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スカーレット・ウィザード番外編

【The Ghost】


IV.《寧日》−1
 荒野は日差しが強かった。
 爽やかな空気とは言え、真夏である。ケリーの額に縛られたバンダナは汗に湿っていた。
 崖地の下にはむき出しの赤い大地が広がっている。視界のもっと先に彼が生まれ育ち、仲間と過ご
したあの戦場があるはずだった。
「ケリー?」
 遠くで呼ぶ声がする。「どうしたの? 疲れちゃった?」
 名残惜しく見渡すと歩き出す。
 崖を降りる斜面の脇にデイジーが待っていた。
「すごく広いんだなあと思ったんだ」
 振りかえる。そう。こんなに広い平原のほんの200キロのエリアで彼は血みどろの戦いをやって
きたのだ。顔を戻すと麦藁帽子の下のデイジーに微笑した。
「俺、こんなに高いところからこんなに広い場所を見下ろすなんて初めてだから」
「鳥になって飛びたい気分でしょ?」
「うん。ディーもそんな気分?」
「うん。パラグライダーとかポータブルジェットとかが欲しくなっちゃうのよ、ここにくると」
 二人で崖を見下ろした。高さ10mほどだろうか。断崖絶壁というほどではないが、少々足掛かり
が少なそうだった。下はどうやら湿地らしい。
「こんなところ、本当に下りる気か?」
 ケリーは半信半疑で言った。「これだったら、迂回したほうが良くなかった?」
「だって、下はもっと裂け目が幅広いのよ。ずうっと迂回するのよ。このあいだはそれで苦労したの。
だから」
 丘かと思って登ってみたら、なんのことはない、崖に余計な高さを付け加えたようだったが、デイ
ジーはけろりとして言った。
「それにね、下の裂け目のところは沼地だから、蛭とか水蛇とか居て、恐かったんだもん」
 ケリーはため息をついて背嚢からロープを出した。もしやと思って装備を充実させたら役立つと言
うわけだ。
「ディー、俺が上で支えてるからこれで降りろよ......って、おい!」
 後ろ向きにさっさと降りだすデイジーに慌てた。「ディー、危ないってば!」
「平気平気。落っこちても泥だらけになるだけよ」
 覗きこむとデイジーは器用に足掛かりを探りながら下りていく。こんな場所、俺だって訓練でも下
りたこと無いんだぞ、と思いながら見守っていると、がらがらと土が崩れる音と「きゃっ」という悲
鳴が聞こえた。
「ディー?!」
 岩陰になって見えなかったがどうやら落ちたようで、ケリーは慌ててうつぶせに身を乗り出して下
を覗き込んだ。
「ディー?!!」
「いったぁい」
 べそをかく声が聞こえた。「手、すりむいちゃった」
「怪我は?!」
「平気よ。下はクッションみたいに柔らかいから。ケリーも降りてきて大丈夫よ」
 心臓に悪いじゃじゃ馬ぶりだ、とケリーは憮然としながら崖を降りだした。崖は所々が風化して崩
れやすくなっている。2,3度足許が崩れかかったが、なんとか降りた。
 デイジーは尻餅をついたのか、ズボンの尻の部分が土まみれだった。
「帰りはこの道、どうやってたどるんだよ」
 崖を指差した。登るのは至難の技としか思えない。
「行きと帰りはルートが違うの」
「こら」
 思わず拳骨で頭を軽く叩く。「そういう道でいいんなら、どうしてこんな危なっかしい道を通るん
だよ?」
「だって、ケリーにあの風景見せたかったんだもん」
 口を尖らした。「あんなふうに見晴らしいいところって無いのよ? それにやっぱり蛭が気持ち悪
いんだもん」
 苦笑した。「わかった。景色見せてくれてありがとう」
「よかった、ケリーがそう言ってくれて。でもね」
 くすぐったそうに笑った。「これから行く場所はもっときれいなのよ。期待してて」
「それはいいけど泥だらけだぞ」
「へーきへーき、このくらい」
 ぱたぱたとはたく。「ね? 落ちたでしょ?」
