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◎欧州ストリート尺八行脚 3 ◎

森と湖と『津軽山唄』(リラフュレド)

 一九九八年八月六日(木)。ブダペストの宿舎「サクランボ」に同宿の日本人数人と、五日間のハンガリア国内バス旅行の二日目の出来事。リラフュレドという森と湖の町の「城」とかいうホテルに泊り、夕食は皆で戸外のレストランでとろうということになった。レストランに入ると、例によってレストランお抱えのジプシーがバイオリン・電子ピアノ・コントラバスなどの合奏で音楽を奏でる。こういう人たちは客扱いに慣れていて、日本人と見ると必ず『荒城の月』や『浜辺の歌』などを演奏してご機嫌を伺おうとする。私も一行の日本人たちも、ヨーロッパまで行ってわざわざ日本の歌を聞いて喜ぶ神経が理解出来ない。そこで私が「ジプシーの音楽やヨーロッパの音楽をたくさん聴かせてくれ」と言いに行った。レストランの中には私たちの他に外国人も十数人いて、みんなのんびりと食事をしている。私は、これはチャンスだと思った。ジプシーの音楽家たちと交渉して、日本の音楽を五分間だけ紹介させてくれと頼み、彼等の演奏の合間に尺八を演奏することになった。

 私は彼等に小さな舞台のような場所を借りて、客に挨拶した。「私たちは日本から来ました。ここにいる皆さんに、日本からのお土産として、日本のフォークミュージックをお聞かせします」というようなことを言って、『津軽山歌』を吹いた。この曲はメロディーが伸びやかで、一つ一つの音を長く伸ばす所と小節を聞かせる所が対照的で、外国人にも日本人にも分かりやすい名曲である。短いテーマを吹き、あとはアドリブでムラ息を入れたりしながら変奏し、客の反応を見て適当な時に切り上げる。私は本曲を吹く時もよくこういうやり方をする。森の中の湖のほとりで、夕暮れ時の戸外のレストラン、そして大きなテントの屋根の下。尺八の音はテントに反響してよく響き、森や湖の方へも広がって行く。聴衆は二十人程度、しかも日本人一行の代表みたいな形で挨拶してから演奏したので、みんな初めから好意的に聞いてくれる。最高に演奏しやすい条件で、路上演奏とは大違いである。終わると、当然ながら暖かく拍手してくれる。

 演奏を終えて自分の席に帰ると、近くのテーブルから私を招く人がいる。行ってみると、家族三人連れで、父親らしい人が、あなたはヨーロッパに何のために来たのかと尋ねる。最初私は、多少韜晦したい気分もあって、「私はヨーロッパに乞食をするために来た」と答えて帰って来たが、同行の日本人の先輩に真面目に答えるべきだと注意されて、もう一度その人のテーブルに行き、「私は日本の音楽家です。日本の音楽をヨーロッパの皆さんに紹介するために来ました」と言い直した。その人は、自分はオランダ人だと言う。私はオランダにも行く予定ですと言うと、とても喜んで、オランダに来たら自分の家に遊びに来てくれと言って、名前・住所・電話番号を書いてくれた。

 私がこのような事をするのは、単に尺八を吹いて聞かせたいというだけでなく、私なりの主張がある。多くの日本人は、外国に行っても、こちらから積極的に日本文化を紹介するなどということはしない。ヨーロッパでも、日本人はむやみに金を使って遊ぶだけの観光客か、または金を稼ぐために出張してきたビジネスマンとしか受け取られていない。外国に行ったら、その国について学ぶだけでなく、チャンスを見つけて日本について教えることが大切なのではなかろうか。日本人として自己主張し、日本を理解してもらおうという姿勢を示すと、外国人は非常に興味を示し、高く評価してくれる。そして向こうから近づいて来て、コミュニケイションが成り立ち、すぐ友達が出来るのである。その時我々は、金ではなく日本文化を背負った存在として、個人としても認めてもらうことができる。大げさなようだが、これは事実である。

風のように(ブダペスト)

