◎欧州ストリート尺八行脚 1 ◎
◎旅立ち
一九九八年七月三十一日(金)。十三時、アエロフロートで成田発。飛行機はAIRBUS A-310 8 aircraft、双発の旅客機で定員200人位、エコノミークラスで一列八人の座席。サービスはまあまあだ。あとで同乗の子連れ女性から聞いた話では、彼女は何年かぶりにアエロフロートに乗ったが、そのサービスが以前と比べてよくなったことにものすごく驚いたそうである。「アエロフロートで、あんなきれいなスチュワーデス、初めて見たわ。」とか、「前にツボレフとか言う飛行機に乗ったときは、トイレのドアが閉まらなかったのに、今度はよかった。」などと感激して話していた。私はスチュワーデスが特にきれいだとも思わなかったが、運賃が安い割には、確かにサービスはよかった。
食事の前にワインが一本出るのだが、もう一本飲みたくて料理場みたいな所までわざわざ出かけ、「もう一本欲しいのだが、」と下手(したで)に出て頼んだら、初めは、「ワインは一本だけである」というようなことを言っていた。しかし、「では一本買うことが出来るか」と、こちらの欲求が切実であることを伝えたら、それほど欲しいなら、という感じで、快くサービスしてくれた。私はそのスチュワード(男性スチュワーデス)の好意に感謝したが、座席で私だけが堂々とワインを飲んでいると、他の客が羨むかもしれないし、また、規則を破った彼の立場が悪くなると気の毒なので、次の食事までシートの荷物の中に隠しておいた。
十八時三十分、モスクワ(シェレメチェベ第二?)空港着。八時までロビーで待たされ、ようやくバスに乗ってホテルへ。バスの運転手がヤミでモスクワ市内を一周してくれるという噂を聞いていたが、それは期待外れで、ホテルに直行した。ここは「ノボテル」という空港内のホテルで、二階の窓から見る中庭は真ん中にグランドピアノを据え、その周囲をレストランが囲んで、エレベーターはガラス張りで、ホテル全体はものすごく豪華な造りに見える。おそらくロシアでは一級のホテルなのだろう。しかし部屋の中の家具などは案外建て付けが悪く、木製の引き出しが閉まらなかったりする所があった。パッセンジャーは一般客とは区別され、全員翌朝までホテルの二階に軟禁されてルームサービスと朝食のサービスだけが受けられる。ルームサービスは日本よりはむしろ安い。テレビをつけると、英独仏とロシア語の番組があった。
八月一日(土)。モスクワからブダペストに飛んだイリューシン62とかいう飛行機は、その名からロシア製と推測される。胴体後部に四つのエンジンを付けた、変わった形の飛行機だ。これも昨夜のホテルと似た所があって、細かい部分の建て付けが悪い。特に感じたのは、背もたれに付いた引き出し式のテーブルである。小さな鉄工場で作ったような鋳物製で、長く使ったためだろうが、歪んでいて簡単に引き出せない。飛行機の客室部品に鉄をそのまま使うというのは、いかにもロシア的な神経と言うべきだろうか。
◎決心
尺八を吹く人なら誰でも、自分が虚無僧になって諸国を托鉢して巡るということを夢想したことがあるだろう。虚無僧の音楽を受け継いでいる尺八本曲には、流浪・孤独・自照・精神の修養などの要素が流れている。武士と言う身分柄、建前上は認めなかったが、虚無僧はまた実際には乞食でもあり、旅芸人の一種でもあった。変身願望と言えば大袈裟だが、そんな生活を一度自分も体験してみたいと思う人は多いだろう。私も同じで、いつかは街角に立って自分の音楽を道行く人々に直接訴えかけてみたいと思っていた。その結果、音楽というものに関して、また自分自身に関して認識が変わる、或いは深まるということが起きるかもしれない、その変化を見届けてみたいというような気持ちだった。そんな願いを実現するために、去年(1998年)の夏から秋にかけて、私は二ヶ月間ヨーロッパ各地を放浪し、都市の辻々で尺八を吹いた。
街角で尺八を吹くということは、その気になればいつでも出来ることであった。しかし私は、尺八を始めて三十年になる今までその決心がつかなかった。その理由を正確に表現することは難しいが、誰でもだいたい想像がつくだろう。一言で言うと、「恥ずかしい」ということだ。自分の演奏を聞くために集まった人々ではなく、もともと興味のない、ことによったら自分を蔑んだり嘲笑ったりするかもしれない人々に向かって、自分がもっとも大切にしている音楽によって語りかけようとすること。理解してもらえればよいが、そうでなければ屈辱や自己欺瞞、あるいは音楽への失望や裏切りにつながりかねない。よほど自信がなければ、いや、どんなに自信があったとしても、普段は一応まともと言われる社会生活を送っている人間がそういうことをするにはためらいが生じるのは当然だろう。まして、尺八の演奏はたった一人、仲間といっしょに演奏するのとは違う孤独感があるだろう。しかし、私は考える所があって、今回の旅行で、この路上パフォーマンスを試みた。
