東京国立近代美術館へ
2014年3月〜2014年10月
「東京国立近代美術館」
どうも、私の歴史観というのは、
小中学校の歴史の勉強に影響を受けているようです。
大阪の大きな古墳が、誰のお墓かわからないことを知っていながら
どうしても仁徳天皇陵としかイメージがわかない事や
たくさんの歴史的な発掘によって
大化の改新以前に中央集権的税制などが
確立していた事実を知っていながら
日本の中央集権の確立は大化の改新からとしか
イメージがわきません。
そんなに歴史の授業の影響を受けている私が
日本の近代の歴史観に関しては何のイメージも持っていません。
幸か不幸か日本史の授業の時間が足りなかったため
日本の近代史を学ぶ機会が無かったからです。
つい最近になって知ったのですが
私たちの世代は教育を受ける時期に
日教組がそこそこ力を持っていて
日本中の教師が日本の近代史を教えることを
サボタージュしていたようです。
そして、文部省も反対の意味で都合がよかったようで
どうも黙認していたようです。
その為、我々の世代は全員、
日本の近代史を、時間が無かったことを理由に
歴史で習っていないようです。
今の子供たちはどのような教育を受けているのか
少し興味があります。
古本の商売をしていると
たまに、明治、大正、昭和初期の書籍に出合えます。
今まで、自分の中ではどうも
敗戦を境に現代と近代とを分けて
帝国であった日本を暗闇のようなイメージで思っていたのですが
どうもその当時の書籍や資料に目が届くようになると
今と大きく変わらない文化が存在したことがわかります。
特に大正から昭和初期にかけての文化は
現在に次ぐ日本の文化の絶頂ではないかともさえ思います。
政治的な計算や背景はよくわかりませんが、
文化の面においては
日本の最も輝かしい時代が近代なのではないかと思います。
なぜ、私の近代LOVEを長々と綴ってきたかというと
東京国立近代美術館の展示レイアウトが
最近大きく変更したからです。
今までは、近代の美術史をなんとなく順番に見せていたものを
文化の面から部屋ごとにまとめ
どういう文化の背景のもとで芸術が描かれたかをテーマに
展示物がレイアウトされるようになったのです。
更に絵画や彫刻だけではなく
その時の文化を象徴する書籍やポスターも展示されています。
美術館がそのような展示をして
良いのかという批判はあるかもしれませんが
私にとっては新しい感動や発見があり
近代という近くて遠い時代を
芸術を通して垣間見れる楽しさを味わえます。
これから何回かにわたって、
東京国立近代美術館について綴っていこうと思っています。
美術に関しては全くの素人ですので
間違いや思い込みがあるかもしれませんが
それは古本屋の勝手な戯言として
許してください。
「東京国立近代美術館 2」
去年ぐらいからでしょうか?
