こまどり広場



オークションブースへ

小さな気付き 其の弐


2016年1月〜2016年12月

「神様仏様」
どうにか2016年を無事に迎えることができました。
ひとえに皆様のおかげと思っています。
ありがとうございます。

毎年、年始の文章は初詣のことを書いていたような気がしていますので
今年は少しだけ深く
私の考える神様仏様について書こうと思っています。

基本的には自分は神も仏も信じてはいないと思っているのですが
初詣には神社へお参りに行きますし
通りすがりの道に神社があればお参りします。
お地蔵様があればお祈りしますし、
毎朝仏壇にお題目を唱えています。
と言うわけで
信心深い方にとっては、不快に思われるかもしれませんが
また神仏に対して私は間違った解釈をしているのかもしれませんが
最初から言い訳をして、深くお詫びしておきます。

まず神様と仏様の最も大きな違いは
神様は信じている人を救い
仏様は信じていない人も救わなくてはいけない。
と言う事だと思っています。
ということで
神様は人間にとって意味が分かりやすく、
人間の琴線に響く言葉で私たちを導いてくれます。
ところがちっぽけな人間においては
神様に自分の生き方を頼ってしまったり
あるいは信仰心では乗り越えられない深い悲しみや苦しみに
その身をさらしてしまうことがあります。

ところが仏様のお言葉はとても難しい。
努力して読もうとしても全て屁理屈に思えてしまいます。
それは仏様の高次元の立場からの言葉で
仏様の悟りの深いところは、人間の(少なくとも私の)
思考を越えてしまっているからだと思います。
ただ、仏様は容赦なく、人間自身の力で
人間の次元を上げる努力を求めています。
それが煩悩の解脱だと思うのですが
人間なかなか煩悩を手放すことはできません。
私などは、むしろ自分に生じる煩悩が愛おしいと思う時さえあります。

だから私はこう思っています。
煩悩に通じる祈りは神様に
悲しみや苦しみを乗り越えるためには仏様に
頼りながら
全体的には無神論者の独立した人間として
生きていきたい。

とりあえず今年の初詣は
いつもの通り、柳森神社では商売繁盛を
太田姫神社では自分と家族の健康を
築土神社では勝負があったときは勝てるように
お祈りしてきました。
(神田明神と靖国神社はとても混んでいたので
 遠くからご挨拶だけで済ましました。)

ということで
八百万の神々を否定することなしに
仏教を広めた古代朝廷から
現代にいたるまで、その文化を継続した日本に
感謝をしつつ
日本人に生まれた喜びをかみしめて
お正月を迎えることができました。
本当にありがとうございました。



「般若心経」
去年の棚卸をしている時に
般若心経の解説本が出てきました。
前回、このコーナーで
仏様の言葉は屁理屈に聞こえるなどと
罰当たりなことを言ったのも
この本を読んだ影響と思っています。

般若心経と言えば
「色即是空、空即是色」と言う言葉で有名なお経ですが
まあ、その部分からでも
私のような普通の人間にとっては
屁理屈と言っても致し方ないと
言い逃れを言っておきます。

般若心経は正確に言うと
「般若波羅蜜多心経」と言います。
般若と言うのは智慧という意味だそうです。
波羅蜜多と言うのは彼岸にいたるという意味だそうです。
彼岸と言うのは仏様の立たれている位置ですから
(彼岸の反対語は娑婆なのだそうです。)

般若心経とは、
「仏様の立ち位置まで至る人間としての物の考え方」
を伝える恐ろしいほどありがたいお経なのです。

このお経では
「照見五蘊皆空 度一切苦厄」なのだそうです。
この一節が般若心経の結果であり
彼岸にいたる状態と言って良いのかもしれません。
五蘊とはこの世の中を構成する5つの要素「色受想行識」を指し
「色受想行識」をすべて空と照見して
一切の苦厄から解放されるのだそうです。

さて般若心経の解説本では「色受想行識」を哲学的用語にとらえて
とても分かりにくく解釈しているのですが
むしろ、文字面(づら)をそのままとらえた方が
私にとってはわかりやすく感じます。

「色」はいろです。
人間の目に入ったすべての形と色彩と言ってよいのかもしれません。
その形や色彩はいったんメモリーで受け止め整理されます。
いわゆる「受」です。
整理された情報は脳の中で想像して判断します。
これが「想」です。
その判断に伴い行動を起こします。
これが「行」です。
そしてそれを知識として記憶します。
それが「識」です。

私のような電子技術出身の人間にとって
それはセンサーやスイッチ、キーボードなどで入力された電気信号が
フラッシュメモリーで整理されて、CPUで判断し
モーターを動かしたり、モニターを表示したりして
必要があれば記憶メモリーに情報を蓄えるという
一般的な電子システムとリンクします。
だから文字面(づら)でイメージしてしまうのかもしれません。

お釈迦様の考えを観音様が懸命に翻訳している時代に
電子機器のシステムがしっくりリンクするというのは
彼岸の岸の思考と言うのは、何ともすごいものだと
感嘆する以外有りません。

