荻原規子作品について
〜「読む女の子」たり得なかった者からのメッセージ〜

 荻原規子の勾玉三部作はわたしにとってとても大切な作品です。 それは今でも変わりません。 ネットに繋げる環境になり,初めて訪れたサイトも荻原作品を扱っているところでした。
 そこで知り合って今なお繋がりのある方もたくさんいらっしゃいます。 自分のサイトを開設してしばらくの間は,そういったサイトとのリンクもたくさんありました。
(現在はかなり減っています。閉鎖されたサイトが多いというのが主な理由です。)

 好きになった作家の作品はとことん追いかけるわたしなので,彼女の作品はほぼ全部読んでいると思います。アンソロジーで掲載されている作品も読んでいます。でも,このサイトで紹介しているのは「勾玉三部作」(風神秘抄を入れると四部作?)と『樹上のゆりかご』だけ。あとは,レポートで『これは王国のかぎ』を扱っているくらいです。
 それには,理由があります。 彼女の「読む女の子たち」というエッセイを読んでしまったから。そのため『西の善き魔女』は紹介する気になれなかったのです。

 今回,この話題を持ち出してきたのは,荻原規子『風神秘抄』が,日本児童文学者協会賞と産経児童出版文化賞JR賞を受賞したことがわかったからです。(本人のブログに記載されています。) 産経児童出版文化賞JR賞受賞のことが先に書かれていたのは,彼女にとって,日本児童文学者協会からの賞にはあまり意味がないということの表れかな…なんて穿った見方をしてみました…。

 それ以前に,『空色勾玉』が日本児童文学者協会新人賞を受賞して以降,彼女はこういった賞をとるということ自体に意味を見いださないのではないかと思ったのです。

 新人賞受賞の際の受賞の言葉「夢の免罪符」には,賞をとったことで,自分が別の職を持ちながらも執筆を続けていくこと(彼女にとっては,「夢を見続けること」)に免罪符をもらえたというニュアンスの言葉が見られます。この時点では,受賞はその後の彼女の執筆活動に大きな影響を与えていたのです。

 けれど,それから6年後,彼女は「読む女の子たち」というエッセイを『日本児童文学』(日本児童文学者協会の雑誌。1995年 6月号)に寄せています。そこで彼女は,自分が読者として想定しているのはかつての自分がそうであった「読む女の子」であり,そういう女の子達が発しているシグナルを(つまりは,自分自身が発しているシグナルを)理解できないであろう人に作品を評価されても「あ,そう」くらいにしか感じない,望外に褒めてもらってラッキーと思うくらいでしかないと述べているのです。

 この文章は彼女自身のサイトにもUPされていたし,さらにそのエッセイについてのコメントもついていました。『日本児童文学』で児童文学を論じていたり創作したりしている人たちが,読み手のことを意識していないように思って書いたものだという内容でした。

 『日本児童文学』という雑誌は,確かに「読む女の子たち」は目にしないでしょう。読んだり批評を書いたりするのは,児童文学という分野で仕事をしている人たちでしょう。でも,あの作品が児童文学として出版されたのなら,そこからの批評があって当たり前だと思うのです。そこで評価されたことは,「あっそう」として受け止めるようなものではないのではないだろうか…。

 また,わたしが読者として非常にひっかかったのは,読み手を「読む女の子たち」に限定してしまっていること。この作品をわたしが読んだのはすでに「読む女の子」の年齢を過ぎていました。また,わたしよりもこの作品を気に入ったのは,母の方でした。 おそらく,わたしたちは彼女の発するシグナルをそれなりに受け取ったのでしょう。 そういう意味ではわたしたちは彼女の言うところの「読む女の子」であったのかもしれない。けれど,あのエッセイの書きようでは,わたしたちがどんなにあの作品に心を揺さぶられようと,彼女にはどうでもいいことであり,望外のことでしかなかったのかと思われても仕方がないのではないでしょうか。とてもガッカリしたことを,今でも覚えていますし,彼女のサイトが開設された直後に,そのことをご本人にメールで伝えもしました。 (もしかしたら,エッセイにつけたコメントは,あのエッセイを読んでわたしのように感じた読者が少なからずいたからなのかもしれません。)

 このエッセイを読んだのは,わたしがサイトを立ち上げ,勾玉三部作等のレポートをUPしてから数ヶ月後だったと思います。彼女の作品に対する批評文は,大学生の間にかなり読んでいたのですが,「読む女の子たち」は卒業後だったため,読み落としていました。

