本や作品
2012年5月〜2013年3月
「私の好きな本 森雅之」
できるだけこのコーナーでは商売っ気を出さないため
自分の商売と離れた題材からネタを持ってきました。
最近その限界がきてしまったため
本について、書き出すことを決心しました。
とはいっても、私の本に対する知識は
おそらく古本屋では最低レベルです。
それでもたくさんの本とかかわる商売についているため
少しは変わった話も書けると思います。
でも、コアな話には到達しないこと
前もって、言い逃れをしておきます。
普通の本屋さんの漫画売り場で
平積みされた現在連載中の作品や
バックナンバーをずらりとそろえた
人気作品の棚の並ぶ中
たいていの本屋さんの最奥の角に
あまり知られていない漫画の単行本の並ぶ棚があります。
昔からそういう棚を漁るのが好きだった私が
そういう棚で見つけた大好きな作家に
「森雅之」という方がいます。
最初に見つけた作品は「散歩しながらうたう唄」という
第2単行本にあたる本でした。
その独特の世界観は、普通の漫画しか知らない私にとって
大変なカルチャーショックだったことを思い出します。
その作品を一言で表現すると
「大人のメルヘン」とでも呼んだら良いのでしょうか?
少年や、青春時代にだれもが普通に持っていて
大人になると誰でも普通に失っていく
珠玉のような感情が
短い作品に鮮やかに描かれています。
それからすぐに、第一作品集である
「夜と薔薇」という本を入手しました。
この本の帯には復刻版と書かれていて
それより数十年の間「夜と薔薇」の原本の存在を
確認することができませんでした。
実際のその原書を知ることになるのは
古書店を開いて数年後になります。
最初の「夜と薔薇」は1500部程度の限定本でした。
この方の単行本は、数年に1冊ぐらいしか発行されないため
私の知っている範囲では9冊程度しか知りません。
最近では「すみれちゃん」という絵本を
2011年に発行しています。
もし、本を探してみる勇気のある方は
「追伸」という作品がおすすめです。
遠距離恋愛の手紙のやり取りを基調とした物語で
散文詩的な短い作品の多いなか
比較的長編のストーリー性のある作品となっていて
ハートフルな読みやすい物語です。
実は、この文章を書きながら
ネットで「森雅之」を検索したところ
立派なホームページがあることに初めて気が付きました。
(私がよく読んでいたころは、
簡易的なホームページしかありませんでした。)
そこには未発表の作品なども載っていましたので
探してみてはいかがでしょうか。
ただし、同姓同名で
演劇創世時の名俳優がいらっしゃいますので
少しだけ探す手間があります。
ちなみに、このメールレターは、ヤフーのルールで
オークション以外のアドレスの開示は禁止行為なので
ここにアドレス紹介できないことはとても残念です。
「私の好きな本 鶴田謙二」
私がこの方の作品に出合ったのは、
技術関係の仕事をしていたころです。
その頃は、結構地方によく出張していました。
その帰り道に電車の中で読むため
地方の本屋さんで、知らない漫画本を表紙と厚さだけで購入して
内容の如何に問わず、完読することにしていました。
その1冊が「The Spirit of Wonder」という作品です。
その本は大変、細かい描写で描かれ
私にとっては読みにくい部類の作品です。
単純な漫画と違って、最初は少し読み込む必要がありました。
しかし、その奇想天外なストーリーと展開に
すぐに夢中になってしまいました。
その本には番号が「1」とふられていましたので
すぐに2巻が出るものと思って楽しみにしていました。
ところがその続巻がなかなか出ない!
