Nostalgia op.1


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  Nostalgia 1

茶の木 op.56 (H13/12/24)

家の垣根代わりだったり、畑に行けばどこの家でもだいたいがこの茶の木を数本は植えてあって、新芽の収穫時には家々の女達は茶作り作業に忙しく、天気の良い日に摘まれた茶葉はむしろの上に薄く広げられ天日で数日乾燥、その間に何度もの茶揉みの作業で柔らかくもみほぐされた茶葉は、最後に家の勝手の並びに設えた雨ざらしの大きな釜で煎られて出来上がり。その時期にはどの家でも茶作り作業をするので、そこら辺り一帯にはお茶の匂いが立ちこめていたのでした。茶の木には白い小さな花の後に茶色い固い実が生り、我々はこれを弾にパチンコで雀を狙うのです。

とんぼ op.55 (H13/11/24)

薄い水色の胴体が精悍で動きが素早く、ついに一度も捕まえることの出来なかったしおからとんぼ。神様の使者に相応しい黒い身体と羽根で身を包んだ神様とんぼがいるのは谷間の涼しい場所。車が大好きな自分が親しみを持った車とんぼは羽根に薄茶の車輪模様。夕焼けで辺りが真っ赤に染まった中に固唾を飲んで見つめた一匹の赤トンボ。どじょうや魚を捕りに行った川辺には針のように小さな糸とんぼ。夜中に家の灯りに向かって飛び込んでくる羽根が沢山ある蛾とんぼ。秋の収穫時に群で飛び交う茜色した蜻蛉やんま。彼らが風に乗って飛べることにすごく憧れたのでした

五右衛門風呂 op.54 (H13/9/29)

板で丸く作った取っ手付きの蓋を開けると、湯気の中に浮かんでいるのが丸い板の中敷きで、湯加減を見るためにまずは片足から、そしてゆっくりと両足を乗せ体重をかけて中敷きを底に沈めるのです。我が家のような兼業農家の風呂は大体が母屋と離れた庭先に作られ、この五右衛門風呂に入ると身体の芯から暖まり、冬の寒い夜でも湯上がりのまま庭に出ても冷気が心地よく感じられた程でした。ある時ついにその風呂釜が駄目になってホーローの風呂に作り直す間は、近所の家にもらい湯に行ったり、太陽熱パネルで沸かした僅かな湯を家族で使いあったりと不自由な思いもしたのです。新しく出来た風呂は今までとは違ってタイル張りになったのですが、シャワーはついたのにボイラーがないので、水しか出ないとても悲しいシャワーだったのです。

I君の祖父 op.53 (H13/9/16)

私の祖父と幼なじみで、私を「こう君」と呼んだI君の祖父は手先がとても器用で、破れて穴のあいたこうもり傘を上手に直したりもしていた。中学生だった私の通信簿の英語の5を見て満面の笑みで喜んでくれたりもした。私が成人したある時、一人で抱え切れない問題に悩んでいた時に、「こう君、まあ飲め」と言って小さなテーブルを挟み向かい合いで差しつ差されつの数時間、そろそろ辞そうと思うも腰から下の言うことが聞かず、飲み過ぎで腰が抜けた体験を始めてしたのでした。腰の立たない私を笑いながらさっさと立ち去り自分の部屋に戻ってしまったI君の祖父。これが正に真の男のやさしさだなどと、腰が立たなく困ったまま、妙に感動したりもしたのでした。

ユニフォーム op.52 (H13/5/25)

「何でもいいから欲しい物を買ってあげるよ。」東京から婚約者と一緒に帰ってきた叔母がやさしい目でそう言ってくれたのは私が小学5年の夏のこと。放課後は友達と野球をするのが日課のその頃。一人だけ真っ白い野球のユニフォームで登校してくる同級生がいて、私の憧れは正にその真白きユニフォーム。叔母のその言葉に、誰かに物をねだったことのなかった私はおそるおそるに「野球のユニフォームが欲しい」と言ったのです。叔母が帰った後は頭の中はユニフォームで一杯で、でもそれから何日たっても届く気配すらなし。叔母が野球のユニフォームのデザインのパジャマを土産に持ってきたのは約束から23年経った時のこと。 「遅くなってごめん」そう言って微笑む叔母は驚異的に暢気だと思うのです。

春の通学路 op.51 (H13/4/7)

小学校の通学路の国道はその頃はまだ砂利道の曲がりくねった田舎道で、近くに住む顔見知りのおじさんが毎日そのどこかで道の保全の補修仕事をしていたのでした。鍬のような道具でいつでもこつこつと仕事をしているその様子は、子供心にもとても真摯に映ったのです。我が家から小学校は一キロの道程で、その真ん中辺りにお宮があって、野宿のお遍路を時々見かけたりもしたのでした。国道の両脇は桜の古木の並木で、入学式の頃には染井吉野が満開になり、我々も大人もおじさんの直した場所を気遣いしながら、満開の桜に囲まれるようにしてそこをゆっくりと歩いて行ったのでした。

101匹わんちゃん op.50 (H13/3/17)

