西郷 清員 天文二(1533)年〜文禄三(1594)年
武将列伝
父は正勝。西郷正勝の子。室は酒井忠次の妹。西郷正勝をはじめとした三河衆が、こぞって今川方から徳川方へと鞍替えたした時、清員は人質として岡崎城に出仕。永禄五(1562)年、今川方の兵が父正勝が籠もる五本松城館を攻め、防戦するも支えきれず落城。父と兄を同事に失った、清員は家康から西郷家の家督を継ぐようにと薦められる。しかしこれを拒み、兄の子である甥の義勝に家督を相続させた。清員は幼い主君を守り立て、母方の従兄弟に当たる菅沼氏とも連携を密にして、西郷家の発展に努めるだけでなく、徳川家に忠誠を誓い続けていた。これが家康の心を動かし、酒井忠次の娘を嫁として娶っている。元亀二(1571)年、秋山信友率いる武田軍が三河へ侵攻してくるが、菅沼氏と連合でこれにあたり、武田軍を退けている(竹広合戦)。この合戦でもって義勝が討死して、西郷家は清員の子である員好が相続する。これは家康からの強い圧力があったと言われている。ちなみに員好は、家好と後に名を改める。ちなみに家康の側室である西郷局は義勝の室であり、清員の養女となり嫁いでいる。


斎藤 道三 明応三(1494)年〜弘治二(1556)年
武将列伝
この人物についての出自は不明確な点が多い。俗に言われているのが、京の妙覚寺の僧であり、そこで軍学等を学んだと言われている。その後、還俗して油屋の養子となり、店の跡継ぎとなる。またその商売の仕方もユニークで、店は大繁盛したらしい。そんな折りに美濃の長井某の目に留まり、美濃土岐家に仕える事となったようだ。そこで今までに培った数々の能力を活かし、たちまち土岐頼芸のお気に入りとなると、あらたに西村姓を名乗った。その後謀略を駆使し長井氏を継ぎ、ついには守護代斎藤氏を名乗り、稲葉山城を拠点としとした。さらに元主君でもあった土岐頼芸を尾張に追い払う。その後は尾張の織田信秀と、幾度か合戦に及ぶ事となるが、娘を織田信秀の嫡男信長に嫁がせ和睦。この信長と聖徳寺で会見したと言うのは、世によく知れた話である。しかし道三の敵は身内にいたようで、息子である義龍によって自刃に追い込まれ、弘治2年(1556)長良川にて敗死。
関連小説
関連史跡


酒井 忠次 大永七(1527)年〜慶長元(1596)年
武将列伝
徳川四天王の一人。蜆すくい踊りを特技に持つという徳川家の武将。徳川家康がまだ竹千代と名乗り、駿府にて人質生活を強いられていたときからの側近である。徳川家康独立後は三河平定に尽力し、吉田城主となる。元亀元(1573)年の姉川の合戦、同三(1575)年の三方原の合戦などに参陣。天正三(1577)年の長篠の合戦においては、織田徳川連合軍の主力として、おおいに活躍をした。また越後の上杉家との交渉にも当たり、徳川家を軍事、外交両面から支えた。しかし徳川信康謀叛の噂が立った際に、安土において織田信長に詰問されるや、その応えに窮してしまい、結果的に徳川家跡継ぎであるはずの信康を自刃に追い込んでしまう。



榊原 康政天文一七(1548)年〜慶長一一(1606)年
武将列伝
小太郎。徳川四天王の一人。徳川家康の側近として永禄三(1560)年より仕える。三河一向一揆の際に初陣をしたと言われている。三河上野の合戦での武功によって、主君である家康より諱の「康」の一字を賜り、康政と名乗りを改めた。元亀元(1573)年の姉川の合戦、同三(1575)年の三方原の合戦、天正三(1577)年の長篠の合戦など、徳川家にとって主要な合戦には参陣している。天正一〇(1582)年、本能寺の変に際しては、主君の家康と行動を供にして、伊賀越えの経路にて命からがら三河へ戻る。その後、天正一二(1585)年の小牧長久手の合戦、同一八(1590)年の小田原攻めにも出陣して、武功をあげている。家康が三河から関東へくだった際は、館林城主として一〇万石の大名となる。慶長五(1600)年の関ヶ原合戦後は、本多正信、正純親子との対立からか、表舞台からは身を引き慶長一一(1606)年に没した。


