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◎欧州ストリート尺八行脚 8 ◎

インターネットカフェー(モナコ)

 一九九八年八月三十一日(月)。インターネットカフェーは大変便利である。使用料金も安く、30分で33フラン(約800円)だった。ただし、同じウインドウズでも、フランスのコンピュータは日本のものと少し違うところがあり、キーボードの文字の配列やシフトキーの使い方など、慣れないと使いこなせない。私は分からないことは全部店員に聞きながらやった。受信してみると、全部日本語の手紙だったが、文字化けしていて読めなかった。もう少しウインドーズに関する知識と英語かフランス語の語学力があれば、店員に日本語表示の方法を聞くことが出来たかもしれないが、フランス人はたぶんそんなことは知らないだろう。フランス人は、言語や文化に関しては自分たちが最高だと思っているということはよく言われるが、それは事実である。それはともかく、内容は読めないにせよ、発信者が誰かは分かったので、この旅行に直接関係のない情報であることはおおよそ見当が付いた。

 しかし、ここで一つ大きな失敗をした。帰国後、ニースで受信したE-mailをもう一度受信しようとしたが、それは出来なかった。考えてみれば当然で、私はニースで受信したE-mailをフロッピーディスクに保存して持ち帰るべきだったのだ。受信だけでなく、私の方からパリの知り合い宛てにE-mailを一つ発信したが、これは成功した。ただし、日本とは違うキーボード操作にかなり時間がかかる。やはり、使い慣れた手紙や電話は便利なものである。

日本映画ファンのマダム(トゥーロン)

 三十一日午後、ニースを発ってトゥーロンに着く。この町は、ニースの飲み屋の主人が教えてくれた、「金持ちがいて静かな所」の一つで、いわゆる観光地ではない。着いてみると、なかなか落ち着いたよい町である。駅から15分くらいの所に地中海に面した港がある。半分は民間の港、半分はフランス海軍の軍港で、軍艦が停泊しているのも見える。町には軍服姿の人が多く、新市街の団地には軍人の家族もたくさん住んでいるようだ。翌朝見たのだが、軍港の入り口には検問所があり、大勢の民間人が通行証を見せて中に入って行く。基地の中で働いているのだ。私はもちろん中には入れないが、地図で見ると軍港の方が民間港より広い。民間港の方は、ちょうどその中心に、地中海を指差して海に乗り出して行こうとする漁師の像が立っている。コルシカ島に向かう連絡船の発着場もある。地元の漁師が、今、海から取ってきたばかりの魚を小さな船から水揚げしている。日本人の観光客はほとんどいない。私はこの町の落ち着いた雰囲気がとても気に入った。しかし、路上芸人や音楽家の姿はまったく見られない。たぶん、町が小さいからだろう。

 夕暮れになり、私はレストランや土産物屋が並んでいる港の小さな中心部を抜けて、入り江の反対側の岸に出た。ここからは、入り江の向こう側に、今通ってきた港の中心部の明かりが見える。こちらは港の外れなので、人影は少ない。この辺の岸で、一人で気楽に吹いてみようと思い、海に向かって尺八を吹き始めた。月が出て、夏の夕暮れの薄闇の中を風が吹き過ぎて、気持ちがよい。この季節、風というのは体には気持ちがいいが、尺八の演奏にとっては案外厄介なものである。風上に向かって吹くと、息が風に乱されて音が出にくくなるので、風下に向かって吹かなければならない。さて、尺八を吹き始めると、ほとんど人がいないと思っていた周囲から、二人、三人と人影が現われ、私の近くに立ち止まったりしながら通り過ぎて行く。私はあまり気にしないで吹き続けた。

 三十分ほど経った頃、私の場所から10mくらい離れたベンチで、いつごろからか、ずっと座っている若い女性らしい人影に気づいた。周囲にはもう誰もいない。若い女性に注目されるなどということは私にとって珍しいことなので、チャンスと思い、演奏をやめて話しかけることにした。近づいて、「ボンスワール、サンキュー フォー リッスニング」と声をかけてみると、光ありと見しは、たそがれ時のそら目と言うべきか、中年のおばさん、というより、フランスのマダムという感じの人である。中肉中背で、ジャンヌ・モローの容姿を2段階くらい落として、色を少し浅黒くしたような感じで、若い頃は美人だったが、二人くらい旦那と別れて今の境遇にいるという感じである。いかにもフランスのマダムらしく、膝を組んでベンチに座り、肘を曲げて膝の上に置き、手首と小指もしゃれた感じに曲げて煙草を喫っている。