 このエッセイについては今でもひっかかりを感じているし,まさに「読む女の子」のためだけに書いたとしか思えない『西の善き魔女』の紹介はこの先もする気はないのです。(この作品について,彼女の言うところの「児童文学を論じている」方は,「ジェンダーを描いている点で高く評価できる」と仰っていましたが。)

 あのエッセイから10年。今の彼女は今回の受賞をどう受け止めているのでしょう。最初にも書きましたが,やはり「あっ,そう」くらいなのではないかなと思うのです。『風神秘抄』もやはり彼女と同じ「読む女の子」のためのものであると思うから。このようなスタンスの作家の作品に賞を与える日本児童文学者協会は,作品そのものを客観的に評価しており,懐が大きいようにも思います。ただ,今回の受賞も評価は大きく分かれたのではないかな…そんな気がしています。とりあえず,選考過程や評の掲載される『日本児童文学』を読んでみなくては。

 それでも,彼女の作品はやはり読み出すとその世界に引きずり込まれていく魅力があるのは事実です。このサイトだって,もともと勾玉三部作のレポートをUPしたかったから作ったという部分もあるくらいなのです。でも,荻原サイトは当時いくつかあり,内容も充実しているから,自分で荻原サイトを作る必要性がないと思ったのです。だから,荻原作品限定ではなく,好きな児童文学をたくさん紹介するサイトにしました。これは間違っていなかったと確信を持って言えます。

 他の方から,このような賞は順送りなのではという意見をいただきました。順送りなんて,まるで読書感想文の課題図書のようですね。実際,「何でこれが課題図書なの?」と思う本って多いのです。今回の受賞に関しては,「13年越しの宿題」に先ほどの「児童文学を論じている方」の意見を載せておきました。

 作家は読み手を想定して作品を書く物だとわたしは思っています。だから,「読む女の子」のために書いていたって別にかまわないのです。ただ,作品が出版され,読み手の側に届いた瞬間から,それは読み手が自由に読むものとなります。どんなに作者が意図して書いたとしても,読み手は必ずしもその通りに受け取らないのです。
 また,読み手も作者が想定した相手であるとは限りません。年齢も性別もそれこそさまざまです。想定外の相手からの反応だってあり得るのです。その反応も,作者にとって良かったり悪かったりするでしょう。どちらも吸収し,次の糧とできる作家の作品は,どんどん伸びていくのではないでしょうか。

 自分から読み手を限定する発言をしてしまったのは,しかも,自分と同じシグナルを持つ者のみとしてしまったのは,彼女の大きな失敗だとわたしは思っています。この発想について知人曰く「同人誌を発行している人のようですね。」これは核心をズバリとついていると思いました。
※この場合の「同人誌」というのは,児童文学の同人ではなく,いわゆる「コミケ」等に出ている同人誌のことです。

 児童文学のタブーの崩壊,ボーダーレス化が指摘されるようになって15年あまり。ボーダーレス化は書き手の側だけではなく,読み手の側にも起きている現象です。読める子は,中学年であっても,6年生から中学生くらいでないと読みこなせないような本を難なく読みます。逆に,かつて小学校中学年を対象にしていた作品が,現在では中学生向けになっていることもあります。また,大人も児童文学を読む機会が増えています。(読み聞かせも大きな要因ですね。)

 児童文学は大きく言えば子どもを読み手と想定して書く物。子どものための作品のはず。荻原さんのように「自分(彼女の場合,読み手は『読む女の子』ですが,即ちそれは自分であると解釈しています)」のために書くという作家が増えているように思いますが,自分のためならば出版しなくても自分だけで読めればいい。出版するということは,自分以外の読み手を得るということであり,さまざまな人の目に触れるということ。そして,そこには多くの人に読んでほしいという思いがあるのではないでしょうか。自分以外の人に読まれるようになった瞬間からそれは自分だけのための物語ではなくなるのだと思います。

 荻原作品の初期の瑞々しい感性を取り戻すのは,難しいかもしれません。彼女自身,なぜ『空色勾玉』が性別や年齢を超えて支持されたのかがきっとわかっていないから。8年前に荻原サイトを作っていたり,訪れたりしていた人の中には,荻原作品の良さを実によく理解していた方がいたのですけれどね…。
(06/05/05)

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