小学校の夏休みに東京から親戚の従兄弟達一家が遊びにきて、叔父さんの仕事は警察官。我々を車でドライブしながら海に連れて行ってもらった時に、「叔父さんが交通違反したら誰がつかまえにくる」と聞いたら、「絶対違反はしないよ」と笑顔の叔父。従兄弟達はさすがに東京人は違うと思う物を持っていて、長男は小さな電動の扇風機、長女が大切そうに持っていたのがビオフェルミンの茶色の瓶。東京の子供はみんなあれを飲むんだと思った。次女の持っていたのがピノキオと101匹わんちゃんのジグゾーパズルで、これには絶対に触れさせてももらえず、しょうがないからずっと眺めていたのでした。

冒険 op.49 (H13/2/24)

近所の遊び仲間達と日曜の午後、みんなでいつかは行こうと話していた海が見えると言う目の前に聳える山の頂上に行こうということになり、頂上までは必死に登ったので案外早く着いたけれども、そこから見えたのは海ではなく、幾重にも重なる峰々のみ。遠くを見下ろすと小さな集落が見えたので 「あそこに行ってみよう」 と今度は一気に駆け下り開始。どの位の時間その辺をさまよったのか、帰らなきゃと思った頃にはもううっすらと夕闇が。腹は空くし闇は深くなるばかりで、心細い我々は手をつないで縦に並んで眼に一杯の涙で暗闇を大走り。やっと家の明かりを遠目に見た時は安堵感がこみ上げて大泣き。暗闇の怖さを思い知り、計画のないむやみな冒険に大いに反省もしたのでした。

自転車 その2 op.48 (H13/2/12)

中学は片道4キロの自転車通学で、流行っていたのが変速付きのサイクリング車。友達はみんなそのサイクリング車で、明日はいよいよ自分もマイバイシクルを手に出来るその夜はいつもよりずっと早く寝て夢見心地のサイクリング気分。「帰りは乗って帰るから」 と、父の勤める役所の近所の自転車ショップに飛び込み唖然。その場に準備されてた夢のマイバイシクルは、バイオレットの色鮮やかなママチャリだったので、とても悲しかったけれどママチャリ通学を頑張ったのでした。

自転車 その1 op.47 (H13/1/24)

子供用の小さな自転車はなく最初から大人の自転車に無理矢理またがって乗ったけれども、爽やかに風を切る感覚は得も言えぬ程の新鮮な感動と発見で、いつも不格好な格好で乗って遊んでいたのです。ある日隣の家のおじいさんが死んだのを聞いた私は、一大事と思い一所懸命に自転車を漕いで近所の人に悲しい訃報を告げてまわったのです。その晩に通夜で翌日は葬儀。自転車のことを思い出すと、野辺送りの情景もそこに重なって思い出してしまうのです。

ぼたん雪 op.46 (H12/12/26)

自室の窓を開ければ上手にはすぐに国道が走り
やがてあたりが薄暗くなりはじめた頃の独特な静けさの気配に冬の到来を感じ入りながらの夜半
窓を少し開けながら冷たい外気の感触の目覚めと同時に我に襲い来る大きな大きなぼたん雪の群
それらは道端に立つひょろっと背の高い水銀灯に広く広く明るく明るく照らされながら
我を見よの言葉を吐くが如くに
我が生命の謳歌也と歌うが如くに
暗闇の深い深い空の谷間から落ちては輝き
輝いては消え
心の中のとまどいや希望や不安をすっかりと包み込んでくれるような
そんな大きくて静かで力強く
そしてやさしい
心の中の雪達の舞いの記憶

車輪転がし op.45 (H12/12/18)

自転車の車輪のタイヤを外して鉄の輪だけにしたのを木の棒で転がして遊ぶ車輪転がし。運動会の種目にもあったのですがあれは男の遊びで、片や女の遊びがゴム飛び。我々は上手に車輪を転がしながら、入ってはいけない女の世界のゴム飛びを横目に見ながら、一所懸命に車輪を転がして遊んでいたのでした。

冬の通学路 op.44 (H12/12/1)

高知と言えども冬の冷え込みは厳しく、小学校への通学路は霜柱をざくざくと音を立てて踏みしめながら通ったのでした。目の前に聳える山の稜線から覗く朝日の当たる場所を歩く時は温かくて気分も愉快で、でも霜で真っ白に葉を閉じた大きな合歓の木にさしかかった所で朝日が山の頂上に隠れてしまうと通学路は途端に寒くて冷たい無口な通学路になったのでした。朝日の当たる場所から寒い日陰に入る瞬間は涙が出るほど寒くてつらかったけれど、でも我々は我慢して一所懸命にそこを歩いて行ったのでした。

あけび op.43 (H12/10/30)

秋の山遊びの楽しみのひとつだったのがあけび。でも我々のまわりには特にあけびなどの天然収穫物には動物的に敏感な兄貴分の人たちがたくさんいて、あの独特な山の宝石とまでに感じた果実を我々の身分の子供がこの手にすることはとても難しいことで、仮にも見事に開いた果実を偶然にも手にしたならば、それは兄貴分の人たちに対しての罪悪な気持ちと共に、彼らに無条件に献上しなくてはならないという純な気持ちが自分の中に芽生えていたのです。それでも時々は彼ら年上の兄貴分達はその分け前として何個かを我々にも与えてくれ、でもそれらは必ずと言っていいほどまだ食べるには早すぎる青くて堅い実。ところが彼らの素晴らしいのはそんな時の対処法も我々に教えたことで、固い実を田んぼの擦リぬかと呼ばれた米の抜け殻の山に埋め込んで一週間くらい置いとけば上手に熟成する。そんな自然と共生する知恵をも彼らは我々に教えたのです。がき大将と呼ばれた子供とその手下達とのあけびを巡る師弟愛。