「まあね」苦笑したが、顔を引き締める。「手、出してみな」
「え?」
「すりむいたって言ったじゃないか」
「大丈夫よ」
「駄目だよ。下手に破傷風になったら命にかかわる。一応見て絆創膏貼らなきゃ」
 おずおずと出した左手は、手袋がめくれたのか手首のところで血が滲んでいた。胸ポケットから絆
創膏を出しながら傷の部分を舐めて土が落ちたことを確認する。すばやく貼ってやったが、顔を上げ
るとデイジーは真っ赤になっていた。
「どうした?」
 脇に唾を吐きながら訊くとデイジーはなぜか恨めしそうに見上げた。
「だって、ぺろって舐めるんだもん。びっくりしちゃう」
「洗い流せないから、こんなのは普通のことだろ? 土の中に破傷風菌とかいるんだし」
「そうお? ケリーはいつもそうなの?」
「外にいるときはね」
 訓練の時は怪我をしないようにお互いに注意していた。戦場ではめったに怪我をしなかったが、た
まにかすり傷を負うと仲間内で手当てしあったものだった。
「で、これからは?」
 周囲をぐるりと見渡した。
 先程崖の上から眺めた荒野は、この台地の外れからさらにずっと向こうだった。
 村から渓谷沿いにずっと下り、川が淵になる手前で滝の手前の岩だらけの丘を登って降りてきたわ
けだ。ここからはぐっと土地が低くなり、デイジーの言う通りたしかに湿地に近くなる。
「歩くだけよ、どんどん。さ、行こうね。お昼は目的地で食べたいな」
 麦藁帽子を縛るリボンを結び直すとデイジーは小さなリュックを背負い直すように揺さぶって歩き
だした。その後ろから付いていきながら、ケリーは風景を眺めていた。
 赤い大地を這う名も知らない雑草。まだ穂を開いていないススキの一群れ。潅木。所々で濃いピン
ク色の花が1輪、2輪と咲いている。
「なあ、ディー」「なあに?」「あの黄色い花、なんていうんだ?」
 デイジーは振り向いた。顎の下で蝶結びの青いリボンのしっぽがひらひらと舞うのが可愛いと思う。
「黄色?」
「いや、俺の机の上に置いてくれた花」
 きょろきょろと見回していた顔がケリーに向かってにっこり笑う。
「あれはね、ちっちゃな向日葵」  スモールサンフラワー 「小さな向日葵?」
「だから、向日葵よ。夏の花なの。あたしの花壇に咲いてたでしょ?」
 手を打った。「もしかしてあののっぽ?」
 「デイジーの花壇」というのは家庭菜園の一角にあるもので、デイジーがなにやら植え込んでいた。
その中ににょきにょきと茎の伸びた草があって、ケリーも面白がっては背比べをしていたものだ。て
っぺんには丸く蕾がついていて、どういう花が咲くんだろうとケリーは興味深々で眺めていた。
「へえ、あれがそうなのか」
「お日さまみたいでしょ? 見てると元気出るでしょ? だから好きなの」
「たしかに元気出るよな」
 並んで歩きだす。口端に貼った絆創膏はまだ取れないがジェズから帰ってきてケリーはすでに心理
的には立ち直っていた。
「あたしね、ここが大好きなの」
 デイジーは珍しくしみじみと言った。
「あたし、ちっちゃい頃はね、ジャングルみたいな星に住んでたの。外に出ると怖い虫に食べられち
ゃうよって父さんに言われてて、外になんか出られなかったの。蒸し暑くて雨もよく降ってて。毎日
窓から外を見ながらつまんないなぁって思ってたの。ここに来たら外で遊べるでしょ? 父さんがど
うしてウィノアから外に出たのかよく判んない」
「ヨシュアは外の世界を見たかったんだってさ」
 デイジーは目を丸くしてケリーを見上げた。「そうなの?」
「そう言ってたよ」
「じゃあ、あたしの血って父さんのかしら」
 呟くのを聞きとがめた。「なに?」
「ケリー、ほら、覚えてる? 『外の世界を知りたい血』って」
「なんだっけ?」
「ひどい、忘れちゃったのね」
 ぷんとふくれた。「わくわくすること知りたいっていうことよ」
「ああ、あれかあ」思いだした。「それがヨシュアの血じゃまずいわけ?」
