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◎欧州ストリート尺八行脚 11 ◎

ブレーメンの普化僧

 一九九八年九月十一日(金)。ブレーメン着。ブレーメンでの一週間は、充実し、かつ落ち着いた一週間だった。私はH氏という日本人の尺八家に何から何までお世話になった。H氏は、「氏」というより、むしろ「師」という言葉の方がふさわしい方で、国立大学の倫理学の教授を数年前に定年退官後、ドイツ人の奥さんと娘さんと三人でブレーメンに移住し、博多一朝軒の明暗流尺八本曲と普化禅の研究に没頭されている方である。

 師のお宅は、ブレーメンのハウプトバーンホーフ(中央駅)から北に向かって車を時速百二十キロで約四十五分飛ばした、ブレッドルフという所である。師のお宅は敷地面積が三百坪もあろうか、そこに御家族三人の住む家屋と、別棟の本堂がある。家屋は私の家の四倍くらいの広さで、一階にも二階にもバスとトイレが付いている。もともとドイツ人が建てた普通の北ドイツ風の家を買い取ったものだそうだが、内部はきわめて日本風に模様替えされている。畳の部屋に床の間があり、禅語の書などの掛け軸がそこここに掛かり、棚には奥さんの生けた花が飾ってある。奥さんはドイツ人だが日本で生け花を習い、ここでは師匠で、ドイツ人の弟子がいるそうである。本堂は車庫を改造したものだが、中はまさしく清浄な修行空間という感じである。二十畳くらいの板敷きの大広間の中央に吹奏の坐をしつらえ、周囲には座布団が並べてある。師のお宅の価格を伺ったところ、全部合わせても私の家の価格の半分以下だった。私も定年退職したらここに移住しようかしらと言ったら、家はいくらでも探してあげると真顔でおっしゃっていた。

 この土地は、地理的にはウェーザー川の下流で、遠くブレーメン港や北海の海岸にまで連なる北ドイツの広大な平原地帯の一部である。もともとは泥炭層の低湿地だった土地を、改良を積み重ね、今では立派な牧草地帯に作り変えたそうである。家の周囲はどこまでも牧場と牧草地が続き、牛の群れが悠々と草を食べる風景が広がる。朝、自転車で散歩していたら、道に迷ってしまい、道を尋ねようにも一時間ほど走っても人間を見かけず、もちろん公衆電話もないので非常に困った。

 師のお宅は、家というより寺である。師は本職の僧侶ではないが、実質的には普化僧の生活を送っておられると言ってよい。毎日この本堂で半跏坐の姿勢で何時間も尺八を吹かれる。曲目は『調子』、『虚空』など、博多一朝軒所伝の明暗流本曲である。伺っていると、何の衒いもなく特別の技巧もない、ただ水が流れるような自然な音の流れがいつまでも続く。師の尺八は二尺三寸くらいの地なしの延べ竹で、普通の尺八の1.5倍くらいの太さがある。竹の内壁は自然のままの形で、節を抜いた以外は何の細工もしていない。私も少し吹かせていただいたが、力を抜いて軽く吹くと、意外に美しい滑らかな音が出る。私が吹くと、リの音が少し低いように感じたが、師が吹くとそんなことはまったくなかった。私は毎日のように師の尺八を拝聴し、私も尺八を吹いた。師は私の演奏を座禅を組みながら何時間でも聞いてくださり、時に適切なアドバイスをしてくださった。私が『八重衣』の練習をしていると、音の切り方やつなげ方について、時々不自然な所があると指摘してくださった。私自身、そのことが以前から自分の演奏の欠点だと思っていたので、そんなことを本曲しか吹かない人から指摘されたので大いに驚いた。師はまた、御自身で虚無僧行脚をなさった経験も豊富で、実際に虚無僧の姿をして、真冬の京都の町を、時には雨や雪の中を何時間も托鉢して歩いた話などを伺うと、私の一日一時間などというなまくらな修行とは比較にならない厳しいものだった。

 師はこの地で、ミニコンサートなどのさまざまな演奏活動を行い、ドイツに尺八を広めようと努力されている。遠く離れたミュンヘンにも稽古場を持ち、月に何度かは汽車に乗って出張稽古に出かけられているとのことである。