そして数年の歳月がかかり
同じ題名の「The Spirit of Wonder」という単行本が発行されました。
それは「チャイナさん」というシリーズが前の作品群に合わさった形で
まとめられている書籍で
番号が書いてなかったので、そのとき2巻が出ないことを理解しました。
ちなみに「Forget-me-not」「冒険エレキテ島」という作品も
1という数字が書かれていますが、
2巻目を見たことはありません。
後で知る話なのですが、「鶴田謙二」という方は
漫画の作品が極めて少ない漫画家だそうです。
そして漫画をなかなか描かない漫画家だそうです。
でもだから嫌いになるのではなく、どんどんはまってしまいました。
更に後で知る話になるのですが
SFの世界では知らない人がいないくらい、
カリスマ的に人気の高い絵師として著名な方でした。
SF関連の雑誌の挿絵や表紙絵なども描いていたようです。
最近ではSF作品の金字塔
「キャプテンフューチャー」の創元SF文庫版に
絵を提供しているようです。
漫画のほうでは「梶尾真治」原作の「エマノン」シリーズが
珍しく2冊発行されています。
「鶴田謙二」の本はなかなか入手困難なのですが
発行されたのが最近ですので、まだ本屋さんにあると思います。
「鶴田謙二」の描く女性はとてもかっこ良く描かれます。
それだけでも一見の価値はあると思います。
もし、SFがとっつきにくいのであれば
「Forget-me-not」という作品をお勧めします。
ベネチアを舞台にした探偵ものの作品となっています。
その痛快なストーリーも良いのですが
何より鮮やかに描かれた美しいベネチアが魅力です。
「私の好きな本 さべあのま」
最近「さべあのま」の作品を書店で見かけなくなりました。
今はイラストレーターとしてのお仕事をやられているようです。
この方の作品は一般的に少女漫画と呼ばれているカテゴリーで
男の私としては、ほとんど読む機会はありませんでした。
最初の出会いは「ネバーランド物語」という作品です。
何気なく、池袋のデパートの地下にある本屋さんで
いつものごとく、本を物色していると
その当時としては珍しく、ハードカバーのしっかりした製本の
漫画本が、お店のおすすめとして平積みされていました。
その本は少女漫画の棚ではなく、
ジャンル別できない本屋の奥の角付近で見つけました。
ストーリーは甘く切ない、少女マンガ的なファンタジーなのですが
古き良き時代の、日本人があこがれたアメリカ的な背景と
後半の畳み掛ける大団円的なストーリーと
ちょっとしゃれたエンディングの魅力的なものです。
実は、感動で私が必ず読んで泣いてしまう
数少ない作品の一つです。
ただ、この作品はなかなか古本の市場に出回りません。
「奇譚社」という小さな出版社から発行されているので
出版数が少ないという理由があるのかもしれませんが
私は、コアなファンがこの本を手放さないため
古書の市場に出回らないのではないかと思っています。
2003年ごろより「メディアファクトリーMF文庫」で
「さべあのま全集」が発行されていますので
その収録作品として入手するほうが、
比較的容易に入手できると思います。
有名な作品としてはNHK教育テレビのアニメにもなった
「スージーちゃんとマービー」などがあります。
全体的に、こじゃれた軽い作品ですので
興味がありましたら探してみてください。
蛇足ですが、私が必ず泣いてしまうもう一つの作品は
児童文学の「冒険者たち」という作品です。
斉藤惇夫という方の作品で
1983年度野間児童文芸賞を受賞している作品です。
「ガンバの冒険」としてアニメ化されていますし
劇団四季がミュージカル化もしています。
でも、私が泣いてしまうのは活字となった作品です。
日本の児童文学の名作として、本屋で入手できますので
興味がありましたら探してみてください。
ただ、大人になって童話を読むというのは
少し、照れくさくて、恥ずかしいものですが…
「私の好きな本 曽田正人」