「まずいわけじゃないけど、なんだかつまんない」
 石ころを蹴飛ばす。「だって、もっと別のことを期待してたんだもん」
「別のこと?」
「そうよ。人類共通の開拓者精神とか冒険者精神とか」
 吹きだした。
「大丈夫だよ。ヨシュアの血を引いていても居なくても、ディーは冒険が好きだと思う」
 デイジーはくるっとふりむいた。「ケリーは? ケリーも冒険好きでしょ?」
「俺、冒険したことないけど」
「そんなことないわよ。だって、チャレスカからウィノアまで1人で来たし、冒険心がなかったら家
出なんかしないもん」
 いやだからそれは全部嘘です。ジェズに行ったのも家出じゃなくて復讐するためなんです。
 そう言えたらケリーの心理的負担はずいぶん軽かったかもしれない。ずーんと落ち込むのを感じた
のか、デイジーは心配そうに顔を覗き込んで来た。
「ケリー? どうしちゃったの? あたし何か変なこと言った?」
「いや、そんなことないよ。......さあ行こうか」
 背中を押してやる。「うちの大冒険家がどこに連れてってくれるのか、俺、楽しみなんだから」
「そぉお?」
 ぱあっと顔が輝いた。
「あのね、ひとつはあの風景だったの。もうひとつはね、ほら、あの大岩の向こう側」
 指差す赤い岩山をぐるりとまわって反対がわに出たとき、ケリーは息を呑んだ。
 緩やかに下る斜面に咲き乱れる、鮮やかな黄色。
 
「......すごい」
 それ以上の言葉が出てこない。振り向くとデイジーはにこにこと笑っていた。
「あのね、イエローリリーって言うんだって」
 ケリーの腕に自分の腕を絡めると、ゆっくりと歩き出す。
「去年の夏にね、見つけたの。春には別の場所で違う花が咲いてるところもあるの。きれいでしょ? 
荒れ地だ荒れ地だってみんなで馬鹿にするけど、こんなに一生懸命きれいに咲いてる花もあるのよ」
 黄色い世界の真中でケリーは呆然としていた。
「こんな場所が......あったんだ......」
 赤い荒野。戦場の、血生臭い世界の続きにある、静かな世界。まるで夢のような。黄色い花のなか
でデイジーが花を摘んでいるのが見える。もしもあれがマルゴだったらどんなによかっただろう。
 マルゴに見せたかった。コニーやアネットやルシールだったらどんなに歓声をあげただろう。パヴ
ェルだったらここでとんぼ返りくらいしてみせたかもしれない。ヨハンは「これって食えるのかなあ」
と言っただろう。隊長だってきっと口笛吹いてポケットに両手を突っ込みながら「こりゃすごいなあ」
って言って嬉しそうだったろう。
 見せたかった。みんなに。仲間達に。
「ケリー、見て、こぉんなに......ケリー? どうしちゃったの? どうして泣いてるの?」
「......え?」
 デイジーが滲んで歪んで見えた。上着のポケットからハンカチを出して拭いてくれる。
「俺......泣いてる?」
「どうしちゃったの? 具合悪いの?」
 心配そうに尋ねるデイジーをぎゅっと抱きしめた。愛おしくて。こんなふうに自分達の住んでいた
世界がどんなところか教えてくれたデイジーが愛おしかった。
「見せたかった」
 呟いた。「みんなに見せたかった。こんな場所があるなんて誰も知らなくて。知らないままに死ん
だんだ。きっとみんな喜んだのに」
「ケリー」
 小さな手がもう一度涙を拭いてくれる。
「あのね、きっとみんなわかってるの。ケリーが見たからきっとみんな見てくれてるの」
「ディー」
「大丈夫。みんなケリーのそばに居てくれるのよ。ケリーが忘れなかったらみんなそばに居てくれる
んだって」
 優しい言葉に目を瞠った。
「そうなのか?」
「うん。だからケリーは一人ぼっちじゃないの。あたしや父さんや母さんのほかに大事な友達もいっ
ぱいいるの」
 ケリーは微笑んで抱きしめていた腕を離した。「そういうところも、ディーはヨシュアに似てる」