柿 op.42 (H12/10/19)

柿の木はどの家にもあったが大きな渋柿ばかり。食べ方に二通りあってひとつが干し柿の吊し柿。ひとつずつ包丁で丁寧に皮を剥いて紐で対に軒先で天日干し。完全に干し切るよりは柔らかな時の方が美味で、祖母達が丁寧にこしらえた干し柿は、干され切って完成する前に我々によって殆どが食べられてしまったのでした。焼酎漬けがもうひとつの食べ方で、へたを取って焼酎を差して何日か置き渋が抜けたら完成。小学校の運動会の昼飯時に食べるのが毎年とても楽しみだったのでした。

稲刈り op.41 (H12/10/3)

兼業農家だった我が家では米を作っていて、稲刈りは父の仕事の休みの日曜日に行われたのです。まだバインダーの機械化はなく、家族総出で親戚からも手伝いに来て鎌で稲刈りの開始。大人の男、大人の女、子供の男、子供の女の順に横に並び、仕事の早い大人の男が先頭に立って稲株3束程をまとめてバサバサと勢い良く刈り進み、身体が小さく仕事の遅い我々は一束ずつ根気よく刈り続けるのでした。刈り込んだ稲田の段差は綺麗な幾何学模様になり、先頭の大人が向こう岸までたどり着くと一段遅い次の段に下がり、我々もそれに合わせて一段下がってはまた刈り進むのでした。みんなで働いている雰囲気が良いとか、休憩はまだかとか、天気が良くて気持ちが良いとかを、稲株の独特な匂いに包まれて考えながら、住まいを無くして飛び交うカエルを見たりしながら、日長一日かけて稲刈りはやっと終わるのでした。

床屋 op.40 (H12/9/21)

二軒の床屋があって一軒は若いおばさんの床屋で、もう一軒がいつも行ってたおじさんの床屋。小太りで色が黒くてぶっきらぼうなおじさんの側には、いつも短いほうきで掃除をしている物静かなおばさん。「はい、お賃」と太い声で散髪が終わるとおじさんが10円の駄賃をくれるので、それを手にして我々は隣の駄菓子屋に直行。そんな床屋のおじさんの言葉はとてもやさしくて心に染み込み、いつも大きな勇気をくれたのでした。おじさんは死んだ後にも夢に出てきて、おばさんは夢の中でもいつものように掃除をしながら静かに微笑んでいたのでした。

秋祭り op.39 (H12/9/5)

六十四社という地元のお宮の苔生した石段の上がり口に、「六十四社氏子氏子中」と墨書された大きな幟が立ち、祭りの一番の賑わいは男達の花取りの剣舞。揃いの紋付き袴に白く染めた山鳥の羽根を付けた冠装束で、男達の荘厳な歌に合わせた優雅な剣の舞。向かい合った者がすれ違いに長振りで切り落とす白い羽根の舞い飛ぶ光景は勇壮で、顔見知りのおじさん達もその日は人が違ったように厳かに華やいで見えたのでした。霊気漂うお宮の奉納剣舞は、祭りが終わってもしばらくは強烈に心に残ったのでした。

墓掃除 op.38 (H12/8/22)

お盆の前の墓掃除は鎌や竹箒を持って家族で山の墓地に出かけたのでした。細い鈴竹をたくさん切って来て、節から上を水が入るよう残し、上向きに置いた鎌の刃に竹を転がして花差しをたくさん作って、草を刈った墓前に対に立て、山から切り出してきたシキミやサカキを差し水も指して墓掃除は終わり。桜の古木から聞こえるあぶらやツクツクボウシの甲高い鳴き声の下、肌を差す厳しい真夏の日差しの中で家族で行う墓掃除は、とても穏やかで優しい気持ちになったのでした。

 迎え火 op.37 (H12/8/12)



高知の郷里ではお盆の迎え火は、新盆の家では枝を付けたまま畦道に対に立てた孟宗竹の先端にたいまつを燃やし、新盆のない家は畦道に直にたいまつを燃やして13本の線香も立て、里芋の葉には供物の米を乗せてお祀り。夕風に波打つ青田に燃える迎え火は神秘的で、先祖を家に迎え戻すこの風習に、我々は子供ながらにも何とも言えない安堵の感を覚えたのでした。

エンコウ op.36 (H12/7/27)

夏休みは朝から晩まで川で遊び通す毎日。でもお盆の三日間だけは川遊びは禁止で、河童みたいなエンコウ妖怪の伝説があって、お盆に川で遊んでいるとエンコウに水の中に足を引っ張られるというのです。祖母が子供の頃にエンコウを見つけて、みんなで素っ裸のまま泣きながら逃げた話は何度も聞かされたのでした。恐い物見たさでお盆に川に行ってみると正に今にもエンコウの出そうな妖気満々たる雰囲気で、お盆が終わってもしばらくは恐くて川には行けないほどだったのでした。

