愛鷹山の謎の遺跡

阿野時元自害地→大中寺→三鳥派寺院→徳川埋蔵金→愛鷹牧畜会社?

その全貌を解く

山居院とは

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山居院とは古くは大寺院か日蓮宗の一派三鳥派の隠れ寺院?

沼津市立明治資料館発行の金原明彦氏「山居院」を参考にさせていただきました

明治資料館発行「山居院」

(1部500円税込で販売中)

●山居院は中世の山岳信仰寺院であった。

沼津市中沢田の大中寺の寺伝によると、鎌倉時代夢窓国師がこの地に修行の場を築いたとある、これによりここに 平成13年設立の大中寺の石碑が存在する。

●大正時代発行、鷹根村誌(大正2年、沼津図書館蔵)の言い伝え

昔の大寺院跡・戦国期の砦跡・大坂夏の陣から逃れた武士の砦・隠れキリシタンのアジト

●山居院は日蓮宗一派、三鳥派の寺院であった。

日蓮宗大石寺・身延山を圧迫する布教になり、圧力から江戸幕府の取締りを受け宝永三年廃寺となった。 (江戸時代の創価学会と言われているらしい)

徳川実紀・中村雑記・宝永三録・天享吾妻鏡  (処罰→遠島・脱衣追放)

これらの記述を決定づけるもの→柳栄日次記( 宝永3年幕府公式記録)

国立公文書館所蔵

●幕末に移住した旧幕臣江原素六らの牧場跡 ・明治16年牧場取締辞令文書が存在する。(中沢田 岡田金吾氏当選辞令)

新説 阿野時元の籠城した砦の根拠〜

吾妻鏡の記述で深山に城郭を築きとあり、裾野市の深山城に籠ったと伝わってますが、深山とは山奥の意味で、住居としていた井出の阿野荘の背後にある山居平方面に砦を築いたとみる方が自然ということから

1.平安、鎌倉時代

2.戦国期

3.江戸前期〜

4.江戸中期

5.江戸後期〜明治初期

6.明治時代中盤

7.大正、昭和時代

 

新説…阿野時元の籠城した砦

大中寺、あるいは何らかの宗教施設

戦国期の砦(武田軍と徳川北条氏 などの防御基地、神谷方面には小麦石砦跡もある)

大坂城落武者や隠れキリシタンのアジト

日蓮宗一派 三鳥派一派の 隠れ寺院

愛鷹牧の牧場管理所 

江原素六ら設立した牧場

学林植林基地、畑地やハイキングコース

※… 5.6.7は施設は「山居院」の記述ではない。

金原明彦氏「山居院」 によるとこの三鳥派寺院説は幕府の記録と合わせ確定的なものとなっている。また、素六日記などから江原素六らが愛鷹山山居に牧場予定地を視察との記述があり、後に素六の牧場として利用されたとある(後述)

石積み作業時にはなかった木が大木となり石積みを破壊している。中央の木は発芽杉で推定100年程度か。このことから石積みの時期が明治17年に山居牧場が建設されたわけだから、少なくともこの山居遺構が明治より前にあったと言える。

山居院の石積み

ここでは山居遺構について大まかに紹介したが、上記のように年代別に整理して推測してみると、、

山居がある高橋川上流は旧石器から人の移動があった。休場遺跡の状況から数百人規模の集落が存在した。後年その平坦地を利用して山岳信仰場は存在した。大中寺であるかは不明だが沢の状況からして十分納得できる。

山居遺構には高橋川の石が多数存在し、ちょうど石積みをするには容易だ。太古から川石を利用して土塁を補強したり、囲炉裏などに活用した。

この高橋川の石はこの流域では大きさがちょうどよく、現在でも下方の茶畑等の土塁石積として活用されている。(積み方は山居と同じ野積み法)ただし山居では高さが2mを超えるため傾斜して積まれている。

遺跡慣れした方はこの写真だけでこの石垣がどの年代のものかわかるかも知れない。明らかに昭和や現代の石積みと遜色ない

山居院の現在に残る石塁は明治期の江原素六らが設営した牧場の時に設置されたでほぼ正解ではないか?愛鷹山の豪雨時の様子は凄まじい、鎌倉時代からの石積みが無事に形を留めているとは理解しがたい。写真の茶畑の石積みは戦前に積まれたもので中には江戸期のものもあるという。

ここでは愛鷹山山麓に残る山居遺構について簡単に説明したが、この遺構が何であるかをここで解き明かすことが当HPの目的ではない。 この山居の存在する遺跡のルートについて少し記述したい。


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