太陽の子
灰谷健次郎さんの作品は数多くありますが,わたしは『太陽の子』が一番好きです。多感な時期のわたしに最も影響を与え,今なお考えさせられる作品です。
昨年,職場の読書仲間(文庫本を1000冊近く持っている強者で,職員用課題図書と称して西原理恵子さんの本を貸し出している人)と『太陽の子』について長い間討論しました。彼女は高校生の時に読んだそうです。当時関心があったのが沖縄戦だったので,沖縄の人々の受けた苦しみ,それが戦争が終わってもまだ続いていることに衝撃を受けたと語っていました。その後読み返したときには,沖縄の人々のやさしさは癒しの心なのだと感じたそうです。わたしは,はじめに読んだときにはやさしさについて考えさせられました。次に読んだときには,ふうちゃんのお父さんと沖縄戦のことを考えました。
わたしたちの話は次第に読書論へと移っていき,「読む時期やその時の状態で,何に感動するかは変わってくるね。」という点で一致しました(作品の中身についても意見があったところは数多くありました。)「今読んだら,どんな風に感じるのかな。」そう言って話が終わったのですが,半年ほど前に読み返したときに,わたしは梶山先生に自分を重ねていました。自分が教員になったせいなのでしょう。作品の読み方はその時の状態で変わることを実感しました。けれども,いつ読んでも変わらずわたしが感動するのは「やさしさ」についてなのです。
この本に出会ったのは中学1年生の時でした。実は,期末テスト前で息抜きをするつもりで読み始めたのです。灰谷作品はすでに『ろくべえまってろよ』『プゥ一等あげます』など,いくつか読んでいたのですが,『太陽の子』にはなぜか手をのばさずにいました。けれども,今思うとそれはわたしにとって幸運だったようです。小学生のうちに読んでいたら,きっとこんな感動を味わい,深く考えることはなかったと思うのです。
当時のわたしがショックを受けたのは「沖縄にはかわいそうなんていう言葉はない」というギッチョンチョンの言葉でした。「かわいそう」という言葉がないとはどういうことなのだろうか。自分が日常使っている「かわいそう」が否定されているのだから,わたしは困惑しました。「友達がつらい目にあっているのに,『かわいそう』って言っちゃいけないの?何で?」とも思いました。けれど,その後の文章を読んで,それこそ目からうろこの落ちる思いがしました。人がつらい目にあっているときに,言葉だけで「かわいそう」なんて言っても意味がない,そのつらさを一緒に感じることが大事なのだという意味だったのです。〈自分は,本当にその人のつらさを感じ取っていたのだろうか。うわべだけで「かわいそう」と言っていたのではないか。〉そう考えたら,むやみに「かわいそう」という言葉が使えなくなりました。「かわいそう」だけでなく,他の言葉も簡単にかけられなくなりました。
『太陽の子』に出てくる沖縄の人たちは,みんなやさしい。うわべだけの「かわいそう」は決して使いません。つらい思いをしている人を見ると,自分も一緒に悲しんでいるのです。人の悲しみを自分のものとしてとらえるのは何と難しいことか。これはとてもつらく,苦しいことです。そして,とても痛いことです。自分がその痛みを味わわなくてはならないから。自分がつらく痛い思いをすればするほど,他人のつらさや痛みも分かる。だから,やさしくなれる。確かにその通りだと思います。でも,それは自分に厳しくなくてはできないことです。果たしてわたしはそんな風に生きられるのだろうか。
主人公のふうちゃんは小6の少女ですが,やさしく生きることを知っています。人の痛みを自分の痛みとすることができます。そして,人間として尊敬できるのは,政治家でも芸術家でも学者でも実業家でもない,本気で人を愛することのできる人だと思い至ります。自分でその答えにたどりついたふうちゃんはすばらしい子だと思います。
大きく深い悲しみの果てにあるやさしさ。今の世の中に,そういうやさしさがどれだけ存在しているのだろうか。灰谷さんがこの作品を書いたのは20年近く前のことです。その時すでに,世の中からやさしさが,人を思いやる心が消えつつあることを灰谷さんは感じていたのでしょう。この20年で人々はやさしさをとりもどすことができたのでしょうか。答えは「いいえ」だと思います。ますます人との関わりが薄れ,心の交流ができなくなっているのが現状です。人間は決して一人では生きていけないのに,孤独を生み出してしまう。多くの人に生かされているから自分が存在するのに,自分一人で生きているような錯覚に陥ってしまう。子どもたちが生と死について考えることもなく,平気で命を奪ってしまう。
生きるとはどういうことなのか。これはとても難しい問いです。でも,わたしたちが目をそむけてはならない問題だと思います。直視しなければ,やさしさは生まれてきません。自分の持つ生死の悲しみや苦しみをそのままとらえること。それは,つらいことだけれども,そこから始めなければならないのではないでしょうか。悲しみを知ることでやさしさが生まれ,癒されるのではないかと思うのです。
(98/08/29)