ラジオ体操 op.35 (H12/7/24)

我が家のまわりにはたくさん子供がいて、夏休みは朝6時半から我が家の庭でラジオ体操をしたのです。子供はみんなが真っ黒でやせっぽっちでみんなとても仲がよかったのでした。宿題は夏休み帳と工作だけで、休みの一番最後の日に全部の天気を一気に書いて夏休み帳は完成。天気は毎日が晴れか快晴の30度ちょっとだから、お天気帳は毎年得意で楽勝だったのでした。

恩師 op.34 (H12/7/19)

良寛の研究会で新潟を訪ねられた帰りに当寺にも寄ってくださり、30年振りにお会いできた小学1、2年の時の恩師D先生。白いマスクと黒い腕カバーで、顔を会わすたびに怒られていたY先生は3年の時の恩師で、数年前に奥様と来られ坐禅をお教えし、これであの頃の恩返しが少しは出来たかと思ったのでした。もう長い間お会いしていないN先生は4年の時の恩師で、社会人になったばかりの我々のことをすごく喜んでくれたお顔は未だに鮮明。I先生は5年の時の恩師で、音楽会でリコーダーを吹いたことをしっかりと覚えていてくれました。小学校卒業後一度しかお会いできず、その後僅かで帰らぬ人となってしまった6年の時の恩師M先生。お元気なあの頃のお顔だけが、いつまでも記憶に残っているのでした。

 海 op.33 (H12/7/12)

小学校の遠足は汽車で片道40分ほど行った隣町の佐賀町の海が殆どで、汽車はループトンネルもある長いトンネル群を幾つも抜けて佐賀駅に着いたのでした。ホームに降りた瞬間に海の匂いをもう感じながら、我々は友達と手をつないででこぼこ道を歩いて約30分。突如として目の前に青空と海とがひとつになってキラキラと輝く大きな景色が広がった瞬間はいつもものすごい感動で、青空と海と波と風とのエネルギーを身体いっぱいに浴びて、帰りの汽車の時間までを楽しく過ごしたのでした。弁当はいつも母の手造りの土佐の巻き寿司弁当で、一度だけ母が箸を入れ忘れたことがあって、先生にそのことを話したら、「そこの木の枝を折ってお箸にしなさい」と言われ、波風を受けた天然のしょっぱい箸を使いながら、箸の大切さを初めて痛感したりもしたのでした。

 妹 op.32 (H12/7/10)

三つ違いの妹がいて小さい頃はどこへ行くにも一緒でした。夏休みになると裏も表もわからないほど真っ黒に日焼けし、朝から夜まで私にぴったりとくっついて遊んでいました。あるときいつものように母と妹とそして私の三人で汽車に乗って隣町の母の実家に出かけた帰り道。何の虫の居場所が悪かったのか、帰りの汽車がホームに着いても妹は目を真っ赤に泣きはらしながら一緒に帰ろうとはしません。母は母でそんな妹のことは呆れてもうおかまいなし。まさか出てしまうとは思いもよらなかった汽車のドアが閉まり、ドアの向こうの存在となってしまった妹。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながらホームを走って汽車を追いかけ。駅に着いて折り返しの汽車で母と一緒に向かえに行くと妹は駅長さんにお菓子をもらい悲しそうな顔で、いつものように手を差し出すといつも以上に固く握り返してきたのでした。

 op.31 (H12/7/1)

二歳年下の従兄弟が近所にいて土曜の夜はいつも我が家のマイルームにやってきては夜な夜な二人で窓から脱出するのであります。目的はずばり煙草。高校生だった自分達には決してしてはならないことで、しかしそれは大人の世界をかいま見られる絶好の道具で、旨いとかまずいとかは話の他、吸うことのスリルに満足した17の夏。その時も二人して窓から脱出、近くの自販機に向かい非行の初期行動無事達成。窓から部屋に戻りいつものように音楽を聴きながらギターを弾きながらプカプカとふかしていた草木も眠った真夜中丑三つ時。全くの予想外で隣室に明かりが灯ったかと思うと同時にサイダーをお盆に乗せた母親の姿。慌てて部屋の換気をそして気まずい雰囲気。様子を一瞬で察した母親、さすが土佐の女は言うことが素敵で、「火の始末だけはちゃんとしちょきよ」。ほろ苦い思いでその夜は従兄弟と二人で明け方まで眠らず自転車をこいで太平洋を見下ろす高台まで行き、母なる大いなる日の出を万感の思いで見つめてきたのでした。

紫陽花 op.30 (H12/6/28)

郷里の高知は雨の多い場所で、梅雨時にはバケツをひっくり返したような雨が3日も4日も振り続いたのです。小学校へは長靴に傘をさして、通学路の国道は未だ舗装になってなく、自動車やトラックのはね上げる水飛沫は、傘で巧みに避けないとびしょぬれの酷いことになってしまったのです。駅の近くの親戚の家のすぐ裏側に雰囲気の良いお宅があって、庭先にはそこでしか見ることのできなかった洋梨の木。その木の根本辺りに毎年綺麗に紫陽花が咲き、降りしきる雨の中、傘をさしてそこを通りかかる学校からの帰り道。雨が上がって青空の覗きかけた清々しい朝、友達の家で遅くまで遊んですっかり暗くなった夕方の帰り道。そんな色んな時々に色んな顔を見せてくれたのです。

