Master tweets よもやま話

op.15 伊東別院随想  r1/10/29 mugen

 昭和52年頃に伊東別院の引き上げということがあった。群発地震の頻繁な発生が引き上げの理由と聞いたが、作業としては別院の多くの荷物を、当時はまだ小さなプレハブ建てだった安曇野の北アルプス別院に運び移すということがあった。私は入山したばかりの20歳で、運転免許も取得したばかりだったが、先輩の小林秀英さんと共にまずは無形大師の管長車ベンツを東京から伊東別院に陸送することをさせていただいた。と言っても免許取り立てで不安いっぱいの初高速運転だったが、秀英さんがやさしく丁寧に車線変更のこつなどを教えてくれ、あれから40年以上経った今でもそのことは高速運転で励行している。
 
 東名高速厚木インター付近で走行中のベンツの左後輪がパンクした。秀英さんが運転していたが左後方に異音は聞いたがパンクとは気づかず、横を追い越したトラックの運転手が大きな声で指さしながらそれを教えてくれた。秀英さんは静かにベンツを左路肩に移動させ、止めてみるとなるほど左後輪がぺしゃんこにパンクしている、今は絶対にやってはいけないことの一つだが、そのまま路肩でジャッキアップし、トランクから荷物を道に降ろし、スペアタイヤを取り出して30分ほどかけてタイヤ交換した。秀英さんの落ち着いた行動に学ばされ「少しもハンドルを取られることがなかった、さすがベンツだ」と言ってられたのも印象深かった。

 その日の昼前に別院に無事到着し、大師や無瞋尼様にご挨拶したが、私は初めての地でもあり、何をどうすれば良いのかの要領も全く心得ていなかったので、秀英さんに付いて行くのが精一杯だった。昼前に着いたのですぐに昼食となったが、我々以外の方はもう済まされていたのか、あるいはお昼は召し上がらなかったのかはわからないが、秀英さんと二人きりの昼食となった。何をいただけるのだろうと思っていたら秀英さんが持ってこられたのは三色皿に乗った2枚の食パンと牛乳で、その日のお昼はバターもジャムも付かない一人1枚の真っ白い食パンと牛乳だけだったわけだが、三色皿に乗った2枚の食パンに向きあって、秀英さんと食前偈を唱えいただいた不思議な感覚の食味は未だに覚えている。

 二度目に別院に行ったのはそれから一週間ほど後で、今度は無老和尚様(当時)と二人で、お寺の水色の日産サニーバンで伊東と北アルプスの二つの別院を何度も何度も荷物を運び通った。中央高速を一部使うのだが当時は山梨の須玉インターまで下道を走り高速に乗った。どこをどう走ったのかはよくは覚えていないが、山道の下道が殆どで、とても疲れる行路だった。無老和尚様は大の浪曲好きで、道中ずっとカセットテープの大音量の浪曲が車内に流れた。私も好きになれればよかったのだがそうではなく、しかし他の音楽を聴きたいとも言えず、長いその行程の何度もの往復を浪曲三昧に過ごした。

 無老和尚様はお世辞にも運転は上手とは思えなかったので、かなりの部分を私が運転したが、そのうち気持ち良くなり無老和尚様は助手席でリクライニングされ寝てしまわれるが私は寝るわけにはいかず、何度も何度も襲い来る睡魔と戦いながら運転を続けた。時折「そうだ脳の半分ずつ寝てみよう」と思い、顔の右半分と左半分を一瞬ではあるが交互に寝かせ休ませるという裏荒技を試してみたりもしていた。何日かけ何往復したかは覚えていないが、伊東別院のマンション十階の部屋からエレベーターを使い荷物を降ろし車に積み込み運ぶというこの作業を行わせていただいた。

 その後すぐに伊東別院は売却もされたので、それから一度も行くことはなかったが、管長就任後間もない平成25年9月、本当に久しぶりに別院のあったマンションを訪ねた。叶澤正覚和尚主催の鎌倉参禅会の翌日、叶澤氏と私の姉と三人で行ってきた。私個人は引っ越しの記憶しかなかったが、旧別院の入り口のドアや、荷物を運んだ長い廊下やエレベーターや駐車場にもあの時のことが思い出され、切なくはあるがまた嬉しさも感じられる無形大師への深い思いに改めて包まれた。その後、また久しく会っていなかった別院近くの海岸端に長く住む母方の叔母の家も初めて訪問してきた。

 今回活禅の友の取材で、当時無形大師の大浄解脱満と呼ばれた当別院での大秘法行に侍者として随行された徹純権大和尚をはじめ編集委員の方々が別院跡地マンションを訪問された。それぞれがそれぞれ大きな思いを感じられたことだろう。まさにお地場踏みの行だ。訪問いただき本当によかったと思う。

                       

 

                   op.14 令和雑感  r1/07/03 mugen

 新元号の令和が発表された時、みなさんはどんな印象を持たれたのだろう。私は「れいわ」と聞いた瞬間麗しい和合の「麗和」を思った。同時に麗和だとしたら綺麗だけれど難しい文字だと思った時、この「令和」が示された。「令」の字は意外な感じも受けたが品の良さも直に感じられ、そしてさらにもう一つの「0(れい)は」を思い出していた。 

 小学校に入学したばかりの時のことだ。教室の黒板の横に貼られた「あいうえお」の五十音の大きな貼り紙と、1から100まで書かれた数字の貼り紙を見て、これからたくさんのことを学べることの大きな喜びと興奮と、そして自分にそれが出来るのだろうかと少し不安も抱いていた。

 その頃の郷里高知県四万十町は国道もまだ未舗装で、学校までの道筋の両側は春には満開の桜で彩られたが、街灯が殆どなかったので夜ともなると寂しいを超して恐いくらいだった。
 
 無形大師の父輿三次(よそじ)は昭和38年4月に87歳で亡くなり、自宅で執り行われた葬儀で導師を勤められた大師が私の記憶に残る最初の祖父無形大師であるが、入学したのはその頃のことである。

 国語は読むのも書くのも好きで、教科書や大師が買ってくれた児童書などは何回も何回も繰り返し読み殆どを暗記したくらいだったが、困ったのが算数だった。1から9までは数えられたが、何もないことを示す0(れい・ゼロ)が1の横に並んだ数字の10がどうして9の上に存在するのかが解らなかった。一番小さな数字の1と、何もないことを示す数字の0は並んで9の上に存在してはいけないと思った。だがしかし9の上に10があることは定義づけられたことであり、当たり前のことだから、それはそのように理解し納得しなければいけないのだが、それが定義としてあるのならば、数を数える時には1からではなく0から数えるべきではないかと悩んだ。0から数え始めれば9の上に10があっても何となく納得できる。そうやって数を数える時には1からではなく0から数えるようにして数字の疑問に向かい合った。0と声に出すと間抜けに思ったから0は心の中で数えて1から口に出して数えることをしばらく試した。こんなふうだったからきっと算数の成績は良くなかったのだろう。

 2年生になると今度は足し算と引き算に加えかけ算が出てきたが、自分はまだまだ0の存在に疑問を持ったままだったから本当に困って、0とは何だろうと一日中考えるようになっていた。
 
 何がきっかけになったのかは覚えていないが、ある時ふと「0は何もない世界を示す数字ではなく、無限を形成することの出来る唯一の数字で、数字の中で一番力を持つ、一番偉い数字なんだ」という自分なりのひらめきがあった。0が1の横に一つ付けば10になるし、二つ付けば100になる。三つ付けば1000になるし四つ付けば10000になる。そうやって0が付くことによって数は無限に増え、数の無限の世界が広がって行くことに気がついた。目から鱗が音を立てて、どんと地べたに落ちたような、心が踊り回るようなとてもすがすがしい喜びに満たされた。
 
 今このことを思い返すと、無限絶対の仏の安心の境地を説かれた無形大師に魅せられたのは、この時の体験と似ている気がする。無であり空であると示されるそれは、あの時の数字の0から受けた喜びと通じる気がする。
 
 結末が「0はえらい」と自分なりに納得したあの時の0であったが、本題に戻り新元号の「れいわ」を聞いた時思った「0は」は、この時の「0は偉い」の「0は」である。
 
 令和改元後に「令和」の提案者であるという方のメッセージをテレビで聞いた。
 「令和の令には麗しいの意味もあり、きっと麗しい和合の時代になるでしょう」ということであった。実に美しい解説だと思い、なおさら令和がとても好きになった。


op.13 武田無著尼について  H30/11/19 mugen

 無形大師が少年時代に、高知県香美郡野市町(現在の香南市野市町)の吉祥寺ご住持武田無著(むちゃく)尼より禅の深い薫陶を受け、それは生涯を通しての信仰の礎になったと良く伺ったが、尼公の御経歴や御尊影については存知あげる由のなかった所、先年帰省の折に地元の図書館で、尼公の教化活動、ご主人、ご令弟、ご長男についてまとめたものを見つけ整理したので、抜粋し紹介させていただきます。

 無著尼は野市町切石山中腹にかつてあった臨済宗宝鏡山吉祥寺開山の尼僧である。俗称を花枝といい、高知築屋敷武田左衛士の長女として、安政7年(1860)11月14日に生まれ、香宗我部家(土佐の豪族で室町時代初期より勢力を伸ばし、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子に迎え、以降は長宗我部氏の一族となる)の裔(えい)武田秀山(ひでのぶ)(陸軍少将)に嫁ぐが、秀山が明治35年12月24日病没後に発心得度し、鎌倉円覚寺釈宗演禅師について学び、のち京都東福寺管長広田天真にも教えを受けた。武田家の祖である香宗我部氏の居城跡が野市町土居八幡にあり、菩提寺宝鏡寺は城跡南方小字寺中にあったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。
 
 無著尼は菩提寺宝鏡寺の再興と民衆済度を志し、切石山に大正5年(1916)秋、京都より吉祥寺を勧請し寺を建立、菩提寺の「宝鏡」を山号として宝鏡山吉祥寺を開基したが、無著尼すでに57歳に達していた。尼公の徳を慕う善男善女の喜捨になる指輪かんざし類をもって鋳造された梵鐘もでき、大正7年9月1日「自」字染め抜き法被を着た自浄会員百数十人によって、後免(ごめん)駅より大八車で運搬され鐘楼堂に懸納された。
 