佐久間信盛???? 〜 天正九(1581)年
武将列伝
織田家の重臣。桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備する。永禄一〇(1567)年に三河徳川家へ織田信長の娘(五徳)の輿入れの際は、その警護として岡崎まで赴く。翌永禄一一(1568)年の上洛に従う。元亀三(1572)年に三河の徳川家へ援軍として駆けつけるが、三方原の合戦にて甲斐の武田信玄に散々に破れ退却。その後は伊勢長島攻め、越前攻めなど織田家の重要な合戦に参戦し、天正四(1576)年には本願寺攻めを任される程の信頼を得ていた。しかし天正八(1580)年には、その本が寺攻めの責任を取らされて、謹慎処分を突然受け織田家から追放された。本願寺攻めを任されてからの間、なにも策を弄せずにいたとの事であるが、真相は定かではない。また追放される時には、全ての身ぐるみを剥がされたとも言われている。結局は高野山で出家して夢斎定盛と名乗るが、翌天正九(1581)年、湯治中にこの世を去ってしまう。


佐久間 盛政 天文二三(1554)年〜天正一一(1583)年
武将列伝
玄蕃助。柴田勝家の姉の息子。加賀の一向一揆討伐に際して、叔父にあたる柴田勝家に従軍する。盛政は先鋒として加賀平定に活躍。この目覚ましい活躍に人々からは、「鬼玄蕃」との呼ばれていたとか。その後の越中での対上杉との戦いにおいても、常に先陣にあった様だ。天正一〇(1582)年本能寺の変の際は、越中に出陣中であった。その後も柴田勝家を補佐しつつ、天正一一(1583)年には近江の賤ヶ岳へ出陣。この合戦でも羽柴秀吉方の中川清秀を討ち果たす活躍。しかし岐阜より急遽、戻ってきた羽柴秀吉軍の前に、味方は退却し大敗北。盛政自身も越中へ退くが、山中に隠れ潜んでいたところを捕らわれる。その後は槙の島にて斬首された


佐々 成政天文五(1536)年 〜 天正一六(1588)年
武将列伝
尾張比良城にて佐々盛政の次男として生まれる。元服して織田信長に仕えるが、永禄三(1560)年の今川との合戦において、兄が討ち死にし佐々家を相続した。永禄年間は織田信長の黒母衣衆の一人として活躍。天正三(1575)年の長篠の合戦では鉄砲隊を率いて参戦して手柄を上げる。その後、前田利家等と共に、越前にて二郡を与えられて大名となり、それと同時に越前に知行を与えたれた柴田勝家の目付となる。これ以後の軍事行動は柴田勝家の指揮下に組み入れられた。まだ敵中にあった越中を主君信長より与えらるが、その主君は本能寺にて非業の死を遂げた。主君の敵討ちをした羽柴秀吉に対して敵対心を持ち、秀吉に与した前田利家の末盛城を攻めるが和睦。また小牧・長久手の合戦の直前、冬の北アルプスを越えることで、越中から遠江の浜松まで徳川家康に面会した行脚は、後世まで語られている。その後は秀吉の許しを得て、九州肥後の領地をあてがわれる。しかし国人衆の反抗などにあい領国経営の失態を咎められ、天正一六(1588)年、大阪へ向かう途中の摂津尼崎において切腹。


里見 義堯永正九(1512)年〜天正二(1574)年
武将列伝
里見実堯の子。天文二(1533)年に里見家の家督相続争いにて、父の実堯が甥の義豊に敗れ自刃し、義堯は九死に一生を得た。翌年に義堯は稲村城を攻め、義豊を討ち取った。父のかたきをとると共に、里見家当主の座を手に入れた。はじめは上総稲村城に拠るが、のちに久留里城へ移る。天文七(1538)年、第一次国府台の合戦においては足利義明と結び、北条氏と決戦に及ぶがあえなく敗北。北条勢がその後房総一帯にまで手を伸ばしてくる度に弓を交え、一進一退を繰り返しながら天正二(1574)年にこの世を去った。


