荻原規子『勾玉三部作』を中心に


 荻原作品との出会いは,本当に偶然でした。大学の図書館で『萬葉集』に関するレポートを書いていたのですが,途中で疲れてしまい,息抜きに児童文学の棚に行ったのです。「どんな本があるのかな」とざっと本棚を眺めているわたしの視界を『空色勾玉』という文字がすっと横切りました。「勾玉?」古代史や上代文学が好きなわたしは「勾玉」という言葉に惹かれ,この本に手を伸ばしました。わたしは本文を読む前にあとがきを読んでしまうという悪癖を持っているのですが,この時ほどこの癖に感謝したことはありません。

  「日本のハイ・ファンタジーが読みたいと,ずっと思っていました。」
  「これ以上児童文学を心から楽しむことはできないのではないかという恐れを感じました。
  …(中略)…もう別世界に夢中になれないかと思うと,これはわたしにとっては一大事でした。」
  「日本の上代文学もまた大好きだったので,ファンタジーと上代を結びつけるのは,水が低
  いほうに流れるように自然にできたことでした。」(『空色勾玉』あとがき 福武書店[現ベネッ
  セ]1988)

 荻原規子はこう述べていたのでした。そして,それはわたし自身も感じていたことだったのです。同じようなことを考えている人がいる,そのことがうれしくて作品を読みはじめました。そして,期待通りどころかそれ以上の感動がありました。以来,荻原作品に夢中です。
 以下は,荻原作品について学生の頃に書いたレポートと最近のレポートです。学生の頃のレポートは,書いた時点で『薄紅天女』が出版されていなかったので,『これは王国のかぎ』までの作品での意見になっています。勢いだけで書いていて,こじつけっぽいところもあります…(^^;)  

荻原規子の描く少女像〜主人公と少年に見る「少女」〜

 荻原規子の作品の主人公はみな少女である。『空色勾玉』(福武書店 1988)の狭也,『白鳥異伝』(福武書店 1991)の遠子,『これは王国のかぎ』(理論社 1993)のひろみといずれも少女の姿を描いているが,荻原規子は少女をどのようなものとしてとらえているのだろうか。その少女像を追っていくことにする。