東京国立近代美術館の展示方法が大幅に変更されました。
今までは漠然とした大きな歴史観の中で
美術史に重点を置いた形で
整理して配置された展示でした。
現在は最初に美術館の目玉となる貴重な絵画を展示し
その後、展示室を近代の文化と世相、思想などの視点で区分けして
作品を展示しています。
その為、絵画、彫刻、版画だけではなく
雑誌の表紙絵、挿絵、ポスターなども展示されています。
私のような古本屋にとって、とても興味深く
前以上にわくわくドキドキしながら美術館見学をしているのですが
何か博物館的な楽しみ方をしているので
美術を専門に美術館巡りをしている方にとって
この変更に満足しているかは不明です。
私はこの美術館の展示の変更によって
今までの歴史観を修正することになりました。
私たちの世代は戦後の教育というものを背景に
影響を受けてきましたので
近代イコール軍事的集権支配へと導くエピローグと思っていました。
それに対して近代の芸術家は
極めて内面的な美への追求と
美を追求するための自由を強く持っています。
それが芸術家だからだと思っていたのですが
雑誌やポスターなどを芸術家の作品と同じ括りで展示されると
芸術家の魂は
普通の人々が持つ個人主義の思想を反映しているのではないかと
勝手に想像してしまいます。
つまり政治が全体的軍事集権支配を一般に求めたのに対して
普通の人は個人主義的価値観を強く持っていたと思うのです。
考えてみれば大正から昭和初期にかけての
広告デザインやファッション、文学に至るまで
現在と遜色ない魅力的な表現が多いのは
古本屋として実感するところであります。
近代美術館は現代芸術も多くの作品を所有しています。
ただ、私は何かそれが漠然と展示されているように見えます。
もちろん、近代美術はその歴史的背景を色濃く影響されていますが
現代美術は何でも有りの表現方法ですから
何かで括るというのは難しいのかもしれません。
それでも、学芸員の方の更なる努力で
是非近代美術の展示のようにわくわくドキドキする世界を
構築してほしいものです。
少し話は、はずれますが
このコーナーで日本の近代について考えていると
今ニュースで話題のクリミア半島の問題が
自分の頭の中で、やけに日本の近代とダブっています。
クリミアを併合すると決断したロシアの様子が映像で流れていましたが
そのナショナリズムに歓喜するロシアの民衆の様子は
近代に突き進む日本の様子とリンクし
何とも言えない不安に陥ってしまいました。
そしてひねくれたものの考え方をする私としては
世の中のニュースの判断と異なり
なんとなく西側よりロシアの方が正義があるように思ってしまいます。
きっかけは、ロシアがオリンピックをしている最中に
西側のNPOがウクライナの反政府組織を利用して
クーデターを起こしたとしか見えないからです。
それによって、クリミア半島にいるロシア人を助けるために
ロシアの軍隊がクリミア半島に進行していったと思っているからです。
でもそれは、日本が最悪の戦争に突き進んでいく正義と
とても同じものに感じます。
どうか日本と同じ最悪な判断によって、最悪の結果に陥らないためにも
どこかで世界が妥協点を見つけることができればと思っています。
いままで、「東京国立近代美術館」をねたに
自分の日本の近代感を書いてきました。
次あたりからは、「東京国立近代美術館」蔵の
私の好きな美術品に対しての文章を書いていこうと思っています。
まあ、美術素人の古本屋のたわごとと
御一笑のほど御付き合いいただければ、とてもうれしいです。
「東京国立近代美術館 最初の絵」
貸し出しや特別な企画展の無い限り
かなりの確率で観覧者が最初に眺める絵は
アンリルソーの
「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神」
という作品です。
アンデパンダン展とは誰でも出品可能な無鑑査展のことで
1900年のパリ万国博で「園芸宮」として建てられた会場を
1901年からアンデパンダン展会場として使われ、
その会場にたくさんの画家たちが作品を搬入する様子を
描いている絵画です。
この絵はルソーが、
1906年3月のアンデパンダン展に出品されたもののようで
ルソー自身も握手をする男性として描かれているようです。
そして、天に自由の女神、地にライオンが描かれています。
アンリルソーは今でこそ、その高い芸術性を評価されていますが
生きていた時は全く評価されない画家だったようです。
まあ、解剖学からなる人間の構造や
遠近感が論理的に解析された表現を主流としている
当時のヨーロッパ絵画を考えると
保守的なサロンの芸術家と比較され
児戯に等しい作品と評価されてしまうのはしょうがないことです。
特にルソーの描く人物は表情豊かな人間の顔を無視して
均一的な無表情で描かれています。
私はこの絵を何回となく見ているのですが
最初の頃は特に深い印象は持っていませんでした。
ただ、常に一番最初に飾られている絵画の為
なんとなくその意味を考えるようになってきました。
そして今はこんな風に考えています。
ルソー独特の人物表現の為、その表情から感情は読めないのですが
たくさんの人が作品を持って会場に行く姿は
芸術の多様性の確信、
それを見守るライオンは自由な芸術への自信と誇り、
会場にはためく旗は、アンデパンダン展の正当性
そして、ラッパを吹き鳴らす女神は
自由な芸術を表現する歓喜などと考えています。
全く動きの無い静かな絵なのですが
そんな風に考えると
芸術家の表現する喜びに満ち溢れているように
見えてくるのが不思議です。
美術館としては、最初に展示するにふさわしい作品です。
ただ、東京国立近代美術館は帝展作品が主に展示されていますので
ルソーの自由な芸術とは少し違うのかもしれません。
紹介した絵に興味がありましたら
有名な絵ですから
題名で検索すれば容易に見つけられると思います。
ためしに覗いてみるのも一興ではないでしょうか?