冒険 op.29 (H12/6/24)

故郷の川は四万十川の支流の中筋川。幅は広い所でも15メートル程度で、子供達の水遊びは大川かふかんぶち。誰かがもっと上流へ行こうと言いだし、何があるのかわからない未知の場所をザブザブと上流へ。両岸は鬱蒼とした竹藪。いつ何が出てくるかわからないような暗くて恐い川面。そこへ果敢に望んだ我々は距離にして数百メートル、時間は30分。やっと見覚えのある所へたどり着いた時の安堵感は独特で、重い足を引きずりながら気持ちは早く元の場所へと。

追憶(祖父の命日に)op.28 (H12/6/14)

若くして郷里を遠く離れ家族との絆はそれでもしっかりと保ちつつ己れのなすべき道を全うした祖父。私は物心ついたころから年に一度だけ帰省する祖父との再会が楽しみで、そして祖父のことが誇らしく、ずっと大好きな祖父でいたのでした。誰もが向かえるその時期、私は気持ちを詩に託し歌い上げる吟遊詩人の雰囲気に憧れ、ジョルジュ・ムスタキの哲学者かとも思わせる風貌と、 「私の孤独」 に代表される個性溢れる歌。その淡々と歌う雰囲気に、ムスタキのように吟遊詩人で一生を暮らせたらなどと夢を追っていました。その頃毎夜祖父の夢を見、あるときは少し遠くの方で、ある時は膝をつき合わせ、毎夜毎夜の夢で私は祖父と向きあっていたのです。そんな頃 「俺の所に来い」と声をかけられ、暗闇に灯を見た思いで一気に髪を切った19の時。

大川とふかんぶち op.27 (H12/6/8)

夏の間の子供達の水遊びの中心の大川とふかんぶちは100メートル程しか離れていないのですが、水深、川幅、捕れる魚にも微妙な違いがあり、特にふかんぶちの周辺には小さな石亀も居て、子供達は水浴びをしたり、魚を捕ったり亀をつかまえたり、色んな遊びを発明して楽しんだのです。ただ子供の体力で遊び場は二分され、大川は深くて危ないので小さな子供は近づけなかったのです。子供達は体の前後がわからない程に陽に焼け、歯だけが真白くぎらぎらと輝き、夏休みには午前中に川に出かけ、お昼ごはんに帰ってきて、また午後にも川へ出かけて行ったのです。

つけづり op.26 (H12/5/25)

四万十川での川遊びのつけづり(浸け釣り)。仕掛けは長さ二十五センチ、幅五センチに割った孟宗竹に五メートル程度の凧糸、うなぎ針に餌はどじょうで、おもりは小石。これを夕方うなぎの出そうな所に流して置いて、次の朝、まだ陽の昇る前に取り上げに行くのです。一人が多くて二十本の仕掛けを持って、朝露を踏みながらわくわくしながら、目が覚めると同時に顔も洗わずに取り上げに行くのです。大きな川だけではなくて、田の細い水路でも毎日のようによくうなぎが釣れたのです。うなぎは自分でさばき、七輪の炭火で焼いて蒲焼きにして食べるのですが、タレなども全く自家製なので、そんなに上等な蒲焼きは出来なかったのです。ある朝、いつも通りに仕掛けを取り上げようとしたのですが、いつもとは全く違った手応えでものすごく重い引き。てっきり石にでも引っかかったのかと思ったのですが、実は今まで見たこともない大物。驚いてそのまま家に持ち帰って、その後数日間は大勢見物に来たほどでした。開けばどのくらい大きいのか興味もあってさばいたのですが、何だか川の主を食べてしまったような妙な後味が、その後しばらくは残っていたのでした。

子供の日 op.25 (H12/5/4)

保育園の時、紙の小さな鯉のぼりを作ることがあって、鯉の上に金太郎をまたがせて貼るのが我々の作業でした。先生が掲げる見本を見ながら「出来た人は高く上げて下さ~い」 の声にあわせて勢いよく頭の上に掲げてみたものの、なんだか自分だけ違ってるような。やっとわかったのは金太郎は鯉にまたがってなくて、自転車で言えば女座りの状態の横座り。恥ずかしくてあせって金太郎の足をさっとはがしてまた貼り直したのです。

シイの実拾い op.24 (H12/4/28)

秋になると山に入り、大きなシイの木を探して実を拾いに行くのです。すごく小さいドングリだけれども、煎るととても香ばしくて、食べ出すといつまでも後を引くので、殻を剥いては食べ剥いては食べ、美味しいけれども食べるのはなかなか忙しい実でした。

やまもも op.23 (H12/4/25)

時季は長雨の梅雨時、表皮のざらざら感が印象的な果物で、ざるに入れたたくさんの実を兄妹で競争して食べ合い、食べた後の縁側の庭には、口から吹き出した種がたくさん散らばったのです。朝採った実は夕方には傷んでしまうほどに、とてもデリケートな赤紫の実なのです。