◎バーツィー通り(ブダペスト)
八月一日(土)。私のヨーロッパ放浪一日目は、ハンガリアのブダペストである。ここは昔オーストリア・ハンガリア二重帝国の都として栄え、現代でも東ヨーロッパ随一の大都市である。昼のうちは暑いが、夕方になってようやく暑さが和らいできた。町の人も観光客も夕食がてらのんびりと散歩に出かけようという時刻である。もし私が辻立ちの計画など持っていない、ただの観光客だったなら、この上なくくつろいだ気分でいただろう。ところが、私は朝から辻立ちの決心がつかず、あれこれと迷っている。
夕方の七時を過ぎる頃、私はブダペストで一番の繁華街、バーツィー通りにやってきた。ぶらぶらと歩きながら、他の旅芸人たちはどんなことをしているのか様子を伺っていると、横丁から、一目でカップルと分かる二人の若い演奏家が姿を現した。女性はバイオリン、男性はギターを出して演奏の準備を始めた。女性は小柄で色白で華奢な、まだ少女のような年齢の美人で、特に茶色の目が美しい。男性もそれに釣り合ったような、痩せてすらっとしたやさ男で、もみ上げの髭剃り痕が青い、そういう意味でも、いかにも「青年」という感じである。バイオリンのケースを自分たちの前に置いて投げ銭の受け皿にし、合奏を始めた。曲はもの悲しげなジプシー調の曲で、若い二人の姿と相俟って、痛々しいほど胸に染みる旋律である。二人は一心に演奏を続けている。彼らと同じことを自分もしようとしていると思うと他人事と思えず、私はぶらぶら歩く振りをして何となく近づいたり遠ざかったりしながら、二人の周囲を観察した。
通行人はほとんど興味を示さず、どんどん通り過ぎて行く。しかし十分かあるいはそれ以上だったか、長く見ていると、中には立ち止まって聞く人もいる。硬貨を置いていく人もいる。私はこの二人の「先輩」を横目で眺めながら、自分も人々の無関心にあんなに辛抱強く耐えながら演奏が続けられるだろうかと、まったく自信のない気持ちになった。
さて私はどこで演奏しようかと考え、我ながら矛盾した考えだが、手始めにまず人のいない所で吹いてみようという気になった。そこで、バーツィー通りを離れてドナウ河の岸辺の観光船の船着き場に出た。夏の夜の川風は心地よく、右手、河の上流に鎖橋、左手下流にエリザベート橋が見える。対岸には王宮がライトアップされて美しく浮かび上がり、その左手、ゲレールトの丘の上に半月が輝いている。私の立っている側がペスト、河向こうがブダで、両方を合わせてブダペストと言う。時折、船着き場で船を下りた観光客の一団が通り過ぎる。ドナウに向かって『千鳥』、『三谷菅垣』などを吹く。心を澄ますとか、修行するとかいうことならば、申し分ない環境だろう。しかし私の心は落ち着かない。やはりさっきのバーツィー通りで演奏して、皆に聞いてもらうべきではないか。それが私の目的だったのではないか。こう考えて、バーツィー通りに戻ることにした。ちょうど九時ごろだった。
バーツィー通りに帰ってみると、人通りは相変わらずである。例によってぶらぶら歩くと、先ほどの若いカップルを含めた五人くらいの集団が、道端に車座になって金勘定をしている。「ああ、彼らは今日の仕事が終わったんだ。先輩たちはさすがに物慣れているなあ」などと思いながら、そこから少し離れた路上で、勇気を出して演奏を始めた。服装は普通の旅の服装のまま、つまり綿パンに半袖シャツ、野球帽、そして足元にリュックサックを置いて投げ銭の受け皿にした。旅行中、全部このスタイルで演奏した。その後、西ヨーロッパで友人になった人たちから言われたが、和服を着て尺八を吹けば、確実にもっと多くの人の注目を集めるだろうということである。もちろん、天蓋を被ったり刀を差したりすれば、演出効果はさらに上がるだろう。しかし、私は今でもそういう格好で路上で吹こうとは思わない。
