鹿角の近代人物伝 |
諏訪諒平は、元鹿角市議会議長諏訪綱毅氏の曾祖父にあたる。文政九年五月十五日、 大湯村川原之湯に生まれた。幼名を多利之助といったが、幼少のころから豪気俊敏にし て思慮深く、有為の人材として将来を嘱望されていた。 天保十四年、次兄米田右衛門勝寿カツヒサより七石の分地をうけ、大湯を領していた北土 佐に謹仕することになったが、主君の思召により八石を加増され、都合十五石をもって お次衆ツギシュウに取り立てられ、諏訪内右衛門綱紀ツナノリと称した。これは家老に次ぐ要職 である。 十二年土佐は南部家の筆頭家老である大老となり、火の車の藩財政を建て直すために も、有為の人材を必要としていたのである。諒平は主君の期待にこたえ、開拓奉行、 御城使を歴任し、縦横に敏腕を奮った。 内右衛門は開拓奉行として、北氏知行所ばかりでなく、遠く五戸方面まで足をのばし 、また、花巻、関口方面から三十三名の測量開墾の技術者を呼び寄せ、大湯地内だ けでも九ケ所の堤を築き開田した。維新後はその公平な配分に努力している。 慶応四年の戊辰戦争においては、侍四十三名、下士卒十一名、それに若干の農兵を率 いて、濁川口に出陣した。大湯隊には北家の家老汲川氏、一方井氏も出陣したが、主君 の命により内右衛門が隊長として指揮をとった。濁川口には本藩からも二小隊が派遣さ れていたが、戦意に乏しく、津軽兵が大挙侵攻の時には、大湯隊が単独で苦闘の末、こ れを撃退している。その後、新沢口に転進を命ぜられたが、松森ナットの沢に兵を配 し、一歩も国境を侵させなかった。 明治二年、内右衛門から諒平と改名した。三年には捕亡ホボウ(警察官)に任用され、 治安の確立に尽くし、西南戦争では大湯隊を主軸とする鹿角隊七十五名の小隊長兼給与 掛りとして活躍した。その後、戸長として、副戸長諏訪善兵衛と共に、新しい大湯村の基 礎を築いた。 十六年八月六日六十八歳をもって病没したが、多くの人々にその識見、手腕を惜しま れた。 |