 無著尼の教化活動について具体的な詳細を伝える史料は見ないが、地元の野市読本に「衆生を救い社会を教化し、平常心の上に道を立て、地上の楽園に法(のり)を敷かんとする念願」とともに、「その心の底に流れる強い愛国心の至誠」のもとに、「実に尼公は法を傘に、禅を手段に、皇道精神の鼓吹(こすい)を以て共の畢生(ひっせい)の目的とした」と述べており、また「妄念にとらわれた醜さ」を説き「我執を逃れる道」を説き「人生の苦を語り、女の弱さを語り、然もそれに生きる道」を説き、なお自らの日常の生活はいよいよ簡素を加え、余財は惜しみなく社会に捧げて人の為に尽くすを楽しみとした済度救世の概要と自戒の厳格さを記している。いわゆる禅的説法により婦道を説き、郷党(きょうとう)社会の改善を図ったもので、「高く法の光を掲げられて以来、尼公の徳を慕い、訓(おしえ)を乞い、救いを求むる者日増しにその数を加えた」とあり、伝承によると、かなり遠方の地よりも救済を求めて参集する者が多かったようで「悩みの底から逃れた者はその数を知らない」と述べており、尼公はそうした救済者を寺に泊めて説教をしていたようで、悩みを持つ一婦人に対する夜を徹しての説教救済の状況も記述している。
 
 また無著尼による香南地区の教化が進展して、所々に修養を目的とした婦人集団の結成があったらしく、例えば野市町山下部落の別役糸子会長の自浄会は会員多数で、毎月一回例会を開き、無著尼を迎えて婦徳研修が行われており、徳王子(現香我美町)、山下、新道、石屋、東町(以上現野市町)には報徳会なる名称の団体結成があったとも伝えられるが、これらはその状況史料の断片的なもので、さらに各地に多くの婦人修養の集団結成があって、尼公を招いて修養会が催されていたと考えられるが、史料を欠くのでその実態はわからない。しかしこうした活動もわずか十数年の短期間で、無著尼は昭和3年暮れに東京阿部病院で69年の生涯を閉じたが、野市町及び香宗村ではその遺徳を讃えて町村葬を野市小学校で執行し、また檀信徒総代多数協賛の上、寺に開山堂を建立して無著尼遺骨を収納した。遺書に「無著遺詠」がある。
 
 吉祥寺の庫裡は名倉愛之助が、本堂開山堂は川村一久、鐘つき堂は佐野常吉、別役重光、公文慶吉がそれぞれ世話人で建立した。佐野常吉は吉祥寺の世話をよくし、無著尼は吉田東洋の書を常吉に贈ったという。
 
 無形大師はこの佐野常吉氏に連れられ、当時のこととて実家より80キロを優に超える距離を、親元離れ何度も参籠されている。カイコの餌である桑の木の病に強い品種改良で中国インドにまで名を馳せたという佐野常吉氏については、あらためて縁故を頼り御人物像を知りたいと願っている。
 
 吉祥寺のあった場所は時代の変遷と共にその姿を変え、十数年前に無著尼末裔の武田家より市に寄贈されて後は、車の往来を遠くに聞く山中のひっそりとした公園名でその佇まいを保っている。武田家の栄華を彷彿とさせる苔むした立派な墓地群は往事のままで、割と近年建立されたと思われる無著尼の白御影の真新しい小さな無縫塔が墓地群よりは一段高い一角に設えられ、醸し出される清浄で近寄り難いとも言える不思議な空気感から、尼公の御霊徳の強さをいまだ感じることができる。本堂や鐘楼堂などの伽藍は既に全てが取り壊され更地のままだが、そこに立つと無形少年が一心に無著尼に学んだ往事のままに、まるで無形少年の声が聞こえてきそうな錯覚に陥る。機会があれば無形大師の御法縁の地として、当山門弟各位にも是非一度足を踏み入れていただきたいと思う。

op.12 車  H30/1/27 mugen

 今や生活に欠かせない車。単に移動手段の乗り物という存在を超えて、表情があり命さえも感じさせる一生命体と思うことがある。私も幼年時よりそんな車にまつわる体験がいくつかある。

 わが国のマイカーブームは、昭和39年の東京オリンピックを機に起きたそうだ。国の保有台数を年代順に見ると、今から111年前の明治40年、二輪車を含む自動車全国保有台数は16台で、大正期に入ると1000台、大正10年には一気に1万2000台と増え、昭和29年にはついに100万台を突破し、同39年600万台、50年代4千万台、平成10年7200万台、現在は8200万台とその数は増加の一途をたどる。同時に排気ガス公害、温暖化への影響が取り沙汰され、最近ではハイブリッド車や電気自動車が一般的になり、さらに自動運転車の開発も活発になった。車の進化は計り知れない。今後はまた新たな車社会の展開があるだろう。

 幼少のころ、祖父無形大師は門弟を連れ、年に一度か二度郷里の高知に帰省された。その情報を聞くと、その時が待ち遠しく、二週間も前から毎日幾度も道に出ては祖父の車が見えた時のイメージを抱きながら時を過ごした。当時は黒の初代トヨペットクラウンが祖父の車で、重厚なボディーの印象はまさに祖父に通じ、両サイドドア上部に記印された「無」の文字は、祖父の大きな存在と共に私の心にも強く刻印された。

 祖父は55歳で運転免許をとったそうで、この時のクラウンを始め、その後数台の管長車は全て門弟からの供養による。自分でも運転されたが、たいていは在道の修行生が運転手を務めた。私も一時期運転させていただいたが、前述の幼児期体験があったから、祖父の車を自分が運転することの不思議な感覚は、いつまでも私についてまわった。

 日常のお出かけ以外に長距離では新潟、岩手、茨城、東京、大阪、大分、高知、和歌山などを運転させていただいた。その中でも昭和50年代に行修された大行は心に残る。光から身を守るため全身を白布で覆い、数名の和尚が担ぎ行場を移動された。横たわったままの移動では、車の振動がお体に響かないように油断と呼吸の乱れを一瞬たりとも許されぬ運転は忘れられない。

 その頃東京在住の叔母が使い古しの車を私にくれた。購入時には無形大師から「右側に気をつけろ」と言われ、その後やはり右側からの大事故に遭いながらも、車も人も大惨事を免れた、いわくつきの車だったが、私にとっては嬉しい初のマイカーだった。
スポーツタイプの赤いボディーだったが、パワステがなく車庫入れなどでは肩が凝るほどハンドルが重かった。その頃長野・富山連続殺人事件というサスペンスドラマまがいの事件があり、逃亡犯の車が赤のスポーツ車で、私はこの時まだ東京ナンバーのままこの赤い車に乗っていたので意識過敏になる妙な気分だった。

 元来何でも大切に長く使う性分があり、その後購入した新車は20年近くも乗り続けた。距離数も伸びまた次の車を探していた時に、現在乗っているヨーロッパ車のカブリオと呼ばれるオープンカーに出会った。前オーナーの女性が丁寧に乗った10年落ちのモスグリーンの車だが、乗ってみて気づいたのはオープンカーの開放感は、坐禅の開放感に繋がるということだ。この車が納車になった時、20年来乗った前車が手放されることを拒むかのように突然エンジンがかからなくなり、廃車の手続きに遅れが生じた。この時もまた車に「命」を感じたものだ。            

op.11 同窓会 (元気でおりよ)  H29/10/25 mugen

 中学の同窓会が郷里の高知県四万十町で開かれ、電車で行ってきた。
 
 高知へは車で帰省することが多いが、今回のように半日近くかけ電車でのんびり帰るのも好きだ。今は瀬戸大橋などの本四架橋があり車での帰路も随分楽になった。車だと長野から一度も高速を下りることなく、途中何度か休憩を入れても十数時間で帰ることができるが、一昔前のことを思い返すと、さすがに隔世の感がある。
 
 私はまだ入山したてで20歳になったばかりの昭和52年、当時の作務はいつもそんなふうであったが、その時も無老前管長を作務隊長とした我々一行は、お寺の日産サニーバン2台にスコップや手箕(てみ)や、大きな木槌の掛矢などの作務用具を満載し、窪川別院白銀様御出顕地整備作務へと向かっていた。

 中央高速道はまだ長野県の南信にまでしか延びてなく、長野から松本経由で犀川沿いの国道19号を走り、伊那北インターでやっと高速に乗った。名神を経由し、神戸から高松までは4時間のフェリーによる海路、高松に着くと四国山脈の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)などがある吉野川沿いの九十九(つづら)折れの国道を6時間以上もかけやっと別院に到着したものだ。長野からだと優に20時間はかかっていたのだが、到着の時間によってはそのまま作務に入ったから、ほんとにみんな元気だった。
 
 そんな一昔前のことを思い出しながら、この日は電車で帰省した。JR信越本線、中央本線を木曽川沿いに下り、名古屋で東海道新幹線に乗り換え岡山駅まで。名古屋駅で時間があればホームで、きしめん立ち食いに寄るのも楽しい。岡山で土讃線特急「南風号」に乗り換える。アンパンマンの作者故やなせたかし氏が高知県出身の所以で、タイミングによればアンパンマン号の可愛い車両に乗り当たってしまうこともある。

 このあたりからホームや車両の中にも土佐弁が聞こえ出し、帰省の感がより強くなる。両側にゆったりした瀬戸内海を眺めながら、上を車が走り、下を電車が通る二段構えの瀬戸大橋を通過すると右手間近に低い丸い形が独特な讃岐富士が見えてくる。このあたりは讃岐うどんの老舗が多い所だ。金比羅さんで有名な琴平、弘法大師空海生誕地の善通寺、多度津では右手高台に日本少林寺拳法発祥の地、金剛山総本山少林寺の中国風の寺を眺めながら、かつて甲子園で有名になった蔦監督率いる池田高校のある阿波池田を過ぎ、四国山脈真っ只中の吉野川渓流沿いの沢山のトンネルを抜け、やがて高知県に入る。

 香長平野が開ける後免(ごめん)駅を過ぎる頃に、無形大師幼少時に武田無著尼の元で修行された臨済宗宝鏡山吉祥寺のあった三宝山を遠望しながら、「あの山で山谷禅をよくした」と言われた無形大師の言葉を思い出し、南風号は高知駅に到着。今回はここで急行「あしずり」に乗り換え、残すは約一時間。長いトンネルを抜け右手に広がる景色が高速道路完成によりやや変わってしまった郷里に到着すると、同窓会の女性幹事が迎えに来ていた。土佐弁のままのメールを時折り寄こす幼なじみだ。久しぶりに会うのに懐かしむ気配など全く無く、ここで私は一気に「こうちゃん」に戻る。 