 八月十二日(水)。今日はバーツィー通りで8:30から9:45まで辻立ち。特に変わったことはなかったが、一つだけ印象深いことがあった。私の横でしばらく聞き入っていた男が、金を払った後もまたじっと私の横で、あごに手を当てるような姿勢で聞き入っていた。これは、自分の心の中に沈潜する気持ちがあったのだろう。私はこの聴衆の感性に働きかけようと、『鹿の遠音』、『津軽山歌』、『三谷菅垣』などを一生懸命に吹いた。この人は私が演奏の合間に水を飲んだりする時もじっと待って、何曲も聞いてくれるので、私は頃合いを見て、「Thank you for listening.」と声を掛けた。髭を生やしたインテリ風の孤独な感じの、中年に近い青年とでも言おうか、日本で言うと博士浪人みたいな感じである。虚無僧も浪人だから、尺八の音楽は博士浪人の心に通じるものがあるのかもしれない。

 話してみると、この土地の人だそうである。「あなたの音楽は、風のようだ」と誉めてくれた。外国人は人を誉めるときは、大げさに両手を広げたり笑顔を作ったりするものだが、この青年は違っていた。私に視線を合わせず、自分の心の中から言葉を捜すように話す。私には、お世辞ではなく本当に誉めてくれるのが分かってうれしかった。私は、お礼を言って、「そのように誉められてたいへんうれしい。誰でも風や雲のように自由に生きたいと願っている。私もそうなので、風のような音楽を奏でようとしているのだ」と言うと、青年は頷いて、「あなたが演奏すると、ストリートがとても静かになる」と言った。実際に通りが静かになるわけではないので、私の音楽の感じを言ってくれたのだろう。この批評も、私にはとても嬉しかった。その後二言三言話して、そのまま「Good luck!」と言って別れた。気取るわけではないが、こういうのを風のような出会いというのだろう。虚無僧も含めて、放浪者にはこういう出会いが多いのだろう。もう一人、イギリス人が誉めてくれたが、省略。今日は540フォリント。

ボリビア人たち(ウィーン)

 八月十三日(木)。ブダペストからウィーンへの汽車は二等車で、12時42分発、15時30分着。窓を開けて風を入れながら走っても、ものすごく暑い。ヨーロッパに来てから十三日間、ずっと猛暑が続いている。そのうえ、今日はまるで日本のように湿度も高い。これは私の予想外のことだった。ウィーンに着いて、私はホテルでシャワーを浴びて、夕方、シュテファンズ・プラッツに出かけた。ウィーン市の観光の中心街で、もちろん路上演奏の状況視察のためでもある。夜八時ごろ、ケルントナー通りで演奏中に一休みしているらしい南米音楽の五人のグループを見つけた。五人とも男性で、ケーナ・ギター・太鼓などをもっている。南米の人は皆、背が低く、胸板が厚く、皮膚が浅黒い。私は彼等と同じベンチに腰を下ろし、すぐに話し掛けた。

 彼等はボリビアから来たそうである。私は、実は私も路上演奏をしたいのだが、この街には何か規則があるのか、と尋ねた。ボリビア人と日本人が英語でウィーンの市政のことを話すのだから明瞭には分からなかったが、おおよそ次のようなことだった。Magistrat(役所)に届けを出さなくては演奏は出来ない。その役所はどこそこにある。月曜日しか申し込みを受け付けない。そして、許可を得ると一日二時間だけ演奏出来る。

 私が音楽家だと言ったので、ボリビア人たちは、私が何を演奏するのかと聞く。私は尺八を出してちょっと吹いてみせた。彼等は、それはケーナか、と尋ねる。私は尺八の説明をして彼等に貸して吹かせたり、私が彼等のケーナを借りて吹いたりした。尺八は日本の音楽しか吹けないのか、と聞くので、私が『コンドルは飛んで行く』や『花祭り』などを吹いてみせると、彼等は非常に興味を示した。中の一人が、私の尺八を借りてちょっと練習するとすぐに上手に吹き、なんと、『上を向いて歩こう』を吹いたのには驚いた。彼等との付き合いはそのままになってしまったが、もう少し深く付き合えば、彼等の生活や仕事ぶりなども知ることが出来たと思うと、残念である。ブダペストのロシア人、エドアルドにしても、ここでのボリビア人たちにしても、皆純粋でいい人たちだった。こちらから近づいて行けば、もっと深い付き合いが出来ただろう。