今回紹介する漫画家は、大変メジャーな方です。
何を持ってメジャーかというと
この方の主要作品は、
ほとんど、映画かドラマで実写化されているからです。
ところが、実力派の監督や俳優で実写化しても
実写化された作品のほうは
それほど高い評価を得てはいません。
それほど漫画のクオリティーがすごいということかもしれません。
この方の漫画の主人公は、常に天才が描かれています。
基本はスポーツ漫画的な
努力、根性が描かれていますが
通常のスポ根漫画と違うところは
主人公が天才ゆえに、主人公の求めるものは
主人公自身が、一人で苦悩し、努力し、求めていくことです。
その為、ライバルや仲間の設定もあるのですが
通常のスポ根漫画のように、
切磋琢磨したり、ともに成長したりすることはありません。
ライバルは勝手に主人公をライバルと判断するだけですし
仲間は自然に主人公の才能に惹かれて集まります。
ところが実写化するにはその設定は難しいようです。
ほとんどの実写作品がライバルや仲間の設定を
原作と本質的に変更させ
主人公とライバルや仲間が
切磋琢磨し、ともに成長ストーリーに変更されています。
でも、実は、「曽田正人」の漫画のファンは
設定が変更された時点で
実写版の作品を見捨ててしまうものと思います。
実写化をする時はその設定だけは守ってほしいものです。
最近の作品「MOON」や「capetaカペタ」では
完全なライバルが設定されているのですが
主人公と同様の天才性を持っているので
ライバルも主人公と同じように
求めるものをライバル自身が
一人で苦悩し、努力し、求めていくことを
かなりの手間をかけて表現しています。
ともすると、主人公が2人いる設定となり、間延びするのですが
それを一気に読ませる画力とストーリーは秀逸です。
今まで紹介した方に比べて、格段にメジャーな漫画家ですので
かなり容易に書籍を入手できます。
未読の方はぜひ一度読んで見てはいかがかと思います。
「山本太郎 ロッククライミングの唄より」
私が人生において、最も影響を受けた
活字文章の中の一つに
山本太郎の「ロッククライミングの唄」という詩の1節があります。
「友よ ぼくらは
筋肉の束でも
激情の回路でもない
忘れるな 君
僕らは疑うことから出発した」
ザイルで結ばれた友人と共有する山の素晴らしさを描いた
詩の冒頭の部分です。
実は私は友達という言葉をあまり使いたがらない人間です。
自分と友人との関係は常に1対1の関係でありたいと思い
自分に対して、友人を複数形で語ることは
友人に対してあまりにも失礼と思うからです。
ただ、学生の時、友人から
「俺とおまえは友達だろ!」と言われた時
うまく答えられず、丁寧にその理由を説明しても
不可解な顔をした友人を思い出します。
たぶん、一般的には
友達というのは友人の複数形ではなく
友人に少し軽い意味を持たせて
口に出し易いようにしたものなんだと思います。
その為、私は結構変人扱いを受けたものです。
その頃、この詩を知りました。
本来は山の素晴らしさを描いた詩編なんだと思いますが
その、緊張感のある友人関係に
感動と憧れを持ってしまったからです。
山においてザイルで結ばれた仲間は
自分に命の危険があったときは
そのザイルを切って良いことになっています。
つまり、この詩において二人は
最悪の時には自分のためにザイルを切って良い間柄なのです。
この詩に描かれた友人は
一緒に切磋琢磨した関係ではなく
感情を表に出して語り合った関係ではなく
ザイル1本で結ばれた関係で
自分が最悪の状態になったときは命を預け
更に、ザイルを切られても受け入れなくてはならない関係なのです。
私は、基本的に少しでも危険があったら
躊躇なく逃げるような人間ですので
危険を伴う山登りは決してしないと思いますが
疑うことから出発した友情というものは
もしできれば、一度経験したいものです。
TOKIOの「宙船」という歌の詩に
「お前が消えて喜ぶ者に、お前のオールをまかせるな」
という一説があります。