だから娑婆に生きている我々にとって
般若心経の屁理屈にしか考えられない思考論理も
一概に屁理屈と言う事で
思考を止めてしまったはいけないのかもしれません。

そのとんでもない論理展開は
まず、色は空と言えないことはない。だから色は空だ。
色が空だから「受想行識」も空だ。
空は無だ。無だから苦しくなく、厄も無い。
故に彼岸の智慧は完成する。
となるのです。
もし、このような論理を仕事上で展開したら
上司から殺されること間違えないと思います。
ところがこの論理展開は
観音様が彼岸の岸に立っておっしゃっているわけですから
娑婆にいる人間が否定することは間違っているはずです。
観音様は菩薩ですので
我々人間より次元の高い位置で語っているのです。
次元の高い論理は、次元の低い世界では理解することは困難です。
極めて数学的に言えば
線とか面の世界から点の説明をすることは簡単ですが
点の世界から点を定義するのは難しい事ですし
ましてや、点の世界から線や面を理解することは
極めて不可能に近いと言えます。
その考え方から言うと
次元が高いから偉いわけではなく、
次元が低いから卑下する必要のないと言う事です。
そんな風に考えると
地獄と天国とどちらも次元の問題であり
地獄は人間が理解できるから恐ろしく
天国は人間が理解することが困難だから憧れている
それだけなのかもしれません。

話がずれてきてしまったので元に戻します。
この論理から言う彼岸の智慧は
捻くれた目で見ると自殺の勧めとも思えます。
現に仏教では即身仏と言うものもありますし
死と向い合った苦行の修行があるとも聞いています。
ただ、人間として死が正しいわけがない!
だから
「色即是空」であると同時に「空即是色」なのかもしれません。
空だから苦しくないのであって、色ならば苦しいのです。

例えば、自分に何もなくて苦しんでいる人がいるとします。
だけど本当に空っぽならば苦しいわけがないのです。
だから次の一歩を進まなくてはいけません。
進むと更なる苦しみに襲われます。
進めば進むほど苦しみは深くなるはずです。
でも、その苦しみを極めた先は
全く苦しみの無い世界だと言っているような気がします。
またその逆で全く苦しみの無い状態にいても
その苦しみの無い状態を認識してしまったら
苦しみが押し寄せてくるのかもしれません。
無神仏論者であり、あくまでも娑婆の人間でありたい私にとって
般若心経の理解はこの程度が限界のようです。
ずいぶん勝手な解釈だとおしかりを受けるかもしれませんが、
仏教では方便と言う考えがありますから
あまりに次元の高い世界には
そこそこの自己流の解釈が入ってしまう事
お許しください。

結局何が言いたいかと言うと
もう春だし、もう少し暖かくなったら
秩父のお札所などをまわってこような…と言う
ただ、それだけのことです。



「杓子定規」
2016年3月1日、最高裁で
JR東海が認知症老人が起こした事故で
家族に損害賠償を求めた懸案に対して
無罪の判断をしました。
1審で家族に責任を負わせる判断がされた事案だったので
母と一緒に暮らす私にとっては、他人ごとではなかったので
一安心しました。
しかし法律と言うのは恐ろしいものです。
どうも、責任能力のない人間が事故を起こした場合
法律上その責任は管理者に追わせることができるようです。
今回の事例は、家族がそこそこの介護しかしていなかったので
最高裁は管理者ではないから無罪と判断したようです。
これは家族がしっかりとした管理をしていたら
管理者にあたる可能性があることを残した判決となっています。
少し極端なことを言えば
家族が目を離した隙に子供が道路に飛び出して
自動車がその子供をひいてしまっても
自動車に何の過失もない場合
運転手は親に自動車の修理の請求ができると言う事です。
おそらく自動車の場合は、保険処理のシステムが成熟しているので
ひいてしまった運転手が
そのような悪魔の所業をすることは無いと思いますが
JR東海は認知症老人をひき殺しておきながら
堂々と訴訟を起こしているのですから
面の皮が厚いというか度胸が良いというか
大した大企業です。
更に怖いのは、その訴訟が法律の判断の境目にあると言う事です。
法律に人情とか優しさとか人の心とかは
入る要素が無いのかもしれません。

以前、最高裁が
公園の枝が強風で折れて人に怪我をさせた事案で
公園の管理者に責任を負わせた判決をしたことがあります。
それによって世の中は公園の過剰管理へと向かいました。
写真を趣味にしている自分にとっては
今まで撮影していた場所に行けなくなったりして
不快に思ったことを思い出しました。
ジャングルジムが公園から無くなったのはちょうどその頃です。
最高裁の判断と言うのは
今まで正しいと思っていた世界を
法律というルールの範囲で
簡単に否定できるものだと思います。

そう言われてみれば
選挙区の区割りが1票の格差と言う事で
現状が憲法違反だと最高裁が判断しています。
マスコミもよってたかって政府批判をしますが
1票の格差をなくせば
都市に大量の代議士が生まれ
地方の代議士がいなくなると言う事です。
まぁ、現状の代議士の資質を考えると
それほど大きな問題ではないのかもしれませんが
本当に1票の格差を憲法の趣旨に則って
公平にすることが正しいのかどうかは
ちゃんと考えなくてはいけないのかもしれません。

こんな風に捻くれた考えを持ってしまったきっかけは
たぶん夫婦別姓のこの前の最高裁の判断が
影響していると思っています。
愛し合って結婚すると男女どちらかの苗字に変えなくていけないことは
変えた方の人間は自分のアイデンティティーが侵害されることになり
憲法に違反するのではないかいう訴えだったと思います。
そして、その最高裁の判断は、その時情勢の鑑みて
現在は憲法違反ではないと判断されたようです。
私はその憲法判断を当然と思っているのですが
最高裁の裁判官のうち
女性の裁判官の全てが違憲と判断したそうです。