「あのね、父さんて神様が嫌いなのに、時々神様のお話と同じことを言うのよ」
 デイジーは二人に挟まれて潰れた花を勿体なさそうに撫でながら言った。
「父さんにそう言ったらね、それは本当のことなんだって。誰が言っても同じことはそれが本当のこ
とだからなんだって」
「ふうん」
 デイジーはケリーを乾いた地面に連れていくとシートを広げて座らせた。仲良く座り込むと持って
きた弁当を広げる。朝食抜きで日の出前に出てきたから、2人とも空腹だった。
「ケリーって優しいのね」
 デザートのクッキーを齧りながらデイジーは感心したように言った。
「ディーのほうが優しいよ」
 汁気たっぷりのオレンジを剥きながら答えた。「俺なんて優しくないし強くもない」
 そうさ、と内心忸怩たる思いで呟く。俺なんか仲間の仇を討つのにも失敗するほどなんだ。たかが
爺さん一人も殺せやしない。
「だって友達のために泣くのって、ものすごく大事にしてたからでしょ? いいなぁ、ケリーはそう
いう友達がいっぱい居て」
 羨ましそうにいうのを不思議に思った。そう言えばデイジーには友達らしい友達がいない。村に出
掛けてもお使いが専らで、誰かと遊ぶために出掛けるということはない。
「なんでディーには友達いないんだ?」
 こんなに素直で優しくていい子なのに。怪訝に思って訊ねると、デイジーは困ったような顔をした。
「あのね、村の学校行ってないでしょう? 教会も行かないでしょ? お裁縫の集まりの時はお姉さ
ん達に教えてもらうけど、でも縫い物とか編み物に忙しいでしょう? だからなの」
「そういうもん?」
「そういうもんらしいの」
 ケリーの口真似をして笑う。
「おんなじ位の女の子とか男の子ってね、あたしが学校に来ないから遊ばないんだって。神様の勉強
もしてないから。それに、うちはほら、一番村外れだから。でもね」
 ケリーが顔を険しくするのを見て、慌てて付け加える。
「あたしもうちの家畜とかひよこの世話があるでしょう? それに本読んでたり一人で探検行くほう
が好きなの。だから平気よ。......ケリーも居て遊んでくれるし」
 最後の言葉は声が小さかった。
 肩をすぼめるようにうつむくデイジーを見て、ケリーも黙り込んだ。
 なるほど、と思う。ヨシュアが言う排他性とか異質を嫌うという部分はこういうところなのか。
 大人は本音と建前を使い分けるが子供はそんなことはしない。それでも別の土地に移ろうとしない
ヨシュアには、それなりに事情があるのかもしれない。
「うん、いつでも遊んでやるよ」
 精一杯年上ぶって言ってやる。
「俺、あんまり遊ぶって知らないけどさ。そんな連中と無理に遊ぶこともないよな」
 はにかむようにデイジーは笑った。
「うん。ケリーが来てくれてよかった」
 手を伸ばして頭を撫でてやる。「俺もディーの家に来てよかった」
 それは本音だった。たしかにヨシュアはさっさと復讐させてくれはしない。だが仲間を失い、居場
所の無いケリーに「居てもいいんだ」と思わせる場所を作ってくれ、失った仲間の代わりになる人間
関係を与えてくれたことは確かだった。隊長よりも精神骨格が太く逞しいヨシュア。今まで経験した
ことの無い「母親」という存在を教えてくれたジェーン。そして、デイジー。
「ディーは、俺の仲間全部をひっくるめたような感じだな」
 そのまま抱き寄せた。女の子だけど、でもランディやビクトルと一緒に居るときみたいにのんびり
できる。でもルシールたちを思いだす。そしてやっぱりマルゴとそっくりの声。
「マルゴがディーみたいに優しかったら嬉しかったのになあ」
 何気なくそう言うと、デイジーの身体がぴくりと震えた。
「マルゴって......ケリーのお姉さんよね?」
 小さな声だった。
「ん? ううん、やっぱり仲間だよ。俺より3つ上なんだ」
 思いだして苦く微笑んだ。
「とってもきれいでさ。上等の陶器の人形みたいだってみんなが感心するくらいだった。でも美人だ