越中富山の op.22 (H12/4/19)

年に一度か二度、大きな黒い風呂敷包みを背負ってやってきた越中富山の薬売りのおじさん。風呂敷包みの中はまるで魔法の引き出しのようで、我々はおじさんのたくみな薬の仕訳作業を見守って、その後の楽しみはおまけの紙風船など。おじさんは時には歩いて時には黒い大きな自転車やバイクにまたがって、その姿を見つけた時には大声で 「おんちゃーん」 と呼びかけたのです。うららかな陽の落ちる縁側で、紙風船に喜ぶ我々を嬉しそうに眺めるおじさんの眼差しは、とても優しかったのです。

お遍路 op.21 (H12/4/14)

昭和30年代後半はまだ車は少なく歩きが基本だったから、お遍路も歩く人ばかりで、それと当時のお遍路は殆どが乞食遍路と呼ばれ、宿には泊まらず神社の境内などで寝泊まりをしながら歩いていたのです。小学校の帰り道でもそういう人によく会って、時々お菓子などを持って行ったのでした。ある時、やはり小学校からの帰り道に営林署の貯木場で道草してる時に、りっぱな法衣姿のお遍路さんに会って、顔を見ると母方の曾祖父にそっくりで驚いて声が出なかったのでした。「道草食いゆうとお母ちゃんが心配するき、はよう帰りや」とやさしく言ってくれました。僧侶でもない曾祖父がどうしてあんな格好であそこにいたのか、そのことがずっと不思議だったのです。

沈下橋 op.20 (H12/4/7)

毎年何度も来る台風の後には四万十川の水は大濁流となり、水かさはいつもの数倍にも増えて、沈下橋をもすっかりと呑み込んでしまうのです。台風の時にはずっと家に籠もって、息を潜めるような思いで行き過ぎるのを見守ったのでした。台風の後は沈下橋が沈んだか見えているかで台風の規模を実感し、子供達は大水の中で少しだけ姿を見せてる橋で満点のスリルと感じながら遊んだりもしたのです。

シロ達のこと op.19 (H12/4/4)

我が家にもずっと飼い犬がいて、その時の犬はシロで雑種のメス。ある時、数匹生んだ子犬のうちの何匹かはよそのお宅にいき、残ったのは白の子犬1匹。なにがきっかけでその子犬がその後行方不明になったかは覚えてないのですが、夜中に家族全員で探し回るも行方は知れずにそのままで何ヶ月か経過。ある時少し遠くのお宅から連絡が入り迷い犬を預かってるとのこと。早速父と共に連れに行ったのですが子犬には前と違った変化が。行方不明になった間に怖い体験をしてしまったようで、見るからに神経質になってしまい真正面からは物を見れない状態。ガリガリにやせ細った首にやっと結んだ鎖を引いて我が家に連れて帰ろうとしたのですが、広い国道の歩道を歩いていても自動車の音が聞こえただけでガードレールの下に首をつっこみその場から逃げ去ろうとする有り様。やっとの思いで家にたどり着いて親犬のシロと対面させたその時、予想もしてなかったことが。テレビで見るご対面番組のあの状況と全く同じで、親犬シロは一瞬 「おまえどこに行ってたんだ」 と言わんばかりの表情で、子犬の方はその瞬間やっと我に帰り母親の元へ一直線。その後の状況は見てるのも忍びないほどの親子のご対面で、思わずこちらももらい泣き。あの時はシロも子犬も確かに涙を流したと子供心に思ったのです。

ほたるの宿 op.18 (H12/3/27)

夏の夜は蛍狩り。四万十川支流の仁井田川辺りはたくさんの蛍で闇夜に星空の状態でした。蛍買いのおじさんがいて季節になると郷里を訪ねてきたのですが、蛍を買って都会で売ったのでしょう。会場は富山の薬売りが常宿にしていた宿で、子供達はその日にあわせて毎夜蛍狩りに精を出したのです。二匹で一円だから一匹五十銭の勘定で、子供には良い小遣い稼ぎ。自分は三十円くらいはあったけれど、近所の兄ちゃんは最高売り上げ者で三百数十円。おじさんが独自の器具で蛍を数える手さばきは、これまた素晴らしく見事でした。

いたどり採り op.17 (H12/3/21)

いたどりは高知では普通に食べ、ふきやわらびと共に春先の山菜の代表でした。一家総出で収穫用の大きな麻袋を背負い、日長それぞれの目当ての山に入るのです。山の中の谷あいに生えるのが特徴で、細く黒いいたどりの親木のある周辺が目当て。育ちすぎて大きいのは堅くて食べられず『とうが立つ』と言ったのです。太さと長さが程良くてみずみずしいのが良いいたどり。水無しと呼ばれた深い山はいたどりがたくさんあることで有名で、帰りの麻袋は大収穫で肩に食い込む大荷物。ドライブイン営業の近所のおばちゃんは、イタドリを煮てお総菜で売ってもいました。食べ方はまずは一本一本をきれいに皮むき、10センチほどに切って一晩塩に漬けるか熱湯にさっと浸けてあくを抜くかして、たけのこやわらびと一緒に油で炒めて完成。

