス。コノワクセイデノ・キコウでーたデハ・フメイデス」
「検疫コードAランクってこたぁ......簡単に取り付くのか?」
「いえす」
「......検疫はどうなってる」
「ヤドヌシヲ・ガイブカラ・カンゼンカクリゴ、ハツガマエニ・ショウキャクショブン・デス」
「......レベル4での感染は?」
「アリマセン」
「......わかった。データを管理者レベルで保存しておけ」
「リョウカイシマシタ」
 ケリーの肩をむんずと掴むと、ヨシュアは黙ったまま医療室を出た。一瞬足の向く先が止まったが、
そのまま船首の方に向かう。
 ケリーの見たヨシュアの顔は、今まで見たことのない表情だった。ぐいと下げた口許がぴくぴく痙
攣している。顔色は、日に焼けて赤いはずなのが斑になっていた。
 居間にしている部屋に入ると、ヨシュアは手を離したが、そのままテーブル脇の椅子にどさりと腰
を下ろした。どうしたらいいかわからないケリーが立ち尽くしたまま見つめていると、彼は背中を丸
めて顔を覆った。大きく肩で息をしているのがわかる。
(もしかして、おっさん、泣いてるのか?)
 取り止めもなく、そんな思いがケリーの心に浮かんだ。この男が泣くだなんて、全然想像もつかな
い。いつも陽気で機嫌がいいし、尊敬したくなるほど度胸だってある。
「......ヨシュ......」
「ああ、考えがまとまりゃしねえ」
 唸るように言ったヨシュアの声に、ケリーの声は途切れた。
「さて、困ったもんだ」
 両手で顔を押さえながらヨシュアは独りごちた。
「ジェーンに言うか、言わないか。なあ、ケリー」
 気弱そうな笑みを浮かべながらヨシュアは顔を上げた。「おまえはどう思う?」
「そ、そんなこと言われたって......」
 ケリーは困惑した。「俺だって、こんなこと経験したことないし......」
「おまえの仲間は、病気で死んだりはしなかったのか?」
「う、うん」
 頷いた。「病気って言ったって、怪我がもとで熱出したりとかだし、たまに食い過ぎで腹壊した奴
がいたくらいだし」
「そうかぁ......」
 男はため息をつくと腕を組んだ。
「ヨシュア、あのさ......」
 なんとなく、話しづらかった。「......おばさん、結局......どうなのさ......?」
「結局? 結局......そうさなあ」
 苦い笑いを口許に浮かべる。「つまり、あいつは死病にとりつかれちまったってこった」
「死病?」思い出した。「なあ、『とうちゅうかそう』ってなんだ?」
「ああ、カビとか茸の一種でな、生きてるやつに取りつくんだ」
 ヨシュアはため息をついた。「普通な、虫の死骸にカビとか生えるだろう。生きてる奴には取りつ
かないだろ? ところがたまに、生きてる奴に頑張って取りつくやるがある」
 ケリーはヨシュアの向かい側の椅子に座った。
「木にくっついてる草みたいな奴とは違うのか? ええと、ヤドリギとかっていうんだっけ」
「あれは、タネからの植物だ。冬虫夏草ってのはな、冬の間は虫なのに夏になったら草になった、と
いう姿からそう言われるんだ。実際は、いつのまにか昆虫の身体に胞子が入り込んで、ゆっくりと菌
糸を伸ばして、宿主の中に菌糸の根っこを生やして養分にしちまうんだ。養分にされた虫は、吸血鬼
に生きながら血を吸われるのと同様に、生きたまんまミイラになって最後は取り殺される」
 ヨシュアは肩をすくめた。
「昔はな、虫に取りついても人間にまで取りつくやつはいなかったんだ。それが宇宙は広くてな、人
間も餌にする茸とかシダがあったって訳だな」
 ケリーはあっけに取られた。「それが、さっきのなんとかいう......」
「そういうことだ」
 忌々しそうに頷いた。
「あいつが昔働いてた星がな、熱帯性気候の、そりゃあ地獄みたいな場所だった。そこは、生きてる
人間を餌にする虫も山のように居た。わかるか、皮膚を食い破って体内に潜りこむんだぞ?」
 一瞬、その情景を想像して、ケリーはげげっと悲鳴を上げた。
「き、気色わりぃ......」
「食虫植物の馬鹿でっかい、それこそ人間だって丸のみにするようなやつもいた。熱病も勿論だ。そ
して、一番怖がられてるのが、ジェーンがかかっちまった病気だ」
 吐き出すような口調だった。
「カビとか茸ってのは、適度な湿気と適度な温度があれば、いくらでも増殖するだろ? 今年の雨だ
らけの夏ってのが最低だったんだ」
 それきり、ヨシュアは黙り、ケリーも黙り込んだ。