真田 信尹天文一六(1547)年〜寛永九(1632)年
武将列伝
真田幸隆の四男。はじめ甲斐の武田家の臣であった加津野家へ養子に入り、家督を継いで加津野信昌と名乗る。また妻は武田家臣である馬場信房の娘。永禄十二年の北条氏の深沢城攻めでは、敵将であった北条氏成の旗指を奪う武功を立てる。信尹の転機は天正一〇(1582)年に訪れた。主家である武田家が滅亡し、姓を真田に戻し真田信尹と名を改める。はじめは兄である真田昌幸の元に仕えていた。しかしその後は徳川家康の旗下に組み入り、甲斐のうちで三千石の知行をあてがわれる。慶長四(1600)年、天下を二分した関ヶ原での合戦では、徳川家の御使番として参戦し、その後に一千石の加増を得た。また元和元(1615)年の大阪の陣の直前には、徳川家康より「信濃一国を与える」を条件に真田幸村を徳川方に味方するように信尹に命じたと言われている。


真田 信綱天文六(1537)年 〜 天正三(1575)年
武将列伝
信濃の豪族、真田幸隆の嫡男である。元服時に武田信玄より諱を与えられ、はじめ信利となのり、その後に信綱と改名。常に父幸隆のそばにあり、真田家を継ぐことが出来る器量を持ち合わせた人物であっただろう。父と共に武田家の家臣として信州先方衆の一人として、家中でも重きをなしていた。また武田二十四将の一人に数えられる。永禄四(1561)年、第四次川中島の合戦にも従軍し、妻女山に籠もる上杉勢を奇襲する部隊に加わる。元亀四(1573)年の方が原の合戦においても奮戦。天正二(1574)年に父幸隆の死が訪れ、真田家の家督を継ぐ事になった。しかしその翌年、設楽が原の合戦において、織田と徳川の連合軍との合戦にて奮戦するが討死。次弟であった昌輝も同時に討死してしまい、真田家の家督は三男であった昌幸が継ぐ事になる。
関連史跡


真田 信繁永禄一〇(1567)年 〜 慶長二〇(1615)年
武将列伝
源次郎、幸村。真田昌幸の次男である。現在は幸村という名で親しまれている。この名は、関ヶ原の合戦以後に名乗ったと思われる。信繁が歴史の表舞台に出てくるのは、天正一三(1586)年のことである。真田家は徳川家康より沼田の地を北条へ引き渡す様に要求されたがこれを拒否。結局これが発端となり徳川家康の軍事行動に発端する。この際に当主の真田昌幸は越後の上杉景勝を頼り、次男の信繁を人質として差し出す。神川の合戦で徳川勢を退けると真田昌幸は天下人であった豊臣秀吉に臣従する。臣従の証として上杉家に人質となっていた信繁を密かに脱出させ、今度は豊臣秀吉の元、大阪へ送られる。大阪では大谷吉継の娘を娶る。慶長五(1600)年の上杉征伐には徳川家康に従うが、石田三成の挙兵を知ると、父昌幸と共に西軍に属し上田城に立て籠もる。江戸より中仙道を西に向かっていた徳川秀忠の軍を父昌幸と共に足止めをさせ、関ヶ原への遅参という失態の原因をつくる。関ヶ原合戦後は徳川方に属した、兄の信幸による助命により一命をとりとめ、紀州九度山へ配流される。しかし慶長一九年、豊臣秀頼からの誘いを受け、嫡男大助と共に九度山から大阪城へ向かった。後に大阪冬の陣と呼ばれる合戦では、真田丸という出城を築き、徳川方を翻弄させる。明年の慶長二〇年の夏の陣においては、敵方の総大将である徳川家康の本陣の茶臼山まで決死の突撃をこころみ、後世に「真田日本一の兵」と語られる。しかし徳川家康にはあと一歩およばず討死。
関連小説
関連史跡
上田城  

