米沢城

■米沢城散策

新幹線といえば高架の線路ばかりという常識が、1992年に覆させられた。在来線を新幹線が走るという事実にちょっと驚きもしたものです。そして今回はそんな新幹線つばさ号にのって、米沢まで行ってまいりました。

米沢城といえば、関ヶ原の合戦後に上杉氏が移封されてから、上杉氏の城下町として栄えた。上杉氏といえば上杉謙信を思い出すが、ここへ来たのは上杉景勝である。しかし米沢の地で有名なのはその子孫にあたる上杉鷹山ではないでしょうか。 余談ではあるが独眼流政宗こと、伊達政宗は米沢城にて誕生したと言われております。

米沢駅を降りると、なぜだかサラリーマン姿の人がやたらと目に付いた。出張のひとだろうか?

それはともかく米沢城に向かう事に。城跡へはバスを利用する方法もあるだろうが、本数の問題で却下。タクシーという手段もあるが、ここは足腰を鍛える意味でも歩く事に。

距離にすれば2キロほどである。時間にして30分をみておけば良い距離です。

当日は桜満開であり、東京地方ではすでに散ってしまった桜を再度、眺める事ができました。ちょっと得した気分。米沢まで足を運んだ甲斐があったというものです。

さて米沢城(一般的には上杉神社というそうですが)。駅から来るとその手前は公園の様に整備されており、城跡とも思えない雰囲気。城の入り口手前にある松岬神社には、上杉鷹山公の像があります。

上杉謙信像 米沢城跡は周りを掘りに囲まれており、その土塁には先にも述べた様に桜が満開。正面参道にはいくつかの出店も。さらに土塁の水辺には上杉氏家臣の名の書かれた幟が数本。あと少しと迫った上杉祭り関連なんでしょうか。

正面の参道脇に小高い丘があり、そこを登って行くと、お花見客もいっぱい。確かにここだったら桜も多いし、場所もちょっと広いから最適かも。ここには上杉謙信の遺骸が埋葬された言われる祠堂跡などがある。また参道をはさんで反対側には上杉神社の祭神という上杉謙信の銅像もあります。

一の鳥居、二の鳥居とくぐって行くと、上杉神社の本殿へと突き当たります。ここがこの上杉神社の中心と成る所です。

その脇には稽照殿という名のちょっとした博物館があります。展示物としては鎧から刀など。さらには上杉謙信(当時は輝虎)が、武田信玄の悪行を綴った書状なども展示されております。ちょっと立ち寄るのに最適です。

今回訪れることが出来なかった、上杉博物館や林泉寺、上杉家廟所などは、次回の機会に見学したいものです。その時は温泉付きで。


 
■米沢城小史

米沢城は鎌倉時代の暦仁元(1238)年、大江時広により、この地へ築城されたのが米沢城のはじまりである。

大江氏から城主が代わったのが天授六(1380)年のことであった。伊達宗遠により攻められ、これ以降は伊達氏の城となる。といっても、いくつかある支城の中の一つであったであろう。

伊達晴宗がこの地を本拠地と定めたのが天文一七(1548)年。そしてそれから一九年後の永禄一〇(1567)年に伊達政宗がこの地で誕生した。伊達家の中心として天正一九(1591)年まで、この城を治めていた。

伊達政宗が陸奥岩出山へ移住すると、豊臣家から蒲生氏郷が入城してきた。およそ六年間、慶長三(1598)年までの間を蒲生家の支配下におかれた。

そうした時を経て、上杉景勝の家臣であった直江兼続が、豊臣家から見れば陪臣という身でありながら、三〇万石という高禄でもって入城。

関ヶ原の合戦において、直江兼続の主君である上杉景勝は、徳川家康と敵対する。この天下分け目の決戦において、上杉景勝は会津一二〇万石の領地を没収され、臣直江兼続の米沢三〇万石へ減封された。

それ以後、上杉氏の居城として米沢城は明治維新まで続いた。
 
■写真


 
■情報
別 名 :舞鶴城、松岬城
所在地 :山形県米沢市丸の内
築城年 :暦仁元(1238)年,慶長六(1601)年
関連武将:上杉景勝、直江兼続

■アクセス
鉄 道 :JR米沢駅より徒歩30分