 2人とも目を合わせず、ケリーはジェーンの「病気」というものについて考えようとしたが、どう
考えたらいいのかすらわからなかった。だが、ジェーンの顔に続いてデイジーを連想し、はたと気が
ついた。
「あのさ、ディーに言わなくちゃ駄目じゃないか?」
 ヨシュアはのろのろと顔を上げ、まじまじとケリーの顔を見つめてきた。「......なんだと?」
「だから、ディーにおばさんの病気の説明を......」
「馬鹿野郎っ!!」
 ヨシュアは部屋中にわんわんと反響するような咆え声をあげた。
「そんなこと、あいつに言えるかっ!」
「な......」
 絶句した。「じゃ、じゃあ、ディーになんて言うんだよ! おばさん助からないのに助かるって嘘
をつくのか?!」
 ぐっと詰まった表情のヨシュアにさらに言い募る。
「騙すのかよ! ディーのことを騙すのか? 俺、そんなのイヤだ! 俺、俺なんか、今だってディ
ーに嘘ついてるのが辛いんだからな。それにディーだって知るべきだ! 家族なんだから!」
「......あいつが悲しむじゃねえか! ショック大きすぎるぞ!」
「俺だって、仲間死んで悲しくてショック大きかったぞ! でも耐えたんだ! それに『外』の連中
に騙されて戦争させられてたのなんか、わかった時にめちゃくちゃ悔しかったんだ! それ考えたら
ディーをおばさんの病気のことで騙すなんて、俺自身を許せるもんか!」
 歯噛みして言うケリーを見て、ヨシュアはしばらく黙ったが、しかしゆっくりと首を振った。
「......駄目だ」
「どうしてだよ!」
「喚くな。......あのな、そういう意味で言うと、おれたち夫婦の子育ては間違えたかもしれん。だ
がな。実際のところ、あいつはまだ子供だ。おまえに比べてもずっとガキだ。精神的にもな」
 父親はため息をついた。
「大好きな母親が死ぬってだけでもショックなのに、それがとんでもなく凶悪な寄生病で死ぬなんて
言うのは、事実だとしても今は教えられん。もっと母親の死そのものに耐えられるようになる、ずっ
と後になってから知ったほうがいい。それにな、このことがうっかり村の連中に洩れたら、もっとひ
どいことになる」
 やおらヨシュアの口調が厳しくなる。
「いいか、ジェーンが死ぬのはともかく、この病気のことは絶対に洩らすな。村中がパニックになり
かねん。生物兵器同様の病気なんだ」
「生物兵器?」
 その言葉にケリーの表情も硬くなる。「そうなのか?」
「医療脳の台詞を聞いてただろうが。ジェーンが死んだら菌糸は胞子を撒ける形になって、あいつの
死体を苗床にして他の生物に広がっていくんだ。死んだ身体は焼却するしかないが、それだってうち
の一家を胡乱な目で見させる原因になる。で、原因がアレだとわかってみろ」
 医療脳のある部屋のほうを指差した。
「うちは完璧にあっという間に破滅だ」
「......でも、それでディーに内緒に?」
「知らなければ秘密は洩れようがない。秘密は知ってる人間が少ないほどいい」
「......わかった」
 その部分はケリーから見ても理にかなっていたので、彼もしぶしぶ頷いた。
「じゃあ、なんて言うんだよ」
「そうだな......悪性の腫瘍とでも言っておこう。進行が早いタイプでもう手遅れなんだと。腫瘍な
ら伝染はしないから、問題はない」
「......そういうもんか?」
「そういうもんだ。いいな、腫瘍だぞ、そうデイジーにも村にも通すから、そのつもりでいろ」
「......おばさんは?」
「しかたないから、おれが事実を教えるさ。死ぬ当人だしな。あと、適当な理由を考えてデイジーの
採血検査をしなくちゃならん」
 ケリーはぎょっとした。「なんで?」
「あいつもその星にいたことがあるからさ」
 そこで男は両手を振ってみせた。
「もう質問はごめんだ。情報はやったんだから、あとは自分の頭で考えろ。おれは医療脳に痛み止め
作らせて帰るから、おまえはもう帰ってろ。適当にごまかしとけ。いいな」
 呆然としているケリーを追っ払うように手を振った。「帰れ、とっとと。ほれ」
 なんとなく面白くなかったが、それでもケリーはおとなしく帰る事にした。死にかかっているジェ
ーンと、なにも知らないデイジーを2人だけにしておくのが心配だったからだ。溜息をつきながら家
のドアをあけるとスープのいい匂いがした。
「ただいま」
 台所を覗くと、デイジーが鍋から顔を上げた。「あっ、おかえんなさい。父さんは?」
