鹿角の近代人物伝
 
…… 東洋史学の世界的権威 ……
△内藤湖南   慶応二年(1866)〜昭和九年(1934)
 内藤湖南(本名虎次郎)は慶応二年七月十八日、十湾こと内藤調一の二男として毛馬 内古町に生まれた。幼少のころより父から漢学の教授を受け、神童の誉れが高かった。 明治十六年尾去沢又新ユウシン学校から秋田師範学校に学び、はじめ中等師範科に入学した が、高等科編入を許され、七年を有する全課程を二年半で卒業している。十八年九月、 綴子学校の教頭に採用されたが、これは実質的には校長であった。また、下宿の隣りの 宝勝寺で仏典を学び、内館文庫で漢学を修めた。
 
 同二十年職を辞して上京し、新聞記者として明教新誌、三河新聞、大同新報、日本人 、亜細亜等の編集にたずさわった。ついで大阪朝日新聞の高橋健三に招かれ、論説記者と して縦横に健筆をふるった。
 二十九年、松隈内閣の書記官に就任した健三に協力を求められ、内閣政綱草案を執筆 し、またしばしば枢機に参画した。しかし湖南の案は何度も修正を求められ、格調の低 いものになった。こんなことから政治家の無定見さに愛想をつかし、三十年台湾日報主 筆として台湾に渡った。翌年親友畑山呂泣の死にあって、帰国して万朝報論説委員とな った。
 
 また、数次にわたって中国へ学術調査に出かけ、大里武八郎(別掲)をともなっての 奉天文潮閣や四庫全書等の調査は、湖南の中国研究の世界的地位を不動のものにした。
 同四十年、京都大学学長狩野享吉(大館出身)に招かれ、創設された東洋史学科の講 師となった。ここにおいて東洋史学の権威として、中国、日本をはじめ、東洋各地の文 化史研究に不朽の業績を残した。四十三年文学博士となり、学士院会員に推挙されてい る。
 
 歴史のほか、美術工芸の造詣も深く、格調高い書は、近代書道史に光彩を放っている 。
 大正十五年大学を退官し、京都郊外の恭仁クニ山荘を営み、五万冊といわれる蔵書の中 で、読書三昧の生活に入った。その中には、現在国宝に指定されているものも数点含ま れている。
 昭和九年六月二十六日、六十九歳をもって生涯を閉じた。訃報は天聴に達し、特旨を もって勲二等に叙せられた。
「鹿角の民俗考」
「鹿角市先人顕彰館」


[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]