私が夫婦別姓になると困る理由は3つあります。
一つは私がどうも一生結婚できそうもないダメ人間であるからです。
結婚をすると言う事は
愛し合ってる男女が一緒になることではありません。
結婚しなくても
愛し合ってる男女が一緒になる権利は認められているはずです。
結婚をすると言う事は
全く新しい戸籍のページを作ると言う事です。
そしてそれが社会の一つの新しい単位となるわけです。
前にも書いたと思いますが
結婚は未婚から明らかに次元が高くなるのです。
それが、夫婦別姓になると
結婚しなくても愛し合ってる男女との差があまりなくなり
結婚の重さ、戸籍の重さが極めて低くなります。
現在私が結婚できない理由の一つとして
結婚に伴う責任の重さのせいにしていますが
もし夫婦別姓になったら
ダメ人間の上に
能力の低い社会不適格者のレッテルも貼られるような気がします。
できれば現状維持であってほしいという
全く個人的理由からです。

一つは極端な例ですが
皇室がお妃を迎えるとき、お妃になる女性が夫婦別姓を唱えたら
皇室は国民の象徴ですから
憲法上夫婦別姓が認められれば
それを受け入れなくてはならなくなります。
私個人としては、それはかなり受け入れられない状態です。
皇室に、こうあってほしくないと言う事を
普通の国民のアイデンティティーを守るために
夫婦別姓を認めると言う事は
私個人の考えとしては許されない事と思っています。

一つは社会、文化、宗教に対する影響です。
夫婦同姓は確かに封建制度の家に対する考え方を引きずっています。
しかしその文化を受け継ぎながら現代に至っているわけです。
法律や世の中の約束事に疎い私のような人間でも
夫婦別姓を許す世界になった場合
現在の戸籍制度、お墓の名前、税金の対象、教育など
幅広い世界で全く新しいルール作りが必要になる事がわかります。
井戸端会議で
「隣の佐藤さんちの田中さん」なんて会話は
気持ち悪くてしょうがありません。
もし、夫婦同姓が女性蔑視につながるというのなら
憲法解釈を利用するのではなく
戸籍筆頭者を女性にする運動をするのが筋だと思います。
とりあえず、次の衆議院選挙の時
女性の最高裁判官には、ばつを付けたくなっている私がいます。

長々と文章を書いてきましたが
司法の批判内容と思われても仕方ないと思います。
でも少し違います。

法律には必ず灰色の部分があります。
自分が商売をするにあたって
自分の商売に関する法律について調べるのですが、
常に灰色の部分にぶち当たります。
そして、もしかしたら法律を破っている可能性があるのに
その行為を行う必要が生じてしまいます。
また、明らかな法律違反の行為が
いつの間にか、管轄省庁の判断で合法になった場合もありました。
実際何かを行う時、それに関わる法律と言うものが必ずあります。
その際、その全ての法律を理解することは不可能に近いと思います。
その時、法律の灰色の必要性を感じてしまうのです。
灰色の部分があるから次の一歩を踏み出せるわけで
逆にすべての法律に白黒がはっきりしていたら
法律自体が、矛盾に、はまってしまうのかもしれません。

それに対して司法は灰色の問題に白黒を付けなくてはいけません。
「杓子定規」と言う言葉がありますが、
けして良い意味には使われません。
しかし司法は「杓子定規」で判断しなくてはいけないのです。
けして、人情や正義感、文化、宗教などに
影響を受けてはいけないのです。
だから私は、司法が暇になる世界が理想だと思います。

最近マスコミは聴視者に白黒を求める傾向があります。
更にマスコミ自身が白黒を勝手に判断する傾向にあります。
理由は簡単に推察できます。ただ面白いからです。
彼らは司法と違い、自らの責任を負いません。
自分は充分フィルターをかけてマスコミと付き合ってるつもりですが
それでも影響を受けていることがあり、自己嫌悪に陥ってしまいます。
私たちは灰色の部分を当事者の都合で
解決していかなくてはいけないのかもしれません。
それが他人の目から見て灰色でも、
当事者が納得できれば、それで良いのかも知れません。
杓子定規の世界よりは灰色の世界の方が住み易そうです。

結局何が言いたいかと言えば
どのような結末を迎えようとも、私はSMAPを肯定します。



「春の訪れ」
天気予報ではもうコートがいらないと言っていました。
桜の開花宣言から少し寒気の影響を受けましたが
いよいよ春本番と言ったところでしょうか
鼻とか瞳は花粉の影響を受けてぐずぐずですが
少しだけ気分が高揚している自分がいます。

家の近くの竪川と言う川にも
冬眠から目を覚ました亀たちが泳ぎ始め
鯉が産卵のため少しづつですが遡上しています。
桜の花もこのメールが届くには
満開になるのだろうと思っています。

常緑の植木には先端に赤みを帯びた新芽が
落葉の植木には固い蕾がみるみる膨らみ開こうとしています。
猫の額ほどの芝の植えた場所からは
何処から来たのか菫の花が咲きました。

どうも寒さからの解放が人間だけではなく
全ての動植物に生気を与えてくれる季節が春のようです。

日本は一神教ではないので
人の関わりを持つ全ての事象に神様がいます。
春の神様は佐保姫と言われる女神様のようです。
大昔、平城京の東にある佐保山に
春になると優しく繊細な絹のような春霞を覆う事から
女神として信仰されていたようです。
その女神が満面の笑みを浮かべ
絹のような霞の裾をひるがえしながら
春の訪れとともに私たちの街に来てくれることを想像すると
心がうきうきしてしまうのは
仕方がない事なのかもしれません。