 若くして先に逝ってしまった何人かの彼ら彼女らに黙祷を捧げて同窓会は始まった。還暦プラスワンの61歳の同窓会なので、中学を卒業して45年も経っており、みんなその間いろんなことがあったのだろうが、今こうして中学の時そのままの雰囲気でみんなが集まっている不思議な感覚と、のど越しの良いビールの心地よさに強烈な土佐弁の熱弁達も手伝って、ふっと力の抜ける至福の酔いに数時間を過ごした。

 スマホで録音したみんなの声を長野に戻ってからCDに焼き送ってあげた。懐かしさや優しさをたくさん感じることの出来た楽しい同窓会だった。次の開催は65歳だそうで、これを土佐弁で言うと「次は65歳やと、みんなあそれまで元気でおりよ」となる。

                     

op.10 わがまま歩きイタリア旅行  H29/07/27 mugen

  1998年12月の旅行記です。当時ホームページに連載したものの抜粋ですが、なにしろ18年前のこと、現在のユーロに変わる前。通貨単位なども当時のままのリラで記してあります。少々長いのですがご了承ください。

 ミラノ1泊、フィレンツェ2泊、ローマ2泊のイタリア旅行に行ってきた。2千年問題がらみで9万8千円の格安ツアー。イタリアの前知識は殆どなく、どんな出会いと感動があるのか楽しみでした。ローマでは平野宜昭氏(現正格大居士)主催の真歩館イタリア剣友会との坐禅会、一緒に出かけたヴァチカン市国サンピエトロ大聖堂ではローマ法王ヨハネ・パウロ2世のミサにも出会えました。

★出かける前のこと
 「これ行ってみない」家人のその言葉が今回のイタリア旅行の始まり。ミラノにも行くけれどグラッツェーラ(真歩館イタリア)への連絡はどうしようかと思っていたら、ちょうど同館イタリア臘八大接心と時期が重なるとの平野氏の談。「ローマで坐禅会を」の話にも未だあの長靴の形でしかイメージのないイタリア。

★両替
 イタリアへ旅行するのだから現地のお金を少しは持っていかないといけないわけで、今現在のレートだとたとえば1万リラは日本円では何円なのかの簡単な計算。1万のゼロをふたつ取って、100×7=700円。リラは数字の桁が大きいので、たとえばバールでコーヒーを注文して1万リラ払っておつりをもらうという感じ。

★成田にて
 搭乗手続きでの旅行社コメントで、フランス経由エールフランス便がストで飛行機が来ず、ミラノ直通のアリタリア便に変更とのこと。フランスで乗り継ぎ四時間待ち予定だったので得した気分。

★スチュワーデス
 スチュワーデスは忙しそうで、お手拭き配り、回収、飲み物配り、紙コップ回収、ビールは如何ですか、ワインは如何ですか、水割りもありますよ、すみません毛布ください、機内食配り、食器回収、お茶は如何ですか、コーヒーは如何、紙コップ回収、すみませんもう一杯ビールください。飛行高度1万2千メートル、外気温マイナス60度。

★ミラノ到着
 午後5時ミラノ・マルペンサ空港到着、日本との時差8時間。入国審査を済ませバスで名前を一度で覚えられるレオナルド・ダ・ヴィンチホテルに直行。

★ミラノ観光
 ミラノ中心部ドゥオーモ広場周辺を観光。観光名所やショッピングゾーンから政治経済にいたるまで全ての機能が集中する場所とのこと。500年をかけ建築されたという世界最大級のゴシック建築ドゥオーモに感動。

★イタリア自動車事情
 ミラノもフィレンツェもローマも古い街並みに新たに駐車場を作るスペースがないのだそうで、道という道の両サイドにたくさんの縦列駐車。大きなワンボックスタイプはあまり見かけなく殆どが乗用車クラスの小型車で、体格の良い人は窮屈だろうと思い、ローマでイタリア人にそれを聞いてみたらやはり窮屈だとのこと。フィアットはイタリア北東部の車で、よく見かけるあの小ささの訳がわかったようでした。日本のように油煙激しい車が見あたらなかったのは、イタリア人の自然に対する気遣いなのか。場所変わればと思ったのは車と歩行者が事故った時、イタリアでは圧倒的に歩行者が悪いのだそうです。バスにてフィレンチェへ。

★フィレンツェ観光
 フィレンツェは市内への観光バス進入は一切禁止の徹底ぶりで、市内を一望できるミケランジェロ広場以外は終日歩きでの観光。道は全部石畳。自由時間にノミの市へ。店員との交渉次第で値切られるとか。茶色の革の手提げかばんを購入。

★イタリアデパート事情
 フィレンツェとローマで二度デパートに入ってみた。まずは日本のその光景となんら変わりはなく、ただイタリアにはデパートはごく少なく規模も小さいとのこと。食べ物をと思い、いつもの如く地階にエスカレーターで降りると、なんとそこは女性の下着売場。見渡すとやはりばつの悪そうな顔をした付き添いイタリア人男性も居り、少しホッとして昇りエスカレーターへ。

★イタリアチップ事情
 タクシーでは料金の10パーセント程度。ホテルの部屋を出るときは千リラ(約70円)程度。トイレを使った時は置かれた小さな皿に500リラ(約35円)程度、という具合に色んな場所でチップが必要。チップは「ありがとう、グラッツェ」の気持ちを形とするものだ、と思った。

★イタリアおしゃれ事情
 うんざりするような昨今の日本の若い女性の怪しげな黒いメイクと銀の口紅。自分に合う物を徹底的に探して身につけるからイタリア人はおしゃれなのだとか。

★イタリア便器事情
 イタリアの男性便器は朝顔がとても小さくて合理的と言えなくもないが、縦位置がまた高くて170センチの自分は少しつま先立つと大丈夫だったが、背の低い人は大変だろうと思った。

★スズメ
 外で立ったまま物を食べるのはすごく苦手だが、その時はみんなに習って某有名店の焼きパンを食べてみた。足もとにスズメが数羽やって来て、よく見ると日本のニュウナイ雀とは顔が微妙に違う。人間に邦人と外人がいるように、スズメにもそれがあるのだろうか、などと思いながら写真を撮ろうとしたら全部飛び立って、電線からしばし私を観察してました。

★ローマ2000年問題
 2000年問題はコンピューターのそれとばかり思ってたら、カトリックの本拠地ローマではそればかりではなく、キリスト生誕2000年の来年(明日から)に向けての色んな準備が大変とのこと。ローマでは観光地の多くが来る2000年に向けての補修工事のまっただ中で、トレヴィの泉もまだ足場がたくさん掛かってる状態。道路も各所で補修工事があり、2年前の長野オリンピック直前の長野市の突貫工事にも似た風景で妙に愛おしい。

★イタリアのガイド
 ミラノ、フィレンツェ、ローマ共に現地の日本人ガイドとイタリア人ガイドがついたが、実際ガイドしているのは日本人で、イタリア人ガイドは行動を共にするのみ。事情を添乗員に聞いてみたら、イタリアも不況のまっただ中で、現地日本人ガイドをつける場合は必ずイタリア人ガイドもつけなくてはいけなく、それが彼らの生活を支えてるのだそうだ。
 ローマのガイドは自分と同世代の男性だった。彼のガイドはとても楽しくてよくわかり、聞けば学生時代に旅に来てそのまま居着いてしまったのだとか。ローマは自分も住んでみたいと思う都市だった。

★距離感
 ミラノとローマの距離は500キロで、ミラノは長野よりも寒く感じた。ミラノからフィレンツェ経由でローマまでバス移動したが、ローマが暖かいと感じたのは緯度が下がったからで当然のことでした。

★ある事件
 旅行最終日の前日の夕刻、ローマでのこと。丸一日の自由行動を真歩館イタリア剣友会に随行させていただきホテルに戻ったら、旅仲間のおばさま4人組が深刻な顔でホテルマンとなにやらお話し中。仲間の一人がパスポートをなくしたとの一大事、ご当人は真っ青というより真っ白になってました。明日一緒に帰れなくなる、どうしたらいいのか。 そこにツアー仲間の若いOL2人が来て彼女達の対応は見事。JCBに電話しカードのストップ、日本大使館に電話し旅券紛失時の対応を確認、この対応の素早さと的確さで予定通り全員が無事帰路へ。

★ローマのホテルにて
 ローマのホテルは長期滞在型というらしく、内装は豪華ではないが部屋数が多く、キッチンも合わせると三部屋もあり結構広い。ベランダも広くて気分は良いが、ただし寒い。暖房が時間にならないと入らないし、入っても弱い。ホテルによってはシャワーがぬるい場合もあるとのこと。、とりあえず部屋がなかなか暖かくならないと不満を思い、反省。

★食
 一番美味く思ったのは帰路の中継地ドイツ・フランクフルト空港でのフランクフルトソーセージサンドイッチ。パンも堅くなく柔らかすぎず、ドイツビールとの相性が抜群で、手渡してくれた店員の表情も脳裏に焼き付いたほど。逆に貝はとても苦手で、ローマの昼食でみなさん舌鼓を打たれた貝料理には惨敗。エスプレッソは楽しみだったが、イタリア人はバールでこれかカプチーノを立ったまま飲むのだそうです。イタリアのミネラルウオーターは二種類あって普通の水とガス入りと。ガスは天然のガス入りのもあるそうです。チーズはさっぱりして食べやすいのがイタリアのチーズだとか。パスタやデザートに使われる他、食後にワインを飲みながら食べたりも。産地ごとに郷土色が濃く、パルミジャーノレジャーノはパスタやサラダに、やぎ乳で作ったコクのあるカプリーノ、クリーミーなタレッジョ、青かびの風味がパスタによく合うゴルゴンゾーラ。名前は忘れたがご馳走になった石鹸みたいな匂いのチーズは泡を吹きそうでさすがに食べられなかった。

★ローマの休日
 ローマ初日の昼食後スペイン広場に。日曜ということもあって、その場所はすごい人出で、石の階段に腰掛けながら日本人の黒い瞳も外国人の青い瞳も、みな同じ眼差しで同じ空気を。