「東京国立近代美術館 パウルクレー」
東京国立近代美術館は日本の帝展の入選作品を中心に
収蔵されています。
なので、当然日本人の作品が中心に集められていますが
その中で比較的多数収蔵されている外国人画家に
「パウルクレー」がいます。
彼の絵は基本的に間違いなく抽象画と呼ばれる種類の絵です。
抽象画は素人には何が書いてあるかわからないため
比較的敬遠される絵の種類であることは確かです。
ただ、パウルクレーの絵は
比較的小さなサイズの絵でありながら
たくさんの方が足を止めて見入ってしまうようです。
谷川俊太郎をはじめ、たくさんの詩人や芸術家に
彼の絵が多大な影響を与えていることにたいして
妙に合点している私がいます。
東京国立近代美術館が収蔵しているパウルクレーの絵は
小さな不揃いな四角形が気持ち良く並び
それぞれの四角形に
気持ちの良い色彩が描かれているものが多いようです。
その代表的作品が
「花ひらく木をめぐる抽象」という作品です。
東京国立近代美術館は頻繁に展示物が入れ替えられるので
たまに展示されていない時もあるようですが
運が良ければ常設展示で見ることができます。
四角形と色彩の配置がとても気持ちがよく
目から心にとても優しく暖かいリズムを送ってくれます。
たぶん色彩や形のグラデーションが
木に咲く花の固い蕾からゆっくり日にちをかけて開花する
その喜びとリンクするからかもしれません。
私でもわかったような気がする
わかりやすい抽象画の芸術なんだと思います。
ちなみに「花ひらく木をめぐる抽象」と類似する作品として
スイスの美術館に「花ひらいて」という作品があるようです。
「花ひらいて」という作品は絵を鑑賞する人間には見えない
裏側に木とも根とも判断の付かない絵が描かれているようです。
クレーの挑戦的なミステリーを感じますが
まあ、桜を愛する日本の国民性を考えれば
謎解きのヒントを提供されなくても
「花ひらく木をめぐる抽象」を直感的に理解できると思います。
紹介した絵は有名な絵ですから
題名で検索すれば容易に見つけられると思います。
ためしに覗いてみるのも一興ではないでしょうか?