今年は千代田区のさくら祭りで
神保町の古本をあさった帰りにでも
東京駅限定の文明堂の
桜あんこのどら焼きでも買ってこようかと思っています。



「土地の境界杭」
下を向いて街を歩いていると
家と家と道の境界にコンクリートの杭が刺さっています。
都市計画における区画整理において
その境を示す目印として打たれている杭です。
要は土地の持ち主においてはその境界を表す杭になるわけです。
その杭を目印として塀が作られるわけです。

杭と塀の関係も様々です。
杭の中心と塀の中心が一致している塀ができている場合
たぶん、隣同士話し合いで
公平で平和的に塀を作ったと想像できます。
大体がこのタイプなのですが
たまに杭の中心に沿って、塀のつら面がきている場合があります。
これは、たぶん
塀を作った人が隣に交渉をしたけれど
隣が自分の土地に塀を作ることを許さなかったか
あるいは隣と連絡を取ることができなかったため
渋々、隣の土地にかからないように自分の土地内に塀を作った
なんて、想像することができます。
たいてい、そう言う塀の隣はちゃっかり、その塀を利用しています。

こんな風に、見知らぬ道を歩いても
勝手に想像、妄想しながら歩いているのは
意外に楽しいものです。
まあ、悪趣味と言う批判は受けなくてはいけないでしょうが…

実は、その境界杭と言うものは
区画整理が終わった段階で、何の意味もないものとなります。
これは、この前初めて知った衝撃の事実です。

杭は区画整理が終わった段階で、
誰のものでもなく、誰も管理しなくなります。
お役所は整理した区画を点で管理していますが
杭の管理をしているわけではないのです。
そのため、お隣さん同士の了解があれば
その杭を抜こうが、退かそうが、位置を変えようが勝手なのです。

我が家の境界杭はほとんど、区画整理時にお役所が打った杭です。
ただ1カ所だけ、お隣さん所有の境界杭があることを
つい最近知りました。
背景は父が亡くなったのでわからないのですが、
それきっかけで調べて、市が杭を管理していないことを知ったのです。

よくよく考えてみれば、お役人が杭を管理できないのは
当たり前のことかもしれません。
お役人はその区画を点と点で管理していればよいのであって
杭と言う物質で何百年も管理することは困難です。
ましてや、お隣同士の土地の争いごとに
杭なんてもので管理していたら、
めんどくさいことになる事は目に見えています。

もしかしたら、この世の中
境界杭のように、まったく意味の無いものに
管理され、支配されていることがあるのかもしれません。
でも、たぶん、よっぽどのきっかけが無い限り
そんなことを気が付くことはできないのかもしれません。
なぜなら意味は無いけど間違ってはいないからです。

さて、個人所有の境界杭というのは
どのような責任を負わなくてはいけないのかは不明ですけど
共有物にしなかった父の判断に深く感謝をしている現在です。



「真贋の難しさ」
この前、ニッパー
(日本ビクターなどの企業のトレードマークとして知られる犬)
の陶器製の人形が安く売っていたので購入しようとしたら
お店の方が偽物の人形であることを教えてもらいました。
なるほどよくよく見れば顔だちも違うし、作りも安っぽいものでしたが
最初は偽物であることを考えてもいませんでした。

当店、古物の商売をしていますが、実力はそんなものです。
だから、当店ではそこそこサイン本を出品していますが
よく質問でサインの真贋を尋ねられます。
その時には定形の言葉があります。
「当店では本物と判断していますが、その真贋は保証できません。」
恥ずかしい話ですが、それが真実だから仕方ありません。

それでも、10年近くこの商売をしてきたので
絶対的な偽物には、なんとなくわかるようになってきました。
何となくはわかるのですが
それを絶対的な贋作と判断することはできません。

例えば、筆跡や字体が異なるサインがあったとして
偽物と断言することができません。
サインをしたときの環境、筆記具、その際の作家の感情によって
定形のサインをするという保証が無いからです。
また日付が入り、それが作者没年の後の日付でも
周辺のスタッフ、マネージャー、親族などが
代筆として書いたサインの可能性があり、偽物とは言えない。
本人が書いていなくても、本物のサインはあるのです。
端的に言えば、サインの真贋を判断できる古物商など
ほとんどいないと思って良いと思います。

それでは、古物商は何を持って真贋を判断するかと言うと
仕入れ先が信頼できるかどうかです。
一般的な、優れた古物商は
信頼できるいくつかの商品を売ってくれるお客を持っているようです。
私はと言うと、ほとんど背取りで商品を調達している為
信頼できる古書店、書店、お客をだますはずの無いお店
などで仕入れることで、真贋を保っているというわけです。
だから、できれば、当店の真贋は信用できないが・・・
こまどり屋は信用できる。と言うような古物商になりたいものです。

本来ここに商売のことは書かないつもりでいましたが
つい書いてしまいました。
実は、つい最近、人間の真贋と言うのはなんだろうなどと
考えてしまいました。
簡単に言えば、どんな悪人でも人間であることには変わりがないし
どんな嘘つきでも、人間であることには変わりがないわけです。
簡単に言えば、人間には真贋は無いわけです。
ただ、人間には枠があり、その枠に真贋があるわけです。
端的に言えば
崇高な人間の枠を持ちながら、せこくみじめな人間性を持っていたら
たぶんその人は人間の贋作なのだと思います。
いわゆる、現東京都知事のお話でした。



