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序章・はじめに

一章・御掟破り

二章・三成憎し

三章・家康専横

四章・会津征伐

五章・家康東上

六章・小山評定

七章・西上再び

八章・岐阜陥落

九章・家康着陣

十章・杭瀬合戦






六章・小山評定

徳川家康は、伏見を六月一八日に発ち、伊勢に出て海路を経て、東海道を東上して江戸に七月二日に到着。本拠地江戸にしばらく滞在。そこで石田三成による挙兵を知ることとなる。しかしそれにはかまわず、七月二一日に当初の目的であった、上杉討伐の為に会津へ出陣した。

さて石田三成であるが、自ら総大将に成ることは無かった。いやなれなかったのだろうか。将としての器が無かった事が考えられるが、理由はほかにも色々とあるであろう。それはさておき、石田三成は僧侶でもあり毛利家の外向役であった安国寺恵瓊を頼り、五大老の一人である西国の毛利輝元を総大将として大阪城に登らせることに成功する。また宇喜多秀家には、信長の嫡孫に当たる織田秀信、九州の将立花宗茂等を味方に引き入れさせた。ちなみに島津義弘や鍋島勝茂らは、成り行き上、石田三成方に味方したと思われる。またこの時点で、吉川元家などはすでに徳川家康に通じていた。

それでも石田三成の檄により集まった兵は、およそ一〇万あまりであった。これだけの兵を手足のごとく動かせれば、たとえ徳川家康が相手でも五分の戦いが出来たであろう。

石田三成はそのあとどの様な行動をとったであろうか。まずは徳川家康配下である鳥井元忠が留守居をしていた伏見城、徳川家康方である細川幽斎の本拠であった、田辺城が攻撃目標にされた。この時点ですでに、常陸の佐竹義宣、信濃の真田昌幸は、石田三成方へ賛同する旨が報告されていたと思われる。

難攻不落の伏見城であったが、兵数があまりにもありすぎたためか、鳥井元忠以下全兵が壮絶な討ち死にを遂げた。これを機に西軍は伊勢方面へも手を広げていった。

七月二四日鳥井元忠が討ち死。つまり伏見城落城を知った徳川家康は、予想通りの事とは言え、これからの作戦を決しなければ成らなかった。しかし今徳川家康に従ってきた大名の大半は、豊臣恩顧の大名衆である。これらの大名達が素直に徳川家康に従うとは思われない。

そして運命の転換日とでも言おうか、七月二五日に家康は全ての大名を集め、そこで三成が兵を挙げた旨を報告した。当然この場合、石田三成は豊臣家にとって謀反を起こした事となり、豊臣家五大老という立場の徳川家康として、これに立ち向かう旨を発表した。

石田三成の挙兵の事実は、大半の者の耳には既に入っていた。そんな中で真っ先に発言したのは、豊臣恩顧の大名の中では、筆頭ともいえる福島正則であった。福島正則は石田三成に対して憎しもあっただろうが、徳川家康に味方しつつ石田三成を討つ発言をしたのである。これにつられほかの大名らもそれに賛同した。

またこの際には、遠江掛川城主の山内一豊は、真っ先に自らの城を差し出し、徳川家康に忠誠を誓った。それがあったからか、関ヶ原合戦後に山内一豊は掛川八万石から、土佐二〇万石の大名に立身している。こ山内一豊の発言から東海道を押さえていた諸大名も、これに従い城を徳川家康に差し出した。元々上方へ徳川家康が登るのを抑える為に配置された各大名であったが、瞬く間に徳川家康に従った。徳川家康とすれば苦労することなく東海道を押さえたことになった。

さてこの徳川家康と福島正則、山内一豊のやりとりであるが、評定前にうち合わせ済みの芝居であったとよく言われる。が、その辺りの真実はともかくとして、徳川家康の思う通りに事が運んだ結果の方が重要であった。