■米沢城小史
米沢城は鎌倉時代の暦仁元(1238)年、大江時広により、この地へ築城されたのが米沢城のはじまりである。
大江氏から城主が代わったのが天授六(1380)年のことであった。伊達宗遠により攻められ、これ以降は伊達氏の城となる。といっても、いくつかある支城の中の一つであったであろう。
伊達晴宗がこの地を本拠地と定めたのが天文一七(1548)年。そしてそれから一九年後の永禄一〇(1567)年に伊達政宗がこの地で誕生した。伊達家の中心として天正一九(1591)年まで、この城を治めていた。
伊達政宗が陸奥岩出山へ移住すると、豊臣家から蒲生氏郷が入城してきた。およそ六年間、慶長三(1598)年までの間を蒲生家の支配下におかれた。
そうした時を経て、上杉景勝の家臣であった直江兼続が、豊臣家から見れば陪臣という身でありながら、三〇万石という高禄でもって入城。
関ヶ原の合戦において、直江兼続の主君である上杉景勝は、徳川家康と敵対する。この天下分け目の決戦において、上杉景勝は会津一二〇万石の領地を没収され、臣直江兼続の米沢三〇万石へ減封された。
それ以後、上杉氏の居城として米沢城は明治維新まで続いた。
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