仲間遊び op.16 (H12/3/18)

近所の年下の子供の面倒をみてあげたことの話で、小学校高学年の3年間は学校から帰ると子供達5~6人の遊び相手に毎日なってあげたのです。遊びは子供達の父親手作りの木のエンジンなしの小さな自動車。子供達はよくなつき、親御さんからも「ありがとう」と感謝されたのでした。そして今も自動車が大好きなのは私も彼らも変わらないのです。

有線放送とビー玉 op.15 (H12/3/17)

隣家の縁側の黒い有線放送の電話機からは『帰ってきたよっぱらい』がいつも流れていて、庭の柿の木の根っこあたりにビー玉の『天下取り』」の小さな穴が6個。この穴は隣家に限らず子供のいる家の庭にはどこにもあり、我々はその時の状況で遊ぶ家を決めたり、あるいは家々をはしごしながら天下取りに遊びふけったのです。ビー玉を穴に順次入れて、最後の穴を征服すると王様で、近所の兄ちゃん達は手さばきが見事で憧れたのでした。

 ポン op.14 (H12/3/16)

地方で呼び方は様々なのでしょうが、ボンという出来上がり時の大きな爆発音が語源なのでしょう。ポン屋のおじさんが小さな車にそれを乗せて週に一度程やってくると、家々からはそれが人づてに伝わり、だいたいが竹のふごと呼ばれた丸い籠に、米一升か二升を入れて集まってきたのでした。ふごの米はわずかな量で、それがポンに変わるとふくらんで随分多くなり、ふごはそんな時にもすごく便利な物だと思ったのです。ポンは5分程度おじさんの手で回すハンドル操作で撹拌され、おじさんが立ち上がったのが合図で、「ポーン」という大きな爆発音で出来上がり。子供も大人もその瞬間が楽しみで、固唾を飲んで目はしっかりと見開いたまま見守ったのでした。ポーンの大音は不思議と勝利者の優越感を覚えたのです。

 たやく op.13 (H12/3/15)

漢字で書くと田役なのでしょう。春先の時期、水田を主とする兼業農家が殆どだった私の田舎では田役と呼ばれた作業が全戸からの人出によって行われたのです。田に水を入れる前に必要な作業で、田に沿う小川の水を堰き止め、鍬やスコップで川底をきれいにさらえ、土手の崩れかけた所にも補修をするといったものでした。水を止めると小魚やしじみが姿を見せ、我々は手に手にバケツを持って競争でそれを掴まえて遊んだのです。

ぴ~つり、かいつり、き~ましたー op.12 (H12/3/14)

正月か節分の日の夕方、それぞれに趣向を凝らした仮装の子供達は、ぴ~つり、かいつり、き~ましたーと口々に唱えながら家々をまわったのです。いつも遊んでる近所の兄ちゃんや友達はその日に限ってはとても神秘的に見え、それは故郷には古くからあった厄払いの風習のひとつだったのでしょう。家々では子供達に餅や菓子を振る舞い、子供達にとっては色んな意味で楽しみな行事だったのです。

 すみか op.11 (H12/3/11)

川の土手の竹藪に作ったすみかは不思議な空気と雰囲気の場所で、竹藪といっても細い鈴竹を巧みに編んで作った秘密の基地。川の土手は冬でも陽が当たると暖かく、竹の間から見る川面は穏やかでとても静かで。でも陽が陰ると途端に寒くなり、作る場所は出来るだけ日当たりの良い場所が原則だったのでした。

 めじろ op.10 (H12/3/10)

山の中の日当たりの良い場所におとりのメジロの入った鳥籠を掛け、回りに鳥モチの付いた数本の止まり木を仕掛けておとりの鳴き声に釣られて集まるメジロを捕まえる遊び。捕まえたメジロは暴れないように黒い靴下に入れ、スタイルと鳴きの良いのを持ち帰り飼育。当時はどこの家の軒先にもだいたいこのメジロの鳥籠が掛かっていたのでした。

 こぶて op.9 (H12/3/9)

近所の兄ちゃん達に連れられて山に入って仕掛けた罠がこぶてで、枝を切る小刀と、二メートル程の凧糸と枯れ葉と南天の実の餌が材料で、兄ちゃんはポケットから取り出した磨き抜かれた小刀で手の指大の雑木を一本背丈の場所で切断、切り口近くに凧糸を結んで地面に引っ張り枯れ葉でカモフラージュした罠を作って餌を構えて準備は完了。次の日に見に行くとつぐみやヒヨドリがかかっているはずなのに、自分の罠にはいつでもネズミがかかっていたのでした。

 木馬 (きんま) op.8 (H12/3/8)

山で切り出した材木を運び出すのに使われた橇(そり)の類で、それは子供達のとっておきの遊び道具でもあったのです。少し大きな物から子供がやっと乗れる小さな物まで様々で、乗って滑って山で遊ぶのです。大きく育った杉や檜の間には獣道ならぬ橇道があり、かなり急な勾配の坂道でスピードとテクニックを競うのです。元々つぎはぎだらけのズボンは更に泥に汚れ、転んで手や足の皮を擦りむいても、何度も何度も坂を登ってはまた滑り下りたのです。

 駄菓子屋 op.7 (H12/3/6)

