清洲城にて美濃攻略の軍議が開かれたのが、八月二十日のことであった。その場で美濃攻めが話し合われ、まず攻撃目標におかれたのが、岐阜城であった。岐阜城および大垣城にて戦線を引き、美濃より福島正則等の東軍を一掃するのが、石田三成の計算であっただろう。当時の岐阜城主は信長の孫である織田秀信である。ちなみに秀信は石田三成に通じ、東軍に対して敵対していた。またこの時の美濃の情勢は、その大半の勢力が三成方であった。
美濃への攻撃目標をまずは岐阜城に定めた東軍、八月二一日に清洲城を発った。まずそのまま北上して、木曽川の河田の渡しを渡り岐阜城を突くのが、池田輝政、山内一豊、浅野幸長らおよそ一八〇〇〇。河田の渡しより若干下流りあたる尾越の渡を通るのが、福島正則、黒田長政、細川忠興らおよそ一六〇〇〇である。
二方に軍を分けたわけだが、ここで福島正則と池田輝政との間で、先陣争いが起きていた。福島正則と輝政のどちらが、河田の渡しをとおるかである。河田の渡しを越えれば、一日で岐阜城へ到着する距離である。しかしもう一方の尾越の渡しをとおれば、二日間掛かってしまい、丸一日多く掛かってしまう距離であった。どちらを通るかによって、岐阜へ到着する時間が異なるのである。しかし岐阜城への攻撃は双方が揃った上で行うと取り決め、ここでは輝政が河田の渡しを通りを、福島正則が尾越の渡しを通る事に決した。また徳川家康の軍監として派遣されていた、本多忠勝は尾越の渡し方面、井伊直正は河田の渡し方面へそれぞれ付き従っていた。
福島正則、黒田長政等は、杉浦重勝が籠もる竹ヶ鼻城を八月二二日に陥落させた。しかし同日岐阜城下ではもう一方の池田輝政、山内一豊らの軍勢と、岐阜城に籠もった織田秀信の兵およそ六五〇〇との戦闘を開始していた。
池田勢を中心とした兵と織田軍との戦闘をしった福島正則は激怒し、黒田長政らの抑えも聞き入れず、そのまま夜を徹して岐阜城へ迫ったと言われている。
岐阜城側の織田秀信はどうしていたのだろうか。本人は信長の嫡孫という誇りもあり、簡単に降伏などするつもりなど無かっただろう。そもそも秀信ははじめ、徳川家康と共に会津の上杉征伐へと向かう予定であった。しかし出陣への準備に時間を掛けすぎ、石田三成の説得の元、織田秀信は西軍こと石田方へくみしたのである。織田家重臣であった木造具康、百々綱家の両名は、石田方へ付くことに対して反対していたが、織田家の命運は若干21歳の秀信の手に委ねられたのである。秀信が三成に説得された際、木造、百々の両名は、前田玄衣の元にあり、今後の戦略を練っていたと言われている。
さて岐阜城下でに戦闘だが、池田輝政を中心とした東軍は、1日の戦いでもって織田軍を粉砕。秀信はそのまま籠城のかたちを取った。ちなみに織田軍六五〇〇のウチの半数は、西軍、三成方に付いた美濃在郷の兵であった。翌八月二三日から攻城戦となるのだが、ここで夜も休まずに福島正則が到着。その陣は岐阜城ではなく、味方であるはずの池田軍へ向けられていたと言われる。しかしここは軍監として派遣されていた、本多忠勝および井伊直正の機転により回避できた。前日の初戦で勝ち戦をモノにした池田輝正は、正面からの城攻めを福島正則に譲り、自らは搦め手から攻めるとしたのである。福島正則は城を落として、第一の手柄とするべく、そのまま正面からまっしぐらに城攻めを行った。
岐阜城は斎藤道三が築き、それを織田信長が改良して、まさに難攻不落の城であった。しかし多勢に無勢。この時に城に籠もっていた兵は、一〇〇〇に満たなかった。まさに全方位から攻められた城は落ちるべくして落ちたのだろうか。その日の夕刻には、本丸まで攻められて降伏したのである。
城主織田秀信は降伏する直前まで、家臣の為に感状をしたため、その行く末を案じていたという挿話が残っている。秀信としては、この一戦でもって、織田家の面目を保とうとしたのであろうか。おそらく今まで家臣等の意見に従っていた秀信が、自分の意見を押し通した最初で最後の行動だったのではなかろうか。秀信は一命を許されるが、高野山へ配流となり、五年後に息をひきとる。
この岐阜城陥落は、石田三成にとって、大きな誤算であっただろう。また三成の籠もる大垣城へは、竹ヶ鼻城攻めで勝利を得た黒田長政らが、向かっていた。
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