大中寺の寺伝に残る文章や云われから山居院は大中寺が夢想国師により愛鷹山にて開山し、現在の中沢田にあると言うことである。牌まで建てているのだからこれはそうなのであろう。
戦国期の砦などについては確かに武田方の武勢が山にこもった際に沼津方面を見下ろす地としてここに一夜城的な要塞を作ったのかもしれない。
三鳥派については山居院の記述通り、文献の精査により信憑性はあるが、三鳥派のいた場所が山居だったのかは断言できない。
三鳥派僧侶が今ある約100mの土台に大寺院を造ったというのはにわかに信じられない。もしそうなら当時としては一級の土木技術だろうから仏社などは専門の職人が使われたと思う。それほどならば文献や絵などが残っているはずだが、山居院では幕府への気遣いからこれらは削除されているのだという。それほど大きな建造物が必要だったのだろうか?
三鳥派は当時大石寺
・身延山本流を凌ぐ人気で、信徒を増やしてこの付近でも4か所の関連施設を作っていたらしい。日蓮宗本体と対立して幕府の取り締まりとなったのは想像できる。
愛鷹牧については位置的関係がある。山居院から元野牧までほぼ直線で馬の疾走を考えたら約15分程度で元野牧に到達できる。当時は植林はなかったのだから観客は山の中腹から突然現れた馬群に歓声を上げたことだろう。しかも何百頭という馬が疾走して降りてきてその背後から勢子勢が
太鼓や叫び声をあげてくるのだ。これ以上の楽しみはない。
つまり山居院愛鷹牧説にはこのような根拠があったのだ。馬追いが年々エスカレートして演出も交えるようになったというのはどうだろう。
なぜ記録がないのか?
ではなぜ幕府の記録に山居院はないのか?山居が三鳥派摘発の地だからなのだろうか?牧の馬追いが演出だからなのだろうか?三鳥派摘発の歴史的意味として伝承も記録も抹殺されたというのも面白いがもっと深いところに理由があるような気がしないでもない。 江原素六先生とは?
天保13年江戸の角筈で生まれた素六はその家が貧しく12歳で池田福太郎の寺子屋に入門。 優秀で、いずれ幕府の役人となり撤兵頭となる。幕府の陸軍士官レベルである。維新軍が東進する中で幕府からの期待は大きく徳川幕府存続をかけて戦った若手幕臣であった。
二十代の頃の素六(左)
素六は幕府側として東政軍と鳥羽伏見の戦いで活躍したが幕臣の中心的役割を果たし、江戸城開城後も新政府軍に抵抗したがついに重傷を追い帰還、徳川慶喜の駿府移譜の後、新政府軍の追っ手を避け偽名を使って沼津に
潜伏していたという。
江原素六はその後、勝海舟の後ろ盾をうけ新政府より静岡藩小参事に任命され復権を果たしたというのだが… |