子供の頃の生活の中で欠かすことのできなかった楽しみ、それがこの駄菓子屋で、田舎の床屋の隣にあったその店には毎日必ず十円か二十円の小遣いを持って出かけて行ったものです。一本五円とか十円のくじ引きの買い物は子供心にそれはそれは楽しみで、時々行く床屋のおじさんにいただくお駄賃で散髪が終わるや否やその隣の駄菓子屋に飛び込んだのも楽しい思いでの一つです。「おばちゃん、ちょうだいー」と声をかけると奥の方から店の主である小柄なおばちゃんがにこにこの笑顔で出てくるのですが、子供心におばちゃんがいつも何かの用事をしてるその奥の間は禁断の場所で、何かしら不思議なオーラのようなものさえ感じたほどでした。近年あのような店は維持が困難で滅多に遭遇することはできなくなってしまったのですが、どこかにきっとあの雰囲気の店がまだ残ってるのではないかと最近考えるのです。

夕焼けの詩 op.6 (H12/3/4)

西岸良平氏の夕焼けの詩の漫画本が好きで、ここでの子供達の遊びが自分の子供の頃と重なって懐かしいのです。パン(メンコ)やビー玉、釘を地面に打ち付ける陣取り、凧上げ、缶蹴り、かくれんぼ等々。隣の家の純ちゃんが傘の柄で作った火薬銃を足の甲で暴発させてからはそれが中止になってしまった、そんなことなども思い出すのです。

お茶室のような op.5 (H12/3/2)

実家の古い建物には八畳程の土間続きの居間があり下座(げざ)とよばれ、掘り炬燵と古い水屋が置かれていました。昔はいろりが切ってあったらしく天井は黒く煤け、隣部屋からの入り口は極端に背が低く、まるで茶室のにじり口のようでしたが、客人が通る度に背を屈めて気を付けながらも、必ずそこで頭を打ってしまう、珍しくもやっかいな入り口だったのでした。

とっくりと日本酒 op.4 (H12/3/1)

日本酒が飲めないのは子供の頃の体験からきた拒否反応で、周りの大人は祝いであろうと弔いであろうと必ず大酒を飲んだのでした。人が死んでどうして酒を飲むのか、それはいつも抱く疑問でした。飲み始めの頃は和やかな酒席でも、時間の経過と共に雰囲気は段々と怪しくなり、ついには大声で罵声しあう喧嘩となってしまったのです。とっくりから匂う日本酒が大人の醜態と重なり、日本酒は苦手になってしまったのでした。

モンタ op.3 (H12/2/22)

手乗りの鳥は今までに一度しか飼ったことがなく、その時はおしゃべり上手な雄のセキセイインコで名前はモンタ。うどんを食べてるとお椀の中に飛んできて入浴。気遣いな人の頭に止まって笑うに笑えなかったり。ある時どうしても手元では飼えなくなり、知人の小学生のお嬢ちゃんに飼ってもらったのですが、彼女は神様の鳥と呼んでモンタをかわいがってくれたのです。お経も少しなら話したモンタ。黄色に緑のぶちの雑種のインコでした。

 ギター op.2 (H11/12/14)

TOMSON J-45 という名器GIBSON J-45のモデルのギターを一年月賦月額3千円で購入したから3万6千円の楽器で、それでも一年間バイトをして貯めたお金で買ったギターは何よりの宝物となったのでした、高校2年の春。マーチンの弦セットが1500円で、演奏会の前には必ず張り替えはしたものの、楽器が楽器なだけに鳴ることの満足感よりは鳴らないことへの不満がじきに起こり、結局は音楽へのいきずまりを楽器のせいにしながらも自己表現の手段として、詩を書いてコードを押さえてハーモニカを吹いて、いっぱしの吟遊詩人を気取って楽しさをしっかりと感じてしまった高校3年の夏。

 卵どんぶり op.1 (H11/12/9)

中学生の時、従兄弟と二人で長野の祖父を訪ねて高知から汽車を乗り継ぎやって来た時のこと。瀬戸大橋はまだない時代で、四国と本州は一時間の連絡船。デッキで食べるさぬきうどんは旅の大きな楽しみのひとつ。その時も食べることにはこだわった旅で、さぬきうどんはもちろん、岡山で駅弁、名古屋で駅弁と予定をしてあり、でも、もっと美味い物を食べてみたいと思い、連絡船のうどんの後は何も買わずに、急行列車は岐阜の中津川あたりで悲しい車内の放送。 『まいどご利用いただきましてありがとうございました。ただいまをもちまして車内販売は終了させていただきます』。我慢を重ねた腹はぺこぺこで、おまけに外は暗くなってくるしで。でも長野駅に着けばまだまだ店が開いてると余裕の二人。更に時間を重ね汽車はやっとのことで夕暮れ深き長野駅到着。重いボストンバッグを抱えて歩いてやっと善光寺門前。ところが坂の中央通り界隈はどこももう閉店で。腹と背中がくっつけながら、泣きそうにもなりながらのその時、我々を救った一軒の老舗そば屋。地獄に仏はまさにこれだと思いながらに食べた甘口卵どんぶり。この味は決して忘れちゃいけないと思ったりしたのでした。