「うん、まだ用事がすまないから俺だけ先に帰ってきた。......美味しそうな匂いだな」
「母さんがジャガイモのスープを冷たくしたの食べたいっていうから、作ってみたの。ねえ、これを
冷ましたら大丈夫よね?」
 味見用に小皿にすくったのを舐めてみる。
「うん、いいんじゃないかなあ」
「じゃあ、これ、冷ましちゃうね」
 いそいそと火から下ろして働いているデイジーを眺めていたが、
「......俺、おばさんの様子見てくるよ」
 ぽつりと言うと台所を出た。
 ドアをノックして部屋を覗くとジェーンは枕から頭をあげてこちらを見ていた。
「......ケリーかい」
 枕に頭を戻すジェーンを覗きこんだ。「具合、どう?」
「今はまだ大丈夫だよ。......どうしたのさ、しょんぼりして」
 ゆっくりと伸ばされた手を掴んでしげしげと眺めた。
 普通の、日に焼け、作業でがさがさに荒れている手だった。これがなにやらカビの類にどうこうさ
れているとは到底思えない。
「......あたしの手がどうかしたかい?」
 不思議そうな声にはっとして顔を上げた。
「いや、なんでもない。......おばさんの手って俺の手と似てるかなってさ」
 自分の手も広げて見比べてみる。自分の手がデイジーの手よりも大きいことは自覚していたが、ジ
ェーンとどこか印象が似ている。
「あんたの手は指が細くて長いんだよ。ヨシュアの手なんか、がっちり骨太で丸くてねえ。あれは百
姓の手だね。あたしの手は、掘削機械いじりだけの鉱夫の手だから細いんだよ。あんたはやっぱり武
器とかの細かいものを操りやすいように細いんだねえ」
「へえ」
 そんなふうに言われたのは初めてだった。
「なんて顔してるのかねえ」
 微かに含まれた笑いに顔を上げた。「なに?」
「まるで迷子になった子供みたいな顔してるよ」
 するりとジェーンの手がケリーの手から抜けて頬に当てられる。           かお 「あんたでもそういう表情するんだねえ」
 普段なら「俺のこと、泣き虫かなんかと勘違いしてないか?」と膨れっ面をしているところだった
が、今のケリーにはそんな余裕はなかった。
「.....俺、そんな顔だった?」
「そうだよ。初めて家に来た時に不安な顔してるんだったらまだわかるけど、あの時はなんでもかん
でも噛みついてやるって顔だったしねえ」
 目を閉じて思い出す表情だった。
「ほんと、あっという間に1年が過ぎちまって。あんたのやりたいことは、うまく進んでるかい?」
 まるで勉強かなにかのようにさりげない訊き方だったので、ケリーはあやうく簡単に返事をすると
ころだった。
 黙っているケリーの顔をジェーンは気遣うように見上げてきたが、それに、ちょっと皮肉っぽい笑
みを返す。
「......内緒かい?」
「うん」
「そうだね。でも、困った時はちゃんとあの人に相談しとくれよ。あたしはなんにもしてやれないけ
ど、ヨシュアなら大丈夫、きっとあんたの力になってくれるからね」
 そう言ったジェーンの笑みの弱々しさに、ケリーはもう耐えられなかった。
「ディーがさ、ス、スープ作ってるはずだから」
 がばっとたち上がると宣言するような口調で言う。「俺、様子見てくるよ」
 そのまま階段を駆け下りると、デイジーが驚いた様子で顔を出した。
「ケリー、どうしたの? ......母さん、具合悪いの?!」
「ち、違う、大丈夫だよ」はっとして態度を取り繕う。
「おばさん、スープ待ってるよ」
「うん、今持っていくところよ」
 スープ皿とスプーンをのせた盆を持って緊張の面持ちで頷く。
「ドア開けるの手伝ってくれる?」
「ああ」
 先にデイジーを上がらせながらケリーは緊張していた。ドアを開けた途端にまた逃げ出したくなっ
た自分を、内心叱咤激励しながらまたベッドに近づく。
「起きられる?」
「......大丈夫だよ」
 背もたれ代わりに枕やそこらへんのクッションを積み上げ、デイジーが盆を起き上がったジェーン
の膝に載せたところでケリーは部屋を出た。独りになりたくて階段を上がって部屋に入る。
 むっとする熱気が充満した部屋に入るととたんに汗が噴き出してきた。
「......」
 ケリーは部屋の真中に立ち尽くしていた。
 破壊工作の後のような熱気が身体を思いきり殴ってくれるようで気持ちよかった。何も考えたくな
い気分だった。


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