私もきっと、まかせられないと思いますが
もしかしたら、あえて自分が消えて喜ぶ者に
自分のオールを任せることができないと
ザイルで結ばれた友情というものは生まれないのかもしれません。
実は私は
「ロッククライミングの唄より」という詩が
山本太郎のどの詩集に入っているか知りません。
この詩は
雪華社発行の鳥見迅彦編集「山の詩集」という本に載っていました。
私に本当の意味での本の素晴らしさを教えてくれた
最初の1冊です。
「田中三彦 科学という考え方」
私の人生に、最も影響を与えた書籍に
晶文社から発行された
「田中三彦 科学という考え方」という本があります。
私はサラリーマンの時代に
工場の技術系の仕事をしていました。
技術系の最も必要とする資質は
「科学的な思考力」であることは
周知の事実でありますが
実際に「科学」というものに
私は具体的なイメージを持つことはできていませんでした。
そんな時、この本と出合いました。
もちろん、題名だけに惹かれて、この本を手に取ったわけです。
この本では
”科学の「科」の意味を漢和辞典で調べると
「分ける」と記されている。
つまり科学とは「分ける学問」なのである。”
とあります。
その文章を読んだとき、
私は、今までやってきた技術職の仕事内容とリンクして
初めて「科学的な思考力」の
具体的なイメージを持つことができました。
実際、工場の技術職というのは
最先端の斬新的なイメージを持たれがちですが
実際は同じようなことを何度も繰り返し
同じようなデータをひたすら取り続け
異なったデータが現れたら、
更に本当に異なっているか確認し
それから問題を考察し、
必要があればさらに同じことを繰り返すという
究極に暗くて、地味な作業を行っているのです。
つまり「科学」が分ける学問であるなら
必要な情報をひたすら根こそぎ集め、
分類、整理して、考察を行い
必要があればさらに同じことを繰り返す
究極に暗くて、地味な作業なのです。
それならば、なぜ
「科学」が一般的に
最先端の斬新的なイメージを持たれているかというと
根こそぎ集められたデータから分類して考察された解答が
今まで無いものが導かれる可能性が高く
極めて精度が高い正解である可能性が高いからです。
「科学という考え方」というこの本は
今まで普通と考えられている常識から、矛盾点を定義して
パラドックス(逆説)として捉え
科学的な思考を用いて、
思いもよらない答えを導く面白さが描かれています。
またこの書籍は
JR東日本の月刊誌「トランヴェール」という
新幹線に搭載する雑誌に連載されていた内容のようで
誰でもわかりやすい、興味深い内容となっています。
実は私はこの本を最初に読んだ時
作者の定義したパラドックスが
どうしても屁理屈にしか見えなかったのです。
屁理屈がパラドックスであると理解するのに
数回同じ個所を読み返さなくてはいけませんでした。
その時、自分は
パラドックスを屁理屈と認識した段階で
自らの思考を停止させていたことに気が付いてしまったのです。
そして、それが技術者としては
致命的な欠陥と思うようになりました。
おそらく、サラリーマンをリタイアした
要因の一つになっていると思います。
(実際は、サラリーマンの負わなくてはいけない
責任の重圧からの逃避が主な原因と思いますが…)
最近よく思うのですが
テレビのニュースで
国家間の主張、政党間の紛争、行政や企業と民衆の戦い
それを紹介するアナウンサーや解説者のコメントが
私にはすべて屁理屈にしか聞こえてこないのです。
当然、私の思考は屁理屈と認識した段階で停止しているのですが
当事者においては
それぞれの主張をパラドックスとしてとらえて
面倒でも「科学という考え方」で
一歩でも未来に前進してもらいたいと思います。
ちなみに、ここで紹介した
「晶文社発行 田中三彦 科学という考え方」という書籍は
あまりメジャーな書籍ではありません。
この著者はむしろ反原発関係で著名な方のようです。
見つけるには少し難しいかもしれません。