からってそれを鼻にかけてつんつんしてるとかじゃなくて、文句言いながら俺たちのことを面倒みて
くれてた。意地っ張りで口も悪くて、それでいて面倒見もよくて。でもディーみたいに優しくなんて
なかったな。がみがみ怒るしすぐぶつし。......でも大好きだったなあ」
 最後の台詞は切ない溜息とともに吐き出したものだった。
「大好きだったの......?」
 さっきよりも小さな声だった。
「うん。好きだって言ったら、子供のくせにって笑われたけど」
 デイジーは身体を離した。俯いたままケリーのシャツの前をしっかりと握っていた。
「あたしよりも好きだったの?」
 唐突な問いに呆気にとられた。
「ええ? ......うーん、ディーも大好きだよ」
「おんなじくらい?」
 ちょっと考えた。マルゴとデイジーは全然違う。
「わかんないな。マルゴとディーは違うから」
 ようやっとデイジーは顔をあげた。翠の瞳は真面目だった。
「違うの? どうして?」
 ケリーは当惑した。
「だってさ......マルゴは年上だろ。ディーは俺より年下で、マルゴよりも弱くて、俺、ディーのこ
と守るって決めてるから」
 デイジーはぽうっと赤くなった。シャツを握っていた手が離れる。
「ディー、真っ赤だよ」
 ぽかんとしてケリーは見つめた。「どうした? 具合悪くなった?」
「よく......わかんない」
 額に手を当てて熱を計る。「熱は無いな。頭、ふらふらしないか?」
 ぷるぷると頭を振る。
「うちに帰る?」
「イヤ。もうちょっとここにいる」
「そうか?」
 しげしげとデイジーを見つめていたが、ケリーはまわりの荷物を押しやるとデイジーの肩を押した。
「ディー、少し横になってな。元気になるまで俺が膝枕しててやるから」
「平気よ」
「平気じゃない。ちょっとでも休めば具合は良くなるから」
 強い口調で言うと、デイジーは大人しく膝枕に頭を載せた。小さな手を握ってやると、ぎゅっと握
り返して来る。
 ケリーはいささか後悔した。もしかしたら、自分をここに連れてくるためにデイジーは無理をした
のかもしれない。さっきも崖から落ちたし、それにジェズから帰ってきたときにわんわん泣いたし。
あの頃から体調が悪かったのかもしれない。......ほら、女の子ってちょっと大きくなると月に一度、
具合悪くなるじゃないか。
 変なことを思いだして、ケリーは恥ずかしさの余り身体が熱くなった。人間の生殖機能についての
知識はある。性教育の知識もある。実践こそしてないが、基地では16才以上になれば男女交際が、
性交も含めて許可されていた。となれば、猥談も耳に入ってくるし、耳学問なんてものもある。
 隊長は20才だったから個室を貰っていて、時々用事があって行くと女性兵士と2人でベッドでシ
ーツにくるまっていたりして、その度に仲間内で大騒ぎになったものだ。そんな時、きまって副隊長
のマルゴのご機嫌は悪くなって、どうしてだろうと思っていたら隊長に片想いしていたんだよなあ。
そのうち隊長に告白したらすっぱり振られたところを、たまたまルシールが見かけたんだよな。
「ケリー?」
 はっとして下を向くと、デイジーが不思議そうに見上げていた。
「なに?」
「どうしたの? にやにやしてたりして」
 思わず顔をこすった。「えと、いや、ちょっと思い出してたんだ、仲間とふざけてたときのこと」
「ふうん」
「具合はどう?」
 慌てて優しく訊いてやる。「あんまり辛かったら帰りはおぶってやるから」
「平気。大丈夫よ」
 起き上がろうとするのをとどめたが、デイジーは首を振った。「ホントに平気」
 顔色も良くなったし大丈夫か、とケリーもデイジーの言い分を受け入れることにした。
「じゃあ、もし辛くなったら言いなよ? いつでもおぶってやるから」
「でもぉ......」
「俺はさ、けっこう力持ちなんだぜ?」
 力こぶを作って見せる。