★ワイン
 通ではないが時折飲んだワインは美味いと思った。ローマでのカンツオーネ夕食のワインは飲み放題で、飲み過ぎると悪酔いすると思いながら結局悪酔い。イタリア剣友会平野氏より某ワインをお土産に六本いただき、世話になった女性添乗員にも一本差し上げた。ローマのホテルで彼女がフロントマンにそれを見せたらフロントマンの顔色が変わり、ミスターナカジョウはどういう人なのかと聞かれたそうで、それほどイタリアでも入手困難な一本なのだとか。

★Mのマーク
 ローマ一号店が最近ローマにできたというMのマークのマクドナルド。ローマ市民はマックの進出に猛反対だったが、海外からの若い旅行者のことを考え実現したとのこと。誘われたがローマにまで来てマクドナルドに行かなくてもと思い断ったが、ローマ独自のマックだったのかも。

★ローマの地下鉄
 ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂へは剣友会の方々と地下鉄で。地下鉄車両にはたくさんのカラフルで上手な落書き。ミラノやフィレンツェでも建物の外壁などにたくさん落書きがあったが、上手い絵柄だけれども悲しい仕業だと思った。地下鉄は日本のような改札はなく、キップのチェックは殆ど無いが時折抜き打ちチェックがあり、仮にキセルが見つかると大変なことになるのだとか。ご老人が立っていたので席を譲ると笑顔とグラッツェのひと言。笑顔と言葉は人の気持ちをやさしくするのです。

★松ぼっくり
 唐傘松という背が高くてちょうど傘を広げたような形をした松がローマではたくさん見られ、それがローマの景色のひとつの特徴だとのこと。コロッシアムに向かう歩道で松ぼっくりを拾ったがその大きいこと。これがあの高さから落ちてくるのだから当たると大変。

★ボンジョルノとグラッツェ。
 「ボンジョルノ」こんにちは。「グラッツェ」ありがとう。イタリア人から度々かけられたこの言葉はとても心地よい。気持ちをいつでも素直に言葉で表すことはまさに口密を生じ、今回のイタリア旅行では言葉の大切さも改めて強く感じた。
 
 

op.9 桜坂の思い出  H29/05/17 mugen

 長野の春は一気にやって来て、桜、杏、梅、桃などが一斉に花開く。善光寺裏手から本山前を通り遊覧道路に続く桜坂は、当山開山当時は空が見えないほど、桜花のアーチのようにソメイヨシノが咲いたそうだが、昭和の高度成長期以降自動車が増加し、観光で戸隠などへ向かう大型バスなども増え、排気ガスで年々桜にも悪影響が出てしまったのだそうだ。それでも十数年前から新たに桜の植樹がされ、最近では小ぶりな枝に新しい花も付くようになった。

 当山開山以来、多くの人が様々な思いでこの坂を登ってきたのだろう。私も子供の頃重いボストンバッグを提げ、これから始まる厳しい修行に不安一杯でここを登ったことなど、懐かしい思い出だ。

 無形大師の御提唱録の中にも桜坂が出てくる。まだ開山間もない頃、当初は自転車で布教にまわっていたが、某方から小さなオートバイの供養があったそうだ。無形大師は大型キャプトンのオートバイに戦闘服姿で布教にまわられたという戦後間もない頃の逸話は長老方より聞いていたが、この小さなオートバイはおそらくキャプトンの供養を受ける以前のことであろう。その小さなオートバイに求道熱心なこれまた逆にでっぷりと太ったおばさんを後ろに乗せ桜坂を、今にもエンジンが止まりそうなオートバイに「頑張れ、頑張れ」と声をかけながら登られたのだそうだ。

 私にはまた桜坂には可笑しくも忘れられない入山当初の思い出がある。本山から長野市内の夜間経済短大に2年間通わせていただいたが、全員仕事をしながらの年齢層の広い50名の入学で、無事卒業したのはちょうどその半数だった。その短大に通い始めた時のことである。当時の無老正和尚様が通学用にお寺の自転車を貸してくださった。短大までは片道5キロの道のりだ。
 
 夜間短大は夕方6時から授業が始まり9時頃終わる。それから寺に戻り食堂で夕飯を一人いただくが、寺は9時には消灯になっている。典座補佐の故清水妙舟大姉が食堂の奥の小部屋で休んでおり「清水さんただいま」と声をかけると奥から「光ちゃんおかえり、おつかれさま」といつも明るい声で答えてくれた。そんな2年間だったがその頃和歌山でコレラが流行り、当山でも一日3回の読経に加え真夜中12時と3時の一日計5回の却温秘神呪による疫病消滅祈願行があった。夜中の10時に夕飯をいただき仮眠し12時より祈願行、また仮眠し3時より祈願行、5時より通常の行息と、殆ど寝る間のない期間であったが、そんな時のことである。

 毎年4月第一週頃に桜坂に花見提灯が掛かる。夜間短大に通いはじめてじきにそれが掛かった。数日は夜半のぼんやりとした灯りを珍しく思ったが、何日目からか何か得体の知れない物が突然出てくるのではないかと本気で思うほどにその灯りの醸し出す雰囲気が恐くなった。行きはまだ明るくて下る一方だから良いが、問題は帰りの上り坂である。自転車で桜坂を上ったことのある人ならわかるだろうが、なかなかつらい距離だ。軽快なサイクリング車ならばいざ知らず、お寺の自転車は頑丈でもちろんギアなどなく、車もそんな時に限って一台も通らない。大声で歌うわけにもいかず、お経を唱えてみると怖さ倍増。ふーっとため息をつきやっと上り切ったら六地蔵。ありがたくも恐かったやらで、もう自転車は無理と思い、無老正和尚様に事情を話して笑われ、小さな赤いオートバイを貸してもらえることになった。このオートバイは前述の無形大師のオートバイとはまた違って、その頃和歌山の門弟より供養された赤い車体の目立つ和歌山ナンバーのままで、その後警察官に幾度も職務質問されたが、快適さは自転車の比にならず、おかげで2年間を無事有意義に通い切れたのだった。


op.8 藤田氏の御法要の後で  H28/12/27 mugen 

 交通の発達はその地の暮らしや、人々の生活全般に大きな影響を及ぼす。当地長野市も1998年開催の冬季オリンピックを機に高速道と新幹線が開通し、それがもたらしたその後の影響はまさにしかりである。長野駅舎も昔は善光寺本堂を模した趣深い寺社造りの様相であったが、最近では北陸新幹線開通に伴い、すっかりモダンな駅ビルへと姿を変えた。私はそんな長野駅で電車に乗るたびに無形大師のある時のお姿をよく想像している。赤本活禅にも載っている「赦す」。終戦間もなくの国鉄篠ノ井線での謄写機インクの逸話の時の無形大師のお姿だ。その頃からいうともう70年余りも経ってしまい、駅舎や行き交う人々の様子もすっかり様変わりしてしまったが、そんな中でその時の無形大師のお姿をよく想像している。
 
 大師は1994年(平成6年)に亡くなられたから長野の新幹線も高速道もご存じなかった。正確に言うと最晩年を3年間過ごされた和歌山から、終の入院先となった長野日赤までは、その前年に開通した高速道を長野インターまで救急車で長距離移動されたわけであったが。

 平成27年11月、ある方の納骨法要が本山で営まれた。昭和40年代に朝日新聞長野支局長を勤められながら、無形大師の元に熱心に参禅され、また赤本活禅の編集主幹も担当された故藤田真一氏の御納骨法要である。長きに渡る御闘病後、氏のご遺言どおりご遺体は大学病院に献体され、その後喪主の御令弟藤田守克氏により当山に御納骨された。藤田家では先に逝かれた奥様の悦子さんと、長らく本堂に絵の遺作が掛けられていたお嬢さんの真美さんは既に御納骨になっていたから、ご一家がここでまた仲良くご一緒に揃われたわけである。
 
 納骨法要には仕事のお仲間等20数名がご遠方からも駆けつけられ、法要後は長野駅隣接のホテルで偲ぶ会が催された。管長挨拶も仰せつかり、藤田氏とは年代の違いから直接の親しいおつき合いはなかったが、無形大師を始め多くの先輩方よりお聞きしてきた氏のご人格を現すお話しなどを交え挨拶させていただいた。

 お集まりのみなさんお一人お一人からのお話しもお聞きし、藤田氏のご人格を改めて思いながら、終始和やかな中にお酒もいただき、偲ぶ会閉宴後、自宅へは長野駅から電車で帰った。穏やかな余韻に浸ったまま、この時も謄写機インクの無形大師の逸話も思い出しながら長野駅を改札へと向かった。
 
 話に聞いたことはあったが、かつて伊豆急行を走ったという窓からの眺望の大きく開けたロマンスカーが帰路のホームに止まっていた。「ちょうどよかった」。切符を買い早速乗り込んだ。数分経ってロマンスカーは発車したが、降車駅の信濃吉田駅まではほんの数分の道のりだ。偶然にもこんな素敵な電車に乗れたのだから、もう少し長く乗っていたかったなどと思っていたら、電車はじきに信濃吉田駅にさしかかり、常日頃見慣れた景色が窓外に広がってきた。席を立ち出口に向かおうとした時、「この列車は急行ですので信濃吉田駅は通過し、次の停車は須坂駅になります」の車内アナウンス。「どうしよう」今まで経験したことのなかった乗り越しで、恥ずかしながら一瞬途方にくれた。ちょうどその時若い車掌が来たので事情を話すと、車掌は満面の笑みでこう教えてくれた。「そういう方がよくいらっしゃるんですよ。そうすれば次の須坂駅で降りて階段を上って、ホーム上の通路を改札に向かい、そこに居る駅員に事情を話して下さい、帰りの切符をくれるので、この電車の止まった反対側のホームで次の電車をお待ち下さい」。とのことだった。
 
 事無く帰れるんだという安堵感と共に、その車掌の温かでやさしい対応の姿にはからずも感動した。言われたままに改札口に行き事情を話すとまたこの駅員も満面の笑みで応対してくれ、丁寧に乗り場を教えてくれた。夕刻の風が少し肌寒く感じるホームに立ち、「今度は間違えないように」と思っていたら、まだ止まっていた反対側のホームの、さっき乗ってきたロマンスカーのあの車掌が窓から身体を乗り出すようにして大きな声で「お客さん、次の電車に乗ってはいけませんよ。次の電車はまた急行ですから、また元の長野駅に戻ってしまいますよ、次の次に来る電車は鈍行ですから、それに乗って下さい」と教えてくれ、ロマンスカーは大きな窓の残影も鮮やかに行ってしまった。
 