「東京国立近代美術館 北脇昇(1)」
東京国立近代美術館で私が一番最初に
考えながら眺めた抽象画というのが
北脇昇の作品「(A+B)2乗意味構造」です。
是非この文章を読む前に
どのような作品か知っていただきたいのですが
2乗というのはPCで検索が難しいワードなので
「北脇昇 (A+B)2意味構造」で検索してみてください。
何とか作品を見つけることができると思います。
ただし、本文章ではその絵の謎解きに挑戦しています。
自ら謎解きに挑戦する方は
本文章を読まないで頂ければ幸いです。
この作品は2つの同じ正方形が横に並んでいます。
2つの正方形の重なった辺に適当な点を設定して
AとBに分けます。
その点から水平に線を書き
その線を利用して2つの正方形と2つの長方形ができるように
垂直の線を引きます。
それが作品の向かって左側の大きな正方形となります。
その大きな正方形は
辺Aの正方形と辺Bの正方形と
辺A、辺Bからなる長方形が2つに分けられることがわかります。
辺Aの正方形の面積はAの2乗、辺Bの正方形の面積はBの2乗です。
辺A、辺Bからなる長方形の面積はA×Bです。
大きな正方形の面積は(A+B)2乗ですから
中学時代に習った(A+B)2乗の展開の公式
(A+B)2乗=Aの2乗+Bの2乗+2×(A×B)となるわけです。
結局理由も覚えずに便利な公式として
回答を得るためにのみ利用していたものが
図形で見てみれば、小学生でもわかる当たり前の事象なのです。
題名から言えば、まさしくこれが「(A+B)2乗意味構造」なのですが
それでは右の正方形にまったく意味がありません。
右側の正方形は
先ほどAとBに分割した点を頂点に持つ
一番大きな正方形の辺に接する正方形が描かれています。
するとその周りに4つの3角形が描かれます。
その3角形はAとBが直角を挟む3角形で
つまり、右側の正方形の中に描かれた正方形というのは
AとBが直角を挟む直角3角形の斜辺を1辺に持つ正方形ということです。
その辺をCとすると面積は
(A+B)2乗=Cの2乗+4×(A×B÷2)
つまり
(A+B)2乗=Cの2乗+2×(A×B)
となります。
長々とわけのわからない文章を書き綴ってきましたが
作品を見れば
左側の正方形の中にある2つの長方形と
右側の正方形の中にある4つの3角形の面積は
同じことは一目瞭然です。
ということは
左側の2つの正方形の面積と
右側の一つの正方形の面積は同じということになり
Aの2乗+Bの2乗=Cの2乗
になるわけです。
そうです。この絵はピタゴラスの定理を
一目でわかるように証明した作品なのです。
数学の教科書で同じ図を見てもそれほど感動はしないのですが
美術館の一角でこの絵を見ると
無性に美しいと感じてしまします。
それは私が理科系の畑で生きてきたからかもしれません。
数学的に証明が面倒なものでも
図形にすると直感的に理解できるその世界は、
不思議で本当に美しいものです。
私がピタゴラスの定理を学校で習ったとき
魔法のような定理だと思ったのを思い出します。
どうしてこのようなことが起こるのか不思議でたまらなかったのです。
もちろん証明も教わっているはずなのですが
それよりも公式として覚えることを強制されていたようで
大人になっても魔法の一つの原理となっていたようです。
もしかしたら
ピタゴラスの定理より生まれた三角関数を使って
未知の数値を電卓で簡単に計算できるのを
それを知らない人が見たら、
本当に魔法と思うのかもしれません。
昔から魔法といえば
杖かステッキを持って呪文を唱えるというのが定番です。
でも、いつのころからかは忘れましたが
最近、術者が魔法をかけると空中に幾何学的模様が発生し
その範囲で魔法が具現化するというアニメが増えてきました。
その魔法表現に、妙にリアリティーを感じるのは
北脇昇の「(A+B)2乗意味構造」を知ってしまったからかもしれません。
ただ最近、東京国立近代美術館の常設展示で
「(A+B)2乗意味構造」が展示されなくなりました。
展示形態が歴史や文化、その背景などで区分けされるようになり
数学的美しさの入る余地がなくなってしまったからかもしれません。