「都知事辞職の一考察」」
都知事は2016年6月15日に辞職を決意して
6月21日に辞職をしてしまいました。
世の中は知事の不手際の真贋がはっきりしないことから
漠然とした不信感を抱いています。
あるテレビ局の報道部署は
都知事辞職の件を
政治資金規正法がザル法であるから
法律を変えて、ザルの穴を埋めろと言うキャンペーンを張っています。
しかし私は
ここまで、政治資金規正法が適正に利用され
ここまで、残酷な罰を与えている事例は無いと思っています。
まぁ、いくら東京が好きとはいえ、私は埼玉県人ですので
対岸の火事を見ている野次馬であることに変わりないのですが、
ひねくれ者の戯言として、今回はこの話題を考えてみました。

2年程度前、この都知事が選挙で選ばれた時
私の東京の友人や知人は
軽い不安を持っていました。
その知事は、評論家としてテレビで活躍して
大臣として業務を行っている姿がマスコミに写っているのですが
要領よく仕事をして、
他に同調しないで自分の理を語るのがうまいだけで
人間性のレベルの低さは、テレビの画面上から
見え隠れしていたものを私も友人も感じていたからです。
私の友人の範囲でもそうだったのですから
都知事を選んだ都民もうっすらとは気が付いていたのだと思います。

今回の出来事で、私は都知事が都知事を辞めなくてはいけないような
大きな犯罪は起こしていないのだと思います。
結局辞めさせられた原因は大きく分けて
1.高額の海外視察
2.公用車で別荘に行ったこと
3.美術品をネットオークションで政治資金を利用して買ったこと
4..温泉での家族サービスを政治資金で行ったこと
5.自分の雇った弁護士を「第三者」にしたこと
の5つだと思うのですが
どれも取るに足らないようなことです。
たぶん、これらの都知事の行った行為が
辞任にまでつながる行為とは思えません。

1の海外視察については高額な都知事の視察費用より
その費用を認める都政のシステムに問題があると思います。
都知事の要望を受けても、その要望を叶えながら
できるだけスリムな予算で処理できる能力やシステムが
都政には必要なものだと思うからです。
ただ、都知事はその問題で余計なひと言を言っています。
たしか「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか?」
と言った内容だと思います。
普通の金額で宿泊できるホテルは
全て二流のビジネスホテルなのかという
まさに貧民に対する王女の名言
「ケーキやお菓子を食べればよいのに…」に匹敵します。

2の公用車で別荘に行ったことも
安全や警備の上では仕方がない事なのかもしれないと思っています。
むしろ、警備上、神奈川県警と警視庁がどのようにかかわったのか
と言う事の方が興味があります。
近い将来「相棒」でネタにされるような気がします。
しかし、ここでも彼は余計なひと言を言っています。
「週に1度くらいは(別荘の)広い風呂で脚を伸ばしたい」
と言った内容だと思います。
たぶん我々庶民の「お風呂で脚を伸ばしたい」の感覚は
1m位の長さのお風呂をイメージしますが
都知事様の別荘のお風呂は、いったいどれくらいの大きさなのだろうかと
勘ぐってしまいます。

3の美術品は政治家をできなくなってから
とてもめんどくさい事態に陥る可能性があります。
ここまでマスコミで大きく報道されたら
とりあえず政治家を辞めた段階で、政治資金で買った美術品は
個人所有が難しいでしょう。
かといって、ネットオークションで購入した美術品は
どこかで、真贋の判定を受ける必要性があります。
それに、正確に自分の買った美術品と
政治資金で買った美術品を分けて
政治資金で買った美術品には、いつ、どこで、誰から、いくらで買ったか
データバンク化をしなくてはいけません。
今から行うにはとてもめんどくさい作業です。
マスコミがこれだけ騒いで、そのデータベースが出てこないのは
現時点ではデータベース化されていないんだろうなと感じます。
これは多分、政治資金で買った美術品を政治利用するつもりが無く
最後は自分の所有物にしようと思っていたものと疑ってしまします。
どっちにしても、都知事が政治家を辞めた段階で
美術品を自分のものにするのは
マスコミの環視の中とても難しいと感じます。
それで、
世の中に発表したら贋作だらけなんてこともあるかもしれません。
どこかの美術館で
「都知事政治資金収集美術展」なんてものがあったら
ぜひとも覗いてみたいものです。

4は都知事は千葉のリゾートホテルで会議をしたと言っていますが。
それは誰がどう考えても家族サービスだと判断するでしょう。
できる限り都知事の言葉を信じるとしても
遊びに行ったついでに会議をしたと思うのが妥当でしょう。
なかなか予約の取れない人気リゾートホテルですから
どのくらい前に予約したのか、権威を利用したのか
私はそちらの方が興味があります。

結局、都知事は謝るのが嫌だったんだと思います。
レベルの低い人間が、権力を持った時によくおこる現象です。
絶対にない事ですが
もし私が都知事クラスの権力を持てたなら
小物の私としては、似たような対応を取ってしまう可能性が
そこそこあるのではないかと自覚します。
だから今回の都知事の犯罪性の低い、セコイ行動が
自分の不快な部分とリンクしてしまい、
都知事を不快に感じてしまうのだと思います。

社会人になって、交通費や宿泊費を少し多めに請求したり
鉄道をキセルで乗ったり、落ちていたお金を拾って自分の物にしたり
そんなものがばれた時に
最初に謝ればよいものを
ごまかしたり、嘘をついたりして、更にややっこしい事となるのを
よく見たり、聞いたりします。
私も子供の時、嘘の為に嘘をついた経験があり
子供だったから許してもらった記憶があります。
今回の事象はこれに近いものではないでしょうか?