真田 信幸永禄九(1566)年〜万治元(1658)年
武将列伝
信州上田、真田昌幸の長男。真田信繁(幸村)の実兄。父である昌幸が徳川家康に臣従したときに、人質として浜松の徳川家康の元へ送られる。その縁から徳川四天王の一人と謳われた、本多忠勝の娘(小松殿と呼ばれた)を家康の養女として妻に迎えた。文禄二(1593)年には家康の助力によって、伊豆守に叙任され、上州の沼田城主となる。関ヶ原の合戦では、父の昌幸、弟の信繁とは袂を分かち家康に味方し、家康の三男である秀忠に従い中山道を西へ向かう。そして実の父と弟が籠もる上田城の攻防戦に加わり、砥石城攻めなどに功を挙げる。戦後にはその恩賞の代わりとして、父と弟の助命を嘆願して受け入れられ、昌幸と信繁(幸村)は高野山へ蟄居の身となった。このころに信幸から信之に名前を変えたと思われる。そして信州上田城主となった。慶長二〇(1615)年の大阪の陣では弟の信繁(この頃は幸村となのったとか)と再度相まみえる事になった。徳川家康の死後、大阪の陣での功など様々な理由をつけられて、元和八(1622)年に上田よりもさらに奥である松代へ転封される。その家名の真田家は幕末まで続いた。
関連小説
真田太平記   □武士の紋章  
関連史跡
上田城   □沼田城  


真田 昌輝天文一二(1543)年〜 天正三(1575)年
武将列伝
真田幸隆の次男である。甲斐武田氏の信濃先方集として、父幸隆、兄であった信綱と共に上田の地を守っていた。また武田家の戦が有るところ、兄の信綱と共にあまたの合戦に参戦。永禄一一年の駿河侵攻。また永禄一二年の関東侵攻。また小田原よりの帰路で起きた、三増峠の合戦にも活躍。天正三(1575)年には、武田勝頼に従って兄の信綱と共に出陣。設楽が原の合戦にて、織田方の佐久間信盛隊と、激戦を展開する。その際、数多くの首級をあげたが、多勢に不勢であったためか、帰らぬ人となる。昌輝の子の信正は、当時まだ二歳であったが、叔父の昌幸に養育され、昌輝の家系も現在まで続いている様だ。
関連史跡
上田城  


真田 昌幸天文一六(1547)年〜慶長一六(1611)年
武将列伝
真田幸隆の三男。幼少の頃から甲斐の武藤家へ養子にだされ、武藤喜平次と名乗り、武田信玄の小姓を勤める。永禄一二(1569)年の三増峠の合戦では、目付の立場でありながらも一番槍の巧名を立てる働きをした。天正三(1575)年には三河の設楽が原において、織田・徳川連合軍の前に武田軍は惨敗を喫する。この合戦において二人の兄(信綱と昌輝)が討死。昌幸は二九歳にして真田家を継ぐこととなった。その後は上野の沼田城を攻略し、また信濃上田に新たな城を築き本拠地として構えた。しかし天正一〇(1582)年に主家の武田家が滅亡。そして織田氏、北条氏、そして徳川氏と主家を転々と変えることで真田家の家名を存続させた。天正一四(1586)年には越後の上杉氏に属するが、それに反感を表した徳川家康が軍勢を上田へ侵攻させてきたが、難なくこれを防ぐことに成功(第一次上田城合戦)。危機感を抱いた昌幸はさらに権力を保持した天下人に一番近い豊臣秀吉近づき臣従する。しかし豊臣家と関東の北条家との間での取り決めで、上州沼田城は手放すことになってしまった。さらに天正一七(1589)年、名胡桃城事件が勃発。北条勢が謀略を駆使し名胡桃城を奪ってしまった。これが小田原征伐への引き金となり北条家は滅亡してしまう。昌幸も軍勢を率い鉢形城や八王子城攻めなどに加わる。関ヶ原合戦では石田方に与し、上田城に籠城して徳川秀忠軍を足止めすることで目論見は成功する。しかし肝心な盟主である石田三成軍が敗北してしまう。戦後は嫡男信幸とその舅にあたる本多忠勝の助命工作により、一命は取り留めるが上田城は取り上げられ、紀州九度山へ蟄居の身となった。その後の生活では信州へ戻ること無く、慶長一六(1611)年にこの世を去った。
関連史跡
上田城   □真田本城  


