灰色の騎士さん、貴方と私は似ている・・・そうは思いませんか? いや、我々は同類だ、しかし、貴方は常に私より先を見つめている・・・。 ・・・なんて、ちょっと失礼なことを言ってみたり、 というか「アンタと一緒にしないでくれ」と思われるかもしれませんが、 たぶん、私たちの言いたいことは同じはずです。 ただ、それまで二人は、それぞれ違った場所で生きてきたと・・・。 ・・・うわああああ!! 何を言ってるんでしょう私! でも、貴方には自分と同じ匂いを感じるのです。(←こういうこと言うのって失礼なのでしょうか?)
さて、灰色の騎士さんがおっしゃるのは、タクティのテーマはまとまっていないのではなくて、 あえて、それらをまとめることをしなかった、ということですね。 一見、まとまりがないようでありながら、そのことも含めて、テーマは全てとして語られている、 そう考えることによって納得ができる(できないこともない)、・・・ということでしょうか? いや・・・、たしかに納得できないこともありません、というか納得してしまう、その方が早いのでしょう。 でも私は、ただ単に納得したくないだけなのかもしれませんが、 何か、納得してしまったらそこで終わりのような気がするので、 いつまでも納得せずに、また叫び続けるのでしょう・・・。 それでも、どこに向かって叫ぶのか? ということは重要なので、黒騎士さんのネタ振りを踏まえるに、 結局、私が気に入らないのは、主人公=デニムが青くさいまま話が終わってしまうということです。 青くさいことが悪い、そうは思いません。しかしそれが物語上の出来事であるにしても、 まま現実的に勝利してしまうのは、テーマの終着点として、やはりどうかと思うのです。 彼とは相容れない者達の、その生き様が、つまりは無駄死にに終わっているんですよ。 主人公が人格的に成長し切れていたか? ということで疑問があるのと、 それによって、変に物語の現実的な部分が浮いてしまっているということです。 彼は少なからず、もっと現実を知るべきだったのではないでしょうか? 理想を捨てろ・・・とまでは言いませんが、他人との歩み寄りをもって現実は変わっていく、 “手をとりあって”変えていこうする、そういう姿勢がまず求められるべきで、 他人との妥協をすること無しに、現実は変わり得ないはずです。自分の理想のみを貫くのは、ある種極端でもあり、 理想を求め過ぎる者は理想に終わる・・・。だから、人はありのままの現実を直視しなければならない、 やはり、このことは人が現実と向き合う、理想を現実に投影する上で、まず何よりも重要なことではないでしょうか? そこにいる人々=他人の心を理解する、少なくとも理解しようとする心が無ければ、 どんな崇高な理想も、結局は独断的なエゴイズムでしかなく、やがてエゴは他人に対する攻撃性へと転化する、 そして、そこにまた新たな対立が生まれる・・・そんなふうに思うのです。
とはいえ、こうした観点に立つと、Lルート2章「誰も僕を責めることはできない」、あれは最高でした。 理想のために戦い、しかしその求める理想の形は、飽くまでも現実のものとしてしか手にできず、 しかるに、理想と現実のギャップ、それは埋めようがなく、人はその間でのバランスを取ろうとするが、 そうしようとすることで、またそこに生じる心の隙間、それから人が逃れることは、やはり永遠に不可能であり、 虐殺の現実と非現実、そしてそこに見え隠れする理想、そのための覚悟と答え・・・。 ・・・の描かれ方がすばらしかったと(私的には)思います。 ただ、ここで誤解の無いように言いますが、私は虐殺が必ずしも現実的であったとは思いません。 虐殺という考え方自体、戦争という非日常的な空間の内でこそ、現実味を帯びるのであって、 いわば、それは超現実主義の産物であると・・・そんなふうに思います。 虐殺をその一面だけで捉える、それだけでは戦争には勝てない・・・というより勝つ資格が無い、 それは何を意味し、また何をもたらすのか? その全てを納得し、それでもあえて虐殺をする理由とは? しかし、主人公は理想のために現実を破壊した・・・、ただそれだけであり、 それ以上に、虐殺を現実的に理解していた人間はいなかった・・・と曖昧ながらそう感じます。 破壊するだけでは未来はあり得ず、そこにまた創り出すことによって、人も世界もまた生まれ変わる、 このあたりのテーマが、まじめに語られようとしていたLルート2章だったと思ったのですが・・・。 全てはレオナールの死によって、跡形もなくぶち壊されます。 テーマのすり替わる瞬間、それはどのルートでも彼の死が決定的です。 やはり、レオナールの存在が、物語全体の内でも、まだ青くさい主人公との緩衝材の役目を果たしていたのだと、 その死によって最も顕著に感じる瞬間だと思います。さすがに瞬間的な違和感を感じることはありませんが、 これを境界線と見れば、その前後でのテーマのズレが、私にははっきりと見て取れるのです。 たしかに、Cルートはテーマのすり替えこそ無いかもしれませんが、話の展開が都合よ過ぎるというか、 自分で民族紛争に参加しておきながら、何故、それが存在しないと言い切れるのか? LとNも、どういうわけか突然この方向性に話が収斂されてしまう、 上に立つ権力者さえ葬り、あとはその場所にカチュアを立たせればいい、それで全てがうまくいく、 こういう考え方が表面上まかり通っている・・・このことに私の最大の不満があります。
・・・いや、しかしこういうのは、ほんとに表面的な、主人公を中心としたストーリー内だけのことであり、 実際には、よりシビアな現実も、これに当てつけてか、いくつか語られていたのも事実です。 要するに私はただ、タクティの主人公的な生き方に反発したいだけなのでしょう・・・。 ・・・っていうか、エゴ吐き出しまくりなのはむしろ私なのか・・・!?
以上、何かとんでもない長さになっているかもしれませんが、今日はこのへんで。
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