愛鷹山の謎の遺跡

徳川埋蔵金は愛鷹山にある

その全貌を解く

徳川埋蔵金

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江戸幕府御用金の行方(ここからは愛鷹山のロマンとしてお読みください)

江戸出身の江原素六はなぜ沼津に移住して来たのか?また晩年は沼津ではなく東京で亡くなっている。江原素六が市川船橋戦争で銃弾を受け負傷してからの行動が注目される。

徳川慶喜将軍は幕臣に「決して引いてはならない」と徹底抗戦を支持している。しかしその後 勝海舟に一任して勝と西郷の会談にて江戸城無血開城は成立した。

1868年江戸城の無血開城の後の7月徳川慶喜は駿府に移封されている。素六は負傷して官軍から追われて潜伏していたが、榎本からの函館戦への誘いを断り徳川 慶喜を追って駿府へ行くことを希望したという。結果素六は下田から駿府へ入り沼津に偽名で潜伏した。

徳川慶喜の(敵前逃亡)は幕府政権維持を主張していた幕臣達を唖然とさせたと言う。小栗忠順らは将軍が引かなければ戦闘は勝っていたと後から話している。

詳しいことは江原素六として調べて欲しいが、素六がなぜギリギリ生き残っていったのか注目される。

徳川御用金はどこに ?

開城後に官軍が江戸城を捜索したが、幕府の御用金はまったくなかったとの事である。幕府の経済は疲弊し切っていたが全くないのはおかしい、と言うのが徳川埋蔵金の云われである。

大政奉還時勘定奉行は小栗忠順という事で、彼が逃走した方面の赤城山周辺を発掘する事が古くから行われている。ただし、江戸決戦は避けては通れないと悟った幕府側が勘定奉行に御用金の管理を命ずるだろうか。徳川慶喜が兵を引いて江戸に帰還し、戦意のないことを示した時点で御用金は小栗らによって持ち出されていた可能性がある。

徳川慶喜は当初、それ相当の持分を持って将軍職を辞する要求を出していた。少なからずとも駿府へ御用金の1部は運ばれたとみるのが自然である。

徳川御用金は船で沼津に運ばれた?

勝海舟と西郷隆盛との話し合いで江戸突入に備えて多くの船が焼け出された市民救済のため利根川などに船をつけていたという。この極めて切羽詰まった状況の時に御用金は海に出たとみるのが納得がいく。明日にも官軍が攻めて来て江戸の町が焼け野原になるというのだから、街中大騒ぎであっただろう。

徳川御用金はどこに持ち出されたのか?西から官軍がやってくるからどうしても東日本方面に持ち出されたように感じるが、当時重量のあるものは船で運搬していた。

世界文化遺産となった韮山反射炉からは狩野川を下り、下田沖経由お台場へ8トン近くある大砲が運ばれている。御用金は一時期隠され、この逆ルートを使い下田経由で狩野川沼津港に運ばれていた可能性がある。

沼津港に揚げられた御用金はそのまま駿府城の徳川慶喜のもとへは運ばれなかった。官軍の取締りは厳しく東海道を西に進むことは難しかった。

そこで埋蔵金は牛車に積まれ根方街道沿いの(ある寺)に預けられた。

この無血開城の後、徳川御用金は赤城山に埋められた という噂が流れ後の埋蔵金発掘につながる。

これは小栗ら幕府幹部が後に流したデマであるか、あるいは読み違いである。

隠居しようとしていた小栗は埋蔵金が沼津に着いている事を確認し、新政府の追及をなるべく北方面に向けるため細工している。新政府の怒りをかった小栗は斬首されている。

埋蔵金は赤城山にある=埋蔵金は愛鷹山にある

あかしろやま=あかしやま(しは音読み)→あし(た)かやま

当時も今も愛鷹山とはあまり聞かない山なのである。また読みにくい

江戸城が攻められた場合、小栗ら幕府幹部が追及を受けるのは必至だ。そこで若手の誰かが探されていたのだ。負傷して潜伏していた江原素六に白羽の矢が当たり沼津潜伏の後、静岡藩 小参事に誰かが任命した。

勝海舟は無血開城とみせかけ、新政府転覆の計画を少しずつ進めていた。

新政府転覆後、徳川慶喜を蜂起して再び江戸幕府を再興しようと目論んだ幕臣が他にもいた。そして彼らは失職したかたちで静岡県東部へ移住したのである。

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