1.少女は自分で道を切り拓く

 物語の舞台設定は,『勾玉』と『白鳥』が上代神話の世界,『王国』が現代とアラビアンナイトの世界と異なっているが,三人の主人公にはいくつか共通点が見られる。
 まず,主人公の年齢はいずれも15歳前後となっている。狭也は憧れの人に胸をときめかせる少女,遠子は幼なじみの小倶那と双子のように育ち,彼を誰よりも大切に思っている少女,ひろみは同級生に失恋してショックを受けている少女として登場する。いずれも15歳前後の少女として当たり前の気持ちを持っている。この状態から,主人公達は徐々に変化していく。狭也は憧れの月代王と出会い,彼にひかれてまほろばの宮へ行き,そこで運命の人とでも言うべき相手,稚羽矢と出会う。そして,彼を助けるため,強く成長していく。遠子は幼なじみの小倶那と別れ,後に彼によって故郷を滅ぼされる。そんな小倶那を倒すため,遠子は男として旅に出て強くなっていく。しかし,小倶那を倒すことができず,絶望した遠子は自分を捨てかけるが,小倶那を好きであるという自分の気持ちに気づき,小倶那のすべてを認め受け入れていく。ひろみは失恋のショックからアラビアンナイトの世界へ紛れ込んでしまう。その世界でのひろみは魔人族で,大きな力を持っていた。ハールーンという青年と旅に出たり,彼の弟である王子ラシードと奴隷娘ミリアムの恋する姿を見たりしながら,自分自身の傷つい た心を癒し,成長して元の世界へ戻っていく。
 さらに,主人公達はそれぞれ自分の進むべき道を自分の判断で選んでいる。きっかけは他の人に与えられても,決断するのは自分である。狭也は月代王の申し出を受け,王の元へ行くことを自分の意志で決める。また,月代王の元を離れ,闇の氏族の元へ稚羽矢とともに行くことを決めたり,一度は稚羽矢を見はなしてしまうが,もう一度稚羽矢を見出しに行こうと決心したりするのも狭也自身である。遠子は最も大切な幼なじみであると同時に故郷を滅ぼした憎むべき存在,小倶那を自分自身の手で殺そうと決意する。しかし,小倶那を好きであるという自分の気持ちに気づき,受け入れることに決める。ひろみはハールーンと冒険の旅に出ることを決める。アラビアンナイトの世界がハッピーエンドになると,ひろみは自分の世界へ戻ることを決意し,実行する。
 これらの判断の場面は,主人公達の成長の過程ときれいに重なっている。彼女達は,自分で自分の道を決めるたびに成長していくと言えよう。
 しかし,主人公はすべて自分一人で決断し,行動しているわけではない。そこには必ず支援者がいるのである。狭也には月代王,遠子には菅流,ひろみにはハールーンである。彼らに共通しているのは,主人公より年上で,少女をひきつけ憧れさせるものを持ち,頼りになる男性であるという点である。彼らは主人公の成長を促し,補助している,いわば保護者のような役割を果たしている。場面ごとに決断していくのは主人公であるが,その場面が作られるのは彼らの支援があるからである。月代王との出会いがなければ,狭也はまほろばの宮に行くこともなく,稚羽矢ともめぐり会わない。菅流がいなければ遠子は豊葦原中を勾玉を探して旅することはできず,小倶那に再会することはできない。ハールーンがいなければひろみはアラビアンナイトの世界で自分がどうすればよいのかわからず旅に出ることはないのである。だが,そんな支援者達の活躍する場面は限られている。支援者の役割は,主人公が自分の本当の気持ちに気づくまでの援助である。自分の道を決断した主人公達には,もはや援助は必要なく,彼女たちは後悔せずに前進していくのだ。

2.もう一人の「少女」

 これらの作品にはもう一人の「少女」が登場する。稚羽矢,小倶那,ラシードである。この三人は実際は少年なのだが,「おっとりとしていてはかなげ,頼りなげ」という「少女」としての一面を持ちあわせている。
 稚羽矢は狭也と初めて出会ったとき,巫女の姿をしていた。そのため,狭也も稚羽矢を少女として信じて疑わなかったのだが,その時の稚羽矢は外見だけでなく中身も「少女」のようであった。夢ばかり見て,頼りなげな様子の稚羽矢は,狭也に比べるとずっと「少女」に近い。小倶那は蛇や雷を恐れ,少年達にいじめられていて,遠子にいつも助けられていた。少女である遠子の方が強いのである。ラシードはおっとりとしていて,ひろみが思わず助けたくなってしまうような人物である。彼はミリアムの魔法によって少女の姿にかえられてしまう。その姿は,「細くてはかなげで,風にもたえぬ花のよう」(『これは王国のかぎ』)であった。
 15歳前後という年齢はちょうど子どもでもおとなでもない境界の位置にある。少女から女性へ,少年から男性へと成長していく時期である。その時期にある彼らが「少女」を内包していたとしてもおかしくはない。実際,彼らはその「少女」を徐々になくしていく。主人公達だけでなく少年達も成長し,はかなげで頼りなげな「少女」は物語の終わりには姿を消してしまうのである。これは,作者が「少女」を少女としてとらえていないからではないだろうか。

3.荻原作品の少女像

 荻原規子は主人公を,活発で少々男勝りなところがあり,それでいて恋をする少女という姿で描いている。泣くこともあるが,おっとりとしてはかなげではない。自分の力で困難に立ち向かっていき,道を切り拓いていくのである。おっとりとしてはかなげという「少女」を少年に身につけさせ,最後にそれを消滅させることによって,少年に守られている少女を理想の少女としないことを荻原規子は示しているのではないだろうか。荻原作品の少女は自分の力で自分を動かす能動的な少女である。少年に恋はするが,少年に頼らず強く生きている少女。荻原作品にひかれるのは,そんな少女達がとても魅力的だからである。