最悪だったのは5の「第三者」です。
都知事はどうして「第三者に判断をゆだねる。」と言って
弁護士に頼んだのだろうと不思議に思います。
都知事とは、とても権力のある方なので
警察に自首すると仮定しても
警察ですら「第三者」の立場に立てるかどうかは不明です。
たぶん、都知事ぐらい偉い人になったら
この場合、
検察以外に第三者と呼べる組織は無いのではないでしょうか?
結局「第三者」の弁護士は
「第三者」を前面に出してきたので都知事を助けることができず
「第三者」風の判断しかできなかったのではないかと思います。
それによって、都知事の行為の大半が
「合法だけど不適当」と判断されてしまい、
その不適当な行為によって都民も国民も
都知事やめるべきと思ったのではないでしょうか?

そこで残酷なのは
政治資金規正法では都知事を罪に罰せない事です。
今の状態は
都知事は罪で辞めさせられたのではなく
都知事の人間性を
都民や国民から否定されたことで辞めていくのです。
罪ならば償えますが、
人間性をいったん否定されれば、その評価は永遠です。
最後に議会で
「一都民としてオリンピックを応援する。」
と言うようなことを言っていたような気がしますが、
都民に人間性を否定された人間が、普通に都民として暮らせるものか
とても不思議に感じます。
「別荘を売る。」なんてことを言っていたような気がしますが、
むしろ別荘に隠れて、東京の自宅を売った方が良いのかもしれません。

政治資金規正法はザル法のようです。
どうせザルなのだから、正直にザルに身をゆだねればよかったのに
自らザルから落ちないようにあがいて、
落ちてはいけないところに落ちてしまった。
そんな最悪な状態のような気がします。

長々と都知事について書いてきましたが
まぁ、突っ込みどころ満載の事案だったのでご勘弁ください。

あくまでも私の個人的な一方的な考え方です。
誰が新しい都知事になるかはわかりませんが
東京都が幸せであることは、埼玉県が幸せであることです。
東京都に良い知事が生まれること心より祈っています。

ちなみに、埼玉県の知事は自ら任期の期限を設定して
その任期が来たら、更に知事を続けるため任期延長の法律を作り
それを埼玉県民は認めて知事に投票をするという
何とものんきで、ダサい県民性を持っています。
この文章に対して、埼玉県民のくせにと言うご批判は
受けざろうえないと思います。



「夏の訪れ」
夏は「筒姫」と言う女神様が治めている世界だそうです。
平城京の南に「筒山」と言う山があって
そこの女神様だというのが定説のようです。
でも、実際平城京は3方を山に囲まれていますが
南側に目立った山は無く
あるのは、前の都である飛鳥地域です。

「筒」という言葉は、奈良時代井戸を意味する言葉というのを
何かで聞いたことがあります。
私個人としては
夏の女神「筒姫様」は井戸の神様ではなかったのかと思っています。

アイヌの文化圏では
人に利益を与える道具や現象には、それぞれ神様がいるようです。
だから、アイヌの人たちは、全ての神様に感謝の心を持って
生活をしていたというのを聞いたことがあります。
だから私は、もし平城京の時代に
平城京で、井戸を夏の神様として讃えていたのなら
アイヌの人も平城京の人も
同じような宗教観を持っていたのではないかと想像します。
そんなことを考えると
何となくですが、日本人に生まれてよかったと感じてしまいます。
でもそれは現代人が持つファンタジーなのかもしれません。

扇風機もクーラーもない世界での夏は
命がけの季節だったはずです。
平城京の時代では
井戸そのものが、人間の命に直接かかわる
貴重な場所だったのかもしれません。
そのような場所を神聖化することは
さほど不思議なことではないのかもしれません。

現代でこそ、井戸は水道に変わり
古井戸は利用されず、澱んだ水を溜めるだけとなり
幽霊とか恐怖の対象となっていますが
もし「筒姫様」が井戸の神様であるならば
人にとっては本当にかけがえのない女神様だったに違いありません。

だからもし、現代に「筒姫様」がいらっしゃったら
浄水場の淵にチョコンとたたずんでいるかもしれません。
もっと個人的に関わってくださる女神様なら
水道の蛇口にいらっしゃるかもしれません。
ビアガーデンのビールサーバや
街の片隅のジュースの自動販売機にも
いらっしゃるかもしれません。

灼熱の太陽が輝くこの季節
砂漠のような喉に飲み物を補給するとき
そばに「筒姫様」を感じることができたら
辛い夏も幸せなのかもしれないと思っています。



「オリンピックの年」
今年はブラジルのリオでオリンピックが始まりました。
日本はとても頑張って
たくさんのメダルを獲得しています。
マスコミはかなりの確率でオリンピックの様子を描き
スポーツの素晴らしさを表現しています。
でも実は私はスポーツを見るのが少し苦手なようです。

テレビで銅メダルを取った選手に女子アナが
「あなたにとって足りないものは何ですか?」
と言う質問をしていました。
それはかなり残酷な質問です。
メダリストは1番ではないにしても
全てを犠牲にしてでも、自分の不足している能力を補うために
修羅の努力をしているに違いありません。
その質問に対して
選手はアナウンサーが困らないような回答を行い
解説者はあたふたと選手の努力を訴えていました。
ひどい女子アナですが
私は彼女を非難することができません。

彼女ほどひどい人間ではないにしても
私がスポーツ観戦すると
どうしても身贔屓になってしまいます。
そして応援する選手が結果を出さないと
相手やルールに対して怒りを持ってしまいます。
そしてその後に
深い自己嫌悪に陥ってしまいます。
だからどんどんとスポーツ観戦が苦手になってきたのです。