北脇昇の作品でほぼ常に展示されている作品としては
「クォ ヴァディス」が著名です。
この作品も考えれば考えるほど深みにはまる
上質なミステリー要素を抱えた作品です。
ということで
次回も北脇昇について書きたいと思います。
まだ完全な謎解きはできないかもしれませんが…
私の好きな画家ということでどうかお許しください。
「東京国立近代美術館 北脇昇(2)」
東京国立近代美術館蔵で北脇昇の
京都にある竜安寺の石庭を実測した図面があります。
石庭を眺める縁台の最も美しく見える地点を設定して
数学的にその美を定義しようとしたノート的作品です。
何本もの補助線が引かれ
北脇昇にとって、その日本的美というのは
完全に数学的定理が完結しているようです。
(私にはさっぱりわかりません。)
このように北脇昇は見る人の視点と、
作品の中にある形、距離、角度、奥行きなど明らかに意識して
数学的、科学的に表現しています。
絵に表現されている素材は絵の題材ではない場合があるので
注意が必要な場合があります。
このように比較的論理的な抽象画の作品は
何が書いてあるのか考えるだけで、
至高の楽しみを感じることができます。
まさしく、上質のミステリーを解く楽しさです。
さて、以前、ちらっと紹介した北脇昇の作品
「クォヴァディス」について少し考えてみます。
「クォヴァディス」はラテン語で「何処へ行く?」という意味だそうです。
これは十二使徒のひとり聖ペテロが
ローマ帝国への布教をあきらめ逃げる道すがら
主イエスキリストに出合い
キリストの問うた言葉のようです。
主はその問いに
「汝、我が民を見捨てなば、
我、ローマに行きて今一度十字架にかからん。
そなたが私の民を見捨てるなら、
私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。」
と答えたそうです。
それを聞き、ペテロは来た道を戻り
ローマで殉職する道を選び
それがきっかけになって
ローマでキリスト教が栄えたという話のようです。
さて、北脇昇の作品に戻ります。
この作品は中央に大きく後ろ向きの復員兵が描かれています。
足元には左側に巻貝の殻、
右少し前側に2つの行き先を示す道しるべと2輪の花
前に広がる荒野と地平線
左前に地平線を目指す、赤旗を振った人の集団
右前は地平線付近を覆う暗雲と雨柱
地平線の向こうにかすかに見える街のような影
本作品の一般的な解釈は
戦後日本の混乱時に悩み迷う
日本人の姿を描いているといわれています。
東京国立近代美術館では
敗戦後の日本を象徴する作品として展示されているので
どうしてもそのような解釈で見てしまいます。
私もそのようにずっとその絵を解釈していました。
でも、北脇昇という画家の作品が好きになって
北脇昇という画家の知識が少しずつ増えてくると
なんとなく別の解釈をするようになってきました。
別の解釈をするようになったのは
「クォヴァディス」という作品が「北脇昇」の
末期の作品であることを知ってしまってからです。
「クォヴァディス」は昭和24年の作品、
「北脇昇」の死は昭和26年、肺結核によるもののようです。
この絵をかいた時、北脇昇は自分の死期を意識していたのではないか
そのように考えると復員兵の後ろ姿が
進む道を迷っているのではなく
この世の中を卓越した、飄々とした、
全てを受け入れて、すべてを悟った
仙人の後ろ姿に見えてきたのです。
ペテロがイエスに出合い「クォヴァディス」と問うたのと同じように
この絵を見ている我々は、絵の中にいる復員兵に
「何処へ行く?」と問わなくてはいけないかもしれません。
イエスは向こうからやってきてくれたのですが
我々は復員兵と同じ方向に進んで、
立ち止まっている復員兵に尋ねなくてはいけないのです。
ペテロは来た道を引き返す判断をしたのですが
我々も復員兵も、来た道を戻るという選択肢はありません。
それは道しるべが2方向に分れているだけで
復員兵のいる位置が三叉路ではないからです。
当然、戦争に立ち返るという選択肢は1億人の日本人が
絶対に選ばないと信じているからかもしれません。
それを承知で復員兵に尋ねれば
復員兵が何も語らなくても