存在価値を探す旅〜居場所探し〜

 荻原作品を読んでいて常に感じるのは,『心地のよさ』である。いつ読んでもどこかホッとさせるものがあるのだ。なぜ,こんなにも心地よいのだろう。その理由を『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』(徳間書店 1996)の勾玉三部作をもとに,二つの観点にしぼって考えていきたい。

1.居場所探し

 荻原作品に共通していることがらはいくつかあるが,その中でも重要なのは「居場所探し」なのではないかと思う。ここでいう「居場所」とは,真に自分が安心していられる場所や存在,そして自分の役割(存在価値)のことである。登場人物達は,形は異なっているが,「ここにいてよいのだ」という居場所を探しているのではないだろうか。
 まず,少女達について振り返ってみたいと思う。『空色勾玉』の狭也はみなしごである。養父母はとてもよくしてくれ,自分でも養父母を実の父母だと思っているのに,常に養父母に出会う前の幼い自分を悪夢として見つづける。月代王の元へ行くのは,憧れもあったであろうが,本当は自分の居場所を求めていたのではないだろうか。『白鳥異伝』の遠子は故郷と小倶那を失う。遠子にとって最も大切だったものを小碓皇子(小倶那)によって,同時になくしてしまう。遠子は小碓皇子を倒すことで,思い出の中の小倶那という居場所を取り戻そうとする。『薄紅天女』の苑上は皇の中での自分の役割がない。母を亡くし,帝である父に気にかけてもらえずにいる。宮中に自分の居場所がないのである。苑上は宮中から出ることで,自分の役割を持とうとする。
 次に,少年達について考えてみたい。『空色勾玉』の稚羽矢は,本来の自分と母を知らず,宮の奥深くに隠されている。狭也と出会うことで,自分を見つけだし,闇の女神を地上に導くという自分の役割を知る。『白鳥異伝』の小倶那は三野で育つが,誰の子かわからないでいる。ようやく出会った実の父母は兄弟の関係にあることを知り,「生まれてきてはいけなかったのかもしれない。」と自分の存在自体を否定する。「小碓皇子」でいる限り,自分の居場所は存在しないのである。『薄紅天女』の阿高は,母を知らない。竹芝には気のあう同い年の叔父,藤太がいるのに,自分は竹芝の人間ではないと思い,母の影を追って蝦夷の地へ行く。
 このように,少女も少年も自分を探し,自らの存在価値を求めているのである。では,彼らは,どんな居場所を見つけたのだろうか。
 狭也は稚羽矢と出会うことで,水の乙女として大蛇の剣を鎮めるという役割を知り,大蛇の剣である稚羽矢を受け入れていく。稚羽矢は狭也と出会うことで大蛇の剣としての存在意義を知り,狭也がいなくては自分は一人ですらないと気づく。お互いを自分の居場所だと気づくのである。遠子は思い出の中の小倶那を取り戻すことはできなかったが,小倶那のすべてを受け入れることで,大蛇の剣の力を持つ「小碓皇子」を切り離した現実の「元の小倶那」を得る。小倶那は「小碓皇子」を切り離した小倶那になることで,遠子といたいと願う自分と,それを受け入れてくれる遠子という存在を見つける。苑上は怨霊を倒す力を持つ阿高と出会うことで,自分の存在価値を見つける。阿高は皇の苑上と出会うことで,勾玉の主としての自分の役割を見つける。狭也と稚羽矢,遠子と小倶那,苑上と阿高はいずれも互いの存在によって自分の存在価値を見出しているのである。そして,自分の存在を認めてくれる相手の中に,自分の居場所があることに気づくのである。