ちょっと横道に入って歴史の話をするが、昔の虚無僧がしたのは、正確に言うと「辻立ち」より「門付(かどづ)け」の方が多かっただろう。「門付け」は、一軒一軒の家の門の前に立ち、尺八を吹く。刀を差し、天蓋で顔を覆った異様な風体でいつまでも門の前に立ちつづけ、脅迫にも似た威圧感で、御布施を半ば強要したのである。御布施を出さないと、嫌がらせをすることもあったのだろう。このようなことをしたのは虚無僧だけではないかも知れないが、ともかくこのような押し売り的行為は、現代では許されない。虚無僧の歴史を知れば知るほど、私の中の虚無僧像は二つに分裂する。一つは自己修行と言うことであり、もう一つは修行に名を借りた反社会的存在ということである。私が路上演奏で虚無僧や侍を連想させる特別な衣装を着けなかったのは、そういう尺八の歴史に対する一つの否定的感情があったからである。昔のことだからと言ってしまえばそれまでだが、現代の尺八音楽が、虚無僧の反社会的な部分を否定し、克服したことによって初めて、普遍的な音楽として発展することが出来たのもまた事実なのである。
曲はいろいろなものを用意していったが、一番演奏しやすいのは『千鳥』である。静かな所と華やかな所が両方あり、メリ音が少ないので音がよく通る。辻立ちの場合、まったく無関心な聴衆を引き付けなくてはならないのだから、まず音が聞こえなくては話にならない。ただし、独奏の場合、前唄は長すぎるのでカットし、全体で十分くらいにまとめる。これに『下り葉』、『鹿の遠音』、『春の海』などを適度に混ぜて、何度か演奏する。楽譜を見ながら演奏している路上演奏家もいるが、風が吹くと面倒だし、長旅に譜面台は煩わしいので、私は全部暗譜して吹いた。その代わり、途中で間違えても、あるいは即興で編曲しても、曲の流れが途絶えなければ一向構わない。
最近、東ヨーロッパには外国人、特にアジア人排斥の動きが見られるが、ハンガリーはその傾向が強い。共産主義が崩壊してインフレが高進し、現地の人たちが暮らしに困っているのに、自由化で中国人やベトナム人が大勢押しかけて、安い賃金で仕事を奪ってしまうことに対する不満があるそうである。日本人が中国人と間違えられて暴行される事件なども起きている。そういう話を聞かされていたので、初めのうちはかなり緊張した。
◎最初の観客
(ブダペスト)
さて、尺八を吹き始めて1分、2分、3分…、私は吹きながら通行人の様子を観察した。通行人はまったく関心を示さず、どんどん通り過ぎて行く。中には、興味のありそうな顔をして振り向いて行く人もいる。しかし通行人は、分別と教養を持ちあわせている人ばかりではない。酔っ払いもいれば子供もいるし、スキンヘッドでのし歩いている若者の集団もいる。「変なことをやっているよ」という様子で、嘲笑うような顔つきをしたり指差したりして通る人もいる。もちろん、金を投げて行く人など一人もいない。私は、大袈裟に言うと、生まれて初めての屈辱感のようなものに苛まれながら、始めた以上簡単にやめるのもいやだという気持ちと、「私が一生懸命吹いているこの音が、人の心を捉えないわけがない」と自分に言い聞かせる気持ちに支えられて、尺八を吹き続けた。
『千鳥』が終わって、『下り葉』を中程まで吹いた頃だったか、私は誰かが明らかに他の通行人とは違って、私に興味をもって近づいてくるのを感じた。二人連れのうちの一人が、間近に座り込んで私の顔を覗き込んだり、尺八を観察したりしている。誰だろうと、吹きながら横目でその人の顔を見ると、驚いたことにそれはさっきのカップルのギター弾きの若者だった。となりにいるのはバイオリン弾きの美人だ。私は瞬間、これは商売敵に縄張りを荒らすなと脅かしにきたかと思ったが、それにしては様子が違う。二人とも非常にまじめな顔つきで私の演奏を鑑賞しているということがはっきり分かるのだ。
とにかくたった二人でも、聞いてくれる人がいる、という考えに私は励まされて、彼等のために一生懸命に吹いた。しかし人間とは不思議なもので、そんな時にも、「もしかして、この後、演奏の縄張りを決める国際交渉が始まるかもしれない。それを有利に運ぶために少しでもうまく吹いておこう」とか、「いやいや、そんなことはない。何でも政治的に考えるのは私の悪い癖だ。雑念を払って、とにかくいい演奏を聞かせよう」とか、色々の思いが頭を去来する。こんな風に考えるのは私だけかもしれないが、緊張して演奏している時には、時として途方もない雑念が浮かぶというのは、演奏の経験のある人は誰でも知っているだろう。