 「こんなことってあるのだろうか、いくらローカルな場所だからといって、今の時代に電車の窓から車掌が大声で気遣って親切に教えてくれるなんて、都会では絶対にないことで、ローカル地の良さではあろうが、でもこんなことってあることなんだろうか」と、今起きたばかりの嬉しい体験を何度も何度も繰り返し思い出しながら感慨にふけった。
 
  あるいは電車会社の方針による社員教育の徹底により、あのような対応がされたのかもしれない。でもこんな自分にあのような、まさに和顔愛護の慈悲心から沸き起こった仏行のような温かい親切な対応をすることが出来るのだろうか。きっとこれは今日の藤田氏のお徳が知らず知らずの内に私に見せてくれた感応道交に違いない。徳を以てことに当たれば、徳を以て回向返照になり、その結果として必ず無上の悦びを得られる。「徳を以て生き抜き、そして徳を以って未来へと旅立て」藤田氏のそんな言葉が聞こえてくるような気がした。
 
 無形大師の謄写機の逸話と、藤田氏の御尊徳と、さっき出会ったばかりの車掌達とのことをずっと想いながら、やっと自宅へとたどり着いた。長い一日だったがでもとても心暖まる一日だったと、帰宅後も繰り返し今日あったことを思い返していた。


 

op.7 とんぼ  H28/9/3 mugen

 とんぼは俳句の秋の季語にもなっているように、その姿は懐かしく優しく、そして少し物哀しい。季語での言い換えも多く、やんま、鬼やんま、銀やんま、腰細やんま、黒やんま、更紗やんま、青とんぼ、塩辛とんぼ、塩屋とんぼ、塩とんぼ、麦藁とんぼ、麦とんぼ、虎斑とんぼ、高嶺とんぼ、精霊とんぼ、仏とんぼ、赤とんぼ、秋茜、深山茜、眉立茜、八丁とんぼ、腹広とんぼ、昔とんぼなどがあり、親しい某方を連想する渋ちゃんというのまである。
 
 無形大師(当山開山)の御提唱録に鳥や虫はそう多くは出てこないが、これは無形庵当時の寺内誌「延命」に登載されたものである。赤とんぼが先祖の霊になり戻ることは古くより言われてきたが、まさにそんな光景を心情豊かに綴られている。話は当山裏手の善光寺納骨堂の参道より始まり、山川草木悉有仏性を説く尊厳かつ軽妙な記述で締めくくられている。

    ****************************************************************************

                      赤とんぼの思い出  (庵主無形)

 黄ばみ始めた参道の桜並木をぬって、とぼとぼと登ってきた二人連れの老人があった。もはや二人とも七十坂を過ぎた大老で、それでも爺さんの方は幾分か元気だったが、婆さんの方は全身をお腰の辺りから二つに折って青息吐息、苦しそうなあえぎを続けて一足刻みに辛うじて登ってくる。つるべ落としの秋の日が大峯の山の端近く、何となく物寂しい人の子一人通らない夕暮れのひととき。納骨堂の英霊に夕方の祈りを捧げての帰途、自分は階段下の石灯籠を盾に、見るとはなしの眼下に見える善光寺下の古戦場に遠く思いを走らせていた折も折とて、なんだかこの老人夫婦に言葉をかけてやりたくなった。

 「婆さん、もうすぐだよ。それそれ豊が迎えに来よったじゃないか」「それ、赤とんぼになって、婆さんの肩を見なよ」
 二つ折りになってあえいでいた婆さんが、爺さんの言葉を聞いて真顔になって立ち上がり、お腰をやれやれと伸ばした。と又、爺さんの言葉、「それ婆さんや、お前気荒に立てるので、豊がびっくりしてお前の肩から飛び立ってしまったじゃないか」 婆さんの肩にとまった赤とんぼが驚いて一度は飛び立ったが、また老婆の肩にとまって死んだかのように静かに動かない。やっと気づいた婆さん、急に驚き「あれほんにまあ、このとんぼは豊にそっくりだよ。爺さん、このとんぼは確かに豊だよ。豊の顔にそっくりじゃねえか、われ豊だな、われ、おれ墓参りに来ること解ってたのか、おめえは勘の良い子だったものなあ。この寒くなったのに、こげな薄い着物着てくるなんて。おめえ苦しんどることだろうなあ。心配するな、今日は母さんがうんとこさお賽銭をあげて阿弥陀様に、われがこと良う頼んでやるからな、心配するな、心配するな」
 「婆さん、おかしなこと言ってるだよ。宿で講の仲間が皆待っているだから、早うお参りすませて降らんと日が暮れるじゃねえか。さあ今一度踏ん張れ、元気を出しなよ」

「あれ爺さん、おめえ気短かなこと言うもんで、豊の野郎、爺さんにすまん思ってか飛んで帰ったじゃねえか。お前も何か言ってやれば良かったに。あほな爺さまだ。せっかく豊に会いたいばかりに、はるばる参りにきよったじゃないか。おめえほんとにあほーだよ。まだ話しがたくさんあったのに、豊さ追い返してしまって、豊、豊、お前どこへ行った。爺さんなど何言ったってかまやしねえ、もう一度おれの頭へでも、肩へでも帰ってきなよ、豊、豊や」

 婆さんの目にはもはや「赤とんぼ」ではなかった。軍服姿の村上豊兵長の戦に疲れた哀れな姿と見えたことであろう。声もかすれて、老いの目には早くも悲しみに耐えきれぬ涙の露が光っている。
 
 さりげなく赤とんぼのことを一笑に付して口には元気なことを言いながら、さすがに爺さんの顔にも隠しきれぬ、満たされない色がうかがわれた。婆さんはまたしかたなしにあきらめて、全身を二つに折って、とぼとぼと登りかけたが、今度は爺さんの方がどうしたのか無形の立っている階段下に立ち止まって、右を左を上を下をと、何者かを追い探している。

 先刻の「とんぼ」が気になるらしいと見て取った無形は、二足三足爺さんに近づいて「ご苦労様、お参りかね」ときわめて気軽にと思って話しかけたが、爺さん大変驚いた様子で、「これはこれは和尚様、あなた様こちら(善光寺納骨堂)の御住持かね」「いや違う、わしはこのすぐ下の松林の中に屋根が見えるだろう、あの庵の庵主で毎日夕方こうして戦死なさった内外のお気の毒な兵隊さんにお参りに来ているのだよ。お前さん方どちらからお参りなすったかね」「わし埼玉県でね、善光寺様へ講でお参りに来ただが、一緒の衆は宿に泊まっておるで、わしは戦死した一人息子に会いに来たが、和尚様、まあほんに俺しあわせ者だ。こんな時分に、こんな山の上にお参りに来て、しかも和尚さんに豊の墓の前で会うなんて、こりゃきっと生前信心深かった豊が和尚さんに、ここでおら達の参拝に来るのを待っててもらったんだよ。ありがとう、ありがとう。今もね、ここで婆さんが不思議なとんぼと話をしていたところだが、なんだかおいらまであのとんぼは豊の身替わりのように思えてきて、今一度正体を見届けておきたいと思って、今探していたところだが」

 「いや、旅のお方、お前さんところの豊さんは今までここでわしを待たせて、お前さん方を納骨堂に案内してくれと頼んで先に帰ったところだろう。さあ私が今一度一緒に登ってお経をあげてさし上げましょう。きっとわしと一緒に参拝するのを待っていることでしょう。この石段さえ登ればすぐお堂だから、いや、豊君のお家がありますよ。さあさあ参りましょう」と無形は先に立って婆さんの前に廻って両手を引いて後ずさりに登って行った。

 親切で世話好きとして知らぬ人のない歌人の田中半茶先生は、さっそく何事も放り出して本堂に赴き、書記の原山氏に来意を伝えられ、いとも丁寧に招じ上げられ、ご本堂に上がり、幾十万と数知れぬ御霊骨の中から、番号札も新しい豊君の御霊骨を取り下ろされて、ご本堂の金堂前に安置された。そして無形は心ゆくまで読経回向に勤めた。御回向を終えて壇を降りた時に、まだ老夫婦はむせび入って泣いていた。その時不思議にも一匹の赤とんぼが金堂の前に飛び込んで、ご両親の頭の上を右に左に慰めるかの如くに舞って、木魚の上に静かに止まった。

 「お爺さん、あれちゃんと豊君がわしのお経で立派に成仏して、お前様方の頭の上を今の今まで飛び回って遊び、それあのように木魚の上で静かに喜びの羽ばたきを見せているではないか。豊君がきっと立派に成仏して、安心して安らかな世界で、静かにご両親のご健康を守っていてくれることがお解りだろう。さあ、これで意義は十二分だ。だいぶ暗くなったから、そろそろお宿まで下りましょう。仏教では感応道交と申してな、色々な姿となって会うことができるのだよ。赤とんぼばかりじゃない。天地間の草も木も、犬も猫も、火も水も、世の中の一切が豊君の成仏の化身ですよ。大切に守り、また大切に守られて、みんな安らかな世界を築こうじゃないか。今日から一所懸命、休む時も仕事をする時も、食事の時も、いつもいつも南無三宝供養一切成就とお唱え申しましょう。これが何よりも死んだ豊君への供養だよ、回向だよ。しっかり覚えなよ。よろしいかな」

 爺さんの言う如く、豊君の霊の因縁が引き合わせた仏縁だと思うと、このまま別れる気持ちもせず、ついに大門の宿まで送り、黄昏れた秋の夕暮れを善光寺の鐘に送られて、静かに延命山の松林に道場への道を急いだ。

 豊君の霊よ、安らかに眠れ。豊君の成仏、願生の化身達よ、満天下の草木よ、満天下の動物達よ。いや、満天下の法縁の一切よ。安らかに、高らかに御仏の大慈悲の歌を歌い、共に真実和合の浄土を築こうではないか。(昭和二十五年十月三日)



op.6 日本の仏教(平安鎌倉期の概要)②-②  H28/7/1 mugen

  禅の修行を続けていくなかで、仏教の歴史等の概要を知ることは意義深い。今回は現在の日本仏教がほぼ形成されたと言っても過言でない平安鎌倉期の僧のうち、最澄から日蓮、空海から道元、法然から親鸞への仏教思想の流れを管長教学ノートより抜粋し復習したい。

