鹿角の近代人物伝 |
川村薫カオルは明治三十年十月六日、教育者川村才太郎の四男として花輪町横町に生まれ た。謹厳誠実な父の影響によって、温厚篤実な少年に育ち、また幼少のころから文筆の 才に恵まれ、将来鹿角の言論界をリードするだろうといわれたという。 小学校卒業後、千葉の園芸学校に進み、大正八年同校を優秀な成績で卒業、帰郷後は 鹿角果樹組合の指導員を委嘱され、以来三十年の長きにわたってリンゴの改良・栽培技術 の向上に貢献した。こうした豊富な経験と該博な知識によって、昭和二十四年の高松宮 殿下外二宮様方の錦果園御視察の際も、説明役の栄誉になっている。 薫が新聞に関係したのは、大正五年からである。当時鹿角連合青年会会長及び同陸 協会長だった大里周蔵が、スポーツ新興と青年の言論発表の機関誌として「花輪青年」 を発刊していた。薫はその編集を担当した。同誌は九年、「青年の鹿角」と改題され月 刊となり、また十四年タブロイドの週刊新聞となり、「鹿角時報」と改名した。 薫はその主幹・社主として、温健中正の編集方針のもとに、地元の世論形成の大きな力と なった。 薫は鹿角の景勝・民俗・伝統文化をこよなく愛し、その顕彰保存にも尽力している。現 在伝えられている民俗文化財には、その卓見によって保存が呼びかけられたものが多い 。広く市民に愛唱されている鹿角小唄や多くの小唄類は、氏の作詞である。 昭和八年毎日新聞が日本の十二秘勝を募集した時、薫は「奥羽アルプス八幡平の秘勝 」という名文を寄せ、一等賞に選ばれた。これが後に八幡平が国立公園に編入される大 きな推進力となっている。 晩年は、十和田湖畔に"秋田屋"という小さな土産物店を経営し、喜久子夫人と共に「 親切を売る店」をモットーにして名声を博した。 同四年から十四年まで花輪町議として地方自治にも貢献、その他「関直右衛門伝」の大 著を完成、また世話好きで五十組の仲人をつとめたことも特筆されよう。 五十一年四月二十一日病没したが、鹿角の良識が失われたと多くの人々に惜しまれた 。 |