愛鷹牧は寛政9年から明治8年まで民間に払い下げられるまで80年続いた。三鳥派の処罰から約90年後の始まりである。この頃の山居遺構はどのようになっていたかは想像だが、何らかの村人達が休憩などに使っていたのかもしれない。
幕府が愛鷹牧を創設するに当たり、愛鷹山南面をくまなく調査させたと思われるが山居の記録は残念ながら見当たらない。もし石積みがあったのなら何の施設跡か調べたであろうし、そのまま使えそうなら役立てようと思ったかもしれない。
上の模型は愛鷹牧の元野牧である(明治資料館展示)、奥に馬見所という建物があり、ここでは江戸からの馬役人や三島代官などが視察していた場所とのことである。右側は見物人らの子屋であるが役人用と比べて貧弱である。
年1回の馬追いであるからさほど基礎に力を入れなくてもいいが、この小屋は管理していたのであろうか?
下に現在の馬見所と思われる元野牧の写真がある。
ご覧のように石が残っている。元野牧は富士通工場の裏手にあるが付近に採石できるような川は無い。柳沢の渓谷は約100m崖の下である。牧は土塁こそ広大に積まれているがどこも補強で石は積まれていない。つまりこの元野牧馬見所は基石があった事が推測される。
つまりコンクリート基礎が出来る前は建造物にはすべて基礎に石が活用されていたのである。宿場町である由比町等を訪れてみても江戸期の建物には石を切って土台としている。
明治初期には愛鷹牧は計4ヶ所、保護により全山で2千頭を超える野馬が走り回っていたという。明治資料館発行の「愛鷹牧」によると役人などに拳銃を持たせ野犬などから馬を守り、また村人には報奨金を出して野犬等を捕獲していたという。
死んだ馬などは場所を記入して管理していたというが、疫病や台風などへの備えはどうなっていたのだろう。牧開始時に200頭程度だった馬が10倍に増えるには特段の保護や種馬を仕入れて管理する施設がなければならない。
山居の地は馬の保護施設ではなかったか?
山居の地から下に大休場という広い広場がある。休場とは山居同様地元の地名である。
ここは地元山居奨学会が大正前より管理しており、かつては植林の他に野菜等を栽培して学生のために校舎等の保全に利用していた。
大休場の刈り込みをする役員と山ワサビの風景(金岡百年史より)
上の大正期のワサビ田付近と思われる大休場山林内に残る石積 2016年
山ワサビの写真はもしかしたら山居院遺跡の石垣かと思われたが、大休場付近とのことである。本ワサビ田跡は裾野市の下和田地区・水神社・桃沢渓谷にも残っている
この大休場と休場という地名は山居同様江戸中期から見受けられる、という事は山居遺構同様昔から使われていたという事になる。
としたなら愛鷹牧のほぼ中央に位置するこの場所に野生馬を集めたとか、そういう基地的な意味合いの場所になっていたのだろうか。
山居院は愛鷹牧の管理施設だった?
2千頭の野馬を管理し、千人を超える勢子(根方街道沿いの農家から出され、打ち太鼓や大声を出して馬を追う衆)が山に集まり、千人を超える観客で賑わう馬追いは各牧1回で年に4回行われた。
江戸末期にもなると大変な娯楽として遠方より見物人が押し掛け、飲み物や菓子などを販売する現在の屋台のようなものまで出たという。
このような催事には万全の準備が必要である。山居はあらかじめ威勢の良い馬の選出、怪我馬の手当て。また大休場には放牧を待つ馬が数百頭が囲われて待機していたというのは考えすぎだろうか?2千頭の馬が何かがキッカケで全部山頂方面まで逃げてしまい、馬追いが成立しなかったら大変な不祥事である。 |