私が『下り葉』を適当な所で終わりにすると、ギターの若者は親しい態度で話し掛けてきた。すばらしい音色だと私の演奏を誉め、金を渡そうとする。私はあわてて、「実は私はさっきあなたたちの演奏を聞かせてもらったが、その時金を払わなかったから」と言って、受け取りを断った。若者は、私がどこの国から来たのかとか、その楽器の名前は何というのだとか、いろいろと質問する。二人ともロシアのモルドバという所から来たそうで、若者はスハーリ・エドアルドと名乗った。モルドバというのは後で調べたら、ルーマニアのすぐ東隣りにあった。「あなたの音楽はすばらしい。あなたはその楽器を売るのか。売るのなら一つ買って、自分も演奏したい」などと真顔で言う。ロシア人のストリートミュージシャンの彼等に、お世辞にも尺八を買う金があるとは思えない。尺八という楽器は、見掛けによらず非常に高価であるということ、またその理由を、日本人の製管師である私は、「I am sorry,」と言いながら説明しなければならなかった。
つまらないことを付け加えるが、この時私は、投げ銭の受け皿、つまり賽銭箱として十センチ四方ほどのプラスチックのパックのようなものを置いていた。これはブダペストの宿舎の庭で植木鉢に使って捨ててあったようなものを拾って、洗って持ってきたのである。ところが、私がエドアルドと話している最中、一団の若者が私たちの前を通り、そのうちの一人が私の賽銭箱を足に引っかけた。故意であったかどうかは分からない。あ、おれの大切な賽銭箱が、と思うまもなく、今度は子供がそれをポーンと蹴ると、拾って持って行ってしまった。子供は明らかに悪意はなかった。賽銭箱とはいっても中身はどうせ空だし、もともと捨ててあったものなので、まあいいか、と思って私はあきらめた。ところが、その二日後、同じバーツィー通りに私が辻立ちをしようと来てみると、乞食の老女が私のあの賽銭箱を持って物乞いしている。これには私も驚いた。自分が乞食と同じ世界に住んでいるような気さえした。よほどその乞食に話し掛けて、賽銭箱の由来を説明しようかと思ったが、英語が通じる相手でもないようなので、諦めた。
さて、このロシアの若夫婦といろいろ話をした。彼等は、自分たちはケルトの音楽が好きで、その演奏が主業だが、アルバムを出す金を作るために出稼ぎに来たのだというようなことを話した。そして、自分たちの本当の演奏を録音したCDがあるが、一枚しかないので明日それをテープにコピーして持ってくるとか、君はこの土地でコンサートをするのか、するなら是非聞きに行きたいとか、君は自分の演奏のテープやCDは持っていないのかとか、いろいろと熱心に聞く。私は日本を出るとき、自分の演奏が入っているCDを持ってきて売ろうかとも考えたが、かさばる割に利益が薄そうなので一枚も持ってこなかった。演奏家同士の挨拶に使うことなど想像もしなかったので、惜しいことをした。
私は、この辻立ちのような仕事を彼らがどういう気持ちでやっているのか、聞いてみた。奥さんが、「この仕事はあまり好きではない」とは言ったが、特につらいとか恐いとかいうことはないようだった。また、警官に取り調べられることはないかと聞くと、奥さんが初めは「全然問題ない。No problem.」と言ったが、そのすぐ後で、「Sometimes problem.」と言って、にやっと笑った。私が、どうも私の音楽は人々に好かれないようだと言うと、「そんなことはない。私はあなたの音楽が好きだ。」と言う。では、もう一度試してみようと、私はまた『千鳥』を吹き始めた。もちろん、通行人だけでなく、そのロシア人の夫婦にも聞いてもらいたいと思ったからだ。するとどうだろう、今度は通行人が一人二人と金を投げて行くではないか。私は内心ほっとして、十分ちょっとで演奏を止めて、またロシア人の夫婦と話をした。
今日は四十分くらいしか演奏しなかった。しかし、なにしろ初めての辻立ちで、ともかく全然無視されるということはないということを確認しただけでも大収穫だし、金も多少集まった。それに、今夜は演奏ばかりしていたのでは、せっかく友達になったロシアの夫婦と話をすることが出来ない。私の生まれて初めての、それもヨーロッパでの辻立ちで、最初に私の演奏を認めてくれたのは、私と同じ路上の音楽家たちだったという事実は私にとって意外でもあり、感激でもあり、また感謝でもあった。私は彼らに尺八の説明をしたり、住所を教えあったりし、明日もまたここで会おうと約束し、握手して別れた。