自ずと答えが見えてきます。
左前に地平線を目指す、赤旗を振った人の集団の先には
何一つない荒野が果てしなく続いているだけです。
右前は地平線付近を覆う暗雲と雨柱の中
向かうには果てしない困難が想像されますが
地平線のかなたには、街らしき影がある。
また、道しるべは右側に進む方向に
2輪の花が咲いている。
復員兵は明らかに進むべき方向を決めている。
ただ、復員兵が北脇昇本人であるなら
病魔との戦いで先に進むことができない。
すなわち、我々の問うた質問に対して
絵で明らかに回答を示して、その後
我々がどのような行動を示すかを
試しているようにしか思えないのです。
さて、私はというと長いものには巻かれる性格ですので
おそらくは、左へ進んでしまう可能性が高いです。
ただ、この絵画に描かれたような、究極な選択が必要な場合
目の前の集団心理に囚われず
暗雲と雨柱の中でも、希望が見えている方向に進みたいものです。
この解釈は全く私個人のものです。
一般的な評論文などで紹介している解釈とは全く異なります。
どうも、北脇昇はこの絵に何の解釈もしなかったようです。
もう少し、ヒントを残しておいてくれたら
画家の思いをもう少し正確に判断できるだろうに
少し残念な気がします。
しかし、自分で勝手に判断することで
自己満足に浸れるという喜びはあります。
こんなところは
謎が解ければ必ず犯人が見つかるという
書籍のミステリーとは異なる
絵画のミステリーなのかもしれません。
実は絵画の中で最も異質な存在である
足元にある巻貝の殻にはまだ何も触れていません。
一般的な解釈では
「殻に閉じこもり、その場で停滞する第3の道」と考えられています。
でも私は
究極の2者選択を迫っている北脇昇が
絵を見ている我々に、
その場に立ち止まる道具を残してくれるとは思えないのです。
巻貝の殻と道しるべと復員兵は
ほぼ同じ位置のレベルに描かれています。
3者にはそれぞれ影が描かれているのですが
道しるべと復員兵の影は2輪の花の方向に延びているのに対して
巻貝の殻の影は道しるべと復員兵の影と異なり
暗雲と雨柱に向かう方の道しるべの方向に延びているのです。
影が違うということは存在する空間が異なるということです。
つまり一つの空間にまとめられている絵のパーツにおいて
巻貝の殻だけは、異次元の空間に存在しているのかもしれません。
北脇昇の生前にあった理論ではありませんが
時間と空間の関係はらせん状に存在しているという理論があります。
私にはどうしても巻貝の殻とリンクして
未来にこの絵を見ている私たちへの何らかのメッセージだと思うのです。
おそらく、2者選択を迫る絵なのに
道が描かれていないことに繋がっているような気がするのですが
具体的な想像力に欠けているため
巻貝の謎はまだミステリーの霧の中です。
しかし、絵画の中では全知全能の神である北脇昇も人の子です。
未来にこの作品を見る我々に対して
何かしらのアイテムとして
巻貝を残しておいてくれたと考えたいです。
久しぶりに東京国立近代美術館に行きました。
こんなことを書いているのでこの絵を見ることを楽しみにしていました。
私が通っている時ほとんど
この絵は展示されていたのですが
今は別の北脇昇の絵が展示されて
この絵は外されていました。
まあ、近いうちにあらためて展示されるでしょうから
それまではしばらくの間
このミステリーには栞を挟んで
しばらくの間は、霧の中に放置しておきます。
「東京国立近代美術館 横山大観」
「東京国立近代美術館蔵で最も貴重な芸術は?」と問われたら
私は横山大観の「生々流転」をあげます。
実はこの作品は、所蔵品でありながら
簡単には常設展示できない作品です。
なぜならば、幅は50cm程度なのに
長さが40m近くある作品だからです。
その為に通常の展示室におくことができず
特別展の無いとき、特別展の会場となる1階の
最も長い場所に、こっそりと常設展示品として
年に数回、数日公開されています。
だから、この作品を運よく見れたら
それは私にとっては掛替えの無い幸運なのです。
始まりは深山からとなります。
深い森と霞か雲の中
しっとりとした空気感が包み
人が入れない動物と木々の世界です。
