新発見!炭焼窯跡群から推測する長泉旧幕臣ルートとは?
2016年末にハイキングガイドスタッフが偶然、馬場平の南面に多くの炭焼窯跡を見つけました。その後 数度の調査を行っていますが、この道が山居遺構に集約される尾根と沢沿いにあるという事から山居遺跡が炭焼きの基地となっていたのではないかと考えています。
馬場平に続く鞍部登山道脇には多くの窯跡があった
山居牧場は素六が衆議院議員となると、この牧場管理を元静岡藩の荏原正明氏を理事として、明治22年に愛鷹牧畜会社としています。乳牛を主に牛56頭、馬6頭が飼育されていたとある。ここで生産された牛乳は東側の現沼津国際CCに登って長泉の元長窪方面に卸されていたらしい。冬には上で生産された炭俵も馬に乗せて運んでいたのではないか。
つまり、山居では乳牛を飼育して冬場は上方の炭焼窯で生産した炭を下していたのである。方向から言って原方面に下したのではと思われたが、柳沢と椎路方面の方からはそういう話は聞いた事がないとの事である。
さらに付け加えよう、江原素六が事業を任せた荏原正明氏という人は旧幕臣なのである。
ここでもう一度整理してみよう。
愛鷹山の山居遺構は明治に入り江原素六と地元有力者により愛鷹牧場として活用された。素六の旧幕臣らへの事業、三椏園・綿羊牧場・蚕養事業はあまり業績をあげられなかった。
幕臣達は永住を諦めて各国に帰って行った。
山居の牧場も芳しくなく、愛鷹山の標高800m以上で炭焼を開始した。炭は東京・横浜方面に送られた。
愛鷹山の炭焼窯群?標高800m付近での作業は実に過酷だったろう。
どうだろうか、江戸幕府に官軍と戦う資金が少しでもあればその全部が徳川慶喜にわたされていたのだろうか?
幕府の再興を謀った旧幕臣の一部はその資金を埋蔵金として愛鷹山の標高800m以上のどこかに隠したのか?あるいは炭俵に入れて東京へと送ったのか?
それとも金銀小判大判を炭焼窯の中で溶かして炭俵に入れて持ち出したのだろうか?江戸の貨幣は大量に使うと政府にバレてしまう、だから一度溶解してどこかで換金した?
しかし隠された埋蔵金はすでに発掘されてしまったのか?それともまだ愛鷹山にあるのだろうか?
この先は愛鷹山の他の歴史や文化と共に調査中です。しかし、今まで報道された、あるいは噂となった赤城山周辺への埋蔵金よりより確信に近いものがあるのではないでしょうか?
愛鷹山の不思議(ミステリー)として参考程度にお考えください。
なお、ハイキングガイドでは自然保護優先として一切の発掘調査はいたしておりません。発掘調査は市の許可が必要です、ご注意ください。
また、山居遺跡へは2017年春でも産廃業者が門扉を設けていて通れません。 東側の沼津国際カントリークラブ側から降りるルートも危険ですがあります。
山居遺跡を見てみたい方で心配な方は事前にご連絡ください。
(なお、埋蔵金が予想される場所などについてのご相談には答えることはできません)
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