 さて、一週間のH邸滞在の間に、音楽上と言おうか尺八修行上と言おうか、いろいろと収穫があった。一つは楽器の問題である。製管法に関して、私はH師の尺八や演奏を間近にして一つ思い付いた新しい方法があり、帰国後すぐ、十数本の尺八を全部その方法で作り直した。私はこの二十年近く、どうしても自分の納得の行く楽器ができなかった。そのため、私は十七年前に開催した第三回リサイタルを最後にして積極的な演奏活動は控えてきたのである。昔、どこかで、「牛が窓の前を通って行く。頭も角も脚も胴体も通り過ぎてしまったのに、なぜ尻尾だけが通り過ぎないのか」という公案を読んだことがあるが、まさにそういう性質の問題だった。しかし、今回渡欧中に考え付いた新しい方法で、ひょっとすると尻尾も通りすぎ、ゆったりとした気持ちで窓から遠くの山が眺められるような境地に達するかも知れない。とはいえ、あの公案の牛は一筋縄では行かないことはよく分かっているが。

 もう一つ、私は今回の旅行で師から思いがけないご指摘をいただいて、思考の方法において、それこそ『目からウロコ』の思いがしたことがある。それは、どのような視点から尺八の歴史を理解すべきかという問題である。私は琴古流尺八を学ぶものだが、琴古流本曲の淵源は言うまでもなく明暗流というか、虚無僧尺八にある。したがって、虚無僧の歴史をどう捉えるかと言う問題は、自分の出自を認識するのと同じくらい重要な問題と考えている。それに関して、私は従来、中塚竹禅の著書『琴古流尺八史観』の記述を基本に据えて考えてきた。この本を読んでいない人のために一言で内容を要約すると、虚無僧の実態は武士の乞食や無法者であり、徳川家康の威光を後ろ盾にして権威づけられた虚無僧の歴史は実は捏造であり、普化を開祖とする普化宗の存在は、不逞浪人集団たる虚無僧が自らの無法を糊塗するための隠れ蓑だった、というものである。この研究はきわめて実証的であり、尺八や虚無僧の研究の基礎になる優れたもので、現代でも多くの研究者がその見方を踏襲している。私も、その根本の所は正しいと考えてきた。そして、他人に尺八の歴史を説明する時も、大体その線で説明してきた。

 ところが、その事に関し、師から「虚無僧をいくら社会的・経済的視点から解明しても、明暗尺八を宗教的に理解することにはならない」と言うご意見を伺って、今までの認識の盲点を突かれた思いで愕然としてしまった。言われてみればたしかにその通りで、例えばキリストの出生の秘密や聖書に書かれた奇跡の数々をを科学的・実証的に解明してもキリスト教の理解には繋がらないということは明らかである。宗教は形而上の世界の問題として理解しなければ、本当に理解したことにならない。信仰心抜きで宗教を論じたら、それは無意味な理屈になってしまうだろう。それと同じで、虚無僧尺八の内面に対する音楽や精神の探求の視点を欠いた虚無僧史研究は、少なくとも我々尺八演奏者にとっては無意味、いや、無意味とは言い切れないまでも、一番大切なものを見過ごしたものになってしまうだろう。

 では、形而下の問題と形而上の問題をどう折り合いを付けるか。これはたいへんな難問だが、今の私に出来ることは、本曲を吹いて考えること、尺八を作る事を通じて考えることくらいである。それから先は、文章で書く範疇の事柄ではないだろう。

 ブレーメンでは、私は十六、十七の両日、辻立ちをした。両日とも、場所は市の中心街(ツェントルム)の広場(マルクトプラッツ)で、時間も一時間、時刻も大体同じである。両日とも、たいへん気持ちよく演奏出来た。その雰囲気はバーゼルの一日目と大体同じ、またはそれよりももっとよかった。多くの通行人が、私の尺八を聞きつけると、好意的な様子で私の方に近づいてくる。お礼を言ったり、笑顔で微笑みかけたりしながら、たいがいは金を払う。私も尺八を吹きながらお辞儀をする。すると、ちょうど目の前に今相手が金を置いてくれたリュックサックが見えてしまうので、私は多少困った。金を見るために下を向いたのではない。そこで私は、お辞儀をする時は目をつぶることにした。何人かの人と尺八の話をしたが、省略。御布施の額は、15日は13マルク(約1000円)。16日は36.37マルク。この金額の違いは、15日は寒く、雨がしばしば降る天気で人出が少なかったのに対して、16日は暖かで、のんびりと広場を歩く人が多かったことによる。

