馬場 信房 ????〜天正三(1575)年
武将列伝
教来石民部景政。信春。甲斐の武将。武田信虎、信玄、勝頼の三代に仕え、数多くの合戦に出陣をするが、ただの一度も傷を負ったことがないという伝説をもつ。天文一五(1546)年、武田信玄の命により馬場家の名跡を継ぐ。そのころに旗本から侍大将に抜擢される。永禄九(1566)年には信濃牧之島城を築城するなど、北信濃や飛騨方面に対して最前線で防備の任にあたっていた。しかし信房自身は常に甲斐にて、武田信玄の傍にあったと言われている。武田家の主な合戦には、ほぼ出陣をしていた。武田信虎時代の諏訪、小県攻めはもちろん、武田信玄時代になっては川中島の合戦や三増峠の合戦、駿河攻めから三方原の合戦。そして代が勝頼に替わり,武田家衰退の原因となったとも言える長篠の合戦。この合戦では主君である勝頼が無事に戦地から退却出来たのを確認した後、わずかな供を連れ単騎で織田の軍勢に突撃して討死。四〇数年間の武将としての幕を閉じた。また信房の縄張りによる城は、遠江の諏訪原城や三河、古宮城などがある。
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蜂須賀小六 大永六(1526)年〜天正一四(1586)年
武将列伝
正勝。木曽川筋衆の頭。尾張、美濃国境近辺を縄張りとしていた野武士の首領格。織田家の武将、羽柴秀吉に強力して織田家の美濃攻略の足掛かりとなる墨俣城を築城。それ以後は弟分である前野長康と共に羽柴秀吉の配下となり、近江浅井攻めや越前朝倉攻め等に出陣して功をあげる。天正年間には近江長浜に所領を得る。その後の中国攻めにおいては、播磨、備中の諸砦を武力だけではなく、謀略を駆使して攻略。備中高松城攻めでは同僚の黒田勘兵衛と共に、外交交渉に力を注ぎ話を纏める。また四国攻めにも参戦し、その功により息子の家正に阿波一国が与えられた。しかし天正一四(1586)年、豊臣秀吉の天下平定を見ること無くこの世を去る。
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林  秀貞 ???? 〜 天正八(1580)年
武将列伝
佐渡守。通勝。織田信長が父信秀より那古野城を与えられると、それに従い入城し平手政秀等と共に家老となる。しかし織田信長の家督相続には消極的であり、同じ宿老の柴田勝家等と共に、弟の織田信行の擁立を計るが失敗。一命を許された後は織田信長に仕え、天文二三(1554)年には那古野城主となる。桶狭間の合戦や、伊勢長島攻めなどに従軍。さらに永禄一一(1568)年に織田信長の上洛に従う。天正八(1580)年八月、突如、織田信長より追放処分を受け、京にてその余生を過ごしはじめるが間もなく死去。追放の理由としては、家臣の下田某の謀叛を鎮圧出来なかったことや、織田信行を擁立して信長に楯突いたこと等と言われている。また秀貞の子孫は尾張藩にて家名を保った。


原  虎胤 明応六(1497)年〜永禄七(1564)年
武将列伝
清岩。鬼美濃という異名をもつ。上総の出身。居城が真理谷氏に落とされ,父と共に遠縁に当たる甲斐の武田信虎に仕えた。武田家においては,飯富虎昌や飯富三郎兵衛尉隊に属し,信濃攻略に戦功を挙げる。しかし天分一二(1553)年に,法度に背いたという罪でもって甲斐を追放され,隣国相模の北条氏に仕えた様だ。その三年後の弘治二(1556)年に信玄から北条方へ願い出て虎胤の帰参が叶った。永禄四(1561)年の川中島の合戦には,負傷療養中であり,参陣はしていない。生涯に三八回の合戦に臨み,その傷は五三カ所に及んだという武人は,永禄七(1564)年に六四歳の生涯を閉じた。