 彼等は演奏を再開するのに八時半を待っていたらしい。ところが、30分ほど前から空が曇り、ぽつぽつと降り出した雨が、ちょうどこの頃本格的になり、雷も鳴り出した。通行人はどんどん帰り始め、私も雨の中で演奏を始めたボリビア人たちを置いて、急いでホテルに帰った。雨は一晩中降り続いた。この夜を境に、私の周りのヨーロッパには、秋のけはいが近づいてきた。

無許可の演奏(ウィーン)

 八月十四日(金)。今日は午後、昨日のボリビア人の言っていたMagistratを捜しに行った。彼等の言ったように月曜日しか受け付けないというのなら、私は日程の都合で今回は演奏は出来ないことになる。しかし、路上演奏の規則などを調べておけば、次回に生かせるし、こういう文章に発表して興味のある人に知らせられると思ったのである。例によって窓口をたらい回しされて二時間半ほど歩き回り、たどり着いた所は市役所の文化課だった。

 職員に詳しく聞いてみると、規則はだいたいボリビア人の言った通りで、届けを出す事務所(Magistrat7=第七出張所?)の住所を教えてくれた。演奏をするのに何か審査があるのか、ただ届けを出しさえすればいいのか、その辺はよく分からない。ウィーンに限らず、路上演奏を計画している人は事前の情報収集が必要だろう。その後の経験で分かったことを結論的に言うと、路上演奏の規則は市単位で定めている。だから、それを知る一番手っとりばやい方法は、市役所に電話で聞くことである。もう一つは、路上演奏が行われている広場などで、通りかかった警官に尋ねることである。

 夕方から、私は市役所前の市民広場の野外レストランで食事をし、ワインを6デシリットルも飲んで、すっかり酔ってしまった。八時ごろになって、昨夜のボリビア人たちの所へ行ってもっと話を聞いてみようと、シュテファンズ・プラッツの方へ歩き始めた。歩きながら観察すると、この街は、「音楽の都」と言われながら、路上演奏はシュテファンズ・プラッツ周辺以外は禁止されているようである。さっき私が食事をした市役所前の広場も、沢山の人が集まり、日が暮れると巨大なスクリーンを使ってフイルム・コンサートなるものが行われる、路上パフォーマンスには格好の場所である。ところが、演奏家は一人もいなかった。

 シュテファンズ・プラッツに着くと、音楽で一番人だかりがしているのはクラリネットとチェロの合奏で、洋楽の小品を次々と演奏している。きちんとした舞台衣装を付け、譜面台に楽譜を置いて、舞台上で演奏するのとまったく同じ形で演奏している。音楽の都ウィーンという場所柄に合った演出なのだろう。プロのクラシックの演奏家がアルバイトにやっているようだが、演奏は特に上手いというほどではない。音楽家たちの中ではこのグループが広場で一番格調が高く、また人気がある。客は彼等の周りに輪を作って聞き、金を帽子に入れる時も、何となく尊敬のまなざしというか、まじめな顔つきをしていた。その他にも幾つか音楽のグループや一人の演奏があるが、上手でない所には人だかりがしない。

 一番人だかりがしているのは、音楽ではなく、何というか、実にしょうもない見世物である。そういうのがいくつかあるが、代表的なものは、「彫像の真似」である。服と全身を銀色に塗って、彫像のようなポーズをとったままじっと動かずに広場に立っている。時々ちょっとだけ体や顔を動かす。通行人は、おやっと思ってじっと見詰める。動かないはずの彫像が動くかのようで、見物人はますます注意を引き付けられる。たまに普通の人間に戻って頭を掻いたりして、観客の笑いを誘う。特に子供が喜んで見る。ということは大人もいっしょに見るわけである。子供が投げ銭をしたがるので、親が金を出す。こんなつまらぬ芸で仕事になるなら、まじめに毎日働いている人間はたまったものではないなあ、と考えながら、実は私もそれをしばらく見ていた。