真田 幸隆永正一〇年(1513)〜天正二(1574)年
武将列伝
信濃の豪族であった、海野棟綱の嫡男として生まれ、はじめ小太郎と名乗った。海野氏は同じ信濃の豪族村上氏、諏訪氏そして甲斐の武田信虎によって、信州から追い払われる格好となった。海野棟綱は上野箕輪の長野氏を頼り、信濃への帰参する機会を伺う。しかし息子の小太郎がとった行動は違っていた。そのころ破竹の勢いで、勢力拡大を図りつつあった、甲斐の武田晴信(信玄)に頼ったのである。仇敵であるはずの武田家をあえて頼った幸隆。信玄に仕え、武田家の信濃先方衆となった幸隆は、信濃攻略に力を存分に奮う。さらに真田幸隆の名は、信玄が攻め落とせなかった砥石城を謀略で手に入れた事によって世に広まった。武田信玄の信濃攻略の陰には幸隆の謀略を駆使した功名が見え隠れする。上杉謙信との川中島の合戦にも参陣。信玄の懐刀とも言われた幸隆は、主に奥信濃および西上野の地で活躍する。武田信玄が没するとその後を追うように、翌年この世を去る。幸隆には幸隆の血筋は、その後息子の昌幸から、信之と受け継がれ、それは幕末まで続く事となる。ちなみに真田氏を名乗ったのは、武田信玄に仕え真田の地を治める様になってからであるといわれている。
関連小説
太陽を斬る  
関連史跡
上田城   □真田本城  


佐脇 良之???? 〜 元亀三(1572)年
武将列伝
前田利昌の五男。佐脇家へ養子となる。浮野の合戦では手柄首を上げるが、自らも腕を負傷してしまう。常に織田信長の近くに在り、赤母衣衆の一人でもあった。織田信長が転戦するところ、近くに良之の姿があった。桶狭間の合戦はもちろん、後の伊勢攻めにも参戦。しかしその後織田信長の勘気を被り、織田家を出奔してしまう。身を寄せた先は織田家の隣国である三河であった。徳川家康へ仕官を願い出て許される。しかし元亀三(1572)年、甲斐の武田信玄との三方原の合戦に参戦して、あえなく討ち死に。


宍戸 隆家????〜文禄元(1592)年
武将列伝
安芸の五竜城主。はじめは隣接する吉田の毛利氏との間で、しばしば争いがあった。しかし天文二年、隆家の父の元源が毛利元就と和睦をした。さらにその息女を隆家の妻として迎え入れ、毛利家の一門となった。その後は毛利家の一門として、毛利隆元、吉川元春、そして小早川隆景らと同格という厚遇を得る。毛利氏が陶氏、そして尼子氏を駆逐して中国の覇者となるまで各地を転戦し、数々の軍功をあげた。その果たした役割は、毛利家内において大きいものであった。



柴田 勝家???? 〜 天正一一(1583)年
武将列伝
権六。織田信長の元で北陸方面を任された武将である。しかしはじめは織田信長の実弟であった、織田信行に仕えていた。織田信秀の死後は織田信行を一時期担ぐが、稲生原の合戦で織田信長に敗北し降伏。その後は織田家筆頭として存在感を表す。元亀元(1571)年、近江長光寺城に籠城していた際、城中にある水瓶を全て砕き、城内の兵を鼓舞して攻め寄せる敵軍を撃破した逸話が残っている。織田信長の越前平定後は、越前一国を与えられる。本能寺の変の際は、越中において上杉景勝と対陣中であった。北陸から帰陣した時には、すでに主の敵討ちは終わっていた。また織田家の今後を決定する清洲会議では、主導権を羽柴秀吉に握られてしまう。天正一一(1583)年には、近江の賤ヶ岳において、羽柴秀吉に破れて越前北ノ庄へ退くが包囲され、妻のお市と共に自刃した。
関連小説


島  清興????〜慶長五(1600)年
武将列伝
左近、勝猛といった名の方が、一般的に知られていると思われる。生年は不明だが、大和の筒井家に仕えていた。松倉右近と共に「筒井家の右近左近」といわれ、主君よりかなり信頼された武将であった。その後は羽柴秀長、羽柴秀保と仕えるが、相次いで主君が没すると近江にて隠居。そして佐和山城主の石田三成に召し抱えられた。これより清興は、石田三成の参謀として仕える。清興の名がこの世に不朽のものとしたのが、関ヶ原の合戦であった。決戦前日の杭瀬川の戦いで、東軍の中村隊を撃破して、西軍の士気を大いに高めた。さらに決戦当日では石田隊の前衛に陣取り、黒田長政らの猛攻を、敵よりもはるかに少ない兵で耐え凌いだ。攻撃側の黒田家の家臣は後年、このいくさでの清興の叱咤する声が、いまだに耳から離れないなどと、その時の恐怖を語ってきかせていた逸話が残っている。そんな黒田隊に恐れられた清興であったが、鉄砲に狙われ負傷してしまう。従卒に助けられ治療を施すが、再度黒田隊へ突撃を繰り返す様は、まさに猛将であった。清興はその戦いで落命したと言い伝えられているが、その首は誰も上げていない。
関連小説
関連史跡


