さて天下人であった豊臣秀吉が世を去ったのが、慶長三(1598)年8月18日の事である。このとき徳川家康は、豊臣政権下の五大老のひとりであり、石田三成は五奉行のなかの一人であった。 ちなみに五大老とは、秀吉に代わり国政を司る最高機関であり、この徳川家康の他には、前田利家、小早川隆景(死後上杉景勝)、毛利輝元、宇喜多秀家である。また五奉行とは、五大老の元で政務を担当する者達であり、石田三成のほかには増田長盛、長束正家、浅野長政、前田玄以の五人である。また秀吉の死後は、この五大老および五奉行の合議制で、国政を運営していく取り決めであった。 しかしこの時点より、家康の政権奪取が始まったのである。(と勝手におもってるだけかも知れませんが・・・。)
そもそも秀吉在世中の家康の地位は、どうだったのだろうか? 豊臣秀吉が小田原の北条氏を成敗し(小田原征伐)、その北条氏の旧領である関東を手中に収めた。その際に徳川家康に対しての国替えを要求。古くからの領地であった三河はもとより遠江、駿河、甲斐、信濃から、関東六カ国へ配置換えを行ったのが、天正十八(1590)年のことである。
関東六カ国の内訳は、相模、武蔵、上野、上総、下総、伊豆、の六カ国である。
豊臣秀吉としてはやっかい者を、大阪や京より遠ざける意味もあった転封であっただろう。その証拠に関東より京へ続く東海道諸国には、豊臣秀吉に近い大名が置かれている。しかしこの転封により、徳川家康は二五〇万石の大大名となったのである。その国力は他の大名と比べ一人飛び抜けていた。同じ五大老であった前田利家や上杉景勝、毛利輝元は一〇〇万石程度であり、宇喜多秀家に至っては五〇万石強である。参考までに石田三成の石高は、近江佐和山に一九万石である。 同じ五大老であっても家康は他の大名に比べ、倍以上の石高であったようだ。 石高が高ければ、それだけ多くの兵を養えることは想像できる
一万石で三〇〇人の兵を養うとした場合、徳川家康は七万五千人の兵を養える計算になる。ちなみに石田三成は一九万石で、五千七百人である。
徳川家康はまさに名実共に、豊臣政権下では第一の実力者であった。あえて家康に対抗できる人物をあげるとすれば、槍の又挫と異名を持った前田利家であろうか。
一方の石田三成はどうだっただろうか。石田三成の場合は槍を持って戦場を駆け回る武将ではなく、政治のいっさいを取り仕切る五奉行の頭的な存在であって、現代社会に置き換えれば官僚であろう。
さて徳川家康が自ら権力をとることができるか?それとも三成が豊臣政権を守り抜くことができるか?(結果は分かりきっているのですけど・・・)。この両者の争いはこの慶長三年からはじまったといえる。
このページはこの様な感じで、勝手な想像も含めて関ヶ原の合戦への経緯および、合戦の状況等を語っていくつもりです。 |