「体力あるし。仲間をおぶって歩いたことあるけど、ディーなんかよりそいつのほうが重いに決まっ
てる」
「じゃあ、辛いとき、ちょっとね?」
 はにかむのに頷いた。「まかせときなって。じゃあ、ぼちぼち片づけようか」
 弁当を片づける。濡れた手巾で摘んだ花の根元をくるむと、デイジーはそれをリュックに入れた。
「母さんにお土産」
 目を瞠るのににっこり笑って説明した。「母さんね、前にこの花見たとき、とっても喜んだの」
「そうかあ。じゃあ、帰ろうか」
 先程とは別の斜面を登りだした。裂け目を流れる川を膝まで浸かって渡り、沼地を歩く。デイジー
は蛭と水蛇を怖がっていたが、ケリーが鋭い目で足許を見てやり、危ないところは背負ってやった。
 最後に岩だらけの斜面を登ると、日暮れ時に再び見慣れた渓谷に出た。
 感心して眺めたケリーの後ろでデイジーはしゃがみ込んでいた。
「疲れたのか?」
 気づかって手を出してやると、それにつかまって立ち上がる。「うん、ちょっとね」
 なるほど、ケリーの行軍のテンポは同じ年頃とは言えデイジーにはきつかったかもしれない。ケリ
ーにとっては自分がなまっているのが判るほどだったが。
 手をつないで帰りつくと、ヨシュアが牛小屋から出てくるところだった。
「おやおや、デイジーは居眠りしながら歩いてるのか」
 振り返ると目をこすっていた。
「ディー、大丈夫か?」
「うん」
「おまえ、シャワー浴びて寝ちまいな、デイジー」
 ヨシュアはデイジーの頭を撫でた。「この調子じゃスープ皿に顔突っ込んで寝ちまうだろ」
「うん。ケリー、今日はありがとね」
「俺だって嬉しかったよ。じゃあ、おやすみ」
 荷物を抱えてやると、デイジーはふらふらと家に入っていった。
「まずかったかな」
 顔をしかめて呟くと、ヨシュアは肩をすくめた。
「なあに、あのくらいは身体を動かしたほうがいいのさ。おまえには楽だったろう?」
「いや、けっこう身体がなまってるのが判ったよ。少し訓練しなくちゃな」
「そうかい。ところでな。例のジジイが死んだそうだ」
 振り向いた。「え?」
「ジェズの例のジジイさ。新聞の死亡記事欄に出てたよ」
 愕然とした。強心臓とか言われていたあの事務監が。俺の復讐は果たせなかったのか?
「なんでもな、精神科に入院してたのが、看護夫が目を離した隙に首つっちまったそうだ。ノイロー
ゼ気味だったそうでな」
 淡々と言ったが、立ち尽くすケリーに怪訝な顔をした。
「どうした? 復讐が一人済んだんだぞ。もっと嬉しそうな顔をしろよ」
「......え?」
「なんでもな、従卒の頭が吹っ飛んだ事件以降、ひでぇ鬱だったそうだ。なんでも首無し死体が襲っ
てくるだの、兵隊に追っかけられるだのって夢ばかり見てたそうでな」
 そうは言われても、全然嬉しくもなかった。
「......いつ死んだって?」
「今朝の夜明け前だそうだ。逢魔が時って時間帯だったらしいぞ」
「オウマガトキ?」
「死神に一番出っくわしやすい時間さ。意外と夜明け頃ってのは人間死にやすくてな」
 夜明け頃というと、2人が出掛けた頃だろうか。
「呪われたのかな」
 デイジーの昼間の言葉を思いだしてふと呟いた。
「ああ?」
「俺が殺しそこなった分、仲間が取り憑いたのかな」
「おめえが幽霊話が好きだとは知らなかったよ」
 ヨシュアは苦笑した。「しかし、なかなかいい案だな。それ、貰っておくぞ」
 そのまま家に入っていく。ケリーはその背中を眺めてため息をついた。
 デイジーと一緒に出かけてずいぶん楽しかったが、最後に現実に引き戻された。
 復讐。
 仲間に誓った。そしてそれが終わるまでデイジーを守ってやらなければならない。
 1人分は片づいたとは言え、心になにか重い石を詰め込んだような気持ちだった。



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