■上田城小史
天正一一(1583)年に真田昌幸によって築城。同一三(1585)年、徳川家康は沼田城の引き渡し命令に背いた真田昌幸に対し、兵7000余りを上田城へ仕向けた。しかし昌幸は二人の息子をはじめとする真田兵2000でもって籠城。戦術を駆使して徳川の兵を撃退。慶長五(1600)年、会津征伐に向かっていた軍勢から昌幸は次男信繁を連れて離脱。石田方に与して上田城へ籠城した。中山道を進軍してくる徳川秀忠率いる東軍の軍勢に対し、巧妙な戦術を駆使して戦い、返り討ちとした。この結果、徳川秀忠が率いる軍勢は上方への到着が遅延し、関ヶ原の合戦に間に合わなかった。なお、この軍勢の中には昌幸長男の信幸が沼田真田家として加わっていた。慶長六(1601)年、関ヶ原の戦後処理により、上田城は昌幸の手を離れて、その長男である信幸に引き継がれた。しかし元和八(1622)年、真田信之は松代へ国替えとなり、小諸城主であった千石忠政が新たな上田城主となり。幕末まで上田城は存続するが、明治七(1874)年に廃城となった。