徳川家康が大阪から本国の江戸へ旅立ったのは、豊臣家に対する上杉氏の態度に、反逆の恐れありと、判断したからである。このとき大阪から江戸へ向かったのは徳川家の家臣団ばかりではない。福島正則や黒田長政をはじめとする豊臣恩顧の武将も加わっていた。徳川家の私闘ではなく、豊臣秀頼の名の下の軍事行動であった。大義名分は徳川家康の元にあり、それに刃向かうモノはたとえ何人なりとも、豊臣家に対して逆賊とみられて当然である。
徳川家康は六月一八日に京伏見を発ち、近江、伊勢を通り、旧領三河をとおり東海道を江戸へ向かった。その行軍は、途中で鷹狩りなどを行っていたといわれる。江戸への到着は七月二日と言われている。
さてこの時点での状況はどの様なものだったのか。まず徳川家康は上方での押さえとして、伏見城へ宿老鳥居元忠以下およそ三千の兵を留め置いた。これは単なる留守居役であったのか、それとも上方でもしもの際の押さえ役、徳川家康自身が決戦の為に上洛するまでの時間かせぎ、とでも言おうか。また島津義久には異変がある際は、伏見城へ入城してもらう様に協力を得たという話が伝わっている。ちなみに徳川家康はこのほかには、側室など数人を大阪城に残してきている。
佐和山へひっこんでいた石田三成は、この時期を待っていたかのように行動を起こすのである。まずは武器弾薬、兵糧集めは前々からの準備で、すでに大半が集まっていたと思われる。
石田三成に取って必要となるのは、打倒徳川家康に立ち向う為の盟友だった。天地がひっくり返る事でも無ければ、石田三成一人では到底不可能であったからだ。
まず味方へ引き入れたのは、大谷吉継であった。この時大谷吉継は病身でありながら、徳川家康に遅れながらも会津討伐軍へ、加わるつもりであった。その際に美濃垂井で宿を取っていた大谷吉継の元へ、石田三成の使者が参り、佐和山の城へ同行した。その時初めて石田三成は、打倒徳川家康の旗を揚げる旨を口外したのである。大谷吉継は、勝てる見込みなしとの判断からか、石田三成を説得していたが、結局は長年の友であった石田三成の意見に従う。ここで石田三成方へわる事を決意した。
このとき吉継は敗戦も悟っていたと言われている。病身でもあった大谷義継はこのとき死に場所を得た気分だったのであろうか。ちなみにこのときの吉継は、ハンセン病にかかっており、乗馬する事もかなわず、陣頭では輿に乗り、視力も失っていたと言われる。
これとほぼ同時に、佐和山より密使が西国地方を中心とし各地へ向かっていた。石田三成は、今回の討伐軍に同行している大名以外は、全て味方に引き入れて、はじめて徳川家康と対等な戦ができると信じていたのでは。いや、徳川家康と一緒に会津征伐に向かった大名の中も、大半は豊臣恩顧の大名なので、徳川家康よりも石田三成方へ味方するとの、計算であったのではなかろうか。
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