 ブレーメン市のストリートミュージックに関するルールは、H師の奥さんが役所に電話して聞いてくださったが、スイスのバーゼルと大体同じである。この旅行全体を通じて、尺八の演奏で一番成功したのはバーゼルとブレーメンだった。筝と合奏したパリは今は例外として考える。その二つの市には幾つかの共通点があった。まず、バーゼルもブレーメンも、小じんまりした地方都市である。パリやウィーンのような大都市には多くのストリートミュージシャンがかつて集まったためか、今では厳しい規制があるが、中小都市にはそれは必要ないか、あっても寛大なものである。ただ、大都市でも規制の緩やかな所もあった。アムステルダムがその一つで、ここは、警官から聞いた限りでは、「5人以内の演奏でなければならない」という規則だけだった。「6人以上の演奏はうるさい」という意味だろう。ここでは私は演奏しなかったが、町全体が自由奔放な、がさついた感じで、尺八が喜ばれるかどうか分からないので、誰か実験して欲しい。マルセイユのようなうるさい街は何の規制もないらしいが、路上音楽そのものが適さない。また、中小都市ではあっても、デン・ハーグのような静かで格調の高い、というか、そう願っている街、また、モナコのような高級さを売り物にしているような街では規制が厳しいか、禁止されている。

 次に、バーゼルもブレーメンも観光都市としてはそれほど有名ではない。そのため、どこの街にもある、町の中心のこじんまりした広場は静かで、人々が落ち着いて暮らしていて、尺八のような音楽に耳を傾ける余裕がある。そんなに多くのストリートミュージシャンがいないから、市当局も市民も、むしろそれを歓迎している。また、ロックなどのうるさいタイプの音楽は、好まれないか、または規制されている。また、両市とも生活水準が高い。そのため、金を出してくれる人も多く、1人が出す金額も多いようである。しかし、そういう街は物価も高い。それに、ブダペストのような生活水準の低い街というか、物価の安いタイプの街でも、立ち止まって聞き入り、話し掛けてくる人もいるのである。

 こんなところだろうか。各都市にはそれぞれの事情があるので、そう簡単には割り切れない。もっと知りたければ、一つ一つの市の事情を詳しく調べるしかないだろう。また、季節・曜日・時刻・天候・年中行事などの条件も全部違うだろう。ヨーロッパの中では、音楽に対する考え方、風俗、習慣などの違いはあまりないように感じたが、日本とは大いに違うだろう。私は路上音楽研究にあまり深入りするつもりはないので、誰か若い人が卒業論文のテーマなどに選んでくれると面白いと思う。社会・経済・法律・民族・芸術などの分野からアプローチ出来るだろう。(本当かなあ?)
 九月十九日(土)。デン・ハーグに帰る。

ライデン大学

 九月二十一日(月)。アムステルダムとデン・ハーグの中程にライデンという街があり、そこに、ライデン大学という大学がある。この大学で尺八のコンサートを開くことになった。そのいきさつについて、多少説明しておこう。この大学には東洋語を研究する学科があり、その一つとして日本語専攻課程がある。そこに、日本人のK教授という方がおられるという事を私はある知り合いから聞いて知っていた。デン・ハーグに滞在中に、私はキーン教授が以前、ライデン大学で教えていらっしゃった事を聞いて、K教授へ手紙を託し、日本語を勉強しているオランダの学生諸君に、ぜひ私の尺八音楽を紹介させて欲しいとお願いした。大変身勝手なお願いで、実現は難しいと思っていたが、K教授は、一面識もない私のお願いを快く引き受けてくださり、この日の昼休み、東洋語科の図書館で私のコンサートが開かれる事になったのである。このコンサートのためにポスターを作って宣伝したり、会場を設定したりしてくれたのは、「狸」という日本研究のサークルの学生諸君だった。私はK教授と「狸」の学生諸君に、ここで改めてお礼を述べたい。

