GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

内藤湖南:内藤虎次郎

 東洋史学の世界的権威。毛馬内。昭和九年六月二十六日没。

参考(出典):「鹿角市史」
 
 慶応二年〜昭和九年。
 内藤湖南は毛馬内古町生まれで、東洋史学の世界的権威者であり、その著作は『内藤 湖南全集』全十四巻に収められている。また父内藤十湾が著した『鹿角志』を校閲し序 文を書いている。その著『日本文化史研究』は民俗学の思想にも影響を与えている。
 その他郷土鹿角の民俗についても常に興味と関心を示し、明治三十一年『帰省記』を 著した。柳田国男は、湖南を尊敬していたと云う。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 東洋学の世界的権威者 −
 内藤虎次郎は湖南と号し、慶応二年(1866年)七月内藤調一(十湾)の二男として 毛馬内に生まれた。母は学問があったので、五歳の頃から漢文の「二十四孝」を読ませられたが、 覚えがよいのて父からは「四書」の素読(そどく)を教わった。明治十六年、十八歳で秋田師範学校中等部 に首席で入学した。一年半たって高等部に補欠編入され、四年かかるところを、二年半で卒業した。 まもなく北秋田郡綴子小学校の首席訓導(実権校長)として赴任し、新教育を施こして村民の信頼を受けた。
 
 明治二十年八月退職して、東京に出て大内青巒(せいらん)の「明教新誌」や三宅雪嶺(みやけせつれい) の「日本及び日本人」あるいは「万朝報」に筆をとり、文名が広く知られるようになった。日清戦後、 「台湾日報」に招かれ、台湾統治の報道に寄与した。一年後帰国して、大阪朝日新聞にはいり、明識なる支那通として、 縦横の筆をふるった。
 
 明治四十年十月京都大学に招かれ東洋史の講座を担当し、しばしば中国、満鮮を歴訪して珍本異書を集め、 大官、高儒と交際し、大いに識見を高めた。明治四十三年文学博士を授けられ、支那学の権威として天下に 重きをなすに至った。大正十五年八月大学停年制によって退官したが、勅旨により帝国学士院会員となり、 学会最高の栄誉をうけた。
 
 これより先大正十二年長男乾吉を伴いヨーロッパを巡遊して、英仏独の東洋研究の状況を視察した。 著書には「近世文学史論」「諸葛武侯」など十数種あるが「湖南全集」十四巻に収められることになった。 また蔵書五万巻は恭仁山荘(くにさんそう)に宝蔵されている。昭和六年のご講書始めには 「通典(つてん)」について進講した。昭和九年六月二十六日病のため没した。享年六十九歳。 特旨により祭祀料を賜わり、勲二等瑞宝章を授けられた。法名は文昭院静所湖南居士。 京都東山鹿ケ谷、法然院(ほうねんいん)に葬り、遺髪は仁叟寺に埋む。 昭和三十二年同窓会では頌徳碑を建て、昭和四十年には毛馬内において生誕百年祭を行ない、 「湖南博士と伍一大人」を出版して遺徳を顕彰した。

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