[詳細探訪] 参考:鹿角市先人顕彰館パンフレット 〈内藤湖南ナイトウコナン略歴〉 慶応2 1866 十湾・内藤調一の次男として鹿角郡毛馬内ケマナイに生まれる。 本名は虎次郎、湖南はその号である。 幼少から漢学に親しみ神童といわれる。 明治16 1883 秋田師範学校の中等師範科に学び、18年北秋田郡綴子小学校の首席訓導 (教師の一番上の地位)となる。 20 1887 辞職して上京し、「明教新誌」の記者となる。 以来24年まで「萬報マンポウ一覧」「大同新報「三河新聞」、政教社の「日 本人」、「亜細亜アジア」の中国通の記者として、健筆をふるった。 30 1897 台湾日報主筆として台湾に渡り、31年に萬朝報ヨロヅチョウホウの主筆となり論 説を担当。 38〜39 1905〜6 外務省より占領地の行政調査を命じられる。ついで大里武八郎を 伴い、台湾・中国・満州に渡り「間島カントウ問題」を調査、奉天ホウテン(現在 の瀋陽シンヨウ)の文溯閣ブンソカク(清王朝の図書館)の調査は湖南の中国研 究を不動のものとした。 40 1907 京都帝国大学に招かれ、東洋史学の講座を担当し、近代東洋学の創始者 として中国・日本をはじめ東洋各地の文化史研究に輝かしい業績をのこし た。 大正15 1926 大学を退官し、京都府相楽サガラ郡瓶原ミカノハラ村の恭仁クニ山荘で、国宝数点 を含む5万巻を蔵し、読書三昧の生活に入った。 昭和6 1931 昭和天皇への御講書始めに、唐の宰相・杜祐トユウの歴史書「通典ツテン」を御 進講する。 8 1933 日満文化協会設立のため病をおして満州に渡る。翌9年4月満州国の総 理・鄭孝胥テイコウショが答礼をかね見舞に訪れる。 同6月26日恭仁山荘にて死去。京都鹿ヶ谷シシガタニの法然院に埋葬。遺髪 を毛馬内仁叟寺ジンソウジに葬る。享年69才。 勲二等瑞宝章を贈られた。