 「たいへん美しい音楽ですね。あなたは日本から来たのですか」と言うので、「ウイ」と言うと、「日本の芸術はすばらしい。あなたの音楽は日本のクラシックですか」と言うので、また「ウイ」と答えた。「あなたの音楽は日本の映画を思い出させます。何と言う名前だったか、えーと、えーと、そう、ミゾグチ…」ああ、溝口健二のことである。私は映画通ではないが、彼の映画も何本かは見たはずだ。「それから、えーと、ウシマ…」、「三島ですか」、「ノン、三島はライターです。私が言うのは、映画のウーシマ…」あっ、分かった。大島渚のことだ。大島渚はもともとヌーベル・バークの旗手として登場しただけに、フランスでもよく知られているということは聞いていたが、その名前を、こんな片田舎の港町のマダムの口から聞こうとは予想もしなかった。私も若い頃、彼の映画を幾つか見たが、「少年」という映画には強烈な印象を受けていたので、試しに「『ギャルソン』という映画は見ましたか」と聞いてみたが、通じなかった。それはそうだ。日本での題が「少年」だからと言って、フランスでの題が「ギャルソン」であるはずもないだろう。今考えると、この時、「コリーダ」とでも言えば、彼女は自分も知っていると言ったかもしれない。そんなわけで、この日の収穫はフランスのマダムから日本の芸術家の名前を聞けたことだった。

喧騒の海岸(マルセイユ)

 九月一日(火)。マルセイユにやって来た。ニースもトゥーロンもマルセイユも、好天続きで、とにかく南フランスは暑い。昼間は港の周辺を歩きまわり、ざっと風景を眺めてホテルに帰った。その後、夕方からぐったりと眠りこけ、目を覚ますと夜の十時半だった。今回のヨーロッパ旅行では、私は多く知人の家に泊めてもらい、ひとかたならず感謝している。しかし、親切に世話してもらえばもらうほど、また、逆に自由にさせてもらえばもらうほど、かえって相手に気を使わざるを得ない。たまにホテルに泊るというのは、その点で精神的・肉体的に大いに息抜きになる。

 九月二日(水)。さて、このマルセイユという町、ヨーロッパから外に出るための港として、昔から物語にもよく登場し、日本の戦前の文学者・芸術家などで渡欧した人も多くは行き帰りにこの港を通ったということで、何かロマンチックなものを想像させる。しかし、実際に四日間歩き回って感じたことは、それとは反対の、およそ静かな場所というもののない喧騒の町である。この喧騒は、ニースのような若者の遊び・レジャーの喧騒ではなく、人々の生活それ自体から来る。この町には静かな場所というものがほとんどない。どこへ行っても車・オートバイ・バス・トラック・パトカー・救急車の騒音が耳につく。確かに大通りは広く、歩道も広い。大通りの幅の半分くらいが歩道になっている所さえある。そしてその歩道に面してレストランが並び、人々は戸外の椅子に座って食事し、飲み物を飲んでいる。しかしどこにも容赦なく車の騒音が襲ってくる。しかし、人々はそんなものはまったく気にしていないようである。

 これは大通りに限らず、大通りの間に網の目のように張り巡らされた裏通りも同じで、およそ車の通らない道というものはほとんどない。特にうるさいのはオートバイの音で、この町には騒音を規制する条例はないものと見える。三十年以上前、日本でもマフラーをはずして走るオートバイの騒音が問題になり、何らかの規制が実施された記憶があるが、この町のオートバイのようなうるさいオートバイは最近の日本では見たこともない。しかもその数がいつも多いのである。車がクラクションを頻繁に鳴らすことも、日本とは比較にならない。さらに、パトカーや救急車のサイレンや、警官が吹くであろう警笛などが不思議なほど頻繁にあちこちから聞こえてくる。こんな事だから、路上ミュージシャンが生きる余地など皆無で、この町の人は路上ミュージシャンというものを知らないのではなかろうかと思うくらいである。

 私は例によって、港に面した飲み屋の主人に相談した。私はミュージシャンだ。どこかに静かな公園のような場所で、夕方になると人々がのんびり散歩したりする、そんな場所はないだろうか。「ああ、それなら、ここに行けばいいよ」私の差し出した地図の、ある地点を指して、主人はすぐ教えてくれた。地図を見ると、確かに広い緑の部分が描かれており、公園に間違いない。市内からかなり離れた郊外だが、すぐ目の前のバス停からバス一本で行けるそうである。私は時刻を見計らってバスに乗ってみた。バスはマルセイユ南部の美しい海岸線をどんどん東に行く。緑の少ない、薄茶色の家々がバスの通る道の近くまで立ち並ぶ町並みはどこまでも続く。三十分近く走った頃、やっと教えられた場所に着いてバスを降りた。

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