鶏飼い時事(じじい)…『やはり鶏飼いは鶏殺しには抵抗すべきだと思う』



水海道報道以来の鶏業界の混乱振りは本当に目に余る。村八分の当方としては、兎にも角にも世界の趨勢にそって、国も実態と合わなくなった《清浄国論》の旗を降ろし、周辺諸国と歩調を合わせてAIウイルス根絶の為と称する鶏虐殺の方針を改めて、そのコントロールを目指すべきだと主張してきた。もともと《清浄国論》の意図するところは国内農業の保護を目論んだものであることに異論はない。その中に在って、ひとり養鶏産業だけは最初から国におんぶにだっこでは来なかったとする自負が本物なら、外国との競争は自分達でやるから自由にやらせてくれと国にお願いするところまで来たかな、と思っていたらそれどこでない実態が露見してきた。
ウインドウレス鶏舎だけの差別化を怒るのはいいが、それを殺せはないだろう。ウインドウレスを生かすのら、解放鶏舎の鶏も本来は理由のない差別で殺す理不尽はやめろと要求するのが筋ではないのか。

業界はウインドウレスの鶏も殺せと要求することで国に言質を取られてしまったと見る向きがある。殺すのは良いんだな?とする、OO7《殺しのライセンス》である。
一方、村八分の立場で国に楯突いたところでどうにもならない位は心得て居る。しかし鶏達を黙って殺させるわけにはいかぬ。

前シリーズで、たびたび馬と豚の例(『H7N7 ウマの成功例を見よ』・『養鶏現場報告(2)16・3・15』・『A農産の事、 16・3・15』・『馬 インフルエンザ1号の示唆するところ』・『トリインフルエンザNHK報道の偏向のひどさ』・『許し難い農水省と学者一味』・『休日閑話その2』等々…)を取り上げた。もう一度繰り返す。
1924年のH7N7家禽ペストの侵入はよく知られて居る。このときは100%の致死率だった為、ウイルスそのものが絶えてしまって以後続発は全く無かった。
ところが同じ亜型が1971年になって今度は馬に出た。国は直ちにワクチンを取り寄せ全国の馬に接種した。ワクチンの認可は翌年という早業だった。人への危険性を云うなら馬は鶏の比ではないが、以後 馬のH7N7が人に現れたことはない。鶏にワクチンを打つことが 即、人を危険にさらすというのは国と学者の謀略に近い。豚の場合など、野性の猪を含め80%が陽性である。この事から、とにかく鶏にも豚、馬、人並のことを要求して来た訳である。鶏の場合、さすがにHPAIは仕方がない。しかし今回のように事実上のLPAIをH5というだけで、将来HPAI化する恐れがあるとして実態を見ず、規則だけで大量に殺し続けるのは如何にも理不尽であり不経済である。万一HPAIに変異したら(かならずするとは限らない)その時点で初めて淘汰すれがいいことだ。

ついでながら野外毒とワクチンの型がぴったり合わないと効かないとする説も日本はじめ少数派で、野外では馴致手段として、現にいろいろな免疫交差を利用して薬を使わずに病気を防いで居るのである。

いつもこうやって理屈をこねるからかえって紛れてしまう。
そう、鶏飼いは基本的に理不尽な鶏殺しに反対すべきなのである。鶏を殺さないと人間が危ないんだというなら、その時まず危ないのは自分の家族であり従業員達だ。それらを犠牲にするほど鶏飼いは無責任ではない。安全の上にも安全を図るのが経営者の義務である。

たしかにウインドレスの差別化問題はIさんが契機にはなった。日頃、日本一のIさんが横暴?だからと云って、その鶏も殺せと要求するように見えてしまったらまずい。どだい最初のAKさんの鶏を小委員会の密室の討議の決定だけで殺すことに反対しなかったのがおかしいのだ。どうしてもと云うならその理由を聞きただして徹底的に他の選択肢と比較検証すべきだった。「これで後は出ないだろう」という喜田教授のいつもの無責任な安請け合いを、簡単に信用すべきでなかった。
そんな殺しに反対するトップページの緊急発言は賛同者は多かったものの、むろん業界が動く気配はなかった。

今、業界が結束するために要求するのは《鶏の命を救う》こと以外にない。ここで無理に茨城の鶏を殺さずとも、全く別の形でHPAIの発生が近いことを覚悟しなければならないのだから。

H 17 9 15. I,SHINOHARA.