日根野弘就 永正一五(1518)年〜慶長七(1602)年
武将列伝
備中守。はじめ美濃の斎藤道三に仕える。天文十一(1542)年,大桑城の土岐頼芸を襲い,その後は義龍,龍興と三世代に渡って仕えた斎藤家重臣。美濃三人衆と供に斎藤六宿老と称えられた家臣であった。また義龍の二人の弟を殺害している。永禄六(1563)年,織田信長に稲葉山城が攻められ陥落。弘就は一族を率い流浪し,近江の浅井長政に仕える。天正元(1573)年,同僚であった浅井十郎との刃傷沙汰により殺害し浅井家を離散。以後は織田信長に仕える。本能寺の変後は羽柴秀吉に仕え,小牧長久手の戦いに従軍。その後三度在野にくだるが,文禄年間にふたたび秀吉に仕え,尾張および三河において一万六千石の禄を得る。晩年は高野山において出家し,慶長七(1602)年五月死去。
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平手 政秀 延徳四(1492)年〜天文二二(1553)年
武将列伝
織田家の宿老。織田信長の傅役。天文一二(1543)年には主君、織田信秀の名代として上洛し、御所の修築領四千貫文を寄進している。織田信長が斎藤道三の娘を娶ったのは、政秀の知恵だったとも言われている。また和歌などの嗜みもあった様で、公家の山科時継が尾張へ下向した際に、和歌会などを政秀邸などで行っていたそうである。織田信長が家督相続後、その傍若無人な振る舞いを諫める為に、天文二二(1553)年に割腹したと言われている。諫められた織田信長は非を悟り、政秀寺を建立した。

平野 長康 永禄二(1559)年〜寛永五(1628)年
武将列伝
天正七年、羽柴秀吉に仕えた子飼の武将の一人である。天正一一(1583)年賤ヶ岳の合戦において、賤ヶ岳七本槍の一人として名を後世に残す。文禄四年にはこの時の旧功によって加増され、計五千石を与えられる。慶長三(1598)年には豊臣の姓を賜るが、同五(1600)年の関ヶ原の合戦においては、徳川方につく。さらに元和元(1615)年の大阪の陣においても、大阪方につくことを徳川家康に直訴するが、退けられてしまう。ちなみに平野の家名は幕末続いた。
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福島 正則 永禄四(1561)年〜寛永元(1624)年
武将列伝
加藤清正などと共に、賤ヶ岳七本槍の一人として知られ、その名を歴史の表舞台に轟かせた武将。出自は羽柴秀吉の母の妹の子であったらしい。幼少の頃より秀吉の子飼の将として仕えていた。賤ヶ岳を始め、小田原の陣や、朝鮮の役での活躍が認められ、尾張清洲城(二四万石)の城主となる。また同時に羽柴の性を名乗る事も許される。そんな豊臣恩顧筆頭の正則にたいして、石田三成とのそりが合わず対立する。その豊臣家の対立を利用した徳川家康は、関ヶ原の合戦では正則家康方につけることに成功。この関ヶ原では家康方の先方を務めたり、居城を味方に提供、また岐阜城陥落に大いに貢献した。そのためか正則は、安芸広島城(四九万石)の加増を得る事になる。しかし城の改修を無断築城という咎めを徳川政権よりうけ、信州川中島の地(四万石)へ蟄居の身となり、寛永元年にこの世を去る。
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古田 重然 ????〜元和元(1615)年
武将列伝
古田重定の子。室は中川清秀の妹。美濃土岐氏に仕える。永禄九(1567)年、織田信長の美濃攻めに際して、その臣下に加わる。永禄一〇(1568)年の上洛、畿内への出陣に際して信長の側近として従軍。同四(1576)年に京にて代官を務める。以後は織田信忠や義兄の中川清秀、羽柴秀吉、明智光秀などに従い各地を転戦。同一〇(1582)年、信長が本能寺において死すると、以後は羽柴秀吉に仕えた。同一一(1583)年には伊勢の滝川一益が籠もる亀山城を攻め、賤ヶ岳においても功を挙げている。同一二(1584)年の小牧長久手合戦、同一三(1585)の雑賀攻めにも出陣。同一五(1587)年の九州征伐、同一八(1590)年の小田原征伐、朝鮮出兵の折りには肥前名護屋において留守居となる。一方で茶人としてその名は、利休七哲の一人として後生に語り継がれている。慶長二十(1615)年の大阪の陣にて、大阪方に内通したとの嫌疑を掛けられ釈明する事なく自刃した


別所 長治 ????-天正七(1580)年
武将列伝
播磨三木城主。曾祖父の代に東播磨三郡の守護代になり、長治の時代では八郡の守護代であった。織田信長が中国方面の攻略を始める際、長治をその先鋒にという依頼を受け入れた。しかし羽柴秀吉が率いる織田軍が、播磨へ駐屯した際に、長治は毛利方に奔った。それからおおよそ二十ヶ月にもおよぶ籠城戦を行うのであった。最後は羽柴秀吉によって城を包囲されていた為、兵糧が底をつき城兵が飢えに苦しんだ為、城兵の命と引き替えに切腹して開城した。