 最澄は仏教を小乗と大乗に分け、大乗を小乗よりも優れた仏教と見なし、比叡山に天台宗を開き大乗仏教の総合化に心血を注いだが、最澄の選択をさらに深めたのが日蓮である。最澄は大乗を選択し、多様な大乗仏教を一つに体系づけて総合化しようとしたが、日蓮は、時代はもう末法の時代と言われる鎌倉時代であり、大乗仏教の総合化などと悠長なことは言ってられないと考え、天台宗の根本経典であり、大乗仏教で最もすぐれた経典である法華経だけで良いではないかの考えのもとに、最澄の選択をさらに深めていった。大乗の数多くの経典の中から、天台宗の根本経典である法華経だけを選択し、末法の世における修行法として、南無妙法蓮華経という法華経の題目を唱えることを説いた。
 
 道元は空海の選択を深めた。道元は19歳の時に一つの大きな疑問を持った。それは一切の衆生に悉く仏性があるのならば、どうしてさらに修行をする必要があるのかというものである。この疑問には従来通りの難しい理論、つまり煩悩を消して悟りに向かい始める始覚と、人間の心にそもそも備わっているものとしての悟りを示す本覚からなる始覚本覚の教学によれば理論的な答えはすぐに出るが、そんな教学的な答えでは満足できなかったのである。道元はこの疑問を解消するために中国に渡った。道元は中国で理論ではなく、色々な体験を通して仏教を学ぶことになり、この疑問に対する回答をも体得した。それは仏になる為の修行など凡夫にはとうてい出来ない。仏だからこそ修行ができるのである。したがって修行とは凡夫が仏になる為にするものではなく、一切の衆生は悉く仏性を持っているからこそ修行するのであるというものであった。つまり仏になる為に坐禅修行をするのではなく、坐禅をする姿がそのまま仏の姿なのであるという修証一如の考え方を会得したのである。道元のこの考え方はまさに空海の即身成仏と共通している。それはどちらも、もう既に仏になっているのだ。仏だから仏らしく生きていかねばならないというものである。しかし道元はこの考え方を空海と同じように密教の複雑な修法によって得たのではなく、只管打坐、ただひたすら坐禅するというぎりぎりにまでシンプルなスタイルの中に見いだしていった。

 親鸞は浄土門の易行という法然の選択をそのまま継承し、これをさらに徹底したものに突き詰めていった。法然が易行として選んだのは称名念仏という修行法だった。しかしいかに易行とはいえ、それが修行である以上は念仏を何回唱えれば良いのかとか、本当に心から念仏を唱えることが凡夫に出来るのかといった問題がどうしても生じてくる。どんなに易しくしてもそれさえも出来ない人にとっては難行になってしまうからである。そこで親鸞は修行という自力の要素を全て捨て去ってしまう。念仏を唱えるという最後の自力も捨て去り、自己の存在を完全に阿弥陀仏の本願力に任せ切ってしまえと説いた。阿弥陀仏は困っている者に対しては、それがどんな者であろうとも救済の手を差しのべてくれ、そこに必要なのは困っているという事実だけで良いとした。我々はややもすると念仏を唱えることにより、往生という結果が得られると考えがちであるが、このように念仏を唱えることと往生とを因果関係でとらえると、凡夫の意思の下に阿弥陀の本願力を従属せしめることとなり、阿弥陀仏は絶対的な存在ではなく、我々が念仏を唱えたり唱えなかったりすることにより、救われたり救われなかったりする存在にしてしまう。つまり念仏を唱えようという心が我々に起こるのは、阿弥陀仏の加持力であり、我々が念仏を唱えようと思い立った時には、すでに阿弥陀仏が我々に働きかけてくださっている。阿弥陀仏に念仏を唱えさせていただいているというのが親鸞の考え方である。では救いを求めて念仏を唱えるのでなければ、どうして念仏を唱えたりする必要があるのかというと、それは阿弥陀仏によって既に救われていることに対する報恩感謝のためであるとする。したがって法然の念仏が「阿弥陀様、救ってください」であるのに対し、親鸞の念仏は「阿弥陀様、ありがとうございます」となる。こうして親鸞は法然の選択した易行をとことんまで徹底させることによって、絶対他力の境地へとたどり着く。

 以上のように最澄から日蓮、空海から道元、法然から親鸞へと、平安仏教から鎌倉仏教への仏教思想の流れを見たが、なかでも空海による密教の考え方は道元だけにとどまらず、日蓮と親鸞にも多分に影響を与えた。

 空海は法身説法を説いた。法身説法とは、法身である大日如来が直接我々に法を説いてくださるという思想である。法身とは、時間空間を超越し、宇宙全体を包括する宇宙仏を指し、空海は、顕教では宇宙仏は自らの説法はせず、分身である釈迦牟尼仏が宇宙仏と人間とを結ぶ媒体となって説法をする。対して密教では、その分身仏の媒体なしに、宇宙仏である法身の説法を直接聞こうとする。ただ、法身大日如来は常に四方八方に教えを説いているのに、我々の受信機がほこりだらけであるが為にその教えをしっかり聞くことが出来ない。そこでほこりを取り除き、感性を研ぎ澄ませば法身の説法が直接に聞ける、と法身説法を説いた。日蓮もまたこの法身説法の教えを持っており、法華経に説かれている釈迦牟尼仏は分身仏であると同時に、宇宙仏でもあると説いた。つまり釈迦牟尼仏は三身に説く法身、報身、応身の全てを具えた仏であると説いた。また親鸞の絶対他力は、まさに密教の加持の理論と同じである。親鸞は南無阿弥陀仏と唱えようという心を起こしたその時に、すでに阿弥陀仏は働きかけてくださっているとするが、空海も凡夫が仏になろうとして一歩を踏み出した時に、すでに凡夫は仏になっていると説いた。また親鸞は阿弥陀仏の力によって念仏を唱えさせていただくとするが、空海も真言を唱えることは仏の口密としてとらえている。このように日蓮と親鸞の思想にも空海の密教的な考え方が多分に影響した。

 ・ 最澄 (767~822) 55歳 (没)
 ・ 空海 (774~835) 61歳 (没)
 ・ 法然 (1133~1212) 79歳 (没)
 ・ 日蓮 (1222~1282) 60歳 (没)
 ・ 道元 (1200~1253) 53歳 (没)
 ・ 親鸞 (1173~1263) 90歳 (没)

【 ご参考までに 】
 宗教修行形態の大まかな分類 (管長教学ノートより )
 ○ 誦行 (じゅぎょう) 南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏といった宗教的理想を織り込んだ定型句を、反復口誦する行。
 ○ 揺行 (ようぎょう) リズミカルに身体を揺する行。
 ○ 打行 (だぎょう) 鼓鐘などを連続的に打つ行。
 ○ 書行 (しょぎょう) 聖典などを浄写する行。
 ○ 徒行 (とぎょう) 山岳を歩行したり、聖地を巡歴する行。
 ○ 息行 (そくぎょう) 呼吸法による行。
 ○ 観行 (かんぎょう) 定められた順序に従って一定の心象イメージを心に浮かべる行。
 ○ 疑行 (ぎぎょう) 禅の公案のように、ひとつのことに意識を集中させて、深い境地に入ろうとする行。
 ○ 静行 (せいぎょう) 観行や疑行のような工夫をせず、ひたすら瞑想する行。
 ○ 水行 (すいぎょう) 水垢離や滝の行。
 ○ 火行 (かぎょう) 火渡りや護摩のように火を用いる行。
 ○ 断行 (だんぎょう) 火、穀物、茶、塩などの日常生活に欠くべからざる物を絶つ行。 
   

op.5 日本の仏教(平安鎌倉期の概要)②-①  H27/12/03 mugen

 禅の修行を続けていくなかで、仏教の歴史等の概要を知ることは意義深い。今回は現在の日本仏教がほぼ形成されたと言っても過言でない平安鎌倉期の僧、最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞について、私の教学ノートより抜粋し復習したい。

○最澄、空海、法然
 平安鎌倉期の代表的仏教者としてまず最澄をあげることができる。最澄は仏教を「凡夫が仏を目指して一所懸命に修行するもの」と解釈した。凡夫が修行を積んで最終的に仏になるとするわけである。したがって最澄によれば修行中の人間はまだ凡夫である。しかし平安仏教のもう一人の代表者空海は最澄とはまるで逆の考え方をした。空海は「仏を目指して歩みだした者は既に仏であり、凡夫ではない」という解釈をした。最澄によると、凡夫が修行をして仏になるには、三大阿僧祇劫というとてつもなく長い期間にわたって生まれ変わり死に変わりしながら修行を継続させていかなければならないのだが、空海は「仏になるための一歩を踏み出した者は、その瞬間に既に仏となっている」のであるとする「即身成仏」の考え方をしたのである。そして最澄が凡夫から仏への道としてとらえた修行を、空海は「即身成仏」の見地に立って、仏から凡夫への働きかけによる「加持」としてとらえた。仏から力が私たちに加わってきて、それを私たちがしっかりと持つこと、この加持によって凡夫は仏への道を仏として歩ませていただくとした。

 さらに最澄は仏教を小乗と大乗に分け、大乗を小乗よりも優れた仏教と見なした。比叡山に天台宗を開き大乗仏教の総合化に心血を注ぐのである。一方空海は仏教を顕教と密教に分け、密教を顕教より優れた仏教であると位置づけた。そして密教を日本に定着させなければならないと考えたのである。このように最澄と空海はまるで異なった考え方をしていた。また最澄は「小乗より優れた大乗の中に顕教も密教も含まれる」と考え、顕教は自分が受け持ち、密教は空海に手伝ってもらうことによって、共に比叡山に於いて多様な大乗仏教を総合化しようと考えていたのである。しかし空海にしてみれば顕教の中に小乗と大乗が含まれ、その顕教より優れた教えが密教なのであって、密教を単に大乗仏教のひとつとする最澄の考え方には同意できるものではなかった。そこで結局二人は袂を分かってしまうことになる。