霞か雲の水滴が集まったのでしょう、
山々から水を集め
いつの間にか深い渓流が現れます。
水の流れによって創られた深い岩稜を流れる中
切通しが現れ、その自然にへばりつくように
人が現れます。
そしてさらに木々の深い山を越え、
木材を下流に送る筏氏が現れ
川の中流域となります。
そして、人の普通の生活や風景が現れると
川は大河の様相を見せ始めます。
橋や街が現れるともう河口近くです。
やがて川は海へと到達し
船を岸に戻そうとしている人々を見ながら
島や岩にたたずむ海鵜を越えると
海は次第にあれ、やがて激しい渦巻となり
水が天へと戻っていく様が描かれています。
水が渦巻きとなり、天へ登っていく様は
龍が描かれているといわれていますが
私はまだ龍と判断できません。
やはり、荒れ狂う海と渦を巻いて登る水は
台風とか熱帯低気圧とかを想像してしまうからかもしれません。
いつかは龍の姿がわかるようになりたいです。
この絵は天からの恵みである水が
川、海とながれ
やがて天に戻っていく様子が描かれています。
そして、その壮大な自然のサイクルの中で
へばりつくように生きている動植物と人間が描かれています。
私が運良くこの絵を見ることができると
いつも自然に対して謙虚でなくてはいけないと考えてしまいます。
積極的に自然と遊ぶのは楽しいことですが
何か摂理に反しているように感じてしまいます。
やっぱり人間は自然に入るときは臆病であることが
必要条件なのかもしれません。
アウトドアではなく、
インネイチャーを意識できるようになりたいものです。
「横山大観」と言えば、
岡倉天心と日本美術院設立に深く関わり、
「朦朧体(もうろうたい)」という新しい日本画の技術を確立した
日本画の巨匠です。
しかし彼の絵を見ると
作品に対する、そんな背景的なことは
どうでもよいと思ってしまいます。
その作品はとにかく圧倒的にすごいのです。
何がすごいのかと言うと、
芸術の知識不足の私では具体的には言えませんが
おそらく、ほかの日本画の方々に対して
圧倒的に技術力が高いからだと思います。
たぶん誰でもが、数枚の絵の中に大観の作品を加えて
大観の絵を当てるというゲームがあったなら
たぶん誰でもが、大観の作品を当てることができるような
それほどの差があるように思います。
確かな話ではありませんが、
大観の使う筆は、名人が大観だけの為に作ったものを使い
大観の使う墨は、名人が大観だけの為に作ったものを使い
大観の使う紙は、名人が大観の意図に沿うように、作品ごとに変えた
というのを聞いたことがあります。
私は、現在においても、
日本画壇で大観を超える画家はまだいないと思っています。
ただ、それは芸術的な表現力という面では
高い技術力というのは、
ある意味ではマイナスの要因となるのかもしれませんが・・・・
「生々流転」はその大観の最高傑作だと思います。
これも確かな話ではないのですが
作品がほぼ完成に近づいたとき
ちょうど関東大震災が起こってしまい
大観はその作品だけを持って避難したということです。
その時にまだ乾いていない墨の影響で
数か所、作者の意図しない墨の汚れが付いたということです。
それは、プロの人が見ればわかるのかもしれませんが
私にはさっぱりわかりません。
ただ、あまりにもすごい作品が完成してしまったので
神様が、東照宮の逆さ柱のような役目を
その汚れに持たせたのかもしれません。
巨匠の超大作、是非見て下さいと薦めたいのですが
最初に書いたように、なかなか展示をしてくれません。
もし運がよく展示日がわかったら
「生々流転」を見るだけの為に
東京国立近代美術館の常設展示を見に行くのも
なかなか通っぽくて面白いと思います。
「東京国立近代美術館 下村観山 木の間の秋」
「下村観山 木の間の秋」は深い森と下草が描かれた
二曲一双の屏風絵です。
この絵は私が屏風絵に感動した初めての作品です。
それまで屏風というものは、
日本古来のパーテーションとしてしか見ていませんでした。
つまり美術品ではなく工芸品としてしか見れなく
美術館ではいつも素通りをしていたのです。
私と「下村観山 木の間の秋」の出会いは
美術館が行っている所蔵品ガイドの