(もちろん私は出品していません。)
ただ、科学とは何かを問う書籍は
大きな本屋さんに行けばおそらく見つかると思います。
科学に余り具体的なイメージを持てない方は
是非1度、挑戦してみることをお勧めします。
「ロバートBチャルディーニ 影響力の武器」
私はよく友人から「あまのじゃく」「ひねくれ者」と言われます。
自覚は全くないのですが
冷静に自分を鑑(かんが)みれば
確かに少し人と違う思考を持っているようです。
私は基本的に
できるだけ人の影響を受けたくないと思っているようです。
だから、自分が人の影響下にいると感じてしまったら
すぐ、そこから逃げたいと思っています。
だからこそ、自分の判断を信じることができると思っていました。
…この本を読むまでは…
この本「影響力の武器」という書籍は
「社会的心理学」という分類の学問の本です。
簡単に内容を言うと
相手に、どのように相手自身が自ら選択した意思と思わせながら
自分の思い通りに影響を与えることができるか
ということが書かれています。
簡単に言うと詐欺師の指南書のような内容です。
この本を読んでいた時、私はいかに影響力の中で
生きてきたのかということを知り、
読みながら気持ちが悪くなったのを思い出します。
1991年発行の書籍ですから
現在の営業や広報の仕事をしている方から見れば
かなり古い基礎的な理論書と思えるでしょうが
1990年代を生きてきたころの自分にとっては
かなり衝撃的な事実を提供されたと思いました。
私はこの本以降、この手の本は読んでいません。
現在の情報社会において
あまたの影響力から、自らの身を守ることは
不可能と思われるからです。
大変に困難なことなのですが
自分にできることは、
自分が行った判断に少しでも違和感を感じたら
どうして、自分はその判断をしたのか
いち早く考えることを癖つけることです。
常に膨大な影響力が渦巻く社会の中で
自分がいることを自覚することが大切だと思います。
私は、最近めっきり怒りやすくなった時がありました。
今までそんな性格では無かったのにもかかわらずです。
よくよく考えてみると
どうも、民放のニュースで
私の怒りの感情が引き出されているようです。
民放のニュースも視聴率に追われているので
視聴者に感情移入されやすいように制作されています。
その為アナウンサーや解説者が
視聴者の感情を動かそうとするコメントをします。
おそらく、怒りに導くコメントが最も容易なのでしょう。
私はニュースを見て、知らないうちに怒っているのです。
どうも、それが普段の生活に影響していたようです。
そのことに気が付き、
現在では、怒りやすい感情が無くなりました。
それでもどうしても怒りに導かれそうになった場合は
速攻でNHKのニュースに切り替えています。
石鹸に小麦粉が入っていたため
アレルギーで死人まで出る事件がありました。
報道によると、化粧品などで
同じ小麦粉が利用されていたにもかかわらず、
どうして、その石鹸にだけ被害が出たのでしょうか?
実はその石鹸は、私がネットで商売を始める当時
最もネットで売り上げの高い商品だったのです。
私は、通常よりかなり単価の高い、その商品が
なぜ売り上げが高いのか不思議で自分なりに調べました。
すると、ネットの書き込みで
肌の弱い人の使用の感想としての
素晴らしい効能や効果がうたわれていました。
ここからは自分の想像の範囲ですが
この石鹸は、商品やテレビ広告では
普通の石鹸としての効果と、イメージ的な表現で抑え
使用者のネットの書き込みとして
肌に問題を抱えている人をターゲットに、
商品を売っていたと思います。
この書込みが、本当に使用者のコメントか
あるいは組織の影響力の行使か
今となっては判断ができません。
ただ、肌の弱い人に多く使われてしまったため
大きな社会問題となるまで被害が出てしまったものと思います。
影響力をわかりやすく言うと
メンタリストが自分の思い通りの色のボールを
相手に選ばせる行為と同じです。