島津 忠良 明応元(1492)年〜永禄一一(1568)年
武将列伝
日新斎。島津伊作家の当主。父の善久が死後、母が島津相州家へ嫁いだことにより、伊作家に相州家を合わせた勢力を持つ。両家を合わせた勢力でもって、薩摩国内において他の勢力を圧倒し、その力は守護である島津家をも凌いだ。天文一九(1550)年に嫡男貴久を島津本家へ養子として送り込み、さらには守護職に就かせた。政略はそれだけでなく、娘を長らく敵対関係にあった隣国大隅の肝付氏へ嫁に送り出し、肝付家を組み入れた。それを見届けた後、自らは世加田にて隠居して、貴久の時代となる。忠良は島津家の軍事、政治の基礎を築き、後に「島津家中興の祖」と言われる。


島津 義久 天文二(1533)年〜慶長一六(1611)年
武将列伝
天文二(1533)年に島津貴久の嫡男として生を受ける。父の貴久より家督を譲られたのが、永禄九(1566)年のことである。島津家一六代目の当主となった義久は、薩摩、大隅、そして日向の三国の平定に向けて動き出す。日向の伊東氏を木崎原にてやぶり、大隅の肝付氏も軍門に降り、遂に天正五(1577)年に念願かなって三国統一を果たした。さらにその眼は九州の統一へ向けられる。天正一二年には島原の合戦にて肥前の熊と称された、龍造寺隆信を討ちとり、残す敵は大友氏だけとなった。しかしそれも時間の問題と思われた。しかし大友宗麟が中央を平定していた豊臣秀吉に援軍を請い、それを口実にして九州平定に掛かってきた、秀吉軍の前には太刀打ち出来ずに、秀吉に帰順した。義久は薩摩一国、弟の義弘は大隅一国をそれぞれ安堵されたが、九州統一への野望は夢と消え去ってしまう。文禄四(1596)年には隠居し、慶長一六(1611)年にその生涯を閉じる。


島津 義弘 天文四(1535)年 〜 元和五(1619)年
武将列伝
島津貴久の次男。兄である義久と違い、直接前線にでて兵の指揮に当たっていた。天正五(1577)年には伊東氏を日向から追いやり、天正一三(1585)年には阿蘇氏が軍門にくだり肥後を得る。天正一四(1586)年には大友氏に勝利して、九州のほぼ全域を島津氏が制覇したかに見えた。しかしその前に立ちはだかったのは、九州の大名ではなく、羽柴秀吉であった。はじめは対抗する構えを見せるものの、義弘は勢いに乗る羽柴秀吉と争う不利を悟って降伏。兄の義久が薩摩を安堵されると共に、大隅を安堵されその領地を得る。朝鮮の役には二度共に出兵した義弘は、数々の戦功を上げる事になる。慶長三年の泗川における戦いでは、わずか七〇〇〇の兵で敵兵二〇万の兵を退けさせる活躍を見せた。関ヶ原の合戦では本国からの援兵が無いまま、わずか一五〇〇という少数での参戦となった。はじめは徳川家康方に与するつもりで、伏見城へ入城を試みるが、城番の鳥居元忠に拒否されてしまい、そのまま石田方として関ヶ原へ出向く。しかしいざ合戦が始まっても動く気配はなく、逆にたとえ石田方であろうと陣に近づくものがあれば、鉄砲を撃ちかけたと言われている。勝敗が決した際は、まさに徳川家康本陣をめがけて正面突破を計り、全滅覚悟で伊勢路に退却していった。その壮絶な退却戦は、生存者が百人に満たなかったという。義弘は本国の薩摩へ生還後、桜島で蟄居していたが、本多正信等の助力によって助命される。
関連小説
島津奔る  


