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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦






二章・三成憎し

当時の豊臣家家臣団は、大きく分けて2つの勢力に分かれていた。

石田三成や増田長盛、長束正家などを中心とした、いわゆる官僚派といわれる者たち。もう一方は加藤清正、福島正則、黒田長政らを中心とした、いわゆる武断派といわれる者たちである。ただ単純に「武」と「官」というだけでは無ない。豊臣秀吉の側室であり秀頼の生母であった、淀君を中心とした近江派。さらに豊臣秀吉の正室であるおねを中心とした尾張派。この近江出身の者、尾張出身の者とも分けることができる。

さて同じ豊臣家の中枢を担う家臣団でありながらも、なぜ対立するようになったのか。対立と言うよりも、単に石田三成と、福島正則や加藤清正等の武断派の武将に、嫌われていたといった方見方もあるかもしれない。

そもそものきっかけは何だったのか?一般的に言われてるのは、朝鮮の役での石田三成による「論功行賞の不公平」からだと言われている。論功行賞とは家臣の武功・手柄に対して、主君が領地や金、感状などと言ったモノを与える、つまり褒美の事である。

論功行賞は主君である豊臣秀吉から直接下されるモノであるが、どれだけの手柄を立てたのかどうかは、その秀吉の耳にどれだけ良い報告をされるかで左右される。当時この役についていたのが、石田三成であった。
福島正則や加藤清正らは、豊臣秀吉からくだされた恩賞には不満であった。その不満を直接主君に訴えることが叶わぬ為、目付として報告した石田三成に向けられたのである。また豊臣秀吉の死後、我が物顔で豊臣家の中枢にいた石田三成に対して、福島正則らは秀吉の子飼の武将としての誇りがあり、自然と政権争いという形になったのではないだろうか。戦場での活躍によって得られた権力が、戦場ににてロクに手柄も上げず、口先だけで出世したいる石田三成が、気に入らなかっただけかもしれない。

その石田三成への不満がやがて憎しみとなり、そして最後には武力でもって命を取ろうと言うことになったのである。

それが形となって現れたのが、俗に七将と言われる秀吉子飼の武将たちによる、石田三成殺害計画である。今までは前田利家によって押さえられていた。しかし前田利家が亡くなると、その押さえも同時に無くなったのである。。

ちなみに七将とは下記の7人であると言われている。
( 言い伝えや古文書によって、若干武将の顔ぶれが異なっている )

◇福島 正則
◇加藤 清正
◇黒田 長政
◇浅野 幸長
◇藤堂 高虎
◇細川 忠興
◇蜂須賀家政


さて殺害計画である。それぞれの軍勢を率いて石田三成の襲撃を行おうとするが、その変事をいち早く察知。素早く常陸の国主であった、佐竹義宣の助けを求めたのである。七将等が思ってもみなかったところへ逃げ込んだのである。

その佐竹義宣も自分の力では、限度があると思ったのであろうか、石田三成をなんと徳川屋敷へ行かせたのである。供の者も数人しか連れていない状態で、真っ向から対立関係にあった、五大老筆頭である徳川家康の懐に飛び込んで行った。当然、これには石田三成は殺されることは無いと、計算してのことであったであろう。

徳川家康の方も深夜の訪問者、さらに石田三成の来訪だったとは驚いたに違いない。七将からは徳川家康に対して、再三にわたって石田三成の引き渡しの要求があったであろう。しかし徳川家康はこれを断固として拒否する姿勢をとった。

なぜ徳川家康はここで、今一番の仇敵である石田三成を殺さずにおいたのか。考えられることとして、徳川家康の目的は石田三成を殺害する事ではなかった。もっと大きな目的が存在していた。それは天下の覇権を握り、徳川政権を樹立させる事である。しかし豊臣秀吉が亡くなったといっても、徳川家康はいまだ豊臣政権の臣下の一人でしかない。政権を握るには、家康に敵対する大名達を排除する事が必要であった。ではどうやって排除するか、いくら家康の力を持ってしても、理由なしではそんなことはできない。そこで家康に対抗する勢力を作り、合戦を起こし、その戦に勝利すれば敗れた大名を排除できると考えたのでは。その人物の一人として、徳川家康は石田三成に目をつけたのではなかろうか。

しかし七将にとっては、強引に奪い返す程の力は無く、徳川家康の仲裁という名目の元に兵を退かざる得なかった。また石田三成はおよそ1週間程、徳川屋敷に滞在した後、徳川家康臣下に守られながら居城佐和山へ退いた。

この時点で石田三成は実質的に、五奉行の職を失ったと言っても過言では無い。おそらく家康としては、居城に戻った三成が何かしらの形で、挙兵するのを待っていたのであろう。