それと同じことが自分自身にも起こっているわけです。
あなたが、あなたの意志で
お菓子屋さんでお菓子を選んだ時
そのお菓子は本当に自分の意思で選んだのか
あるいは何らかのマスコミなどの影響力を受けているのではないか
判断できるでしょうか…
この本は1991年より誠信書房というところより刊行されています。
私が書籍を購入した時は
東大の教科書的書籍として利用されたことを
売り文句にして販売していました。
学術書としては大変読みやすく、わかりやすいので
その点ではお勧めできます。
ただ、影響力の行使を行う側にとっては
古い常識的な内容と判断されるかもしれません。
影響力を受ける側にとっては
知らなくて良い事を知ってしまう書籍になるかもしれません。
ただ、知的好奇心は満足できると思います。
「二人の男と一人の女の愛の形3題」
今まで、あまりメジャーではない作品について紹介してきましたが
今回は超メジャーな作品について書いていきます。
その前に、おじさんの年になっても結婚できない私は
おそらく愛に対しては
何らかの人間的な欠陥を持っているようで
愛を語る資格がないことは重々わかっています。
また、紹介する3つの作品は
かなり昔に読んだ記憶からの記述ですので
ピントがずれている可能性があること
最初から言い逃れをしておきます。
今回紹介する3つの作品は
「夏目漱石 ころろ」
「あだち充 タッチ」
「ジョルジュサンド 愛の妖精」です。
おそらく小説のネタバレ的な文章になりますので
これから作品を楽しみたい方は、
作品を先に読むことをお勧めいたします。
3つの作品は
「二人の男と一人の女の愛の形」が描かれています。
「ころろ」では、一方の男の自殺で処理されます。
「タッチ」では、一方の男の偶然の死で処理されます。
「愛の妖精」では、一方の男が平凡な旦那さんになり
一方の男が兵士として英雄になります。
私が「ころろ」を読んだ時は
二人の男の心の変遷に興味が向いて
愛について、それほど深く考えていませんでした。
それが「タッチ」の最終回を読んだ後、
子供の時に読んだ「愛の妖精」の結末と
「ころろ」の自殺が妙にリンクして、
自分なりに納得したことを思い出します。
私が「タッチ」を読んでいたのは学生の時で
少し遠い大学に通っていたので
通学の時に電車の中で少年サンデーを読んでいました。
「タッチ」の前半は双子のできの悪い兄貴と優秀な弟と、
二人を平等に好きな一人の女性が織りなす
ほのぼのとしたストーリーでした。
その為、弟の偶然の死はあまりにも突然で
その死の表現に戸惑いを思いつつ
電車の中で涙を流してしまったのを思い出します。
「愛の妖精」では大団円と思われる形で終わります。
女性が選んだ男性は愛を成就して平凡な夫となり
選ばれなかった男性は軍隊で活躍して成功します。
この本を私は子供のころ
姉の本棚の世界名作全集で読みました。
子供心に普通のハッピーエンド思っていましたが
「タッチ」と似ている双子の男と一人の女性の設定が
あらためて「愛の妖精」の結末を
考えるきっかけとなりました。
女性にとってはこれほど都合の良い結末はないでしょうが
はたして、男の立場ではこの結末がハッピーなのか?
優秀な男性が平凡になることや
愛破れ命がけで戦場で名を轟かすことを
あらためて考えると、男としてはどちらの立場も
好ましからざるもののような気がします。
少年誌であるサンデー連載の「タッチ」では
「愛の妖精」の結末では読者は満足しないと思います。
と言って「こころ」のような結果では残酷すぎます。
「タッチ」の最終回のさわやかさのために
男2人のうちの一人が事故にあうことは
仕方なかったのかもしれません。
これが、男一人と女二人の場合でしたら
どうなるのか、ふと考えてみました。
おそらく、修羅場という状態が
女性間(あるいは女性と男性の間)で起こるのでしょうが
別れるにしても、一緒になるにしても
それは男も女も、一つの人生のエピソードとして
思い出にかわってしまうのではないでしょうか!