 さて、当日の経過だが、約束の時間にライデン駅に着くと、「狸」の責任者のF君が出迎えてくれた。流暢な日本語で私に挨拶し、私を大学まで案内してくれた。学校までの道々、市の名物の風車、レンブラントの生まれた家、また、最近話題になった運河などの前を通った。この運河は年に一回大掃除をするが、最近そのために河底を浚ったところ、千何百台もの自転車が出てきて、新聞記事になったそうである。オランダは自転車の国だが、それだけに自転車の窃盗も多いのだろう。学生生活の話などもしてくれた。「狸」の学生は現地の日本人の家族などと出来るだけ交流を持ち、生きた日本語を勉強する努力をしているそうである。事実、この日会った学生諸君は、ほとんど全員、日本語が非常に達者だった。彼等の中で一番人気のあるアルバイトは、日本語の勉強と旅行と学費稼ぎを兼ねて長崎のハウステンボスに行く事だそうである。

 大学に着くと、一しきりK教授と歓談した。日本語専攻科は、日本語をきちんと読めて、その能力を踏まえて日本について論じる事が出来る学生を育てる事を目標にしていて、現代語だけでなく、古文も一通り勉強するそうである。

 12時45分から1時15分まで、昼休みを利用してコンサートということになっている。K教授は邦楽の事もたいへんよくご存知で、せっかくだから尺八独特の曲がよいとおっしゃるので、演奏曲目は『鹿の遠音』と『巣鶴鈴慕』ということになった。聴衆は30人くらいで、非常に熱心に聞いてくれた。演奏が終わると昼休みも終わりで、教授も学生もそそくさと立ち去って、感想を伺う暇もなかったのが残念だったが、卒業生で日本で尺八を習った事があるという人がいて、私の演奏にとても感動したと話してくれた。こういう風に何もかもうまく行った時は、書く事がない。また、読者にしても、他人がうまくやった話と言うのは、読んでもあまり面白くないだろう。

ブダペスト再訪

 九月二十三日(水)。秋のブダペストに帰って来た。久しぶりのブダペストに私は郷愁のようなものさえ感じた。町の景色、人々の様子、ドナウの流れ、みんな夏と特に変わってはいない。二ヶ月前、私はここで初めて辻立ちをし、心やさしいロシア人たちと出会って孤独を癒やされた。彼らは今どこでどうしているのだろうか。あのバーツィー通りに行けば、ひょっとしたら、また会えるのではなかろうか。しかし、そんなことがあるはずもなかった。秋のバーツィー通りには、今は中年のアコーディオン弾きがいるが、若いミュージシャンたちの姿はない。ニコライやターニャと話をした地下道には、ルーマニアから来たらしい子連れの女乞食が大勢たむろしているばかり。

 風のごとく旅行くわれと思ひしに別れし雲の懐かしきかな
 夏の宵に相語らひしミュージシャン秋の路上に捜せどむなし
 バーツィーの灯は薄霧ににじめどもかのバイオリンの音は聞こえ来ず
 地下道に笛吹きし君影なくてマジャール人の行き過ぐるのみ
 夕暮れのドナウに懸かる鎖橋かのミュージシャンの行方を知らずや

ウィーン再訪

 九月二十七日(日)。私はまたウィーンにやって来た。二ヶ月前に私はこの同じ「音楽の都」の路上に立ち、尺八を吹いたが、警官には尋問され、人々には受け入れられず、空しく立ち去った。その街が、夏も過ぎた今、どんな様子だろうか、それが何となく気にかかったのである。前回と同じ、西駅のすぐ近くのホテルに泊り、夕暮れとともにまたシュテファンズ・プラッツにやって来た。2ヶ月にも及ぶたった一人のヨーロッパ放浪も、あと数日を残すだけで、私はやるべきことは全部やったという満足感と、私のやったことがいったい何の意味があったのだろうという虚脱感がない混ぜになり、もはや尺八を手にする気力もない。あらゆる意味で初めての経験に緊張する事の多かったこの2ヶ月間は、私の老いかけた肉体と精神を、私の知らない間に疲労困憊させていたのかもしれない。私は今はウィーンの街角にたたずんで、ストリートミュージックにただ耳を傾けるだけの、一人の疲れた旅人になってしまった。

