愛鷹山の謎の遺跡

徳川埋蔵金は愛鷹山にある

その全貌を解く

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愛鷹山東稜ルート

(古地図から 古くからの愛鷹山登山の基本ルートだった)

今度は山居院の存在する位置に注目 してみる。実は山居院遺構は愛鷹山の山頂へ続く登山道の中にある。下の図は寛政9年に原の青野(おおの)にある桃澤神社神主奥津義普が作らせた「駿洲愛鷹山牧場図」 (版木桃澤神社所蔵)である。

この図を現在地に合わせてみると根方街道の中沢田よりほぼ直線に山頂まで道があることがわかる。山居院遺構はまさにこの登山道の真ん中にある、さらに休場遺跡もこの道にある。

おわかりだろうか?愛鷹山に限らず農業主体の生活で山はどの地区も雨降りの神として山頂を崇拝していた。しかも愛鷹山は桃澤神社伝授によると源頼朝が神馬99頭を五穀豊穣を祈って寄贈したとある。

つまりこの山居院遺構を通る道は参道とも言える道で、休場遺跡の集落がこの道を活用していたとなると旧石器時代からこの道は存在したということになる。

このことから前述の「山居院」の高根村の村史にある(隠れ武者の砦・隠れキリシタンのアジト)と言うのは無理がある。また、三鳥派の 寺院はあったかもしれないが目立つほど大寺院になったかどうかは疑わしい。

なぜ隠れるような場所とみられたのだろうか?それは現在の植林のヒノキの群生にある。植林が 大規模に行われたのは明治後期になってからで江戸時代にはこのあたりは原生林の低木が茂っていたのではないだろうか・隠れるにはいささか不安な場所である。

現在この道はどうなっているのだろうか、実際に歩いてみた。

実は一部を除いて柳沢、平沼登山道と同じ程度の歩きやすい道だったのだ。

愛鷹林道に当たる直前の山道、歩きやすく見晴らしも良い場所がある。また水場も存在する。土塁のようなものまで見受けられる。

やがて見えてくる東稜線、急なこの斜面を登ると穏やかに山頂に向かえる。

なんと斜面の沢沿いに炭焼きの跡、この石積みは山居遺跡に似ている。同じ時期に活用されたのか?

登り切ると東稜線の穏やかなルート、よく歩かれていた形跡もある。

登ってきた道を見下ろす

位牌岳の向こうに富士山、東稜ルートならではの景観

東稜線のゴールは古地図の通り神社鳥居の下の東側に出る。現在の登山道の逆側にある。しかし、現在はヤブがヒドく神社の北側から出るようになる。

このように江戸時代より古くこの東稜ルート(休場ルート)は存在し利用されてきた。このルート上に寺院があっても不思議ではなく、見晴らしも今より効いて修行などにはよかっただろう。

大中寺が主張している夢想国師の山寺というのはまるで想像ではなく現実味のあるものではと思う。

代々中沢田に寺院を構えた後も山修行として山居を利用していたのではないか、また山頂詣でもしたのかもしれない。

また後年三鳥派がこの平坦地を利用していたのも納得はいくが隠れるとはどうだろうか。

 


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