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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦






九章・家康着陣

岐阜城の陥落は、石田三成の描いていた戦略を見事に砕いたことになる。岐阜城および大垣城を拠点として、濃尾平野を押さえ込み、西上してくる家康本隊と決戦を行う腹づもりであった。その思いと裏腹に、岐阜城は福島正則等の手に落ちたばかりか、逆に自らが拠点に定めた大垣の地が、濃尾平野にて孤立してしまったのである。

その知らせを石田三成が受けたのは、大垣城を出て援軍の派遣の手はずをしていた時である。それに引き続き、黒田長政等の軍勢が方向を変えて、こちらへ向かってくる事も同時に知った。石田三成は小西行長っらと協議して、退陣して大垣城へ籠もる事を決意。しかしすでにこのとき、黒田隊等の進撃を予想して、島津隊が墨俣付近に陣を張っていた。時は待ってくれない。善は急げ・・・とばかりに真っ先に大垣城へ戻ってしまったのである。

ここで軍勢を収容せずに退いた事は、石田三成が島津勢をないがしろにしたのだろうか。それとも我が身を案じて、犠牲も致し方なしとかんがえたのであろうか。はっきりしている事は、島津勢およそ一〇〇〇を見捨てて退き陣をしたことである。

石田三成は急ぎ伊勢方面へ侵攻していた宇喜多秀家をはじめ、毛利秀元、吉川元長等の毛利勢、長宗我部元親を呼び戻した。なおこの際、大阪城に籠もっている、総大将毛利輝元にも出兵を要請している。しかし輝元は大阪城から、動く気配が全くなかった。おそらく毛利家の重臣吉川広家により、出陣は控える様にとの話があったのであろう。広家自身はすでに、黒田長政を通じて、徳川家康に内通していたのである。しかしその事を石田三成は知るよしもなかった。

石田三成はさらに念を入れてか、もしもの時の備えであったのか、自ら供の者数人と共に、居城である佐和山の城へもどったのである。大垣城が東軍の手に落ちれば、関ヶ原を抜けて最初の敵城が佐和山となる。そのために防御を強化するのに、自ら戻ってその手はずを整えたのだろうか。それとも親兄弟、親類縁者に対して、最後の覚悟を定めにいったのか。その辺は不明であるが、一度戻ったことは確かである。

実質指揮官であった石田三成のこうした行動は、ほかの武将達には不信感が募るばかりである。

そうした状況の下、福島正則や黒田長政、池田輝正等は、赤坂に陣をおいて家康の着陣を心待ちにしていた。

それを眺める大垣城には、宇喜多秀家や大谷吉継等が入城。さらに吉川広家、毛利秀元らは南宮山に布陣し、小早川秀家が松尾山に陣を布いた。こうして東軍の襲来に備えた西軍であったが、まさか家康がもう目の前まで来ているとは、夢にも思わなかったであろう。

まさに松尾山に小早川勢が登った日、五大老筆頭の徳川家康が赤坂の陣に到着。金扇の馬印、小馬印の葵紋の幟七龍などが、家康着陣の知らせとなり、大垣城の諸将を圧巻させたのであった。