どうか女性のみなさん
愛において打たれ弱い男の性(さが)をご理解いただき
ぜひ二人の男を同時に平等に愛する機会が
(あるいは平等に愛するふりをする機会が)ありましたら
少しでもこの3つの作品を思い出していただき
少しの考慮をいただけたら男として嬉しいです。
ただ、「こころ」に出てくる女性が
お嬢様にかかわらず、妖艶な色気を感じるのは
私が愛に対して、人間的な欠陥を持っているからかもしれません。
「道程 高村光太郎」
あまりにも有名な高村光太郎の道程という作品に
私が出会ったのは中学の国語の時間だと思います。
萩原朔太郎と鮎川信夫の作品とともに
たった3つで現代詩を語ろうというのですから
今思うとかなりいいかげんな授業だったようです。
先生が解説した詩の解釈も
たぶん浅くていいかげんなものだったと記憶しています。
まあ、私も当時は中学生ですから
それほど深い考察をできるものではないので
その当時は勉強の一環の
知識としての作品でしかありませんでした。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
で始まるその詩は
今という時間を刹那的にとらえて
自分の人生を歩いた踏み跡にたとえ
自然やそれを取り巻くマクロ的な頼るべき存在(父)に
気が付き、受け入れ、
見守られることを意識することで
現在の自分を強く肯定でき
輝かしく美しく誇らしい自己を意識でき
それがまぎれもなく現在の刹那で
未来へと続く「道程」なのだ…
というのが一般的な解釈でしょうか?
実は「道程」という詩は
最初に発表した作品はかなり長編詩だったようです。
その長編詩は
前半部はうだうだ、ぐだぐだと自分の最低の人生を描き
それでも自然の手を離さなかった自己が
そのことを意識することで
次の一歩を歩き出すことができ
その先に進んだ世界を描くことで
喜びにあふれ
更に人類規模に考察して
結論として最後に
輝かしい自信にあふれた言葉でまとめられています。
その結論の描かれた「道程」長編詩の最後の数行に
若干手を加えたものが
いわゆる詩集「道程」の有名な詩編として
一般的な詩となっているようです。
ですから一般的な解釈は間違ってはいないと思います。
でも私は、もう少し小さな視野で
勝手な妄想的な解釈をしています。
私が高村光太郎に興味を持ったのは
東京国立近代美術館の「手」の彫刻を見たときです。
行くと判ると思いますが
その彫刻はほかの展示作品を凌駕し
ひときわ魅力的に輝いています。
この彫刻の台座の下には
有島武郎宛の
謹呈の直筆署名があると言う噂を聞いたことがありますが、
本当かどうかは見たことがありません。
その手は天空の希望に向かっているようにも見えますし
台座側に縛り付けられているようにも見えます。
詩人として教科書に載るほどの方なのですが
まぎれもなく、自己を表現する芸術家なのです。
光太郎は木彫家高村光雲の長男として生まれています。
今でも光雲の右に出る木彫作家はいないのではないかというほどの
天才的木彫作家ですので
光太郎がその影響を受けていないはずはありません。
ですが、自己を表現する西洋芸術を知っている光太郎にとっては
光雲の工芸的表現は否定すべき要因だったと思われます。
(あるいは嫉妬するべき才能だったのかもしれません。)
感受性の高い芸術家の
魂の苦悩の要因だったのではないかと思います。
そこで私は「道程」をこう解釈しています。
「父」は文字どうり光太郎の父「高村光雲」で
「自然」は光太郎の芸術家の魂としての
自然に宿す自己ではないかと…
つまり父の表現する絶対的な作品に対して
ともすれば疑心暗鬼になりやすい自己の魂を
見失わず持ち続け
否定しなくてはならない父からの影響を
子供として、受け入れることにより
今まで悩んでいた霧が晴れて
気が付いたら
父の道ではなく
歩いてきた今までの過去の道は自分が歩いてきた道であり
これから歩く未来の道は誰も歩いていない
自らが築いていく道である。
などと解釈しています。
少なくとも詩人として
言葉で自己を表現してたくさんの人に感動させることは
芸術家としての魂は
まちがえなく
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