2.「母」との戦い

 少年の中に,自分の存在してよい場所を見つけた少女達。しかし,その場所を得るためにどうしても対峙しなければならない存在があった。それは,少年の「母」である。
 狭也の場合は照日王がそれにあたる。照日王は稚羽矢の姉であるが,母のいない稚羽矢には「母」と言うべき存在に等しい。稚羽矢を宮の奥深くに縛り付けておくのも,照日王なりに稚羽矢のことを思ってのことである。稚羽矢を外の世界へ連れ出し,目覚めさせようとする狭也を排除しようとするのは,一人立ちしようとする子どもから離れられないでいる母親の姿に見える。
 遠子の場合は小倶那の実の母,百襲姫である。小倶那に大蛇の剣を渡したのも,死後もけものになって小倶那の周囲に現れるのも,小倶那を守り,自分のものにしておきたいからである。そのため,小倶那が自分のことをかえりみなくなりだした原因の遠子をうとましく思うのである。
 苑上の場合は阿高の母,チキサニである。阿高は自分の中に勾玉の主としての力とともに,母であるチキサニを受け入れている。勾玉の力は本来皇のために使われるものである。その役目が終わらない限り,阿高は勾玉の主であり,チキサニを切り離すことができない。つまり,母から離れられないのである。
 そんな母なる存在を少女達はどのようにして乗り越えたのだろうか。
 狭也は,自分の空色勾玉の力で,稚羽矢と彼が求めていた母である闇の大御神とを出会わせた。そして,自分を器として地上に招くことで,照日王の果たしていた母としての役割を終わらせた。母でなくなった照日王は,天の宮へと帰っていくしかない。
 遠子は,小倶那の中の母も彼の一部であると認め,受け入れた。そして,小碓皇子と母(どちらも大蛇の剣の力)を宿禰に譲り渡した小倶那が戻ってこられたのは,遠子の「生きてほしい」という願いに彼が共鳴したからである。遠子と遠子の勾玉がなければ,小倶那は元の小倶那として遠子のもとへ戻ることはできなかったはずである。
 苑上は,怨霊となった皇太子とともに消滅してしまうはずの阿高に「戻ってきて」という声を届けたことで,阿高からチキサニを切り離した。死を覚悟していた阿高を「戻ろう」という気持ちにさせ,勾玉の力を受け渡す方法を見つけさせたのは苑上の力である。
 では,少女達が戦った「母」とはいったい何なのだろうか。それは,母性だと考える。少女が少年を自分のものにしようとすると,「母性」という壁にぶつかる。なぜなら,少女は少女であるがゆえに未成熟の母性しか持ち合わせないからである。しかし,母性は少女の中で確実に育っていく。その母性が少年達の内なる「母」にうち勝ったときに,少女は少年の中に自らの居場所を見出すことができるのではないだろうか。

3.自分探しの旅

 自分の居場所があるというのは,人間にとってとても大切なことである。物理的な居場所も必要だが,自分の存在価値を認めてくれ,心のよりどころとなる居場所も重要である。荻原作品を読んでいてホッとさせられるのは,少女も少年もみな自分の存在価値を見出し,心のよりどころを見つけだすからなのだと思う。
 自分の居場所を探すのは,少女や少年だけではない。おとなも探しているのである。わたし自身も自分の居場所を探している。いくつか居場所を持っていても,まだ探してしまう。それは,居場所を探しているうちに自分自身を認識できるからである。新しい自分に気がつくことができるのである。荻原作品を何度も読み返しているが,そのたびに新しい発見がある。その時の自分の状態で読み方がかわってくるのだ。学生の頃のわたしと今のわたしでは読み方が当然違う。けれども,いつでもかわらないのは,前向きに進み,自分の居場所を見つける荻原作品の少女達の姿である。
 自分の変化に気づかせてくれる,そして,常に居場所を見つける少女達に出会わせてくれる荻原作品は,わたしにとってとても大切なホッとさせてくれる居場所の一つである。 (98/08/15)


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