体操男子個人総合でのメダリストインタビューの時
最後の逆転で日本人が金メダルを取ったのですが
外国の記者から「審判の同情を買ったのでは?」と質問があり
選手全員でジャッジの公正さをアピールしたくだりがありました。
たぶん、日本中がその記者に怒りを感じたと思います。
でも、もし自分が逆の立場だったら
その記者に拍手をしていたのかもしれません。
スポーツの観覧にとってどうも自分は公正ではいられないようです。
だからできるだけ深くスポーツを見ないで
結果だけを確認するようにしているのですが…
さすがオリンピックだけのことはあります。
何処のチャンネルでも再放送がされて
つい見入ってしまいます。
今回はかなり日本の成績が良いので
あまり自己嫌悪に繋がらないのはありがたい事です。

金メダルをたくさん取っているので
テレビで「君が代」がよく流れています。
「君が代」が人類の崇高な哲学や、ナショナリズムの高揚ではなく
ただ、今と同じような世の中が、づっと続けば良いという歌詞は
何となくですが
自分の中の高揚感を抑えてくれているように思います。



「俳句と和歌」
古本屋と言う商売をしていますが
最初に言い逃れをしておきます。
私に文学に対する知識も教養もありません。
だから、素人の戯言と笑って読んでいただければ幸いです。

私が俳句と和歌を最初に勉強したのは小学校の頃だと思います。
微かな記憶ですが、俳句は一茶や芭蕉の作品を
和歌は、古今和歌集などの作品から
教科書に載っていたと記憶しています。
子供心に
かっこいい文章の俳句の方が
しっとりとした和歌より好きだと思ってしまいました。
どうも、今年の5月まで、子供の頃の印象が
ずっと続いていたようです。

5月の初旬頃の事でした。
ダウンタウンの浜田さんがMCで、俳句を有名人の方が作り、
それを評価して順番を付けるという内容の番組を見ました。
お題は「奥日光の早春の新緑の映像」でした。
参加している方々や、それを評する俳人の方が
春の新緑表現について語っていました。

何の意識もしないで、なんとなくテレビを見ていた私ですが
ふと思い出してしまったのです。
「奥日光はまだ新緑の季節ではない。」
昔から私の文章を読んでいる方はご承知でしょうが
下界の新緑が進んでいるから、奥日光も新緑だろうと
ついうっかり、ゴールデンウイークに奥日光へ行くと
そこにはまだ冬枯れのさびしい風景しかないのです。
奥日光は6月ごろ木々が芽吹き始め
新緑が深くなるのは7月上旬ごろの話です。
テレビの映像は華厳の滝のかなり深い新緑でしたので
おそらく7月の奥日光の景色の映像だと思います。
その時は、テレビ独特の虚像の世界なのだろうと
深く考えていなかったのですが、
最近、テレビの問題ではなく、
俳句その物の問題なのではないかと思い始めています。

俳句の世界は季語で縛られています。
季語は季節感を伴わなくてはいけません。
あまりに厳しい気候や自然環境である奥日光において
その新緑が晩春から初夏にかけて起こると言う独特の自然現象は
俳句の世界では許されないのではないか?
つまり、写実や現実、真実よりも
歳時記などで象徴される一般的な季節感の方が
重要なのではないのか?
と感じてしまったのです。

そんなことを考えていたら
和歌には現代和歌、前衛短歌と言うものが明らかに存在して
寺山修司、塚本邦雄、岡井隆や俵万智、穂村弘など
現代文学として確固たる地位が存在しています。
それに対して
高浜虚子、山口青邨などの俳句も
近代俳句を確立した正岡子規の亜流のような気がしています。
種田山頭火あたりの作品から
現代俳句と呼ばれる作品が出ても良いのですが
種田山頭火は現代俳人と言うよりは、異端児扱いです。

俳句からは絶対
「それが私のサラダ記念日」なんて
普通の生活の中にあるさりげなく胸を打つ感情は
表現できないのかもしれません。

そんなことを考えているうちに
俳句は自分の心の中の表現と言うよりも
ゲーム性を重要視する文学ではないかと思うようになりました。
短い定形文章の中で
古い言葉遣いや死語になった単語まで駆使して
その配置を考え
最も見栄え、聞き栄えのある文章を作る
そんなゲームのように思えてなりません。
だから、奥日光の新緑の様子を5月初旬に作っても
何ら問題は無いのではないでしょうか

以前AIで作られた小説が発表されました。
見るに堪えない駄作になったのは記憶に新しいと思います。
ただ、俳句をゲームとしてとらえれば
現代の俳句界において
将棋や囲碁と同じように
人よりすぐれた作品をAIが作ってしまう時代が
もうすぐそこに来ているのかもしれません。



「お役人は嘘をつく」
最近、東京の都知事が変わったことがきっかけで
築地の移転問題において
移転先である豊洲の建物の下に
空洞があり盛り土がなされていなことが
テレビのニュースで取り上げられています。
テレビでは「安全と安心」への冒涜とばかりに
錦の御旗のごとく、正義面をして非難をしています。
でも、私にとって気持ちが悪いのは
どのくらい安全でないのか、どのくらい危険なのか
何処もちゃんと報道してくれないことです。
あまり正確な報道が無いのでよくわからないのですが
どうも盛り土の無い空間にたまった水や
盛り土をした土地に掘った井戸から
危険な物質であるベンゼンやヒ素、水銀が
見つかったと言う事のようです。
ただ、その汚染の状態も飲めない地下水ぐらいの程度なのか、
汚染土壌の上で生鮮食料を扱うのが危険な程度なのか
どうにも報道ではよくわからない状態です。

どちらにしても、もしその情報が確かなら
盛り土の無いことが問題ではなく、地下水の問題ですから
コンクリートで覆われた空洞はその検査や処置に対して
かなりの武器になると思います。
地下水を浄化して調整するプラントが組み込まれているという
報道がありますので
それと合わせれば何かの対策は取れるのではないでしょうか?