北条 氏照 天文九(1540)年〜天文一八(1590)年
武将列伝
北条氏康の次男。滝山城主、八王子城主。陸奥守。天正年間の北条氏の躍進には、氏照が中心になり戦略を練っていた。また戦場でもっても自ら兵を率いて先陣に立つほどであり、北条家中でも戦功者であった。また他家との折衝にも氏照はあたるほどであり、北条家の全権を与えられていたと思われる。天正一六(1588)年に武蔵八王子城へ入る。天正一八年の豊臣秀吉の小田原攻めでは、最後まで徹底抗戦を唱えた。そして自らの城である八王子城は家臣に任せ、みずからは小田原へ入城して指揮を執っていた。降伏後は兄の氏政と共に自刃してその責をとった。


北条 氏政 天文七(1538)年〜天正一八(1590)年
武将列伝
北条氏康の長男。小田原北条氏五代目。父氏康の存命中の永禄二(1559)年に北条家の家督を相続。元亀元(1571)年に父であり、それまで実権を掌握していた氏康が死去。その直後にそれまで同盟関係にあった越後の上杉氏との関係を絶ち、甲斐の武田信玄と結んだ。そして北関東制覇へ向けた。それにより下野および下総などを領地へ加えた。天正八(1580)年には北条家の家督を息子の氏直へ譲るが、政治は自らの手で行っていた。豊臣秀吉からの上洛要請には応じず、徹底抗戦の構えをとっていた。天正一八(1590)年の小田原征伐では、堅城である小田原城に立て籠もる。しかし多勢に無勢であり七月には遂に降伏し、弟の氏照と共に自刃してその責任を果たす。
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北条 氏康 永正一二(1515)年〜元亀二(1571)年
武将列伝
戦国黎明期の雄、北条早雲の息子である氏綱の子として、永正一二(1515)年に生まれる。享禄三(1530)年に初陣をし、天文一〇(1541)年に父である氏綱より家督を譲られる。氏康は関東八州平定にその生涯を掛けていた。当時の関東は、京の足利将軍より関東統治を任せられた関東管領上杉氏の支配下にあった。その旧支配者である上杉氏と決着を付けたのが、天文一五(1546)年の川越の戦いである。氏康は八千の兵にて、八万の相手をうち破ったと言うのだから、氏康の軍才をみることがでる。関東では氏康に真っ向から対抗できる者が居なく成ったかに見えたが、北条に追われた者達の要請によって越後の長尾影虎が関東へ出兵をはじめた。長尾景虎の出現は関東での戦は武田家を交えて三つどもえになるのである。氏康は隣国の駿河今川氏と甲斐武田氏との間で攻守同盟を締結し、背後を気にせず関東制覇を目指すことになる。武だけでなく文才にも明るく、領国統治も抜群の力量であったという。さらに家臣の統率も他の大名にひけをとらなかった。しかし関東制覇途中の元亀元年(1571)に病にかかりこの世をさってしまう。また本拠地の小田原城は天下の名城と知られ、また難攻不落の城塞であった。
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北条 早雲 永享四(1432)年〜永正一六(1519)年
武将列伝
伊勢新九郎長氏。生国は伊勢または備中、山城など様々な説がある。ちなみに早雲とは隠居後の号であり、早雲自身は、北条姓を名のっていない。はじめは足利義視に仕えていたが、妹が駿河今川家の当主義忠の側室と成っていた縁で、今川家の食客となる。文明八(1476)年義忠没後の家督争いにて、妹の子であった氏親を家督に据える。その功によって駿河東部の興国寺城を賜る。明応二年には隣国の伊豆に攻め入り、堀越公方足利茶々丸を討ち倒し、伊豆を平定して韮山へ居城を移す。早雲は関東進出を目論み、山内、扇谷の両上杉の対立につけいり、たびたび相模や武蔵へ出兵する。そして明応四(1495)年には相模の小田原を奪取に成功し、関東進出の足がかりとする。その後は相模の三浦氏を滅ぼし、相模、伊豆の二カ国を治める。関東制覇の志はその子の氏綱、孫の氏康と受け継がれていく。
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保科 正俊 永正四(1509)年〜文禄二(1593)年
武将列伝
武田家の武将。信濃高井郡領主であり、高遠城主。天文年間に武田家に仕える。信濃先方衆として騎馬一五〇騎を率いる。味方はもちろん、敵方にまで「槍弾正」の異名は知られていた。武田家滅亡後は徳川家に仕える。息子の正直は徳川家康の異父妹を妻に娶り、孫の正光は徳川秀忠の子を養子した。
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細川 忠興 永禄六(1563)年〜正保二(1645)年
武将列伝
熊千代、三斎。父は藤孝。生後、細川輝経の養子となるが、実際には藤孝の元において養育される。足利義昭擁立時には忠興もそれに従い、当時美濃と尾張を支配していた織田信長に接近する。信長の嫡男信忠の一字を譲り受け忠興と名乗る。天正五(1577)年、紀州征伐の軍勢に加わり初陣を果たし、同年の松永久秀の謀反討伐戦では、舅である光秀の軍勢と共に大和片岡城を攻め、信長より感状を受ける。同七(1579)年、明智光秀の娘、たま子(ガラシャ)を妻に娶る。この際、信長より九曜を定紋にする様にとの要請があり、以後細川家の家紋となった。天正一〇(1582)年、本能寺の変に際しては光秀に加勢することなく、父藤孝に従い羽柴秀吉に組みして丹後宮津城主となり、また細川家の家督を相続する。天正一二(1584)年の小牧長久手の戦いにて織田信雄の軍勢を撃破する功を挙げる。翌天一三(1585)年には従四位下侍従に叙任し、羽柴姓を秀吉から賜った。天正一五(1587)年の九州征伐、天正一八(1590)年の小田原征伐に従軍。文禄の役では朝鮮半島へ上陸し、晋州城攻防戦などに参戦する。慶長三(1598)年、秀吉死後は石田三成とは距離を置くようになり、翌四(1599)年には三成襲撃に与し、同年豊後杵築に六万石の加増を得ている。この頃には既に徳川家康とよしみを通じていた。翌五(1600)年の関ヶ原合戦の折りには徳川方として、戦功を挙げることで豊前中津三九万六千石を与えられた。同七(1602)年、豊前小倉に移封して三九万九千石に微増。元和六(1620)年、家督を忠利に譲り隠居、出家して三斎宗立と号した。正保二(1645)年、八代の地で死去。


