諏訪原城

■諏訪原城散策
牧之原台地の茶畑の中に隠れる様にして諏訪原城はある。2003年に訪れて以来であるので10年以上の期間を空けての訪問であった。

十年一昔とは良く言ったものである。その姿はやはり月日を感じるほどに変化していた。記憶が遠のいていただけかもしれないが。

大きな三日月堀は健在であるが、その先には発掘調査の現場。さらには復元工事の模様が目前に広がってくる。

かつては城趾の中央部にあったと記憶していた茶畑は、すでに無くなっていたが気のせいであったのか。

たしかに城の見所である遺跡に数々を説明する案内版は、大分部が古く朽ち果て気味であり、さらに読みにくいというのが正直に思ったところ

復元工事中 発掘調査中
復元工事中 発掘調査中


それでもせっかく、来訪したのだがらと一通り歩きまわったことは言うまでもない。

「カンカン井戸」はその名前から記憶には残っている遺構である。

2015年1月現在のことでるが、一部は立ち入りが制限されており、すべてを歩きまわることが出来る様になる日はいつなのだろうか。



■■■2003年■■■

東名自動車道、牧ノ原ICから金谷方面に車をはしらせると、茶畑が左右に広がっております。しばらく旧東海道で茶畑の中を走り抜けていくと、雑木林に囲まれている一帯が目に入ります。そこがこんかい訪れた諏訪原城跡です。静岡県の牧ノ原台地に築かれた城塞、諏訪原城。別名を牧ノ原城や金谷城、扇城ともいったそうです。案内版もあるていど出ているので迷わず現地へ到着できます。

諏訪原城は永禄一二(1569)年に武田家の砦として築かれました。そして天正一〇(1573)年に武田家の臣であった馬場美濃守の指揮の元、城として現在の縄張りに築城され直した様です。牧ノ原台地の自然を巧みに利用して築城された典型的な山城です。戦国時代末期の城であり、天守閣はもちろんですが石垣も用いられてありません。天然の堀の他人の手を加えた堀が点在し、まさに天然の要害といえる戦国時代の城跡です。

さて城跡です。ほとんど廃城になってから、地形もほとんど変えていないと思われるほど、遺構など豊富に残っています。しかし大量の雑草や木々が生い茂っておりますが。

旧東海道から城跡へ向けて歩いて行くと、城の名前の由来ともなった諏訪神社があります。名前が示すとおり信濃(長野県)の諏訪明神を、祀っている神社です。このことからも中世の、そして武田家の城という事を認識できます。さらに右手に堀を眺めつつ進んで行くと、まずは大手郭に行き着きます。ちなみにここ諏訪原城は全部で八つの郭から構築されております。大手郭、本丸郭、二の丸郭、三の丸郭、四の丸郭、帯郭、亀甲郭、そして搦め手郭です。そんな中、この城で一番の正面に位置している郭がこの大手郭です。といっても現在はどこもかしこも木々に埋もれてしまっている感じがいたします。

ちなみにこの城跡を巡るのには一本道となっており城跡を一周できます。さらに道の端にはこの場所がどんな場所だったのかという説明の看板が立っております。

堀 また郭と郭の間には堀の遺構が見事に残っており、堀の数だけでも自然堀、人口堀を合わせて一三本あるとか。それぞれには○号堀という名称が付けられています。

馬場跡、乾曲輪跡の林道を抜けて行くと、かつて二の丸、三の丸といわれた辺りに出ます。現在は茶畑となっており、空を仰ぐ事ができます。今回もおじさんがお茶の収穫(たぶん)をしている様でした。

そこを過ぎて行くと一段下がった様な所に本丸跡があります。この城の中枢といった所です。この本丸も二の丸、三の丸との間には立派な堀があり、そう簡単にはたどり着けない様な構造となっているのでしょう。そして本丸の奥の一段高くなった所に天守台跡があります。天守台とはいっていますが、この城には天守閣は存在しなかったはずです。説明書きによると二層からなる物見櫓がここに建っていたとか。当時はこの周辺で一番高い建造物だったと思われます 。

天守台跡を過ぎると、搦め手となります。そこから城の東側は急な傾斜となっており、大井川が流れています。東側は険しい断崖でもって山城の形を呈していることがわかります

山城に限った事ではありませんが、城に井戸はつきものです。いざ合戦、という際に水の手が無ければ大変な事。諏訪原城にも当然ですが井戸があり、名前がついて残っておりました。その名も「カンカン井戸」。なんでカンカンなんでしょうか?名前の由来はの説明が無く不明です。

カンカン井戸 不可解な井戸をあとにして先に進み、木々のトンネルから抜けると、目の前に草原(?)が広がってました。草原というよりは丈の長い草が一面に生い茂った、三の丸です。一歩踏み出すと膝上までは楽にある長さです。順路ではそこを突っ切る様になっているのですが・・・。結局はそこを通らずに元の来た道を引き返す事に。

最初の地点に戻り、今度は逆に歩いて行くと壁立という堀があります。この堀は名前の通り壁の様に切り立った構造の堀からとの事です。まさに敵を防ぐにはもってこいの堀です。しかし肉眼でそれを確認できても、写真を掲載しようとしたらそれが上手く伝わってこなかったために断念。それはともかくそこにかかる土橋を渡って行くと、そこは先ほど横断するのを断念した草原にでくわしました。そのまま一周すれば30分程で城跡巡りが出来そうです。

今回、訪れた時は雨上がりの時であり、道はぬかるみ状態。さらに蚊の様な虫が飛び廻っておりました。やはり夏に山城巡りは避けた方が良いですね。

 
■諏訪原城小史

諏訪原城は天正元年頃、甲斐武田氏により遠江侵攻の陣城として築かれた。普請は馬場信房が武田信豊を補佐として行われた。城は牧ノ原台地上に築かれ、大きな三日月堀が西方を向いていることから、西からの守りを重視していた事が伺える。また高天神城へ攻撃する際の前線とも考えられる。同二年、高天神城が武田氏により陥落すると、諏訪原城の存在意義も薄れるのである。しかし同三年、高天神城が徳川氏の手中に治まると、諏訪原城も攻撃にさらされる。およそ一ヶ月ほどの攻防の末に落城。以後は徳川氏が代官をおいて城に詰めていた。しかし天正一八年、徳川氏が関東へ移封する頃と同期して廃城となった。現在は国史となっている。なお城名である諏訪原であるが、城内に諏訪神社を祀ったことからという伝承もある。
 
■情報

築城年:天正元(1573)年
別 名: 牧野城、牧野原城
所在地:静岡県島田市金谷
関連武将:馬場信房



>> 「ひろぞう戦国物語」トップへ移動 >> 「史跡巡り」のトップへ移動

Copyright © 2012 ひろぞう All Rights Reserved.