GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

内藤湖南略年表

註:太字は別掲参照
 
 慶応二年(1866) 七月十八日、父内藤調一、母容子(泉沢氏)の次男として 秋田県鹿角郡毛馬内(現鹿角市十和田毛馬内)に生まれ、虎次郎と命名された。 家は代々南部藩士として桜庭家に仕え、祖父以来漢学者として認められた。
 
 明治三年(1870)四歳 母容子病死(三十五歳)
 
 同五年(1872)六歳 祖母死す(七十六歳)、姉貞子木村家に嫁す。
 
 同六年(1873)七歳 一月兄文蔵死す(二十歳)。三月継母奈良みよ家に入る。 父調一、尾去沢で職を得、虎次郎を連れて赴任。
 
 同七年(1874)八歳 異母妹幾(ふさ)生れる。継母、連れ子れつとふさを連れて 尾去沢へ来る。小学校入学。
 
 同十一年(1878)十二歳 初めて漢詩を作る。
 
 同十三年(1880)十四歳 異母妹広生れる。一家毛馬内へ帰る。
 
 同十四年(1881)十五歳 明治天皇東北巡幸、小学校を代表し奉迎文(漢文)を作る。 また尾去沢へ戻る。
 
 同十六年(1883)十七歳 三月秋田市に出、県立師範学校中等師範科に首席入学。
 同十七年(1884)十八歳 一月高等師範科編入試験に合格。八月家出、盛岡より 父と帰る。
 
 同十八年(1885)十九歳 七月高等師範科卒業。八月北秋田郡綴子小学校首席訓導 (校長代理)として赴任、月給十円。
 
 同二十年(1887)二十一歳 八月依願免職、家に無断上京し大内青巒主宰の ”明教新誌”編集者として採用される。
 
 同二十一年(1888)二十二歳 一月より同じく大内の”萬朝一覧”の編集責任者となる。 米人イーストレーキの塾で英語を学ぶ。
 
 同二十二年(1889)二十三歳 五月より”大同新報”を編集する。
 
 同二十三年(1890)二十四歳 九月静岡県岡崎へ行き、新に発刊された三河新聞の 主筆となる。十二月退職上京、三宅雪嶺の雑誌”日本人”の編集に加わり、傍ら雪嶺 の口述筆記をなす。
 
 同二十六年(1893)二十七歳 ”日本人”一時改題し”亜細亜”となる。一月高橋健三 に認められ、その秘書となる。
 
 同二十七年(1894)二十八歳 七月高橋と大阪に行き、大阪朝日新聞記者となる。 日清戦争始まる。
 
 同二十九年(1896)三十歳 八月同郷の田口郁子と結婚、郁子十七歳。 秋に高橋と秋田県南各地を旅行する。十二月高橋、松隈内閣秘書官長就任に伴い 朝日を退き、高橋の下で政綱起草に当る。
 
 同三十年(1897)三十一歳 ”近世文学史論””諸葛武侯””涙珠唾珠”を刊行。 四月台湾に渡り、台湾日報の主筆となる。
 
 同三十一年(1898)三十二歳 一月台湾日報を辞めて帰京。黒岩涙香の”万朝報” の論説を担当する。
 
 同三十二年(1899)三十三歳 三月十二日火災に遭い全焼。四月長男乾吉生れる。 八月初めて清国を旅行、その手記は”己亥鴻爪記略”、旅行記は”燕山楚水” として出版された。
 
 同三十三年(1900)三十四歳 四月万朝報を辞め、八月大阪朝日新聞社へ再入社、 論説を担当する。
 
 同三十四年(1901)三十五歳 次男耕次郎生れる。
 
 同三十五年(1902)三十六歳 一高校長狩野亨吉より一高へ招請されたが断る。 十月満洲、支那を旅行、手記は”禹域鴻爪後記”(清国再遊記要)。
 
 同三十六年(1903)三十七歳 長女百合子生れる。朝日新聞大いに主戦論を唱える。
 
 同三十七年(1904)三十八歳 日露戦争始まる。編集局で”デスク”的役割を受持つ。
 
 同三十八年(1905)三十九歳 七月外務省から占領地行政調査を嘱託され、 大里武八郎と満洲に渡る、手記”遊清第三記”。十一月小村寿太郎に招かれ 北京に入る。
 
 同三十九年(1906)四十歳 一月帰国。七月大阪朝日新聞社退社、客員となる。 外務省嘱託として満洲に渡る、手記は”三十九年秋冬遊記”。次女ヒナ子生れる。
 
 同四十年(1907)四十一歳 十月狩野亨吉に招かれ京都帝国大学文学部講師となり、 ”東洋史講座”を担当。大阪より京都市岡崎町宮ノ脇九八に移転。
 
 同四十一年(1908)四十二歳 三月二十二日父調一死す(七十六歳)。六月朝鮮、 満洲を視察、”満洲写真帖”を刊行。三男戊申生れる。
 
 同四十二歳(1909)四十三歳 九月同大学教授となる。
 
 同四十三年(1910)四十四歳 文学博士となる。 七月小川、狩野、浜田博士らと清国に渡り、敦煌文書を調査。四男茂彦生れる。
 
 同四十四年(1911)四十五歳 十二月古社寺保存会委員となる。
 
 同四十五年(1912)四十六歳 二月清国へ出張を命じられ、富岡謙蔵、羽田博士と 奉天で史料探訪。三月”清朝衰亡論”刊行。

[次へ進んで下さい]  [前画面へ戻る]