 平安時代のもう一人の巨匠法然を鎌倉仏教の人と位置づける人もいるが、法然は平安時代四十三歳の時、立宗開教を宣言し、生涯七十九歳の大部分を平安時代に過ごしている。法然は最澄が仏教を小乗と大乗に分け、空海が顕教と密教に分けたように、難行を説く聖道門と易行を説く浄土門とに仏教を分けた。ただし最澄と空海がその優劣によって仏教を分類し、優れた方を選択したのに対し、法然は仏教の優劣は問題にしなかった。法然は聖道門と浄土門とを比べ、聖道門の仏教を浄土門の仏教より正統的な仏教であるとは認めたが、時は末法の世であり聖道門の説く難行を実践することは無理であり、自分たちのように機根の劣った者には浄土門の説く易行しか実践することはできないと判断した。つまり法然の選択は教えの優劣による選択ではなく、時代性による選択だったのである。

 以上のように平安仏教の三人の巨匠は、仏教を二種類に分け、そのどちらか一方を選択したという点において共通している。最澄は大乗を、空海は密教を、法然は浄土門を選択した。修行法としては最澄は「凡夫から仏へと一歩一歩進んでいく」方法を、空海は「加持によって即身に成仏する」方法を、法然は「浄土門」に説かれる易行を選び取った。このような三人の選択を受けその後の鎌倉時代には、この三人の選択をそれぞれにおいてさらに深める三人の僧が登場してくることになる。(続く)


 

op.4 辞職峠  H27/08/29 mugen

 「その昔、人の移動がまだ徒歩中心だったころ、この峠の先の地に赴任した教師が、峠の往来のあまりにもの過酷さから、赴任後間もなく何人もが続けて辞職願いを出してしまったことの逸話から、この長く険しい山道に『辞職峠』の名が付いた」という運転助手席にいた父の話を聞きながら、祖父無形大師のお供でその日初めて訪れる創設から六百年を経るという臨済宗の古刹を目指していた。

 坂本龍馬が土佐藩を脱藩した際に歩いた道は「龍馬脱藩の道」として今なお龍馬ファンには根強い人気スポットだが、古刹は高知県高岡郡檮原町茶ヤ谷の、まさにその古道に沿った日当たりの良い高台に佇んでいた。

 その古刹のある檮原町は大師郷里の四万十町影野よりは六十キロ程の道のりだが、往来は前述の如く山道であったから実際よりも随分遠い印象があった。最近では、と言っても平成七年だが第一回全国棚田サミット開催の地としても知られる四万十川上流の山間の地である。

 訪問より先に紹介の方から一報入れてくださっており、ご住職夫妻は大変緊張された面持ちで我々を迎えてくださった。四十半ばと思われるご住職は洗いざらしの茶の作務衣に身を包まれ、ご住職に寄り添うようにして優しいお気づかいの絶えない奥様ともにお二人の日常の実直で慎ましやかな暮らしぶりが伺い知れ、お顔を拝しただけでこちらまでがたちまち穏やかな気持ちになれたことも印象深かった。

 大師は本堂でお参りを済まされた後、お茶をいただきながらご住職夫妻と小一時間お話をされたが、「たとえ誰一人参禅に来なくとも、あなたはいつも坐っていなさい」とご住職に言われた。また、奥様が九州のご出身だとのことから話が進むうちに、かつて大師が本山開山以前に福岡で大変お世話になった方の血縁に当たる方であることが分かり、今日の来訪はまさに御仏のお導きであろうと、大師はその機なる御法縁をたいそう喜ばれた。

 その後ご夫妻は二度ほど当山に大師を訪ねられ、所属する某寺院の僧堂で当時雲水をされていたご子息も、親しく当山に一年余り参籠されたことも昨日のことのように懐かしく思い出される。その後数年にしてご一家は奥様の郷里である九州の寺院に居を移されたそうだが、ご子息も今やりっぱなご住職となられ活躍されていることだろう。

 この時には実はもうひとつ忘れられないエピソードがある。当時大師の車は門弟から寄贈された排気量四千三百CCもある黒塗りの大型車だったが、その「辞職峠」での帰路のこと。いささかお疲れ気味の大師と父は後部座席ですっかり深い眠りについておられた。車が大きくてしかも曲がりくねった細い山道の連続だったから、私もいささか運転に疲れ、峠を下りやっと広い国道に出た瞬間にフーッとついたため息と共に気が緩みアクセルをつい深く踏み込んでしまった。そこにちょうど速度違反取り締まり装置、いわゆるねずみ取りがあり、警官による車の誘導の後、調書を取られることとなった。目を覚まされた大師が「どうしたか?」と言われたので、「このまま少しお待ち下さい」と返事し急ぎ調書をすませ、改めて影野の自宅へと向かった。

 この時、辞職願いを出さねばとは毛頭思いもしなかったが、その昔、不本意にも辞職願いを出さざるを得なかったという教師の方々へ思いを馳せたことだった。
 


op.3 続・鳥の仏教 命の重さ  H27/07/13 mugen

 某年梅雨の最中の七月中旬、長野市内で行われる某男性歌手のコンサート会場へ向かっていた。「清河(チョンハー)への道」に代表される彼の無骨な声が良く、歌う前のビールの乾杯の男っぽいパフォーマンスも楽しみにしていた。

 夕刻の小雨降る中、家路を急ぐ人と車の途切れない路上に、何かを囲み喧噪する大勢の人垣が見えた。辺りの家からも一斉に好奇の目が注がれている。事故だろうか。動悸の高鳴りを覚えながらのぞきこむと、視線の先には投げ捨てられたゴミのように横たわる小さな黒い塊が見えた。

 目を懲らすと一羽のカラスだった。背の高い街路樹のヒマラヤ杉の巣からアスファルト路面に直下したらしく、濡れ羽色の言葉通りの雨に濡れて黒光りする小さな体を横たえ、鋭い目線と共にくちばしを震わせながら紅いのどを見せ人を威嚇している。動けないので車にいつひかれてもおかしくない状況だ。

 幼鳥と言ってもカラスは凶暴なイメージがあり、路面すれすれにまで威嚇してくる親ガラスの脅威もあって誰も怖くて手を出せずに、ただ見守っているばかりである。

やり場のない怒りが湧いた。あの子ガラスがもしも自分の子供だったらどうだろう。目に入れても痛くないという孫だったらどうだろう。怪我をして動けなく今にも車にひかれそうになっていたら、誰でも我が身の危険などかまわずに助けようとするだろう。それが鳥だから見ているだけというのは実におかしい。鳥も人も命の重さに変わりはない。命が大切なのは鳥も人も同じだ。

 そこに集まっている全ての人が薄情なエゴイズムの塊に思えた。自分が救わねばと咄嗟の行為に出ていた。近くの家で段ボールをもらい、それにカラスを乗せようと試みた。親ガラスの空中からの威嚇はこうもり傘で避けた。

 そうした自分の行為に人々は感嘆の声をあげた。段ボールを広げ棒でカラスを乗せようとしたが、横たわった小さな体は意外に重かった。目は虚ろだがまだ息はしている。頑張れ、大丈夫だ、生きろと念じた。

 道脇の畑まで引きずる途中で「死んだ」と直感した。驚いたのはその時で、ずっと威嚇し頭上を飛び交っていた親ガラスは、さっとヒマラヤ杉のてっぺんに飛び去り、向こうを見たままもうこっちを振り返ろうともしない。野生だ。子供の絶命を彼らは野生で感じたのだ。

 放送局のカメラマンとインタビュアーが自分にカメラを向けインタビューを始めた。近くの放送局がカラスの巣を撮り続けていたらしい。
「カラスを救ってどうでしたか」と聞かれた瞬間、我慢していた怒りが言葉になってしまった。

「あなた方は何をしているんですか。人もカラスも命の大切さは同じでしょう。もし自分の子供があそこに横たわっていたとしたら、あなたがたはどうにかして助けようとしたでしょう。カメラを向け撮り続けてはいなかったでしょう。命の重さは人もカラスも変わらない。命が大切なのは人もカラスも同じでしょう」と、興奮醒めやらぬ回答のテレビ放送は勿論没となった。

 複雑な思いのままコンサートに向かった。楽しみにしていた乾杯もあったし、彼が亡き父親を詠った「清河への道」も聴いた。命、野生、エゴイズム。三つの言葉が頭を巡っていた。
 
 人間は万物の霊長だと言うが、人間が本当に霊長であると誇りを持って言えるためには、万物の命についてもう一度しっかりと考え直してみる必要があると思った。




op.2 鳥の仏教 H27/06/17 mugen

 チベット人仏教徒の手によって17~8世紀に大乗経典を模して書かれた経典「鳥の仏教」には、観音菩薩の化身としてのカッコウをはじめ、オウム、ハゲタカ、鶴、カラス、雁、セキレイ、鴨、雷鳥、鶏、ヒバリ、クジャク、チョウゲンボウ、フクロウ、ウズラ、ヤツガシラといった我々にも馴染みの深い鳥がたくさん登場する。それぞれの鳥を諸天善神や庶民に置き換え、仏教の教えを美しい物語調でわかりやすく親しみやすく説き、人と鳥の関わりが場所や時代に関係なくずっと続いてきたことを思わされる。鳥好きの私にとっては大変興味深い経典だ。

 日本野鳥の会創設者故中西悟堂氏の逸話も楽しい。氏は詩人であり僧侶でもあった人で、寺の裏山で坐禅を組みながら、頭や肩にやってくる鳥やウサギやリスと戯れた少年時代の体験から野鳥の会創設に至ったとのこと。現在普通に使われる「野鳥」や「探鳥」といった言葉は氏の造語らしい。

 子供の頃から大の鳥好きだった私は鳥から命の重さを教わってきたように思う。その頃流行った雀の雛養いでは親鳥の代わりにきな粉の練り餌を一日中食べさせないといけないので、菓子箱に綿を詰めた巣箱を学校へも持って行き、授業中は腹を空かせた雛が教室の隅でピイピイ鳴いたが、教師も大らかで一緒に餌を食べさせたりもした。鳥籠の入り口を開けると外に出て夕方自分で籠に戻るよう上手にしつけることもできた。
 
