小田原城

■小田原城散策

後北条家五代の居城として、天下に名高い小田原城。もともとは大森某が室町時代に小田原に城を構え,相模を支配していたのがはじまりであると言われている。その小田原城が天下に名を表すのが,当時伊豆を支配していた伊勢新九郎(北条早雲)によって奪取した事件からであろう。

その後は北条氏の居城として,関東支配を目論む北条氏の政治的,また経済の中心地として栄える。なる。もともとは大森某が室町時代に小田原に城を築き、伊勢新九郎(北条早雲)によって北条氏の居城となる。

永禄四(1561)年に長尾景虎、同一二(1569)年には武田信玄の来攻をうけるが、城兵は籠城することにより敵軍を退け,結果として勝利を得ている。戦国時代きっての名将と言われる,長尾景虎と武田信玄による攻撃にさらされながら無事であった小田原城が,どれだけ堅固な城だったかが伺える話である。

当時の城は小田原の街をそのまま城壁で囲み、日本では珍しい一つの城塞都市として成り立っていた。その外郭の距離は二里半というから,いまの単位になおせば九キロということだ。

今に残る城址公園こと小田原城からは想像が難しい話である。

さて小田原城である。地元神奈川県に住んでいながらも、今まで全然書いていなかった。

交通の便も比較的よく,電車であればJR線はもちろん,新幹線も停車され,また小田急小田原線を利用することができる。駅からであれば徒歩で15分ほど。また車を利用した場合でも,国道一号および小田原厚木道路の小田原西I.Cから近い距離であり,東名高速の大井松田I.Cからでも30分ほどでしょうか。

車を利用した際にきになる駐車場も,周辺にはある程度はあるので、用意されており心配は無用な所だ。

さて城址公園である。現在の姿はほとんど全てのものが復元されているので、戦国という時代を彷彿とさせてくれるモノは皆無である。一部ではあるが堀や二の丸、三の丸の一部など、江戸時代の名残が残っているのがすくいというべきか。

小田原城復元天守 

それでもその堀などでも,水をぬいて調査すれば戦国北条氏の居城であったことを示す,障子堀跡を確認することができるという。それならば水を半永久的に抜いて,その堀を我々に観賞用として随時,見せて欲しいものだ。

また復元されているものとして、常磐木門や、銅門などが江戸時代のモノを忠実に再現してあります。現在,小田原城のシンボルとしてそびえ立つ天守閣も,模型や当時の図面などを参考にして、忠実に再現したものだとか。

天守閣の中は小田原の歴史をつづった歴史博物館になっており,北条五代の時代から江戸時代までの史料が、所狭しと陳列されています。また天守は展望台にもなっており、相模湾が一望出来ます。天気の良い日であれば三浦半島まで見えるのでしょうか?

残念なことにこの小田原城の天守もコンクリートづくりの,博物館兼展望施設となっている。

この小田原城址公園に来たら、復元天守閣以外にも立ち寄ってもらいたいのは、小田原城歴史見聞館である。

「模型や映像で楽しむ小田原城の歴史−」というコンセプトの歴史ミュージアム。一昔前に流行ったマルチメディアを彷彿させられる内容です。通常の博物館だと史料が展示してあり、そこに説明書が添えてある程度が,しかしここは視覚と聴覚によって歴史を味わうことができます。

映像でみせて音声で語る。小田原評定の様子をかたる人形達など、歴史に興味が薄い人や、子供達なら喜びそうな仕掛けが催されています。

また小田原駅前のロータリーには、馬上の北条早雲像があります。

  さて,小田原城も歴史とともに,その姿を変えていってます。北条時代は土を主として築城された城。そして江戸時代には石垣を使った相模で一番の城であったことでしょう。

そして現代。天守閣が復刻され,銅門や常盤木門が復元されてきています。そして2009年には二の丸を防備する様に構えている馬出門が再現されました。

およそ1年経ってから,その復元されたという馬出門の見学に足を運んだ小田原の地。お城の門という雰囲気を十分だしている門が完成されていた。

この曲輪は石垣と土塀で囲まれた桝形になってます。下半分が石垣の白い壁に,立派な屋根が被さった門を見ると気分は江戸時代。サムライになった気分に浸れる貴重な空間です。

 
■小田原城小史

相模に居を構えた土肥一族が小田原に館を構えたのが始まりであるという。室町時代になると駿河の大森氏が,相模を支配すると同時に,この地に城を築いた。明応四(1495)年,伊豆を支配した伊勢新九郎が,大森氏から城を奪取し,関東支配の拠点に据えた。以後,およそ1世紀の間,北条氏の城として拡張を続けることになる。永禄四(1561)年には,長尾景虎が関東の諸将を加えて,およそ一一万の兵で小田原状を包囲するが,北条方は門を閉ざして籠城してこれを撃退。また永禄一二(1569)年には武田信玄が二万の軍勢でもって,同様に城を包囲するが攻城を諦めている。この様に名将と謳われた長尾景虎や武田信玄の攻撃を防いだ城は,当時としては長大な構えを有していた。総構えは城下町をも含みおよそ二里半(九キロ)もあったと言われている。ちなみに外郭の長さだけであれば,後の大阪城よりも大きいことになる。しかし北条氏が五代続けて死守してきた小田原城も,天正一〇(1590)年,豊臣秀吉の数十万といわれる大軍に長期の間包囲され,また支城が次々に落城したこともあり,まともに戦うことなく降伏して開城した。江戸時代になると,徳川家臣の大久保氏の居城となるが,巨大な城が江戸近くあることに憂慮した徳川家康の命により,大幅に城郭が縮小され幕末を迎えることになる。
 
■情報

所在地 :神奈川県小田原市
築城年 :応永二四(1417)年
関連武将:北条氏綱,北条氏康,北条氏政