内藤 昌豊 ????〜天正三(1575)年
武将列伝
工藤源左衛門尉佑長。幼少の際に父であった工藤虎豊が武田信虎に誅殺され、兄と共に武田家を出奔する。天文一五(1546)年に甲斐へ戻り、武田信玄に仕えた。昌豊は永禄四(1561)年の川中島合戦にて討ち死にした武田信繁に代わって武田家の副将とも人々からは言われていた。昌豊は合戦は個人の手柄で勝利を得るの出はなく、大将の采配によってもたらされるものとの考えがあったようで、現存している感状は皆無との事である。永禄九(1566)年には上野の箕輪城主となり、西上野の拠点を任された。元亀二(1571)年には相模の北条氏康が死去すると、跡を継いだ北条氏政との間で和睦交渉を行い、甲相同盟を締結させている。武田信玄没後は勝頼に仕える。しかし天正三(1575)年の設楽が原においては、山県、馬場らの老臣と共に味方不利を、武田勝頼に対して説くが、聞き入られなかった。昌豊は騎馬隊を率いて織田・徳川連合軍に突撃を掛けるが、銃火の前に討ち死に。


直江 兼続 永禄三(1560)年〜元和五(1619)年
武将列伝
山城守。兼続は越後上杉氏家臣の長尾政景の臣である樋口兼豊の子として育つ。政景の死後,上杉景勝の側近として春日山へ入城。天正六(1578)年上杉謙信死後に起きた景勝と景虎(北条家からの養子)との間で起きた跡目相続争い(御館の乱)では、景勝側にて父樋口兼豊と共に奮闘する。直江景綱の娘であるお船の婿となり,直江兼続と名を改め直江家を継いだ。
敵対関係にあった織田信長が本能寺にて横死すると、すかさず羽柴秀吉と和を結ぶ様にと主君である上杉景勝に進言する。その同盟相手であった秀吉が天下統一を果たすと、その政権下に組み込まれ上杉家は五大老に列し、越後九〇万石から会津一二〇万石へ加増される。さらには兼続個人に出羽米沢に三〇万石が与えられた。また秀吉より山城守が下賜される。
豊臣秀吉死後は徳川家康から促された上洛を拒否し、さらに徳川家康からの使者に対し、逆に挑戦状をたたきつける。その結果、徳川家康を中心とした大名等による会津征伐がはじまった。兼続は会津領内から山形方面にかけて転戦すえうが、関ヶ原にて徳川家康が勝利を得たという情報を受けると、全ての兵を会津へ退かせた。翌年に主君の上杉景勝と共に上洛を果たし、上杉家を会津一二〇万石から兼続の所領であった米沢三〇万石に減封さらた。
兼続自身も五万石の身代となる。慶長一九(1614)年には起きた大阪の陣に参戦。その後も徳川家の本多正信から養子を迎入れるなど徳川家との結び付きを強め、お家の安泰をはかった。
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直江 景綱 ????〜天正五(1578)年
武将列伝
実綱。越後与板城主。長尾為景,晴景,そして景虎(のちの上杉謙信)と三代にわたって仕える。長尾家の重臣として主に政治的方面に手腕を発揮し,内政および他家との交渉ごとにあたっていた。主君が遠征の際には春日山城の留守居役を,また関白近衛前継来訪の際には,その接待役を勤める。なお永禄四(1561)年の川中島の戦いにおいて,上杉軍の殿軍として軍事方面でも重要な任を与えられている。天正四(1576)年には謙信の能登遠征に従い,一時期石動城の城代を任される。しかし翌年三月に病没。なお直江兼継の妻となる船は,景綱の娘である。


中川 清秀 天文一一(1542)年 〜 天正一一(1583)年
武将列伝
はじめは摂津の池田勝正に仕えていた。元亀三年には高槻城を攻め、城主和田惟政を討ち取っている。その後天正六年には織田信長の軍門に下り、同じく摂津の武将荒木村重に組み入れられ、摂津茨木城主となる。村重が信長に反旗を起こした際、一度は同調したかに思われたが、結局は信長に再度下り、そのまま有岡城攻めを行った。また天正十年には池田恒興の下、中国攻めの出陣の準備を命じられていたが、その際に本能寺の変が勃発。備中から戻ってきた羽柴秀吉軍にそのまま加わり、山崎の合戦に参戦。その翌年の賤ヶ岳の戦いでは、敵将佐久間盛政に奇襲を掛けられて討死。持ち場から退かずに必死に奮戦した話は、後世に語り継がれる事になる。


長尾 政景 ????〜永禄七(1564)年
武将列伝
越後魚沼郡上田を根拠とする上田長尾家当主。天文一六(1547)年,長尾晴景と景虎との兄弟間で家督争いがおきた際は晴景方についた。景虎が家督を継いだ翌天文一九(1550)年,景虎に反旗を翻した。しかし景虎率いる軍勢に押され,翌二〇(1551)年に和睦。その際,景虎の実姉である仙桃院を妻として娶る。永禄七(1564)年,信濃野尻湖において,宇佐美定満と供に船遊びをしている際に溺死した。後に上杉家の家督を継ぐことになる景勝は,政景と仙桃院の子(顕景)である。


長野 業正 明応元(1491)年〜永禄四(1561)年
武将列伝
関東管領山内上杉氏の臣。信濃守。上野箕輪城主。関東管領家の復興を願いつつ、上州の箕輪の城に籠もって戦の日々をすごしていた。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康等に幾度も攻められるが、業正が存命中は落城をすることは無かった。武田信玄は「箕輪に業正があるかぎりは、上州には手を出せぬ」と言ったとか。


仁科 盛信 ????〜天正一〇(1582)年
武将列伝
武田信玄の五男。母は油川氏の娘。信濃の仁科家の家督を継ぎ、仁科盛信と名乗る。信濃高遠城主。父である信玄亡き後は、兄武田勝頼と共に武田家を支えた。しかし天正一〇(1582)年、信濃高遠城にて織田信忠の軍勢に攻められ、最後は自刃して意地をみせた。。
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丹羽 長秀 天文四(1535)年 〜 天正一三(1585)年
武将列伝
天文一九年に織田信長げ仕えていたようで、天文二二年頃には初陣を飾っていた。桶狭間の戦いの際にも、従軍していたようである。永禄一一(1568)年に行った、信長の上洛作戦にも同行。その後羽柴秀吉、明智光秀等と共に、京での政務を取り仕切る。元亀元年には浅井氏との戦で功でもって、佐和山一〇万石を与えられる。その後も各地の合戦には、丹羽長秀の名が目に付く。おそらく織田家の遊軍といった立場であったのであろう。また本能寺の変の際は、神戸信孝(信長三男)を擁して、大阪城を攻め、羽柴秀吉に従って山崎の地にて明智光秀軍をうち破る。その後は秀吉に与し、賤ヶ岳では柴田勝家軍との戦に参戦。柴田家滅亡後は、越前、若狭を領して北ノ庄に居城を移す。