鹿角の近代人物伝
 
…… 十和田湖開発の恩人 ……
△和井内貞行   安政五年(1858)〜大正十一年(1922)
  和井内貞行 サダユキは安政五年二月十五日、桜庭家の家老治郎右衛門の長子として毛馬内古町 に生まれた。和井内家は、近江源氏を先祖に持つとされる古い家柄である。
 幼名を吉弥といい、幼いころから和井内の吉弥さんを見習えといわれたほど、温厚篤 実な中にも、毅然たる意志を秘めた少年だった。慶応二年泉沢修斉(別掲)の塾に学び 、十七歳で毛馬内学校の教員手伝いとなって、七年間郷土の人々の教育に当たった。
 
 明治十一年鎌田倉吉の長女カツ子と結婚、十四年工部省鉱山寮に採用され、小坂鉱山 の十和田支山詰となって、十和田湖畔に移った。ここで魚の住まぬ十和田湖での養魚を こころざし、十七年に郡長小田島由義の援助により、鯉の稚魚六百尾を放流した。その 後数多くの失敗を重ね、家財を傾けたが、そのこころざしをつらぬき、辛酸をなめるこ と二十二年、同三十八年秋に遂にカパチュッポの養魚に成功し、これを和井内鱒と命名 した。
 
 この年、東北地方は大凶作となり、湖畔の住民も飢餓に苦しんだ。貞行は妻 カツ子 と力を合わせ、かつて聖湖を汚す気狂いとののしられ、石を投げられた人々に対し、全漁 獲を与えてその救済をはかった。その後、貞行は着々と事業を拡張し、多数の鱒を市場 に出すとともに、卵種も各地に供給していった。その功績が認められ、同四十年緑綬褒 章を授与された。
 しかしこの年、苦難を共にしたカツ子が、過労で病死するという痛手に見舞われてい る。
 
 晩年、貞行は養魚事業を長子貞時にゆだね、十和田湖の景勝宣伝に努め、あわせて交 通機関の整備をうながした。そのため、学術調査や観光開発に多くの学者、知名人を招 き、また国立公園編入運動にも力を注ぐなど,席があたたまることがなかった。
 大正十一年五月十六日、六十五歳でその生涯を閉じたが、湖畔民は恩徳に応えて、和 井内神社を建立し、夫婦の霊を慰めている。また、貞行と内藤湖南(別掲)を主とする 鹿角市先人顕彰館が旧和井内邸跡に建設され、その功績は永く伝えられることになった 。
「鹿角市先人顕彰館」

[和井内神社]  [次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]