 メジロも飼い鳥で人気のあった鳥であちこちの家の軒先で飼われた。メジロは囮を使って鳴きの良さそうなのを捕獲するが、こういった遊びの背景には必ず指導者的な年上のガキ大将が何人かいて手取足取り教えてくれた。我々はまたそれを年下の子に実践しながら教えた。メジロの天敵がモズで鳥籠から頭だけをちぎってハヤニエにするのでモズにはいつも要注意だった。そんなモズも雛を飼うと意外に行儀が良く、藁巣の中を糞で汚すことはなかった。
 
 庭の枯れ幹に日本最小のキツツキのコゲラがくちばしのドラミングで巣穴を掘りだした時は、嬉しくてずっと観察した。巣に近づくといけないと思いながら隙を見て器用に掘られた巣穴を覗いていたら、それっきり来なくなりがっかりした。つがいの鳩はリンゴ箱の鳩舎で飼い、一日数回の放鳥。ブーンという独特な羽ばたき音を立て空を飛ぶ姿を目で追い、人も鳥のように自由に飛べたらといつも思った。鳩は懐いていたので、体温を感じようと抱卵中の腹に手を差し込もうとした瞬間に手が切れるほど羽根で強くたたかれ、鳥の強烈な母性に圧倒された。

 探鳥地としても名高い戸隠に近いこともあり、当山の周りでも四季を通してたくさんの鳥に会うことができる。私が寺に来た昭和50年頃は、冬はキジの群れもよく見た。最近キジがいないのは温暖化による生態系の変化なのだろう。日本の野鳥では一番小さなキクイタダキの群れも見たが、これも最近は見ることがない。
 
 日本三鳴鳥のうちのウグイスとオオルリは春から夏にかけて大雄殿奥の雑木あたりでよく鳴き、駐車場のエンジュの木の実をイカルが大きな黄色のくちばしで割って食べる頃には、実を割る独特な音がよく響く。カラスがクルミやどんぐりを空中から地面に落とし割って食べるので、風向きによってはそれが寺の窓ガラスに当たりとても驚く。群れで動く小さなエナガは、さえずりと繊細な動きがとても可愛い。頭の赤の模様が特徴のアカゲラや、翡翠色の美しいアオゲラを見ると、そのたびに息を飲むほどに感動する。
 
 野鳥の餌台は生態系を崩さないよう、自然の餌が少なくなる冬季の設置に限られるが、管長室の窓際に設えた餌台には、シジュウカラやヤマガラなどがよく集まる。ヒヨドリはミカンやリンゴが好物だが、威嚇して他の鳥を追い払ってしまうので困りもの。ぴょこんとおじぎをしながら尻尾を振るジョウビタキは、餌が生虫なので餌付けは難しい。一年を通して見られるキセキレイや背黒セキレイは、春から夏にかけてのさえずりの美しさにも惹かれる。
 
 巣から落ちたカワラヒワやムクドリなどの世話もしたが、ツバメは初めてだったので気を使った。巣から落ちた雛は体温が下がらないように、まずは温めることが大事で、弱ってる雛に水を飲ませると体温低下でたちまち死んでしまう。健康な鳥の体温は40度以上。
 
 セキセイインコはもともとはオーストラリア原産の野鳥で、オスの雛を一羽で飼うと話をするようにもなる。黄色の身体に赤い目のルチノー種のモンタはよく喋るように育ったセキセイインコで、「南無三宝供養」と教えるうちに言うようになった。事務室で放し飼いにしたが、うどんを食べてるとドンブリに飛び込んで行水するのにはまいった。そのうちに寺を留守にすることが多くなり、知り合いのお宅で飼ってもらうようにしたが、小学生のお嬢ちゃんはモンタを神様の鳥と呼びずっと大切にしてくれ、死んでからも庭のお墓に毎日手を合わせてくれた。
 
 人も鳥も命の重さに変わりはない。まさに山川草木悉有仏性だ。悲惨な事件の相次ぐ世相の中で、命の重さは万物に共通と説く仏の教えの必要さを改めて感じる。




op.1 鎌倉大仏 H27/06/04 mugen

 
 
かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな (与謝野晶子)
 
 鎌倉といえば私はまず鎌倉大仏を連想する。静かな街並みに突如といったふうに現れるどっかりと座したお姿はいつ拝してもありがたく、心が洗われるような不思議な安堵感を覚える。 
 明治生まれの歌人与謝野晶子が鎌倉大仏をお釈迦様と詠った冒頭の歌碑は大仏裏手の観月楼前に立つが、鎌倉大仏はお釈迦様ではなく実は阿弥陀如来で、手に組む印は坐禅の法界定印ではなく、九品に説く阿弥陀如来の中でも最上位を示す上品上生印だ。
 
 本年一月、当山鎌倉洗心坐禅会新春参禅会にお招きいただき、初めて電車で訪問した。主催者の叶沢正覚居士が最寄りの大船駅まで車で迎えに来て下さった。大船はかつて松竹撮影所のあった所で、往年の名監督小津安二郎作品の中でもとりわけ好きな突貫小僧ら名子役の演技が心に残る無声映画などを思い出していた。 
 お宅で奥様に挨拶を済ませ、まずはさっそく鎌倉大仏へ向かう。一月と言えども鎌倉では珍しいという小雪舞う中だった。何処に限らず訪問した場所に付随する印象をよく覚えていることがあるが、鎌倉大仏もかつて来た時の駐車場の印象なども覚えており、係の人の様子までもが妙に懐かしかった。  
 
 大勢の観光客に混ざり鎌倉大仏高徳院境内に入る。中国や韓国あたりからの観光客も多いが、彼らの信仰の強さを現す五体投地の敬虔な祈りの姿には、二度三度ならずも心奪われた。 
 境内入り口から大仏を遠目に拝み歩を進め、真っ正面から仰ぎ見る。得も言われぬ安堵の心持ちの独特な感覚のまま、さらに歩を進め角度を変え斜向かいからも仰いでみる。大仏のお顔はややうつむき加減だが、その目線の真下に入ることにより、大きな慈悲の力に包み込まれる感覚は最高に達する。 
 
 映画「三丁目の夕日」の原作で名声を博した西岸良平氏の「鎌倉ものがたり」は、主人公のミステリー作家一色正和氏が、鎌倉で起こる連続怪事件の数々を解決する漫画作品で、話中に描かれる鎌倉界隈の名所旧跡を見ているだけでも楽しいが、その中の鎌倉大仏の胎内拝観シーンが印象深く、これを今回体験しようと思っていた。 
 
 入り口で参拝料廿円を払う。廿円というのも時代錯誤のようで愉快にさえ感じるが、しかしこの平成のご時世に廿円でという嬉しい思いの方が勝ってしまう。狭い通路を上り青銅製の大仏の広いご胎内に入る。大仏からは包み込まれるという絶対信頼の感覚を強く受けているので、ご胎内に入らせていただくと、言葉を無くすほどの有り難い思いに浸った。 
 
 拝観を終え、次に鎌倉の西方極楽浄土と謳われる長谷寺に徒歩で参拝し、さらに車で大船駅前にある大船観音を参拝した。正覚居士は長く鎌倉にお住まいだが、活禅寺には足繁く通い続けているものの、地元鎌倉の寺社にはほとんど行ったことがないなどと話をしながら、数十年前に一度だけ訪れたという大船観音を参拝した。全長約廿五メートルの巨大な白衣観音像で、昭和初年に地元有志の発起により建立された曹洞宗の寺院である。やはり観音像裏側からご胎内に入ることができ、設計が鎌倉大仏の影響大であったことがうかがえた。 
 
 居士宅に戻り、先年亡くされたご子息雅人君との思い出などを語りながら、まごころこもった奥様の手料理をちょうだいし、明日の参禅会に備えた。床に入らせていただき鎌倉大仏にまた思いを馳せ、あの独特な安堵感は何だろうと改めて考えた。そのとき「大慈悲」の言葉が頭に浮かんだ。 
 
 かつて無形大師は仏と人をわかりやすく説き比べる方便として、仏は人と違い大慈悲であると説かれた。人はそれぞれの主観であらゆる事を良いとか悪いとか区別してしまうが、仏は良い人であろうが、たとえ悪いことを犯した罪人であろうが、大慈悲のお心でそれらを全て無条件に等しく受け入れてくださる、と説かれた。 
 そうだ、大慈悲だ。あのすべての事から守ってくださる、包み込んでくださるような大きな安堵の感は、仏の、大仏の大慈悲のお心そのものの現れに他ならないんだと納得した。 
 
 観光という名目であれ年間を通し大変多くの方が大仏を拝んでいるのである。いや、大仏建立の鎌倉の時代から数百年を経た今日までに、まさに無数の人が大仏を拝み、多くの祈念を重ね、そして幾多の功徳を頂戴してきたのであろう。その間大仏は、こいつは悪いことをしてきた奴だから拝ませてあげるものか、こんな悪い奴に功徳など与えるものかという分け隔ては一切なかった。また、この長い歴史の間にそこが戦場となり、人が敵だ味方だと争い、尊い命でさえ奪い合って来た時代にでさえ、善悪美醜、それぞれがその特性を持つ全ての者に分け隔てなく大慈悲心を与え続けてくださったのだ。 
 
 大慈悲だ。大仏のあの大慈悲に包み込まれるが故に大安堵感に浸れるのだと思った。それと同時に、我々仏教徒は大慈悲心におすがりするだけではいけないんだ、己れ自身が仏と同じ大慈悲の境地に向かうべきなのだ、いや向かわねばならないんだ。日々の暮らしの中でたくさんの出来事と向かい合う時、まずは大慈悲の心でそれら全てを無条件に受け入れることが大切なんだと強く思った。 
 
 翌日を迎え坐禅会ご縁の方々が次々と参禅された。いつもは本山でお迎えする面々をこの鎌倉の地でお迎えするご縁の深さを改めて感じながら、まずは雅人君の追善供養のお経を全員で心より誦し、続いて坐禅に入り、今回感じた「大慈悲」について提唱させていただいた。その後、これも正覚居士奥様のまごころこもった手料理なるお弁当と、皆が持ち寄ってくれたお酒も頂戴し、深くなるばかりの有り難い感謝の念を胸にしながら、充実した楽しいひとときを過ごさせていただいた。無事新春参禅会を終え、東京駅まで法友のお見送りをいただき、長野へと帰路に着いた。 
 
 願わくばいつの日にか大仏と対座し、その大いなるご法息の前に法悦のひとときを味わわせていただければと思うのである。