鹿角の近代人物伝
 
…… 内藤湖南研究に生涯を捧げた ……
△高橋克三   明治二十一年(1888)〜昭和五十九年(1984)
 高橋克三は明治二十一年十月十一日、高橋七郎の長男として毛馬内古下に生まれた。 高橋家は通称"亘ワタリ"さんと呼ばれているが、曾祖父亘が桜庭家の家宰をつとめたことか ら、これが屋号となったもので、自然、克三も"亘さん"の愛称で呼ばれることがあった 。
 四十二年秋田師範を優秀な成績で卒業して教職につき、四十四年勝又吉平の長女ヒサ と結婚した。吉平は田口多作の二男で、妹郁子は湖南夫人であり、妻のヒサとは従姉妹 である。
 
 克三は、若いころから郷土教育の重要性に着目し、多忙な勤務の傍ら研究を進め、大 正二年木村長吉、竹沢亀治との三人で「毛馬内町誌」を編集している。翌三年花輪で開 催された種苗交換会の教員意匠展に出品して、一等賞となった。これがたまたま講演に 訪れた新渡戸稲造に激賞されて、直筆の序文をもらい、これは同窓会誌の別冊として出 版されている。稲造の序文は十和田図書館に保存されているが、(鹿角)市にとっても 貴重な文化財である。
 
 同六年、勤務の厳しさからか結核に侵され、十四年まで八年間療養生活をしなければ ならなかった。小康を得た十一年、毛馬内町収入役となった。
 この間、四年には、秋田師範創立四十年に招かれた内藤湖南と秋田から毛馬内までの車 中、六時間にわたって古今内外の学問について教示を受けた。この時学問の深さと重要 性に感動し、生涯を湖南の研究に捧げる決意をした。
 昭和五年「近世鹿角学校考」を著したが、これは湖南の校閲をうけて完成した名著で ある。また「湖南博士と伍一大人」はアメリカの大学や国立図書館からも寄贈の要請を 受けている。その後も湖南研究にますます邁進し、およそ湖南研究を志す学者で、克三 の教示をうけない者はなかった程である。
 
 同五十九年六月二十日、秋田魁新報創刊百十年記念文化賞を受賞した。その副賞の五十 万円を生涯の念願の湖南顕彰会に寄付し、これが鹿角市先人顕彰館建設の推進力となっ た。その年の十二月二十一日、病が改まり九十七歳の生涯を閉じた。

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