一番最初の参加時でした。
その解説内容を簡単にまとめると
桃山時代から続く琳派の伝統を残し
遠近法を使った洋画の知識を取り入れた作品
と言うような解説でした。
その時じっくりと屏風を見る機会を得たわけですが
少し離れて全体像を見たとき
私は衝撃を覚えました。
さりげないその木々の風景が
実際にその場にいるような錯覚をしたのです。
それは3次元の奥行きを感じてしまったのです。
その不思議な感覚を覚えてしまってから
美術館で屏風絵の前で足を止めるようになりました。
すると、屏風絵には普通の絵画では見られない
いくつかの楽しみ方があることに気付きました。
(あるいは、勝手な思い込みかもしれませんが…)
屏風絵は蛇腹のように折られた形で展示されています。
2面がくの字のように曲げられた場合2曲、
それが2つセットでになると一双と呼び
その場合2曲一双と呼び1つの作品となります。
その中央部を見ながら少しずつ下がっていき
意識はしないけど全体が見えるところまで距離をとると
不思議なことにその作品に3Dの奥行きが現れます。
何らかの伝統的なテクニックがあるのかもしれませんが
芸術に無知な私にはどうしてかはわかりません。
「木の間の秋」特にその感覚に陥りやすく
自分が森の中を彷徨っている感じさえ持てます。
あと、近づいて右端から順に見ていくと
曲げられて、隠されている場面が現れ
次から次へと物語が続くような
まるでマンガを読むとき次のページをめくる楽しさのような
そんな感じ方のできる屏風絵もあります。
どちらにしても
曲げられる形で表現される芸術であり
圧倒的に横に長い表現の芸術ですので
西洋の美術とは異なる楽しみ方ができます。
日本のワイド画面のテレビがいち早く一般的になったのは
まあ、一番は地デジの影響でしょうが
少しは日本の屏風絵のような伝統文化の影響が
あるものだと信じたいものです。
「東京国立近代美術館 美術の深さ」
ネタが無い、ネタが無いと愚痴をこぼしながら
細々と自分の好きなことを書いてきたコーナーですが
東京国立近代美術館の作品について書いてきた昨今は
書くネタについては、さほど心配しないですみました。
その気になれば、所蔵品の数だけネタがあると
言っても過言でないからです。
ただ、それに対して、少しづつ自己嫌悪が重なってきています。
それは、あまりにも私が
芸術に対して何もわかっていないにもかかわらず
自分の思い込みを文章にしていたからです。
芸術に一家言ある方なら
私の文章を鼻で笑っていたはずです。
でも最近、美術館で美術に接する喜びというものが
少しづつ感じるようになってきたのも確かです。
少し鼻につき高尚っぽい美術という世界は
その部分を超えることができれば
これほど作者の思いがわかりやすいものは無いと思います。
芸術から自分が感じたものは
作者が訴えたいものと大きな差があるわけがないのです。
作者はその思いを我々に伝えたいのに間違えが無いからです。
久しぶりにこの前、東京国立近代美術館に行きました。
この秋の常設展示はかなり見ごたえがあります。
人気の高い、「パウル・クレー」「国吉康雄」「東山魁夷」の
美術館所蔵作品がたぶん全て出展されているようです。
こんなことはめったにありませんから
時間を使ってでも見る価値があると思います。
特別展示で「菱田春草展」を行っていましたが
よっぽどのことが無い限り特別展示は観覧料が高いので見ません。
それに対して常設展示はさすが国立というぐらい安いので
(私の場合は年間パスポート1000円を使っています。)
高尚の壁を取っ払って一見の価値ありです。
何はともあれ、美術論や美術評を書くことは
今回で終わりにしようと思っています。
今まで浅い文章に付き合って下さってありがとうございます。
次に何を書くのか決まってはいませんが
ヤフーがこのシステムサービスを続ける限り
できるだけ、無い知恵を絞って書き続けるつもりでいます。
駄文が不快につながらないよう全力を尽くしますので
是非期待などをしないでお付き合いいただければ幸いです。
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