 ふと見ると、私の隣にギターのケースを持った若者がいる。私はその若者に、「あなたはこれからここでギターを演奏するのか」と聞いてみた。すると相手は、そうだと言う。私は「実は私もここで演奏したいのだが、許可を取っていない。許可なしで演奏するとどういうことになるか知っているか。罰金を払わされたり、逮捕されたりするのか」と聞いてみた。すると若者は「なあに、別にたいしたことはない。ポリスが来て、やめろと言ったらやめればいいのさ。私も許可は取っていない。しかし、ロシア人はだめだ。あなたは日本人か。それならいい。だが、コムニストはだめだ。あなたはコムニストか。」と聞く。「私はコムニストではない。リベラリストだ。」と言うと、「それならいい。それに、あなたは日本人だから、ポリスが来ても、言葉が分からない振りをしていれば問題ないよ。Everything is not dangerous here.(ここでは危険なことは何もない)」と言う。私が、「すると、ポリスもdangerous ではないのか。」と言うと、「No.(そうだ)」と言う。私は思い付いたら何でもすぐ実行に移す性格なので、これはいいことを聞いたと思い、すぐ「I shall try.(やって見よう)」ということになった。

 許可を取っていないという引け目があるので、街角のすこし暗い所に行き、尺八を吹き出した。するとすぐ二、三人がこちらに寄って来て、金を置いていく。これはプダペストとはだいぶ様子が違うようだ、と気をよくして吹いたが、人が近寄ったのは初めだけで、それから後は全然寄ってこない。だが、最初から聞き入っている人が一人だけいた。私は十五分くらい吹いても全然人が集まらないので、いったん演奏を止めた。するとその人が話し掛けてきて、私の演奏を誉めた。そして、自分は心理学を勉強している学生だと言って「それは精神の音楽なのか」というようなことを尋ねた。そういう質問に答えるのは得意なので、私は例によって尺八音楽の説明をした。そして、「私の音楽は楽しい音楽ではないので、あまり人が集まらないようだ。」と言うと、「もっと明るい、人の通る所でやるとよい」と言う。それではと、場所を移して演奏したが、それでも人は通り過ぎて行くだけで、二人ほどが金を置いていっただけである。金の問題よりも、誰も立ち止まってくれずどんどん通り過ぎて行くのに演奏し続けるというのは、実につらいものである。

 十分程経った頃、私の前に警官が立ち止まった。この警官はプダペストのもったいぶった感じの警官とは違い、若く敏捷な感じで、目に人を射抜くような鋭さがある。こういう人がドイツ語を話すと、硬い語感がいかにも似つかわしい。交通整理に使う明かりの付いた棒のようなもので私を指し、「路上演奏は九時二十分までだということを知らないのか。おまえはドイツ語が分かるか。」と、鋭く尋問する。私は、あなたの言うことは全然分かりませんという顔をした。警官は「早く楽器をしまえ」と指示する。時計を見ると、九時半だ。私は英語もろくに出来ないような振りをして「stop, stop.」と言いながら楽器をしまい、帽子を取って申し分けなさそうにお辞儀をした。すると警官は、「よし、行け」というような指図をして立ち去った。私は放免されて一人歩き出すと、犯罪者から普通のツーリストに戻ったようなほっとした気分になった。

 歩きながらあたりを見回すと、なるほど、さっきまでたくさんいた路上音楽家たちは皆姿を消している。ボリビア人が、2時間だけ演奏出来ると言ったのはこのことかと思い出した。このウィーンの街は、古い都の気品と格調を維持するためか、音楽に限らず何事も秩序を重んじるようである。ところが、しばらく行くと、さっき私に悪知恵を授けてくれた青年が、街角で一人でギターを弾きながら歌っているではないか。日本の下手なフォークと似た感じで、お世辞にも上手とは言えない。やはりあの青年はいい加減な男だったのだ、と私は自分のことを棚に上げて思った。さて、この日の収入は56シリング余り(約600円)だった。演奏したのは30分ほどだから、ブダペストとはだいぶ金額が違う。しかし、そんなことより、私はたった一人の人としか話せなかったことにがっかりしてしまった。

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