何にしても、ここで一番大切なことは「安全や安心」であるはずです。
ところがテレビの報道は盛り土をしないで空洞を作ったのに
盛り土をしたことになっていると、ずっと説明をしてきた東京都の
その犯人探しに重点を置いています。
ひねくれ者の私にとっては、すでに報道サイドでは
豊洲の水は
大きな危険は伴わない程度の汚染であることを認識していて
この面白い事件が収束しないように
三文台本の謎解きミステリーに仕立てたネタで騒ぎ立てて
視聴者をミスリードさせているのではないかとさえ思っています。
なぜなら、その三文台本のシナリオの結末は決まっているからです。
役人と言う商売は平気で普通に嘘をつくからです。

私が古本屋を始める最初に
色々な許可とそれに伴う書類の収集、
当時は民営化されていない郵便局での発送方法の打ち合わせなど
お役所や公務員との手続き上の関わりがありました。
その中で比較的日常茶飯事に、
大なり小なり、嘘やごまかしを受けました。
それより、お役人は嘘をつくのは当たり前だと考えています。
彼らにとって目の前の問題を解決する手段の一つが
嘘をつくことだと考えた方がいいでしょう。
なぜなら、嘘をついてその問題をその場だけで処理したら
その後は彼らには責任を取る必要が無いからです。
お役人は仕事上の失敗において責任を取らなくて良いという
法律上の決まりがあったと記憶しています。
蕎麦屋が出前の注文を後回しにしてクレームの電話を受けた時
「今出ました。」「今作っています。」などと答えるのと
全く同じ感覚で、「土地は全部盛り土にしました。」
と答えていたに決まっているからです。
でも、我々利用者である庶民に嘘をつくだけではなく
自分の上司や議員にまで嘘をつくというのは
新たな発見で、なかなかすごい商売だなと、感動すらします。
余談ですが、今回の件では市場長と言うえらい役職の方が
更迭されるそうです。
その方は仕事が変わるだけで、
決して問題の責任を取っているわけではありません。
たとえ前の知事が問題を起こした原因であったとしても
その責任は現知事と議会が負わなくてはいけないのです。
お役人は仕事はしても責任は負う必要が無いのです。
我々がお役人と付き合わなくてはいけない時は
自分のなすべきことを事前に調べてから対応しなくてはいけないと
つくづく痛感させられます。

最後にどうでも良い事ですが
築地と豊洲の問題の実務責任は現都知事にあります。
都民ファーストとアスリートファーストは
基本的に対立する関係にあります。
色々な問題点はたくさん上がりますが
問題点の着地点はマスコミがどんどんハードルを上げます。
現時点では実際的には問題点だけ定義され
何一つ解決の目処さえ立ちません。
政治家として我が世の春を謳歌している現都知事ですが
どうか早急な実務処理能力を見せていただけますよう
自ら任期を決めて、自ら任期を延長する知事のいる
東京を愛する埼玉県民からの祈りの文章です。
心より、現東京都知事がオリンピックを開けることを祈っています。



「年末」
寒さ厳しく、いよいよ年も暮れてきました。
この季節になると商売柄
少し憂鬱になってしまいます。
売り上げの少ないこんな商売をしていても
自営業であっても、年末決済をしなくてはならないからです。
決済そのものは大きな手間ではないのですが
商品を扱う手前
棚卸が必要不可欠になるからです。

当店ヤフーオークションのみで商売していますが
3000種程度の商品を随時出品しています。
更に出品していない商品はその倍近く所有していますので
1万冊近い書籍が棚卸の対象となります。
倉庫も店舗も持たない商売をしているので
書籍は部屋に山積みされ
寝るスペースのみの生活をしているのが実態です。
もし夜に地震が来たら
本に潰されて死んでしまうのではないかとさえ思っています。

ただ、憂鬱ではありますが、
決して嫌であったり苦しいわけではありません。
自分がどんな本を持っているのかあらためてわかりますし、
すっかり忘れていた商品がぽろっと出てくるのはわくわくします。
たとえ、本に潰されて死んだとしても
それはそれで幸せな最後なのかもしれません。

話は飛びますが、最近幸せってなんなんだろうって考えてしまします。
お金持ちの全てが幸せではないし
貧乏人の全てが不幸せではないはずです。
私にとっては、今の3倍以上の収入のあったサラリーマン時代より
今の古本屋家業の方が幸せであることは間違いありません。
ただ、その幸せの感情と言うのが
言葉や理屈でうまく説明できないもどかしさがあります。
たぶん幸せは
財産や地位権力、優越感や喜びとは、
まったく次元の異なる感覚なのではないかと思います。
もし自分の人生を方程式で表すことができたら
幸せと言うのはXやYではなく、傾きなのではないかと…
幸せが傾きなら、方程式を微分すれば
幸せも数値化できるのですが…

さて、棚卸をそろそろ開始する時期となりました。
当店の商品をどんどん落札していただければ
その分明らかに棚卸の数が減ります。
読者の皆さん、心よりご協力お願いします。

この文章は明らかなこまどり屋の販促(反則)文章です。
更に棚卸が開始したら、新規出品ができなくなります。
こまどり屋の言い逃れの文章ともなります事お許しください。


こまどり通信トップへ戻る