歓喜の刹那だったに違いがないと思います。
さて私が最初に道程を知ったのは中学のころです。
私はその時、自分の人生も光太郎と同じように
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
ものだと思っていました。
(学校もそう思わせる授業をしていました。)
ところが自分が爺(じじい)と呼ばれる年齢になると
自分の前に道がない人生は
刹那といえ
ほとんどだれも経験できないものということを知ってしまいます。
少なくとも私の歩いてきた道は
きっと誰かが前に歩んだ大通りで
たとえその道が行き止まりであっても
一生懸命わき道を探し
最悪でも人の踏み跡を追いかけます。
もし光太郎と同じように
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
状態になったら、間違えなく来た道を分岐まで戻るでしょう。
光太郎から見れば笑われる人生でしょうが…
そんな人生も
そんなに悪いものではないと思っている今日この頃です。
「本の深さ」
先日古書の即売会に行ったとき
自殺防止の猫のポスターを見ました。
猫を描く著名な版画家「大野隆司」の版画の作品で
古本屋のポスターとして提供されたもののようです。
表面は降り注ぐ本の中に手を広げ立つ猫が描かれ
「死にたくなったらふる本やにおいで/生きてなよあんた」
というメッセージが入っています。
降り注ぐ本は降る本、古本のダジャレのようです。
裏面はポスターの趣旨と作者のメッセージが描かれていました。
それによると、全く無名な本が
時代を超えて古本屋の棚に並んでいるのを見れば
死を覚悟した人も、
自分の存在意義を持てるのではないかという
内容が書かれていました。
私はその場で感動してしまい、
ネットで流して良い許可と、写真を写す許可をもらい
撮影して帰りました。
でも、家でよくよく考えて
ネットで流す怖さを覚えて、ホームページ掲載をあきらめました。
本というものはあらゆる条件、あらゆる状態、あらゆる形式で
森羅万象を表現されている媒体です。
自由を謳歌する物語もあれば、
規律や道徳を重んじる啓蒙書もあり、
平和第一主義の書籍もあれば、
破壊から再生する物語もあります。
もちろん自殺を否定する書籍もありますが
浄瑠璃、ミステリー、純文学など
自殺を肯定する内容の書籍は少ないわけではありません。
現に、文豪と呼ばれる人たちのかなり多くが
自らその才能を絶っている事実もあります。
それに本と言うものは不思議なもので
自分の欲している内容や感性の人のところへ
それに関わる書籍が目につき、集まっていくものです。
下手をすると自殺防止と逆の影響があるかもしれない。
ましてや古本屋はそんなに重たい責任は負えません。
その為にネットの掲載をあきらめた次第です。
でも、本屋に行って膨大な書籍に囲まれ
そのすべての物語、すべての情報が
お金を払えばすべて自分のものになる喜びは
私にとっては代えがたい一つの喜びです。
本屋のことを書林と呼ぶ場合があります。
無尽蔵な本の表現力は無限の深淵の世界を作ります。
その中に入り込むと、
森の中でさまよい、出口を見つけられない状態となります。
だから本屋はその森の中から本を選んで整理して
本の林として我々に書籍を提供してくれます。
だから自由に安心して本の林を彷徨うことができ
深みにはまっても帰れないことはないのです。
可能であるなら私も
本の林を彷徨うだけではなく
提供できる立場になりたいと思っています。
ここ数回にわたって
書籍、作家、作品、文章などを紹介してきました。
自ら古本屋を営んでいるにもかかわらず
この深い書籍の世界で
何とも浅く、表面的な世界しか紹介できないで
深く反省しています。
今回の文章はその言い逃れの為に用意したと思われて
全く問題ありません。
なぜならば完全にネタが切れてしまったからです。
次回はもしかしたら最初に戻って
東京の紀行的な文章になるかもしれません。
駄文を恥じているにもかかわらず
まだまだ続けるつもりですので
御一笑のほどおつきあいください。
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