 さて、シュテファンズ・プラッツは相変わらずウィーンの中心街らしい賑わいを見せているが、もはや夏ほどの活気はない。路上ミュージシャンも相変わらずそこここに見かけるが、取り巻いて聞き入る人もそれほど多くはない。見ていると、金を払う人は格段に少ない。おそらく、観光客が少ないためだろう。観光客は路上ミュージックを聞いてウィーンのムードを味わい、ウィーンのムードは路上ミュージックを取り巻く観光客によっていっそう高められる。そういう連鎖的な盛り上がりが、今はなくなっている。ケルントナー通りをオペラ座の方に歩いて行く途中で、夏に会ったボリビアからの五人のグループが同じ場所で演奏しているのに行き会った。夏と同じく、4人が演奏し、1人が通行人にCDを買うように勧めている。しかし、CDを買う人はほとんどいない。また、金を置いて行く人も非常に少ない。その若者に話しかけると、私のことを憶えていた。8月の初めから10月の15日頃までウィーンに滞在し、その後オーストリア国内の別の都市に行く予定だそうである。「毎日演奏しているのか」と尋ねるたところ、「ウィークエンドだけだ」と答えた。おそらく、秋になって人出が少なくなったからだろう。平日は別の仕事をしているようだ。あの、私の尺八で「上を向いて歩こう」を吹いた若者にも話しかけたかったが、演奏の邪魔になるので、一先ずそこを立ち去った。さらにオペラ座の方に歩いて行くと、一人でハープを弾いている人がいる。華麗でありながら哀調を帯びた音色が、石畳に響く。ハープ特有のグリッサンドが印象的に繰り返される。しかし、多くの人はほとんど振り返りもせずに通り過ぎて行く。警官が通り、許可書を確認して立ち去る。近づいて尋ねると、はるばるコロンビアから、たった一人でやって来たそうである。

 秋寂しウィーンの辻に竪琴を弾けども人は見返りもせず

 ベンチに座り、じっとその音色に聞き入っている私にも、哀愁の念が浮かんできた。
 私はいったい何のためにこんな遠くまで来たのだろうか。何かを求めてここまでやって来たが、その何かを手に入れる事が出来たのだろうか。ひょっとすると、私にとって求める何かとは全然別のもので、こことはまったく違う場所にあるのではなかろうか。旅人の胸に時として忍び寄る旅への倦怠、ふるさとへの郷愁が、私をとらえ始めたようである。

 オペラ座から同じ道を引き返してくると、ボリビア人たちはもういない。許可された時間が過ぎたのだろう。さらにシュテファンズ・プラッツをぶらつく。マンドリン・アコーディオン・コントラバスのトリオのジプシー音楽風の合奏が、哀愁を誘う。さらに離れた所で、若い男性二人のバイオリンとクラリネットのクラシックの名曲の合奏に聞き入る。このクラリネットの若者は、夏ここに来た時に見かけたような気がした。二人は舞台衣装をきちんと身につけて、ブラームスやシューベルトの歌曲、ベートーベンやモーツアルトの器楽曲などを実に情緒豊かに演奏する。聴衆の中にはうっとりとして、一緒に旋律を口ずさむ人もいる。西洋音楽には誰にでも親しめるクラシックの名曲がこんなにも多いのに、邦楽にはなぜ少ないのだろう。私はそこに日本の音楽家として寂しさも感じ、また課題も感じた。演奏を終えて楽器を片づけているバイオリンの若者に話し掛けた。彼等はウィーンの人だそうである。ウィーン市のパーミッションについて聞いたところ、警察は届け出たものはすべて許可するが、2時間につき20シリングの許可料を徴収するそうである。そして、あまり実入りのよい仕事でもないのに、警察が些細な違反も厳しく取り締まるとこぼしていた。ちょうどこんなことを話しているうちに、許可された時間が過ぎたのか、通りかかった警官がこの二人を厳しく注意した。若者は、ご覧の通りなんだ、と言う風に私に目配せして、しきりに弁解していた。その姿は、演奏中の彼等の羨ましいほど魅力的な姿とは違って、無力で、気の弱い若者にしか見えなかった。警官が立ち去った後、「あなたはオーケストラなどに入って演奏しているのか」と尋ねると、若者はちょっと言いよどんで、「No. I am just, … just a street musician.」と言って、寂しそうに笑った。私はこの若者が何となく気の毒になった。別れて、またさっきの広場に戻ると、ジプシー音楽の3人組みももういない。いつのまにか、広場にミュージシャンたちの影はなく、夜更けのウィーンにしとしとと雨が降り出した。

 面白うてやがて悲しき辻楽士暮れ行く秋にいづち消ゆらん

◎「欧州ストリート尺八行脚」完◎