長野作品で初めて読んだのは『少年アリス』だ。
NHKのラジオドラマで聴いたのがきっかけである。 でも,ラジオと原作とでは雰囲気がまったく違う。
日本風の名前なのに,世界は西洋風。 一昔前の日本のようでもある。 そう感じるのは,これでもかと散りばめられた漢字の羅列のせい。
イメージするのは宮沢賢治の作品群だ。
初期の作品はどれも少年たちの物語。 それも,ごく限られた期間の「少年」である。
成熟しない,ともすれば少女と言っても通るような少年たち。 少年の姿をしていても,彼らは性別未詳でもある。
彼らの住む空間はいつでも閉じられている。 閉じておけば,少年はいつまでも成長せずそのままでいられるから。
逆に言えば,閉じておかなければ,彼らは少年ではいられなくなってしまうのだ。
この少年たちは現実世界には存在していない。
彼らは少女の中に内包されている少年たちだから。 少女が夢見る幻想の,そして理想の少年。
彼らは少女を傷つけたりしない,無害な存在だから内包できる。
少年たちは少女が創り出した箱庭でしか存在できない。
少女が少女でなくなるとき,この世界は崩壊する。 少年はもはやその役目を持たなくなるから。
と考えていて,似たようなことをかつて書いたなと思った。 荻原作品に出てくる,少女を内包している少年たちと似ているかも…。
少女と少年が逆転しているけれど。
(06/01/07) |
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