菅沼 定村 大永元(1521)年〜弘治二(1556)
武将列伝
新八郎。織部正。菅沼定則の長男。天文一三(1544)年、父である定則が隠居したことで、野田菅沼家の家督を継ぐ。弘治二年、今川家に不満を募らせ、菅沼家の本家である田峰菅沼家および、奥平貞勝が離反。これらを討滅するため、東三河の諸侯が連合した。これに加わった定村は、奥平家に与していた額田郡雨宮城を攻めるが、流れ矢に喉元を射貫かれて絶命。ちなみにこの戦では定貴や定満などの弟も、討ち死にしたと言われている。遺骸は能満寺に葬られ、のちに道雲寺と改名された。
関連小説


菅沼 定則 ????〜天文一六(1547)年
武将列伝
幼名竹千代。新八郎。織部正。出家して不春。定忠の三男。永正二(1505)年、設楽郡の富永家へ田峰家より菅沼姓のまま後嗣となった。富永家の館から新しく築城し始めた野田城へ居を構え、野田菅沼氏の礎を築く。永正年間では度々、駿河今川氏親の軍勢が三河へ進撃してきており、定則はそれに加勢していた。また享禄年間に入ると岡崎に居を構えた松平清康に従う。ちなみに嫡男定村(さだすえ)の嫁は深溝松平氏の娘であり、松平家と深い関係を築こうとした定則が伺える。清康が守山で非業の死を遂げると、新しく今川家へ帰属した。天文一〇(1541)年には、医王寺において不春居士となり、同一三(1544)年には家督を定村に譲り隠居した。なお連歌師の宗牧が定則を訪ね、歓迎を受けたと記録に残されている。
関連小説


菅沼 定盈 天文一一(1542)年〜慶長九(1604)年
武将列伝
新八郎。織部正。菅沼定村の長男。弘治二(1556)年、父の定村が雨山城攻めにおいて討ち死にしたことで家督を継いだ。今川方に属していた菅沼家を存続させていたが、永禄三年の桶狭間において今川義元が敗死すると、松平家に仕えた。その直後の永禄四(1561)年、今川氏真は菅沼氏の居城である野田城へ兵を向け、兵力に劣る定盈は降伏して城を退き、隣地であり親戚でもある西郷家に身を寄せた。翌年、野田城を夜襲して城代である稲垣半六郎を討ち奪還に成功。この頃に野田城の大改修が決行された。これ以後は松平から徳川と姓を改めた家康に指揮下で遠江への侵攻に助力して、井伊谷の菅沼忠久を調略して味方に引き入れ、さらに刑部城攻めなどで功を挙げる。
関連小説


鈴木 重秀 ????〜????
武将列伝
孫一。鈴木佐大夫の子。紀州雑賀衆の出身で、雑賀群平井村を本拠としていた。雑賀の地は鉄砲が伝来してから短い期間で製造をはじめ,そしてを量産をおこなっていた。鉄砲の生産においては国内で,近江の国友や堺と並び屈指の地である。他国に先駆けて鉄砲隊を組織するなど,鉄砲に通じる熟練者も多い。また鉄砲隊を組織した軍兵は,各地を巡る傭兵をして大名家と契約をして陣借りしていた。重秀はそれら一隊を指揮する立場であったという。元亀年間、そして天正年間は本願寺勢力に加勢し,中央に覇を唱えだした織田信長と敵対している。天正一二(1584)年以降は豊臣秀吉に仕えた。重秀の扱う砲術は天下一品であり,その力量を認められて鉄砲隊の一部を率いた。ちなみに鈴木家の定紋は八咫烏である。




鈴木 重則 ????〜天正一七(1589)年
武将列伝
主水。真田家臣。上野名胡桃城主。天正一七(1589)年、北条氏政の謀略により城を留守にした隙をつかれ、そして名胡桃城を北条氏の手勢に城を乗っ取られてしまう。その責任を追って重則は,上野沼田の正覚寺において,自刃してその生涯を閉じた。名胡桃城が北条方の手勢に渡ったことにより、豊臣秀吉による小田原攻めが決断され,そして実行に移された。ちなみに重則の嫡男右近は,真田信幸(信之)に松代へ移るまで仕え,そして殉死した。
関連史跡
沼田城