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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦







十章・杭瀬合戦

「江戸にて、いまだに動き出す気配なし」

というのは東軍の総大将であった、徳川家康の動きに対する石田三成の持っていた情報、いや石田方の諸将が思っていたことであろう。おそらく石田三成をはじめとした西軍諸将には、徳川家康が江戸を発ったという情報しか入っていなかったのは無いだろうか。それでなければ徳川家康が着陣する前に、なにかしらの手を打っていたはずである。

徳川家康がとうとう合戦の最前線に出てきた事により、東軍諸将の士気は大いにあがり、逆に西軍の諸将へ大きな動揺を与えた事であったはずである。そして石田三成は動いた

側近であった島勝猛に五〇〇の兵を預け、赤坂に陣取っていた東軍に対して、先制攻撃を与えようとしたのである。ようは奇襲でもって、機先を制して見方の士気をあげようという試みであったのではなかろうか。もちろん島隊五〇〇だけでは、いくら奇襲でもたいした打撃があたら得られる訳がない。他に宇喜多秀家および明石全澄を加えた軍兵である。

まず東西両軍の間を流れる川、杭瀬川を島隊が密かに越え、東軍を挑発したことから始まった。

川岸に陣を張っていた有馬豊氏、中村一豊隊は、両者が競うような形となり、島隊へ攻撃を開始したのである。しかし島隊はそのまま、大した反撃も行わずにそのまま退却。その様を見た有馬、中村の両隊は川を逃げわたる島隊に殺到し始めた。

ここで島勝猛を討ち取れれば、まさに一国一城に値する価値があったのであろう。まさに島隊が退いた方向へ有馬、中村の両隊が向かって時、突然脇より轟音が響いた。伏兵であった。宇喜多、明石の両隊が島隊が逃げてくる地点に、鉄砲隊を伏兵としておいて置いたのである。

たちまち追っていたはずの、有馬、中村隊は混乱に陥ったはずである。これは好機とばかり、いままで逃げていた島隊も、反転して攻撃に移った時、まさに術中にはまったのであった。有馬豊氏、中村一豊の両氏がすぐさま兵を元の陣に戻した事は、いうまでもないが、決戦を前にしての前哨戦としては、士気への影響はおおきかったであろう。

もしもここで西軍である石田三成が、大々的に軍を展開していたならば、もっと違った結果として構成に語り継がれていたと思われる。この時、西軍諸将の大多数が、この戦闘に反対であったとも言われるが、その真実は定かではない。そもそもが石田三成の意志で動いた行動で無かったという説もある。

こうしてこの争いは、杭瀬川の合戦として後世に語り継がれることになった。