細川 藤孝 天文三(1534)年〜慶長一五(1610)年
武将列伝
長岡藤孝。足利一二代将軍義晴の落胤とも言われている。一三代将軍、足利義輝に仕える。しかし義輝が二条城にて松永久秀等によって殺害されると、幽閉されていた覚慶(のちの足利義昭)の脱出を手助けをする。はじめは越前の朝倉氏に身を寄せるが、隣国の岐阜を制圧した織田信長に接近。永禄一一(1568)年に織田信長の力添えにより上洛に成功。上洛には藤孝も従い、山城の青龍寺城を与えられ、幕府の奉行衆として将軍となった義昭を補佐する。しかし足利義昭と織田信長の間が不和になり始めると、両者の間を取り持とうとする。しかしやがて織田方に接近する。将軍が京より追放された後は、明智光秀の旗下に組み入れられ畿内各地を転戦。天正元年には山城長岡を与えられ長岡性を名乗る。天正七(1579)年には丹後一国を賜った。天正一〇(1582)年の本能寺の変の際は、明智光秀からの誘いを断り、剃髪して幽斎玄旨と号す。その後は家督を嫡男忠興に譲り渡す。山崎の合戦では羽柴方に付き、以後は豊臣政権に仕える。関ヶ原では徳川方の東軍に付き、舞鶴城へ籠城して攻撃を凌いだ。戦後の論功により但馬一国を加増され、晩年は京で過ごした。
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本願寺教如 永禄元(1558)年〜慶長一九(1614)年
武将列伝
茶々丸。本願寺顕如の子。父の顕如が織田信長と11年もの間争った石山合戦に終止符が打たれた後、紀州の鷺森で本願寺門徒を再招集。その地で籠城して信長に対して徹底抗戦を唱え、各地の門徒に檄を飛ばしたが失敗。文禄元(1592)年に父であり現本願寺法王である顕如が没する。教如は本願寺第一二代目を継承し法王となった。しかし豊臣秀吉からの命で、わずか一年で隠居させられる。そして天下が徳川家康の手に治まりかけた慶長七(1602)年、京都六条烏丸を与えられその地へ東山本願寺を建立。教如は初代法王となった。


本多 忠勝 天文一七(1548)年〜慶長一五(1610)年
武将列伝
徳川四天王の一人。平八郎。天文一八年、父忠高を三河安祥城の戦で亡くし、幼少の頃より徳川家康(当時は松平元康)に仕える。永禄三(1560)年の今川義元の西上作戦が、若干一三歳であった忠勝の初陣であった。徳川家康が独立以降も、主立った合戦には必ず参戦した。三方原の合戦、長篠の合戦。また天正一〇年の本能寺の変の際は、伊賀越えでもって主君徳川家康と供に危機を脱している。徳川家康が関東へ移封後は、上総大喜多城にて一〇万石の大名となる。慶長五年の関ヶ原の合戦では、井伊直正と共に福島正則ら東軍先鋒隊の、軍監として従軍した。翌慶長六年には伊勢桑名へ移り、慶長一五(1610)年に息を引き取る。忠勝は生涯で五〇余度も合戦に槍一つで参戦するが、ついにその身に一つの傷も負わなかったという伝説を残している。また娘は真田信幸の正室となっている。
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