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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦






四章・会津征伐

上杉景勝とは、まだ戦国時代のまっただ中、越後の虎と恐れられた上杉謙信の後を継いだ武将である。上杉景勝は上杉謙信の姉の夫であった長尾政景の息子あった。子供のいなかった上杉謙信の養子となり、謙信の死後には、同じく養子であった上杉影虎(北条氏政の弟)を争い(御館の乱)、上杉の名跡を継いだ。

その後秀吉に臣従し、越後から会津へ移封となり一二〇万石の大名となった。名実共に豊臣政権内部では徳川家康、前田利家等と並び五大老の一人となる。

さてこの上杉景勝、一五九九年に領国の会津へと帰国の途につく。帰国後は新しい領国だったこともあり、領内の整備に力を注いでいた。道路や川に架かった橋の修復はもちろん、城や武具の調達等も、驚くほどの早さでおこなった。短期間でそれらのことをやってのけた上杉景勝の政治能力は、それほど高かった事の証明でもあろう。上杉景勝だけではなく、この主に仕える直江兼継の力であったのだろうか。どちらにせよ、外の者の眼から見れば、この早急な領内整備は異常に映ったことだろう。

これを大阪在中であった徳川家康に注進したのが、越後春日山城主の堀秀治、出羽戸沢盛政等であった。この報を聞き徳川家康は、会津の上杉景勝にたいして糾弾する使者を送ることになる。上杉景勝の非を八箇条にまとめ上げ、その返答によっては豊臣家の名の下に、討伐しなければならない旨が書かれていたらしい。上杉景勝にしてみれば、領国内の整備であり、武具調達は武士として当たり前のことであるという申し開きも出来ようが、同列であったはずの徳川家康からの呼び出しに、憤慨しなかった事もないだろう。

さて、上杉景勝からの返書をみた家康は激怒した。後生「直江状」ともいわれてるが、直江兼継による家康に対しての挑戦状であった。まさに、「討伐出来るものなら、やってみろ!」という感じだろうか。

徳川家康は豊臣秀吉亡き後、初めての軍事行動を起こすことになる。