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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦






七章・西上再び

下野の国は小山にて、並み居る武将の心をひとまず掴んだ徳川家康。まずは福島正則を中心とした豊臣恩顧の大名を先鋒として、陣を引かせ西上させた。徳川家康自身も翌日には、上杉景勝の抑えとして東北の各大名および、二男の結城秀康等を残して陣払いをした。また三男であった徳川秀忠には本多正信をつけ、徳川家の主力を率いて、中山道を西上することに決した。この徳川秀忠が率いる別働隊が、のちに関ヶ原の決戦に遅参してしまうのである。

さて、福島正則をはじめとする先発隊である。まずは福島正則の居城であった清洲城へ入城した。それが八月一五日であったと言われている。この福島正則の清洲城入城は石田三成に取っては、まず最初に起きた誤算であっただろう。石田三成にすれば、濃尾平野に敵方が現れる前に美濃、尾張を抑えてから、尾張あたりでの決戦を望んでいたはずである。岐阜城主の織田秀信をはじめ、美濃各地の大・小名のほとんどは石田方に与していたので、まさに美濃は自軍の領内であるので、立場的には攻め入られた事になった。

さて小山から江戸へもどった徳川家康である。しかしなかなか重い腰を上げようとしない。本拠地江戸にどっしりと、腰をおろし各地からの情報収集に勤めているとでもいうのだろうか。徳川家康は江戸城におよそ一ヶ月もの間滞在することになる。その間に各地の大名等に徳川方(東軍)に付くようにと、書状を書き続けていたらしい。そのかずは確認されているものでおよそ一五〇通。また徳川譜代の大名も他に10数通あるので、すべてをあわせると、おそらくそれ以上と思われる。

決戦時に小早川秀秋等の裏切りや、吉川元長等の日和見的な態度は、こうした書状が効をそうしたのであろうか。

また徳川家康にくらべて石田三成からの書状が少なかった様だが、この数は現存する物の数であって、当時石田三成が全く出していなかったとは考えにくい。徳川家康の数には及ばなくとも、それに近い数の書状は出していたはずである。いや立場的にそれ以上の書状を出していたとも考えられる。結果としてこの大戦で石田三成は敗れてしまう。そんな敗れ去った武将からの書状など、だれも残してはおかずに処分してしまう筈である。さもなければ、実は敵方にも内通していたなどと、余計な疑いを掛けられ、最悪の場合は恩賞どころか所領没収の目に遭わされる危険も持っていたと思われる。それらの事から、三成から出された書状の数が少ないのではと思う。

さて、徳川家康より一足先に尾張まで到着していた、福島正則をはじめとした豊臣恩顧の大名達。清洲城にて徳川家康が江戸を発する日を、まだかと待っていた。しかしなかなか江戸を発しようとはしない徳川家康にたいして、不満が高まってきていた。その不満は軍監として派遣されていた本多忠勝や井伊直正らに向けられた。本多忠勝としてもただただ家康の到着を待つしかなかったのである。

そんなある日の事、家康より一騎の使番が江戸より清洲に到着した。到着するなり清洲城に詰め寄っていた大名の前にて家康よりの口上を伝えた。

内容は「家康公が江戸を発しないのでは無く、発てないのだ。」という。福島正則をはじめとして、池田輝政、黒田長政などは元々豊臣寄りである。敵方の石田三成とは元をただせば、秀吉配下の同輩である。その者達が本気で石田三成と争う気があるのなら、それを行動を持って示すべしであろう。徳川家康にすれば易々と信頼して、寝首をかかれたらたまったモノではない。

これに口上に真っ先に反応を示したのが、やはり福島正則であったといわれる。この瞬間から、家康方と三成方の本格的な戦闘が開始される事になる。